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テレビ放送講座 平成4年度テキスト「第3回 風・めぐみとわざわい」


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TOP 第3回 風・めぐみとわざわい 佐伯 安一

風のめぐみ
 風というと、すぐ大きな風やその被害を思ってしまうのだが、その前に、そよそよと吹く風の恩恵を忘れてはならない。暑い夏の日に吹く一陣の涼風を、越中では「極楽の風」という。ちょっと遠慮して「極楽の余り風」という人もある。極楽ではきっと、いつもこんな風が吹いているのであろう。
 風は植物群落の中にこもる熱や水蒸気・炭酸ガスを移動させて、その環境条件を整える役目を果している。また、イネやコムギなどは風媒といって、風によって花粉が運ばれ受粉する。
 庄川扇頂部の種田・中野あたりは種籾の産地である。庄川が山間を離れて砺波平野へ顔を出すところで、夏から秋へかけての夜間、アラシと呼ばれる谷風が吹き出す。アラシといってもそんな大きな風ではない。そよそよと一晩中吹いている。多分、夜の陸風に誘われて吸い出されるように吹くのであろう。この風によって稲穂には夜露が打たない。そして夜は涼しいために昼と夜の温度差が10度以上と大きい。これが稲の実りをよくし、籾の皮が厚いから、他地方の籾に比べて千粒重が重い。このため、発芽・苗立もよく、何よりも病害虫に強い。
 産地の名をとって俗に「五ケ種」と呼ばれ、江戸時代の宝暦(1751〜)ごろから産地化したという。昔は「種換え」といって、農家個人間で籾1升に米8合の割で交換していた。明治16年「拡種社」が組織されて、同17年には1,853石を販売、以降次第に共同販売への方向をとる。現在では検査制度がとり入れられ、生産の機械化も進んだ。平成3年度の生産高は庄川町農協と砺波市農協を合わせて2,537トンで、全国へ出荷されている。
 富山県の特産物には干燥によるものが多い。「越の白柿」で知られる福光地方の干柿をはじめ、氷見地方や山田村の串柿、寒中に作られる砺波市大門(おおかど)の大門そうめん、氷見の干(ひ)いわしや富山湾沿岸各地の魚の干物などである。干物は主として日射によるのであるが、風の作用も見逃すことはできない。
 さて、風の恵みをもっとも直接的に受けたものは江戸時代から明治中期にかけて盛んだった北前船であろう。いわゆる西回り航路の帆船で、東北や北陸の米を下関回り、瀬戸内経由で大阪へ運び、帰り荷に大阪や瀬戸内の綿・木綿・雑貨・砂糖・塩・鉄などを積んで沿岸諸港で売りさばいた。また、近世末からは松前(北海道)へ米や莚・縄などを運び、帰り荷に鯡(にしん)の魚肥、昆布・数の子などの海産物、東北の木材などを積んできた。
 海難事故の危険も伴っていたが、利潤も大きかった。それは単なる運賃稼ぎではなく「買積み」による商売をしたから、大阪と松前を2往復もすれば船の建造費が出たという。この航路によって大阪と日本海側の諸港を結ぶ全国市場が確立し、それは物資の交流だけでなく、文化面でも大きな役割を果した。
 北前船ははじめは中世からの伝統を持つはがせ船であったが、元禄ごろから次第に瀬戸内の弁才船に変る。はがせ船は莚の低い帆であったが弁才船は大きい木綿帆を張ったので帆走能力がまさり、乗組員も少なくてすんだ。明治10年代になると西洋帆船が普及してきた。これは3枚帆で、風受けを多角的に利用できたから、大阪や松前へ年に2、3回も航海できるようになった。
 日本海の各地に北前船の基地があった。越中では伏木・六渡寺・放生津・四方・東岩瀬・水橋・石田・横山などであった。どちらかというと西部の伏木方面は大阪との交易が多く、四方・東岩瀬以東は北海道とのつながりが多い。
 航路の具体例を天保9年(1838)に漂流した岩瀬の長者丸にみる。長者丸は650石積の中型船。閏(うるう)4月24日、富山藩の廻米500石を積んで大阪へ向かう。5月下旬大阪着。米をおろし、綿や砂糖を積み、また新潟行の運賃荷を積み、6月中旬大阪を出港。7月6日新潟湊着。運賃荷をおろし、同16日出帆。8月中旬松前着。乗組員は問屋上田忠右衛門方に止宿。9月中旬函館着。昆布を積み、太平洋岸へ出て10月中旬南部田之浜に着く。ここで米200俵と塩鮪(まぐろ)100本余を代える。11月上旬仙台唐丹港に着く。11月23日(陽暦1月8日)唐丹港出帆のあと北西の季節風によって太平洋上へ吹き流され、これから漂流が始まることになる。
 普通岩瀬の船は冬の間神通川河口に繋留し、4月中・下旬に松前へ向って鰊肥を仕入れ、あとは9月の台風前までには帰ってきて船囲いをする。その意味では長者丸は冬の海の荒れる時期、それも慣れない三陸沖の東廻り航路へ向かったことは無謀であったといえよう。
日本海系統の風名
 風の地方名を最初にとりあげたのは柳田国男の「風位考」(昭和2年)で、その後関口武によって引き継がれ、『風の辞典』(昭和60年)として大成した。これは全国の漁村を対象に調査したものであるが、それによると日本の風名は西日本系統と東日本太平洋系統、それに日本海系統の3群があるという。日本海系統というのは、まさに北前船時代をピークとした日本海沿岸圏を象徴する風名の認識群である。
 風の博士吉野正敏は、そこに表われる日本海系統の語群として次のものを挙げている。
沿岸漁業者主唱型の風名
  • タマカゼ・タバカゼ(冬の北西季節風)
  • クダリ(夏の南風)
  • ヒカタ・イセチ(暴強風)
地方的な風の名
  • ワカサ(秋・冬の南西風)
  • ヤマセ(冬の南風)
  • アラシ(山風・陸風)
  • ダシ(春の南風)
航海漁業者(北前船の船乗り)主唱型の風名
南系北系
カミカゼ シモカゼ
タカイカゼ ヒクイカゼ
クダリ ノボリ
※ノボリの代りにアイ・アエ・アユノカゼも
 これらは富山県内ではどのようなよばれ方をしているだろうか。 
 まずアイノカゼである。万葉のアユノカゼはよく知られており、他でも取上げられるからここでは歌は略そう。ただ柳田国男の解は海岸線と直角に吹く風、つまり「寄り物を吹き寄せる風」であったことだけを述べておこう。アユルは木の実などが落ちることの古語だからである。
 アイノカゼは県内では東北風とするのが一般的であるが、新湊では東風から北風・北西風までを含めている。また、氷見灘浦の宇波では北東としながらも、やや東の立山寄りになるのを風がヤスイ、西の石動山寄りを風がタカイという。タカイ・ヒクイは北前船の風名であるが、ここではタカイに対してヤスイとしているのである。
 北西の風をタマカゼまたはタバカゼというのは青森から秋田・山形・佐渡と分布し、佐渡からはタバカチ、敦賀のタバカキと語尾が変る。越中でもタバカチ・タバカツである。
 タマは魂(たま)であろうが、何となく不吉な魂に感ぜられているようである。「風名考」には滑川の金森久二氏の話として「或年、滑川の者がバイ採りに沖に出てゐて南の突風に遭ひ、難船したことがあった。それから此かた、毎年バイの採れる季節になると、此風が吹くので、あの辺ではこれをバイダマと言っているのだそうな」と紹介し、「これは意味のあることだと、自分は思っている。手短かに言へば、タマは霊魂のことで、タマカゼは悪霊の吹かせる風と言ふ意味らしい」と解説している。
 入善町芦崎のタワカツは冬の真北からの風で、これが吹くと波が出るという。魚津ではニシタワカツといい、「タワカツ吹いとるから気をつけや」という。この風は突風になることがあるからである。新湊もタワカツ、氷見の窪ではタバカチで、この強風が吹くと寄り回り波がくるという。宇波では秋・冬の北西の風がこれで、別名オニノカゼともいうように、こわい風として意識されていた。それでもカツオやイカ漁があるというのは、波が出て魚の動きが変わるからであろう。
 クダリ系の風は、県内では冬の風とするところが多い。入善町芦崎のクダリは南西から西、氷見の方から吹き、冬には一番よく吹く風という。魚津のクダリカゼは南西、宇波ではマクダリまたはクダリカゼといい、西南西の風で秋冬に多い。
 クダリは上方(かみがた)から下(くだ)る北前船が北上するのに適した南西の風であるから、航海者の風名が定着したものである。しかし、波の荒い秋冬は北前船は休んでいるから、方向名だけを採ったものであろう。
 ダシも南風であるが、どちらかというと東寄りでこれは春に吹く強い風、氷見地方では生暖かい南風で、これが吹くと不思議に魚がいなくなるという。
 南西の風は県内では一般にシカタ・ヒカタで、県西部に多く、平野部でも使われる。灘浦の宇波では南西・南々西の風で、春・夏のころ阿尾方面からそよそよと吹き、この小さいのをボウボウシカタと呼ぶ。後に西に変わることが多いという。新湊では西から西南へ吹き回る風で、もっと南寄りになるとワカサとかワカサニシ、真南へ回るとソンナミとなる。夏のシカタ・ワカサはよい天気になるが、冬のそれは寒くて雪になるという。
 アラシは山風で、庄川のアラシについては冒頭に述べたが、立山町でも夏の夜、山から吹き出す風をこう呼んでいる。
 ニシ・マニシは西風、氷見の宇波では年末から1月ごろに吹く冷たい風で、外海では大荒れが続き、ブリやフクラギが湾内へ逃げこむので大漁になる。ブリオコシというのがこれである。(氷見地方は『氷見の民俗』、新湊は『新湊の方言』、魚津は『ふるさと魚津、風土に生きる方言』によった)
風のわざわい
 平成3年の晩秋のある日、黒部市の宮野山公園の山上で、偶然富山湾に発生した竜巻を望見した。空いっぱいに黒い乱層雲が雨気をはらんで走っている。こういう状況を越中では「蛇(じゃ)が出るような」と表現する。と、海面からその雲の底に向かって竜巻がゆらゆらと巻上がり、いつの間にか3本も動いている。居合わせた人に聞くとこのあたりの海岸ではこんな風景は珍しくもないという。
 『富山県気象災異誌』には明治43年から昭和35年までの間に8回の被害記録があるが、実際には被害を伴わずにもっともっと起こっているのであろう。その8例はいずれも滑川以東の陸上の例である。季節は4月と8月の各1例を除いて、あとは10月から12月の晩秋から初冬にかけてのものである。竜巻のメカニズムは乱層雲の底から漏斗(じょうご)状に垂れ下がった雲を伴う激しい空気の渦巻ということになる。
 明治43年8月29日の中新川郡の例をみると、夕方7時ごろ寺田方面から起こり、弓庄・音杉・上市・宮川・白萩・南加積・東加積を経て早月川へ入ったようで、幅15町(1.62キロ)、延長3里(12キロ)にも及んだ。雷・豪雨・降ひょうを伴い、家屋・水稲・果樹に大きな被害を与えた。大正10年12月1日の例では境小学校(現朝日町)の校舎が倒壊している。
 風のわざわいには建物の倒壊、漁船の遭難、農作物の被害などのように直接的なものと、大火・高波など二次的なものとがある。
第1表 直接的被害を江戸時代の記録にみると、元禄10年(1703)8月19日(陽換9.29)、富山領の潰れ家119軒、天明8年(1788)2月15日(陽換3.22)の富山領潰れ家380軒、安政3年 8月20日(陽換9.18)富山領の潰れ家町方30軒、御郡中200軒というのが見える。家屋の粗雑さにもよるがずい分と多い。『富山県気象災異誌』により昭和元年から40年までの月別風害数を見ると第1表のようになる。当然のことながら3、4月のフェーンと9月の台風時が多い。特に9月には全体の4割近くなる。そのほか6月が案外多い。
 台風というと、キティ台風(昭和24年)とかジェーン台風(昭和25年)など、戦後復興期の女性名台風を思い出すが、被害の大きかったのは昭和9年9月21日の室戸台風と、昭和36年9月16日の第二室戸台風である。いずれも四国の室戸岬へ上陸し、大阪を通って富山を直撃するコースである。両室戸の被害を比較すると第二室戸の方がうんと大きい。
室戸台風(S9.9.16)と第二室戸台風(S36.9.16)の
建物被害比較(富山県)
区   分室 戸第二室戸
全 壊住 家 8 124
非住家 23 273
半 壊住 家 9 396
非住家 8 152
一 部損 壊住 家 2 3,506
非住家 - 351
床 下 浸 水 576 687

(『富山県気象災異誌』による)

大火
 いうまでもなく、台風のときに火事が発生すると被害が大きくなる。富山町は慶長14年(1609)3月18日(陽換4.22)の「必剣の火事」をはじめ、大火が 多い。江戸時代には天保2年(1831)4月12日(陽換5.23)の8,343軒、安政2年(1855)3月2日(陽換4.18)の5,851軒など、いずれもフェーン時である。滑川町も火事の多いところで、江戸時代の300軒以上の火事をみると6回もある。
第2表 と 第3表 江戸時代の県内の風を伴う300軒以上の火事25件についてみると、3〜5月のフェーン時と9〜10月の台風時に多いことがわかる(第2表)。特に春に多いのは北アルプス越えに乾いた南風が吹き込むためで、北陸特有の現象である。そして焼失家屋は大きい町ほど大きい。つまり、台風のもとに火が出ると、風下(かざしも)の家のあるだけを焼きつくすからである。
浪害
 富山湾は特有の寄回り波をはじめ高波の被害が多い。これも台風や日本海に発生した低気圧の北上によるものである。波は北東から西へ向かって湾内をえぐるように襲う。時には北海道の西海岸で発生した高波が、24時間かけてうねってくることもある。被災地は宮崎・入善・滑川(高月)・堀岡・放生津などに集中している。
 これも『富山県気象災異誌』によって明治以降の資料を月別に整理してみると9月から2月までの秋・冬にかけてで、特に12月と1月がきわ立って多い(第3表)。
北前船が帆柱を倒し舫(もや)っている季節である。
(さえき やすかず・砺波郷土資料館館長)
−平成5年2月6日放送−
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