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テレビ放送講座 平成4年度テキスト「第4回 風・祭りと祈り」


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TOP 第4回 風・祭りと祈り 米原 寛

風への祈り−はじめに−
 「風」は、いわゆる大気の動きであり気象現象の一つである。「風」は空気の流れであり、我々の視覚では捉えられない。雲の流れとその形、木々の葉や稲穂のゆらめき、海の波立ちと煙突の煙など、ある媒体をとおしてのみ感ずることのできるものである。それ故に古来、韻文上においてつとに感覚表現に使われてきたのである。
 しかし、現実の生活の中では、この「見えないもの」が、時に台風、竜巻、季節風などの名で規模を変えて人間の世界に出現し、さらに雪、冷害、旱魃、火災などをもたらし、ひいては、農作物への被害をはじめ、場所によっては生活それ自体にも大きな影響をもたらすのである。近代科学の発達した現代においてもこうした風の影響を止めることは出来ない。この風を利用することも実験されているがいまだ有効な段階ではない。まして自然にまかせた生活を送ってきたつい最近までは、「風」は「目に見えない」もの故に、人知を越えたものとして、祈りの対象となっていた。「見えないもの」が持つ破壊力への畏怖の念は、人々に「風神」を想起させ、これに祈りを捧げる「祭り」を行ってきたのである。
 富山県の場合、砺波地方から新川地方の山麓地域にかけて点在する「不吹堂」の存在がそれを示している。また「風の盆」で知られる八尾町の「おわら節」と町流しで行われる踊りは、後には二百十日や二十日の野分の被害が少ないことを祈る祭となった。
 谷から吹く南風は、農民にとってはまさに「神風」であった。井波地方や大沢野町の笹津、舟倉地区、大山町などでは局地的な風のもたらす利害があった。
 利というのは、井波風の吹く種田(砺波郡)では、適度な風は丈夫な、病害の少ない、秋の乾燥にも強い苗を育ててくれるため、全国的な種籾の産地となっている。また大沢野町笹津、舟倉、八尾町黒瀬谷ではラッキョウ、サツマイモを栽培し特産となっている。
 一方、害としては稲の収穫や住居に大きな被害を与え、そのため砺波地方を中心とする散居村では屋敷林や石垣、太い柱などで住居を守っている。
 城端町是安の級長戸辺(しなとべ)神社の「不吹堂」では、秋の収穫前の風害を防ぎ、豊作を祈願する祭りが行われている。このほかに風神堂あるいは不吹堂は、東砺波郡、婦負郡、上新川郡などのフェーン現象の多い地域に風神祭が分布している。
 風害を防ぐ方法としてこうした風神を祭る行事の他に、農民の風に対する祈りの一つとして、草刈鎌を屋根の上とか竿の先に縛りつけ、空にかざすと風が弱まると伝えられている。ようやく熟そうとしている穂をなぎ倒す風は収穫を期待する農民にとっては大敵であったのである。
 こうした習俗は東北から中国地方にかけて広く分布しており、富山県内でも下新川郡朝日町、黒部市、滑川市では風の盆に長い竹竿の先に草刈鎌をつけ、高くあげておくと風の威力が弱まると伝えられている。
暮らしと風害
 雪に閉ざされた長い北陸の冬が終わりに近づくころから5月にかけて、砺波地方では暖かい乾燥した南風が吹くことが多い。この風が吹き始めると、砺波平野をとりまく山々の雪も更に少なくなり春の訪れとなる。春を知らせるこの南風は、ときには強風となりさまざまな被害をもたらす。この南風は、庄川の谷口の庄川町から井波町・井口村・城端町にかけての一帯で強く、砺波から戸出と北にいくに従って弱くなり、やがて微風になる。この南砺の山麓地域を吹き荒れる風は八乙女山から山麓にかけて吹き下りる南の風で、井波町を中心に強く吹く。
 井波風は、時として大火をもたらす。井波の大火は記録に多く残されているが、まず宝暦9年(1759)4月24日の南風による大火があげられる。この大火により井波町は、5、6軒を残して全焼、隣接の山見村、松島村も全焼。表戸を開けば「坪野迄も一目に見渡せり」というように井波は焼野原と化したのである。さらに、宝暦12年(1762)、寛政7年(1795)、文化11年(1814)、文政3年(1820)、弘化元年(1844)、明治12年(1879)、明治31年(1898)、大正14年(1925)などの大火は井波に大きな被害をもたらした。特に寛政7年の大火では類焼家屋数が、井波町の462軒をはじめ隣村の347軒の合計809軒に及ぶものであった。
 また農作物に対する被害は秋の台風時に発生することが多い。フェーン現象により乾燥した風が長時間吹くと、取り入れ前の実った籾は脱粒し、いまだ実っていない穂は吹き荒されて枯穂となって大減収となる。春の強風も時には甚大な被害をもたらす。記録によると、砺波郡の院瀬見村では、文化8年(1811)から明治2年(1869)までの間にほぼ毎年といってよいくらい稲の被害があり、加賀藩では「御用捨米」や「村余荷」として年貢に配慮がなされた。多い年では、文政9年(1812)に402石余が御用捨となっている。
 砺波地方の南風は、家屋にも直接被害をもたらす。そのため家屋の南側には杉を主体とする防風林を設け、土盛や石垣の築地をおいて風の侵入を防いでいる。家屋そのものについても太い柱や梁(はり)を使い、ヒウチなどを多く用いて念入りに建てられている。家の向きは風を背にしており、背後の角に強風が当たるように建てられており、灰小屋は家の風下に、土蔵は風上に配置されている。家屋の南・西側にめぐらされた屋敷林を「カイニョ」とよんでいる。こうした農家の居屋敷はお互いに孤立しており、いわゆる散居村の観を呈している。
風に祈る
 山麓の風の被害の多い村では、古くからこの風を鎮めるために風神堂を建立して風神を祭ってきた。この風神堂は不吹堂(ふかんどう)とも場所によっては「カゼンドさん」ともいわれた。この風神堂は、主に南部地方に多く、井波の八乙女山の山頂の風穴に祭られた八乙女の不吹堂をはじめその麓に位置する杉谷、岩黒、連代寺、清玄寺、東城寺、北市、高瀬、川上中、蓑谷の各不吹堂があげられる。
 このほか庄川沿いの隠尾や山田川沿いの城端町是安の不吹堂があげられる。また、明治にはいって、婦負郡八尾町や上新川郡大山町の飛越国境の山々の麓の強風地帯にも、是安の不吹堂から勧請された不吹堂がいくつもある。
 こうした不吹堂はいずれの場合でも、強風の吹き出す場所に、或いは山麓から風が吹きおろす場所に、また川沿いの風の通る場所に祀られ、「暴風を鎮め五穀成就、風雨順和、万国泰平」を祈るものであった。
 これら不吹堂の建立・管理・運営については風下の村々が共同で行ってきた。
 庄川岩黒の不吹堂は、寛政11年(1799)庄川町示野の孫三郎が施主となり建立された。その後文政10年に再建立されているが、その折り風下村々の協力をはかっているが、なかなかはかどらず十村に対して村々の協力を促すよう願い出ている。不作続きの村々にあっては社殿建立の費用捻出はことのほか困難であったのであろう。この岩黒不吹堂の管理に当たった村々については、幕末の弘化3年(1846)の「不吹堂祭礼雑用村々割付方定帳」によると、18か村、家数871戸、草高6,434石余に及んでいる。
 隠尾八幡宮の境内社、級長戸辺社は、文政3年(1820)に、風下村々10か村の風難除守護神を祭るために建立され、信者800人を数えたという。城端町是安村の場合も寛文2年(1662)野尻村など強風地帯の30か村の鎮守として建立されている。八尾町上黒瀬の八幡社に合祀されている風の宮も付近22か村が共同して祀った社であった。
 五穀豊穣を祈る村人たちの風神を祭り鎮める気持ちがうかがえる。
不吹堂のこと
  1. 風穴伝説のこと
     井波の八乙女山麓に位置する杉谷、岩黒八乙女、連代寺、清玄寺、東城寺の不吹堂は、八乙女山の風穴から吹き出す風を鎮めるために設けられたものであった。
     昔から井波一帯に強風が吹くのは、井波町の背後にある八乙女山の尾根づたい、南西約1㎞の尾根にある風穴とよばれる岩の隙間から吹き出すと伝えられてきた。ここに風を鎮めるための不吹堂が建てられ、風神が祭られてきたのである。
     この不吹堂は、土地に伝わる伝承によれば、養老元年(717)越前の僧泰澄が八乙女山の山麓に止観寺を建立したところ、風穴より吹き出す大風に苦しむ村人たちがこの風を鎮めるよう懇願したので、大師は祠(ほこら)を建て風神を祭ったという。その後も風は止むことなく、風神堂は谷底に吹き飛ばされ、村人の悩みも止むことがなかった。やがて井波に瑞泉寺を創建した本願寺5世綽如上人が説教中南の大風が吹き樹木が吹き折れ家が倒れるのに出会った。そこで綽如上人は村人から風神堂の由来を開き、村人の懇願を受けて不吹堂を再建し、三部経を納め風神に祈り鎮めたと伝えられている。
     なお、風穴伝説は、井波風ばかりではなく、岡山県那岐山の南麓に吹く「広戸風」、愛媛県法皇山脈の北麓に吹く「やまじ風」もおなじ「山頂の風穴から大風が吹き出す」という伝説が残っている。
  2. 風神“龍田二神”と「級長戸辺神社」
     風神を祀る縁起は、古く「日本書紀」の天武天皇の4年4月の条にまで辿(たど)ることが出来る。
     「遣小柴美濃王、小錦下佐伯連広足、祠風神、竜田立野」とあり、「竜田」とは、“龍田二神”のことであり、いわゆる奈良の龍田神宮に祭られている「龍田比古神・龍田姫神」のことであり、さらにこの龍田神社に合祀されている風神は「志那都比古・志那都姫」の2神である。この志那都2神を祀る風の宮が即ち「級長戸辺神社」なのである。
     本県の風神を祭る風の宮の祭り神を調べてみると、志那都比古・志那都姫を祭るのが、風の神信仰の中心的な神社として知られる城端町是安の級長戸辺神社及び庄川町隠尾八幡宮の境内にある級長戸辺神社である。また龍田比古神・龍田姫神を祭るのが、城端町是安の級長戸辺神社から分社したという八尾町上黒瀬の八幡宮に合祀された風の宮である。即ち、“龍田二神”が級長戸辺神社に祀られるのが風の宮といわれるものである。
  3. 是安の不吹堂と八尾・大沢野の不吹堂
    〔是安の不吹堂〕
     八乙女山から西に約7㎞離れた城端町是安村に不吹堂がある。始まりは、寛文2年(1662)野尻村など強風地帯の30か村の鎮守として建立されたことによる。正徳2年(1712)の「砺波郡堂宮書上帳」ではこの宮を「風の宮」としている。当時高瀬神社の祭祀を勤めていた庄金剛寺村社人藤井備前の持宮とし、さらに「宝暦社号帳」では、是安村産土神で級長戸辺社(風除神)として、同じく庄金剛寺村社人藤井数馬の持宮となっている。
     この是安の級長戸辺社は、大沢野町観光課が記した舟倉野の不吹堂の由緒板によると、明治23年大沢野町舟倉野、明治30年福沢村大字下双嶺、明治34年八尾町上黒瀬、明治35年同黒瀬谷大字下伏に志那都比古・志那都姫の2神を分霊したと伝えられており、本県の風の宮の中心的な存在であったのである。
    〔八尾・大沢野の不吹堂〕
     八尾町上黒瀬の八幡社は、明徳年間(1392〜1393)の勧請と伝えられる。初め産土神として祀られていたが、元禄年間(1688〜1703)に至って八幡社として祀られるようになった。明治42年(1908)に至り社殿を建て替えた折り、滝の谷に祀られていた風の宮を合祀した社である。この風の宮はかつて付近の22か村が共同で祀っていた社であった。祭神は、龍田比古神・龍田比売神・誉田別神である。
     本来風の宮が祭られていた滝の谷は、井田川の支流久婦須川沿いに吹き下す強風の下に位置していた。夏の終わりから秋口にかけての南風は10年あるいは20年に1度は大被害をもたらしている。
     八尾町にはこの他に久婦須川の上流桐谷の集落を山一つ隔てた夫婦山の麓小さな盆地に小井波の集落がある。この地は、平安時代の猿丸太夫伝説にもとづく塚もあり、古くから開けたところである。この塚の左の小山に八幡社があり、並んで「不吹堂」がある。土地の人は「カゼンドさん」といっている。
     大沢野町直坂の級長戸辺神社は、明治34年5月10日、東砺波郡南山田村是安の級長戸辺神社より分社し、風の神と称している。級長戸辺神社のある直坂は、標高754mの小佐波御前山の麓にあり、夏から秋口にかけて吹き下す強風は風下の村々に被害をもたらしたのである。
     この級長戸辺神社の由緒については、大沢野町観光協会の手でまとめられた解説板によれば「舟倉野は古来風難が激しく、ことに明治20年ごろ、3年続きで暴風のため被害が甚だしかったので、明治23年砺波郡是安村字九万堂に風害をおさめ五穀豊穣、天下泰平の神様のあるを聞き、分霊を戴き本地に鎮座申しあげた」と。
     舟倉野の隣谷にあたる大山町下双嶺にも不吹堂がある。本県不吹堂(風神堂)の中でも最も東に位置する。この地は「炭焼窯を作っていたスコップが飛んでいく」ほどの強風が吹くという。ここの不吹堂は大沢野町直坂の不吹堂から分社したものという。
     「風」は、近代科学の発達した現代にあっても、依然として人知を越える神意のなせるわざとして、人々に畏れられ、人びとは、五穀豊穣、天下泰平を「不吹堂」さんに祈っているのである。
風の盆
 風を意識し、風を生活にとりこんでいる慣習として「風の盆」がある。9月1日を旧暦では八朔(はっさく)といい、村々では仕事を休む。八尾町の仁歩・野積地域では1日から3日までを風の盆、風の祭りともいった。大正時代までは、この日「ニワカ」といって、男たちが編笠をかむり、バンドリを着てまちを歩く。各家では赤飯・ウドン・ソーメン・オハギを作って食べたという。後におわら節の踊り手が編笠をかぶって踊るのは、こうした「ニワカ」の俗習の名残であろうか。
 風の盆が終わると、人々は豊作を期待しながら農作業に励むのである。
 このような素朴な風に対する心情を、歌に託し、踊りに託したのがいわゆるおわら節である。
 八尾のおわら風の盆は、二百十日の風の吹くころ、激しい風を鎮める願いがこめられているともいわれ、また風が強くて農作業ができず手を休めて踊るいわゆる「盆をする」というものである。こうしたいわれがいつともなしに融合して「おわら風の盆」なる言葉が生まれてきたのであろうか。
風の城
 風は古来農業にとって負のイメージとして、これを克服するために祈られてきた。しかしこの風を正のイメージに転換すべく、水と同様に電力をおこすエネルギーとしてとらえ、人々に便利と夢を与えるものとして考え出されたのが、大沢野町の「風の城」である。
 風を電力に変えるいわゆる風力発電は、デンマークで発達したときく。一般的には、日本は水に恵まれているため、風よりも水を重要視してきた。しかし、大沢野町では、神通峡を吹き抜ける強風を利用して風力発電施設「風の城」を設けた。
 風の城。風の風物詩であり、想像力を刺激し、詩情を誘う名である。大沢野町猿倉山山頂に、それはある。
(よねはら ひろし・富山県立山博物館学芸課長)
−平成5年2月13日放送−
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