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テレビ放送講座 平成6年度テキスト「第6回 バタバタ茶とみそかんぱ 〜集落の知恵と食文化〜」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第6回 バタバタ茶とみそかんぱ 〜集落の知恵と食文化〜 宇田 秋子

 お茶を飲むという慣習をとおして、村人の連帯意識と和を大切にし、また農産物の増産を神仏に願ったり、感謝の気持ちを込めてお供えする、ごちそうづくりの食文化が伝承されている。  
バタバタ茶の由来
 バタバタ茶の語源は、お茶をたてる音でなく、この地方の方言で「アセグラシク」、「セカセカ」と、ばたばたと茶せんを左右に振る動作を表現している。
 バタバタ茶は、本来黒茶といい、中国で漢時代(約2,000年前)に飲まれていたものが、四国の阿波香茶・碁石茶などと同じく、はるか縄文時代に伝来したと推測されている。時代はさだかではないが「真宗本願寺第8世蓮如上人が文明4年(1472年)新川郡清水に堂宇を構え説法す」の記録があり、説法にともなう、酒・飯・茶の一つとして、既にこの地、富山県朝日町の蛭谷(びるだん)地区で飲まれていた黒茶を利用したとされているので、この時代以前より飲まれていた茶であると研究者の間で定説化されている。
蛭谷のバタバタ茶
 バタバタ茶と言う飲茶は、仏教の儀式の一つで、家々の先祖の命日をはじめ、毎月の5日はお座、10日と15日は男のお講、20日と25日は女のお講、28日は親鸞上人の命日のお講のほか各家庭の結婚、出産、入学等のめでたい時に、バタバタ茶というお茶会が催される。
 朝の7時ごろ「お茶はいったぞー」、「飲みにいらっせー」と隣近所や親類に呼びかける。8時ころになると茶会の出席者は、茶碗(五郎八と呼ばれている抹茶茶碗より小振りである)と茶せん(3年もののすす竹<ちしまざさ>を材料とし、穂先は皮部だけで作る。長さ15センチの茶せんを2本組あわせて作ったもので夫婦茶せんと呼ばれている)を各自好みに合せた手提げ袋に入れてよばれに行く。
 バタバタ茶を行う家では、いろりに茶釜をかけ、ここへ「黒茶」と呼ばれる発酵茶を木綿袋に入れて1時間程煮出す。夏は、家の前を通るとこの黒茶の香りが漂い、心地よい思いになる。
 よしな(みずな)、ぜんまい、わらび、ふき等の山菜の煮しめ、揚げの煮しめ、かっちり豆(黒豆を固めに煮たもの)、漬物等を用意する。呼ばれた客は、「ごっつおさまです」とあいさつして茶の間にすすみ、客も亭主もいろりを囲んで車座になる。
 最初に亭主が柄杓で黒茶の煎じ汁を1杓五郎八茶碗にくみとり、仏様用に取っておく。次に各自が持参した五郎八茶碗に1杓くみ入れる。客は好みによって塩をひと摘み入れ、各自の茶せんで泡を立てる。左手で茶碗を抑えて、右手に持った茶せんを左右に倒すようにして振ると、茶碗の口縁に茶せんがあたり、カチャカチャという軽やかな音の響きが、心の安らぎを与えてくれる。茶せんをあせぐらしく左右に振り続けると大きい泡がだんだん細かく白くこんもりと盛り上がってくる。この泡を飲んで黒茶を味わうのだが、泡をたてながら話をし、話を聞きつつ、泡だったお茶を飲み、山菜の煮物や漬物等を食べながら、一服や二服にとどまらず、各自の欲しいだけ飲む。
 この団欒は3〜4時間つづく。茶の湯の席のように緊張感がまったくなく、特に決められた作法もないので、気軽に誰でも加わることができる楽しい集いの場である。
 蛭谷では、茶会以外の毎日の食事時にも黒茶をいただいているが、その時は泡をたてずに飲んでいる。
 この黒茶を愛飲していたのは、朝日町の赤川と入善町の吉原等だが、昭和40年代の終わり頃までである。どうも日本海側にみられる風習であり、危険な山や海の仕事が多く、村人が共同で作業することが多かったので、このような茶会により、他集落に比べて団結心が一段と強まったと思われる。
 全国的には、四国の阿波、福井県三方町、大聖寺一円、愛知、静岡、埼玉、沖縄等にも点在している。なかでも沖縄のお茶は「ぶくぶく茶」と言ってちょっとかわっているので紹介したい。
 農文協発行の「沖縄の食事」によると、煎米湯と茶湯をあわせ大きな茶わんで豪快にたてるもので、その泡立ちがいかにもぶくぶくという名前にぴったりである。おもに那覇でおこなわれ、婦人たちの集まりや船出の祝いなどにふるまわれる。また脂っこい料理の後で飲む一服のさっぱりした味が喜ばれている。たて方は、まず米又は玄米をきつね色になるまで炒り、釜に10倍位の水と一緒に入れて煮立たせて煎米湯をつくる。中国茶と番茶を合わせて茶湯をつくる。ぶくぶく鉢という木製の大鉢に煎米湯と茶湯を半々に入れ、長さ7寸もある茶せんで手早く泡立てる。茶碗に小豆ごはんを少し入れ、茶湯を注ぎそのうえに泡を山のようにこんもり盛り、きざんだ落花生を振りかける。さじを使わず両手で茶碗を持っていただく。
黒茶とその製法
 バタバタ茶にもちいる黒茶は、お茶の一番茶、二番茶の新芽を摘み取ったあとの三番茶を加工したものである。
 蛭谷の人達は、昭和49年まで福井県三方郡美浜町江崎の清水秀夫氏が製造していた黒茶を一括購入して使っていた。昭和50年以降、清水氏は人手がないため黒茶の製造をしなくなったので、蛭谷の人達は黒茶を番茶で代用していた。
 しかし番茶の味に満足できず、富山の茶の産地である呉羽にお願いしてみたが製造法が分からないため無理だった。県の口添えもあって、射水郡小杉町青井谷の荻原昭信氏に黒茶の製造を依頼した。
 萩原氏は、福井県の清水氏から黒茶の製造技術を習い、その製造に成功した昭和52年から荻原氏の黒茶を利用してきた。
 昭和62年に朝日町商工会は、地域小規模活性化推進事業(むらおこし事業)を導入し、町ぐるみでバタバタ茶の復活にのりだした。まずバタバタ茶を愛飲する人材を多く育てることと、バタバタ茶の原料であるお茶を栽培、その加工で町の特産品をつくろうと、お茶の苗木5千本を購入して、上横尾と蛭谷集落の2か所で栽培し、平成元年から蛭谷町内会で黒茶の製造に挑戦した。製造にあたっては、小杉町青井谷の荻原氏の指導を受けている。黒茶を製造しているのは、全国で四国と富山の2か所であることから、香川大学の、宮川金二郎教授にも直接指導を受け、平成5年にやっと質の良い黒茶の製造に成功した。
 蛭谷の人達が苦労した製造方法を紹介してみる。蛭谷の黒茶は一番茶も二番茶も摘まず、いきなり8月上旬に刈り取る。収穫した葉を大鍋で茹で、黄土色になるまで煮てざるですくい上げ、むしろに広げて半日陰干しにして、むろに積込む。足で踏んで固く積み、室枠で覆って置く。4日ごとに切り返しをする。この切り返しは、発酵を促進させるために行う作業である。温度は60度以上あげないようにする。60度以上になると菌が死んでしまう。これを7回操り返したら室出しする。室からだした茶はむしろに広げて、半日程陰干しにしてから、天日干しを2〜3日し十分乾燥させ、紙の袋に入れて保存する。朝日町では小杉町青井谷の荻原氏から年間500キロ余り購入しているが、蛭谷で生産する量はその5分の1である。茶せんづくりもこの事業で人材育成し、今では10人程の人が作っている。蛭谷の集落を訪ねれば、どの家もバタバタ茶がやかんに煎じられており、いつでもいただくことができる。また町の施設、歴史資料館の川上家でもいただけるようになっており、町あげて伝承文化の普及に努めている。いまでは、バタバタ茶の缶詰(飲茶)も販売されている。
みそかんば
 朝日町山崎の辻集落では、昭和50年前半に30代〜50代前後の、男達十数人が衰退傾向にある「みそかんば」を保存する会「愛食会」を結成し、新米のとれる10月から冬場にかけて仲間が集まって作り、焼きながら酒の肴にしてその味を楽しみながらルーツを探っている。
 みそかんばは、もともとは、山仕事(炭焼き)の副産物として、生まれたものである。炭焼きは晴れた日でないと仕事にならない。天候が崩れ、2日、3日雨が続くと、深い山中のため娯楽も仲間もなく、なにもすることがないため、退屈で気がめいるばかりだった。
 こんな時は山神様の怒りを鎮め、天候回復を祈ることしかない。そこで炭焼きの人達が考え出したお供え物がみそかんばである。ご飯は少し固めに炊いてつぶし、杉の木を割ったものに、それをはりつけ、持参のみそを塗ってたき火で焼き飯にした。お祈りはこれを持って、すみ焼きかまの周りをぐるぐる何度も回る。みそかんばの崩れ落ちる状態で晴れるか、降るかを判断していた。崩れがひどいと湿度が高くまだ晴れない。
 「晴れる、晴れない」と喜んだり、落胆したりしながら、香ばしいみそかんばのお下がりを食べたものだという。それがいつの間にか山里に下がり、雪深い山間集落の冬季の味覚となり、仲間で世間話をしながら作って食べる楽しさや間食の仲間入りをすることになった。
 こうした山人の質素な暮らしから生まれたみそかんばも、いまでは新米の取れた時収穫の感謝の気持ちを込めて作り、神仏に供えるお礼の行事となっている。みそかんばの作り方も年を重ねるごとに生活の知恵で工夫され、みそたれ等は栄養や風味を楽しむことへの配慮も加え、ごま、くるみ、ピーナツ、ユズ、卵の黄身等を入れたみそが作られている。味つけも健康や好みにより各家庭によって工夫されている。
 みそかんばを作る手順はわりと簡単である。ご飯を少し固めに炊いて、あったかいうちに、すりこぎで丁寧につぶす。つぶしたご飯は手に水をつけて、ソフトボール大に固く握った飯をつくる。杉の木で作った長さ50センチ幅5センチ位、厚さ1センチ5ミリの板を両足先にはさみ込んで、固めたご飯を板の上から押し伸ばすようにして16センチ程度まで空気を入れないように張る。空気が入るとすき間ができるので焼いていると崩れ落ちる。
 これを炭火であぶり、少し焦げめができ、火ぶくれしてきた頃合いをみて、好みに応じた材料を合わせて作った耳たぶよりやや柔らかめのみそを塗りつけ、さらに火にかざす。この時はみそが乾く程度で焦がさないのがコツ。プーンという香ばしい臭いがあたり一面に漂う。
 最初に焼けたみそかんばを1本づつお皿にのせ神棚と仏壇にお供えする。焼き立ての熱いのをふきながらいただくのだが、板を片手に持ち、指先で下部からむしり取りながらいただくのが一番食べやすい。野趣に富んでいてなかなか美味しい。食べては酒をのみ、飲んでは食べ、また世間話や村のことを話しながら楽しくいただく。1本の板には1合以上のご飯が張り付いているから、相当な量になり、満腹になる。大勢で食べると2本、3本と食べる人もある。みそかんばの語源ははっきりしないが、板の先につけることから、頭にできるカンパ(シラクモ)をもしったものか、香ばしいがなまって、いつの間にか「かんぱ」となったのか定かでない。
 五箇山や信州、飛騨のごへい餅、東北地方のキリタンポの親玉と思えばよい。昔の人達が町から隔絶した山里で、過酷な山仕事の合間にひとときの解放を求めた、みそかんばの素朴な共宴。それは山の神様がよりつく前に人間様の食欲をそそる料理であった。また現代の画一的な味にならされてきた舌には格別な味として郷愁をそそられる。
 朝日町では、炭焼き仕事をしていた山手地帯の大平、笹川、蛭谷、羽入、辻越、小在池、花房集落に広まっている。
 県内では、魚津市の山手、中新川郡上市町白萩、上新川郡大山町亀谷、小見、婦負郡八尾町の山手や山田村、五箇山の利賀の水無等にもある。いずれも飛騨の中部山岳地帯に隣する山村であることから、辻の「愛食会」の人達は、歴史的にどちらが古いのかわからないが、たぶん炭焼きの人達が山から山へと伝えていったと考えると話している。県外では、愛知県三河の北部地方や加茂郡足助町、新潟県、長野県、山梨県、東北地方に見られるが、いずれも山の神へのお供え物として作られたのが発端である。
(うだ あきこ・富山県黒部農業改良普及所次長)
−平成7年2月25日放送−
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