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テレビ放送講座 平成9年度テキスト「第1回 山里を見つめて」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第1回 山里を見つめて 橋本 廣

山に暮らす 〜森の精・人の営み〜山里を後にする人々
 平成4年に富山県過疎対策協議会から発行された『山村過疎地域対策資料』に、七十余の廃絶集落名が挙げられている。ほかに、廃村ではないが、戸数が19戸以下の小さな山村集落名も列挙してある。なかには1戸、2戸という集落や、老夫婦だけの集落も少なくない。
 19戸以下の小集落のないのは富山市、新湊市、舟橋村、大島町など山村のない8市町村だけで、他の27市町村にはかなりの数で分布している。
 小集落の総計およそ300。一番多いのが八尾町の39で、二番目が大山町の21、つづいて小矢部市、婦中町、利賀村、上市町、氷見市その他の順となっている。山村の戸数が減っている分だけ、市街地の人口が増えていることになる。山里から灯が消えて、町はいよいよ殷賑(いんしん)を極め、飽食(ほうしょく)の世に生きて人々は幸せである。水は低きに流れるように、人もまた、山から里へと下りてゆくのである。
 炭焼きが不要になって久しい。ベニヤ板に駆逐されて屋根板も要らなくなった。養蚕、製紙、狩猟もまた、山村の生活を維持できなくなった。丹精込めて植樹した杉は伸びるにまかせて放置せざるを得ない。過疎化対策として始まった酪農、養魚、山菜加工も、生計維持の決め手とはならない。粒々辛苦して拓いた田畑は減反をせまられることになり、起死回生策の各種イベントも、盛大に報道されるほど地元をうるおしているかどうか。七十余の廃村に続いて、およそ300の小山村からも灯が消えようとしている。
 水を飲むものは、井戸を掘った人の苦労を考えるという。川下の町が賑わうだけに、かつてありし川上の山里にも思いを至したい。そして、繁栄の世をふり返る一つのよすがになれかしと思う。
熊野川流域の場合
 神通川の支流に熊野川がある。有峰湖の北西東笠山と西笠山に源を発し、高頭(たかずこ)山の西麓を流れ、大山町上滝付近で平野部に出、富山市有沢橋付近で神通川に合流する。延長58.9キロ。
 熊野川流域で、灯が消えた村が11ある。本流流域は下流から長瀬、手出(ていで)、赤倉、小原、千野谷(せんのたに)、河内(かわち)の6集落。支流流域は安蔵(あんぞう)、隠土(おんど)、小谷、大双嶺、千長原(せんながはら)の5集落。いずれも富山市から近い里山なので、私はこの辺をよく散策する。特に本流流域へは足繁く通った。一番奥の村が、山岳人の大先達、槍ヶ岳開山の播隆(ばんりゅう)上人の出生地ということにもひかれるものがあった。
 播隆の生誕地河内の対岸の山が1,203.3メートルの高頭山(たかずこやま)で、下流の熊野川ダムから見る双耳峰(そうじほう)は秀麗である。ダムの上から高頭山を眺めて思った。播隆のように槍ヶ岳への道を拓けなくても、高頭山への細道なら切れるかもしれない。
 地元の小原や河内の元の住民たちに相談し、山の仲間を誘い合って、高頭山への道を刈り拓くことになった。足繁く熊野川流域へ通い始めたきっかけの一つがその辺にあった。
村跡へ通う人々
 熊野川流域の山へ通い始めて気の付くことがあった。ひと気なき村跡へ毎日のように通う人たちがいる。自家用車で、バイクで、歩いて、時には家族に車で送り迎えさせて村跡へ通うのである。そしてそこで杉の枝打ちをし、山菜を採り、わずかな畑を耕し、昔の生活を続けようとする人たちである。
 熊野川本流にあった6集落のほとんどの人たちは、下流の大山町の中心部上滝方面へ出た。そして初めて町の生活を体験することになる。若いものは近郊もしくは富山市へ通勤を始めるが、現役を退いた人たちは、昔の生活が懐かしく、ついかつての村跡へ足が向いてしまう。残してきた家屋や物置小屋を根拠地にして、働き、憩い、自然の中のひと時を過ごすのである。冬は雪で近づきにくいが、雪が解けてから再び雪に閉ざされるまで、彼らはせっせと山へ通う。
 長瀬の谷口義松さん、赤倉の城野太次郎さん、河内の河上勝信さんは、家や小屋の前に乗用車やバイクが置いてあるのでそれとわかるが、ほかの方法で来ている人も少なくない。河内の林善一さんは、道端の小屋ではたまに通る車の音がうるさいので、最近山の上部に小さな小屋を建て、夫婦で泊まり込んで山仕事をしておられるということを聞いた。
 登山や峠探訪や、一、二等三角点踏査や、県内市町村の最高地点踏査で訪ねた各地の山村でも、同じような人たちのことを見聞きした。
 ほかに、廃村にはなっていないが、灯が消えようとしている山里に、最後の灯をともし続けている人たちもまた決して少なくはない。
永遠の安らぎを求めて
 ひと気なき村跡に、真新しい墓石を見かけることがある。播隆の出生地河内に播隆上人顕頌碑が出来てからかなりの年月になるが、その後近くの林の中に、河上勝信さんが自分の墓を建てた。昨年は岡本義雄さんが、今年は播隆家親族の中村家の墓が出来た。河内の隣りの小原の村の入口にも、最近大作さんが墓を建て、墓のわきに、家の由来を刻んだ。村を閉じて町へ下りる時、神社の御神体も一緒に町へ下り、ゆかりの神社に合祀(ごうし)されることが多い。水も人も神様も、山から町へ下りてゆく時、どうして墓だけが新しく山に出来るのか。生涯を生きた父祖の地に、永遠に眠りたいという願いからだろうと私は思う。
里山に出来る細道
 高頭山に道を切ったのは、平成2年の春であった。山は山麓の小原の人たちの共有林だったので、地主代表の方々と5、6回の話し合いで了解を得ることができ、4月中旬に伐開を開始し、およそ1か月で終了した。参加延人数およそ100人。チロル山の会、大山山岳会、日本山岳会、富山ハイキングクラブ、山雄会、県山岳連盟役員その他いろいろの人が協力してくれた。高頭山登山道伐開協力者各位に送った礼状の末尾に次のとおりある。
「ズコは頭。心の象徴といえます。高頭山の峰低くても、心気高く頂(いただき)を踏みたい。播隆の里に出来た一筋の細道が、草木に埋もれることなく、人の心をより高く導いてくれることを期待してやみません。伐開ご協力有難うございました。」
 高頭山以降、二子山(大山町・736m)、大乘悟(だいじょうご)山(細入村・590m)、栃津下嵐(くだらし)尾根(立山町・400m内外)、千垣(ちがき)山(立山町・660.9m)、尖(とがり)山(599.4m)にも、大勢の山仲間が集まって細道を切った。また大沢野町のキラズ山は、頂上部の平野部側を刈り明けて、いくらか眺望がきくようになった。
 二子山の伐開に参加した仲間たちが、いつとはなくグループを作って山へ出かけるようになり、それ以降の伐開の主力となった。いま双嶺グループとして顕著な山行を行なっている。
 刈り終えて、出来たばかりの道を下る時、これがあのヤブ山だったのかと目を見張るほどである。そして、皆の表情も殊の外明るい。人の道を開くには、人格、識見、修養が足りなくても、山の道を開くのは、山への憧れと情熱があればできる。参加した人たちの表情の中に、私はそのことを感ずるのである。
里山を歩く「四季の登山」
 伐開した山道を紹介したいのと、炭焼きやかすみ網の道を懐かしんでほしいという気持から、伐開以降にその山へ「四季の登山」を行なった。伐開直後の1年間に4〜6回の山行をした。残雪の上を、新緑の中を、黄葉の中を、また深雪をラッセルして山中を歩いた。天気の悪い時は中止になるが、天気のいい日は大勢が参加して盛会であった。栃津下嵐尾根は隔月山行で、次のとおり6回の山行を行なった。集合、解散は立山町の吉峰温泉駐車場であった。
山行名年月日積雪cm人数所要時間
(時間.分)
1 新緑山行 8. 5.12 なし 73 4.50
2 早朝山行 7.28 なし 39 4.30
3 初秋山行 9. 8 なし 68 4.30
4 黄葉山行 11.10 なし 46 5.00
5 かんじき山行 9. 1.15 20 67 5.00
6 残雪山行 3. 9 20 39 5.00
かすみ網のこと
 立山町栃津の下嵐(くだらし)尾根には、昔栃津の人たちが登り下りした細道があって、炭焼き、放牧、山菜採りに使われた。が、もう40年以上も人が通らぬから、道跡だとわかるところはほとんどない。その丘陵帯の一部を伐開し回遊できるようにした。この尾根の側面の急斜面にも、人が踏んだと思われる踏み跡があった。これが昔のかすみ網狩猟のための踏み跡らしい。
 山村から消えた炭焼き、養蚕、養蜂、紙漉き(す)などは、生業として成りたちにくくなって次第に姿を消していった。ほかに、法律で禁止されて姿を消したものにかすみ網がある。山中の渡り鳥の通路に網を張って、野鳥を捕獲する方法である。網の糸が細くかすんで見えるのでかすみ網とよび、秋の40日間ほどだけ捕獲を許可されたが、昭和22年に全面禁止となった。
 網にかかったツグミ、シロハラ、アオ、ホオジロなどは、食用として町へ売り出されるが、網場の近くに小屋を建て、来訪する客にも焼いて食べさせてくれた。
 全国各地に網場があったが、県内全域の丘陵帯でも捕獲が行なわれ、栃津方面にも4、5か所の網場があったといわれる。
 渡り鳥の群れを網の方向に引き寄せるためにオトリが使われた。あらかじめ飼育していた鳴き声の美しい鳥をさえずらせて、渡り鳥の群れを引き寄せるのである。オトリの餌(えさ)を担いで、当時少年だった栃津の岡本勝さん、栃山清さんはよく鳥山へ往復した。当時の鳥山のオーナーだった山本一三さんは、今も栃津に健在である。
峠と峠道
 昭和47年、北日本新聞社から出版された拙著『越中の峠』には、県内の50の峠について記してある。25年前の著書だが、その頃はもう峠道は衰退していた。峠の位置は今も昔も変わっていないが、峠を越えて行き来する道は、歩く道から車の道へと変わり、昔の峠道は、草と雑木に覆われて見つけにくくなっていた。 
 そして今、あらためて50の峠について考えてみると、その衰退度がさらに顕著なのに驚く。山里と山里とを結んだ峠道で、昔の道筋に沿って歩けるところはほとんどない。峠越えの道を歩いて越えなくても、車で越える道が出来たからである。
 歩かねば登れない峠の中で、小矢部市の倶利伽羅峠は観光地として訪れる人が多いから草に埋もれる心配はない。しかし、五箇山方面の唐木峠、朴峠、鹿熊峠、杉尾峠、八尾町の夫婦山峠(松瀬峠)、婦中町の猫坂峠などは、地元有志のボランティアによって下刈されているところが多いようであるが、訪れる人がいなくなれば、やがてまた雑木の中に消えることであろう。
 峠には、山里に生きた人たちの限りない哀歓がある。利賀村と平村を結ぶ山の神峠は、二つの僻地を結ぶ大きな峠だけに、悲しい出来事が多かった。利賀川奥の村から礪波地方へ、紡績工として働きに出ていた娘が、正月休みに家へ帰ろうとして、山の神峠の雪の中で倒れて帰らぬ人となった。戦争で応召されてゆく兄を見送っての帰り、妹が峠の雪に埋って帰らなかった。また、冬休みで帰省する分校の先生の遭難もあった。
 山の神峠の平村側の山麓に夏焼(なつやけ)の村がある。立ち寄った北村さんの家の座敷には、遭難救助の表彰状がたくさん掛けてあった。
 峠に刻む哀感はその衰退とともに、やがては語り継がれることも少なくなることであろう。
 峠での変わった話しもいくつか開いた。腰にぶら下げていた油揚をムジナにさらわれた話、キツネの嫁入りの話、タヌキに化かされて峠の木の切り株と相撲をとっていた話、道端の肥溜(こえだめ)につかって「いい湯だのう」と言っていた話などなど。そういう話もまた、やがて聞けなくなることであろう。
 昭和56年に越中峠の会が「越中の峠番付」を作成して発表した。番付審査の基準は
  1. 生活、文化、交通とのかかわり
  2. 歴史、伝説の豊かさ
  3. 自然景観、スケールの大きさ
  4. 知名度その他
である。
 前頭から60の峠の名が挙げられているが、三役以上は次のようであった。
 東横綱 倶利伽羅峠 西横綱 針ノ木峠
 東大関 ザラ峠   西大関 細尾峠
 東関脇 大多和峠  西関脇 荒山峠
 東小結 栃折峠   西小結 松尾峠。
しばらく訪ねていない峠も多いので、近く、好きな峠だけでも回ってみたい。自然にふれ、山里に思い、世の移ろいを感じたいと思うのである。
山村民具のこと
 町や農村でも同じだが、山村でも急速に生活の用具が変わってきている。雪深い山村でも、ブルドーザーで除雪しない道を歩くことは少ない。深雪の中を歩くのに履いたかんじきは、いまや屋根裏にしまったままになった。
 越中五箇山の利賀村には、全国的にも珍しい舟形かんじきがあった。背丈ほどの長さの細い竹を、スキー状に編んで造ってある。白山麓白峰村の泡かんじきは、普通のかんじきの2倍ほどの大きさがある。越後は日本屈指の豪雪地帯だけあって、長さ1メートル、幅50センチほどのものまである。越後の大きなかんじきについて、江戸時代の文人鈴木牧之は、名著『北越雪譜』に「履きつけぬものは一歩も歩み難し。慣れたる人はこれを履きて獣を追うなり」と書いている。
 ほかにアラスカ製、アメリカ製をはじめとして、珍しいかんじきの蒐集(しゅうしゅう)品を昨秋「橋本廣・佐伯邦夫のかんじき&山のスケッチ・写真展」として、立山山麓のレストラン「クムジュン」で催した。登山用具の中で、かんじきだけが民芸的である。その趣きにひかれて蒐集を始めたが、すたれゆく山村民具を残しておきたい心情からでもある。
 かんじき以外の山村民具として蒐集しているものに、橇(そり)と背板(せいた)がある。橇はほとんど使われなくなったが、背板は物を担ぐのに今でも使われている。ただ、民芸風のものは次第に減ってきているようである。
(はしもと ひろし・高志山の会会長)
  −平成10年1月17日放送−
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