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テレビ放送講座 平成13年度テキスト「第6回 受け継がれる売薬理念」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '02/02/23

TOP 第6回 受け継がれる売薬理念 田邊 勝

売薬 越中売薬のこころと知恵 富山売薬がその販路を全国に確立したのは、江戸中期、宝暦年間(1751〜1763)の頃とされている。その後も発展を続け、行商人の数は富山藩だけで文化年間(1804〜1817)に1700人、文久年間(1861〜1863)には2200人を超えた。
 江戸時代に猪谷の関所を通った人々の記録を見ると、北陸では越後・越中・加賀・能登・越前の人々が飛騨・信濃を通って尾張を抜け、三河・遠江を越えて江戸へ、または伊勢・大和を通って大坂方面へと向かっていた。猪谷関所を通ったのは、加賀藩の侍、富山藩の侍、また天領があった飛騨や越前の侍が最も多く、次いで多かったのが越中の売薬人たちで、その次がお寺やお宮参りの諸国の人々だった。
 『大阪商業史資料』でも、天保年間には売薬の第一に富山売薬が挙げられ、富山反魂丹は、京都の雨森無二膏・伊勢の朝熊万金丹・大和西大寺の豊心丹など、当時の著名薬46種の中で第1位を占めている。
 富山売薬の年間売上高は、富山藩だけで20万両(5貫文=1両=米1石)にのぼり、売薬業者が藩に納める、いわば営業税などは藩財政の15パーセントにも及んだという。富山城下では松井屋(志甫屋・荻原)源右衛門、茶木屋(中田)清兵衛、能登屋(密田)林蔵、布目屋(松井)伊兵衛などが、また富山藩に隣接した加賀藩領でも新庄町の金剛寺屋(金岡)七右衛門、滑川(高月)の高田屋清次郎などが売薬によって財を築いた。
 当初は大きな産業もなく貧しかった富山も、この富山売薬とともに全国有数の町に発展していったのである。富山藩は隣国に加賀藩領百万石という大藩を控え、十万石という小藩と考えられがちだが、江戸時代に全国で百数十、多いときは200ほどあった藩の中で、40番目ほどに位置する。全国的には大きな方に分類される藩であった。
 驚かされるのは、廃藩置県が行われた明治4年(1871)の城下町富山の人ロである。全国第9位ほどに位置する大きな町になっていたとされている。ちなみに1位は世界でもトップクラスの大都市東京(69万人)、2位が大阪(29万人)、3位が京都(23万人)、4位・5位が名古屋・金沢(10万人台)、6位が広島(7万人)、7位・8位が和歌山・横浜(6万人台)、そして仙台と並んで第9位クラスに5万人台の富山があった。これはひとえに「富山売薬」という一大産業のお陰であった。
 明治34年(1901)12月号の横山源之助著『新小説』には、「当時の富山市は、戸数一万五千、人口六万、このうち売薬業で生活している者、製薬工場七ツ、薬種商五十八軒、売薬営業者二百二十四人、請負業者三百十二人、行商人は四千百九十六人であるが、実際の行商人は七千人以上、それに広貫堂職工男女四百人など、製薬工場通勤者を入れると莫大な数、十万石のご城下というよりも、売薬の都会…」といった記述も見られる。
 富山売薬人の数は、幕末でおよそ4,500人。明治になってさらに増え続け、明治25年(1892)に6,880人、明治45年(1912)に8,094人、大正15年(1926)11,752人、そして昭和9年に戦前のピークである14,160人を数えている。富山売薬をその後従事者数で見ると、昭和5年から昭和9年にかけてが、富山売薬史上、最も隆盛な時期であった。
相馬御風作詩の「富山売薬歌」
 昭和11年(1936)に、富山県売薬同業組合でつくった「売薬歌」なるものがある。「都の西北…」の早稲田大学校歌でも知られる相馬御風の作詩によるもので、この「売薬歌」からも往事の勢いを偲ぶことができる。
 売・薬・歌
       作詩・相馬御風 作曲・福井直秋
一、富藩の英主正甫公 名医万代常閑が
  伝え来たりし調薬の 道を開かせまししより
  星霜茲に三百年
二、慈恵を旨と奮い立ち 山又山の奥までも
  磯又磯の果てまでも いやつぎつぎに行商し
  富山薬の名声を 高め広めし父祖の徳
三、医学医術と相まちて 隈なく広く国民の
  衛生保健活力の 増進のため一筋に
  正しき道を進こそ まこと我の使命なれ
四、見よや輝く日の本の 薬都富山の発展を
  満州支那の奥地より メキシコ南洋の果てまでも
  皇国の御為 人の為 わが躍進ぞ限りなき
五、これただ営利の業ならず 仁慈の徳の根を堅く
  学の進歩にしたがいて 富山薬の光輝ある
  歴史貴みいざわれら 努め励みて止まざらん
海外にも飛翔した「富山売薬」
 この「売薬歌」で「満州支那の奥地よリ メキシコ南洋の果てまでも」と歌われている点についてだが、富山売薬は明治期に日本人の大陸進出などに伴ない、海外にまで進出していった。主として海外へ移住する日本人を追ってのものだったが、明治42年(1909)の『富山売薬紀要』によると、同19年に藤井諭三がハワイで配置売薬を始めたのを皮切りに、土田真雄が韓国へ、隅田岩次郎が清国アモイヘ、寺田久平や重松佐平が上海へと飛翔した。明治40年代の輸出売薬従事者は43名と4社。朝鮮半島、中国大陸、ハワイ、台湾、ウラジオストックなどから、さらに、遠くブラジル、インドにまで、富山売薬は日本人の行くところ、どこへでも進出して行ったのである。
富山売薬最大の試練「売薬印紙税」
 富山売薬はこうして明治以降も伸張・発展を続けた。
 しかし、それは厳しい試練にさらされてのものだった。明治政府は「維新」の言葉からもわかるように、諸事を西欧化に一新することを基本とした。それは医薬・医療制度でも同様であった。政府は明治3年(1870)、衛生上、危害を生ずる怒れのある薬の販売を禁止し、有効な薬の製造を奨励する−との趣旨から「売薬取締規則」を発令し、従来の売薬の取り締まりに乗り出した。
 当時、「神仏・夢想・家伝・秘方・秘薬」などの言葉を用い、「万病に効く」といった、あまりにいい加減な「妙薬」なるものが巷に野放し状態だったからである。富山売薬にとって不幸だったのは、西洋医学を第一とする維新政府関係者あるいは当時の有識者らには、漢方薬などとともに富山売薬の和漢生薬類の薬も、巷の「まがいものの薬」と同様に写り、「効果のない気休めだけの薬」との偏見の目で遇されたことである。
 こうした政府の偏見で導入されたのが、明治15年(1882)に布告され、翌16年1月1日から施行された「売薬印紙税」だった。明治10年(1877)の西南の役以降の財政破綻の打開と、その後の伝染病対策費捻出のためとされているが、その背景には、「売薬の薬など害にさえならなければ、あってもいいが、なくなっても一向に構わない−」とする政府の売薬に対するいわゆる無効無害主義の立場があった。
 新税は、定価1銭から10銭までは1割、それ以上は5銭増すごとに1銭の印紙を製品に貼付することを義務づける形で課せられた。これは売薬業者にとって大変な重税であった。特に当時、全国の売薬で大さな地位を占めていた富山の売薬業界が受けた打撃は深刻で、同15年に富山の売薬生産額672万円、行商人9,700人だったものが、「売薬印紙税」導入後の同18年には生産額50万円、行商人5,000人にまで激減した。わずか3年でおよそ12分の1にまで規模が縮小したのである。まさに壊滅状態に近かった。
 「売薬印紙税」は、大正15年(1926)に廃止されるまで、44年もの間、売薬業界を苦しめ続けた。実は、前述した富山売薬人らの海外飛翔も、海外売薬にはこの重税が免除される特典があったからともされる。
近代薬事法規制度への対応
 しかし、明治政府が行った、西欧にならった薬事関係法制などの近代化は、富山の売薬業界などには過酷なものであったが、反面、近代国家建設にとっては当然なことであった。明治10年(1877)に太政官布告された「売薬規則」では、薬の品質確保を重点に、製薬を主とする売薬営業者を規定し、さらに製薬せずに販売だけを行う請売業者、実際に薬を売り歩く行商人といった区分を初めて明確にした。製薬を行う売薬営業者は、「薬の品質に個々に責任を負うべし」とされたため、こうした政府の方針に対応して、より良質な医薬品製造のため明治9年(1876)に現在の広貫堂の前身である調剤所広貫堂が設立された。明治10年代に入ると、富山では売薬業者らが共同で次々と会社を設立し、また、薬学校も設立した。
 これには政府も呼応し、売薬に対する考えを「無効無害主義」から「有効無害主義」に転換していく。それが「売薬印紙税」の廃止につながっていくのだが、それに先見ち大正3年(1914)、政府は「売薬法」を制定し、より有効で安全な医薬品製造のため、西欧先進諸国と同様に薬剤師制度を設け、「薬剤師あるいは薬剤師を使用する者、または医師でなければ薬を調製してはいけない」とした。ここで初めて製薬に「薬剤師」の関与を義務づけたのである。
 それまでの売薬業者は、行商から帰っては自宅で思い思いに次に配置する薬を自ら製造し、また行商に出かけた。だが、この「売薬法」制定の後は、薬剤師を使用するか、あるいは薬剤師を雇用している会社においてでなければ製造ができなくなった。また、その薬の処方も、従来のように「家伝」「秘方」などと称して秘密にしておくことは許されず、配合成分を公開することが義務づけられた(各業者は一部に家伝などの未公開の薬も扱った)。
 ちなみに「売薬」という言葉は、戦時下の昭和18年(1943)に公布・施行された薬事法の制定まで、現在でいうところの「市販医薬品」の意味で法律上でも使用されていた。しかし、薬事法で薬は「日本薬局方医薬品」と「局方外薬品」に大別され、「売薬」は「局方外薬品」と同一に医療品全般に一括されることとなり、法律の文面から「売薬」の文字は消えた。
戦後のピークと「配置販売業」
 戦争が激しくなるにつれ、あらゆる物が戦争遂行のために動員された。物資はもちろん、人員も不足し、経済の統制が求められた。企業整備令による売薬営業者の合併や置き薬の一戸一袋制が命じられ、代々の得意先からも置き薬を引き揚げざるを得ない苦渋も強いられた。
 物資統制などの混乱は昭和26年(1951)ぐらいまで続いたが、衛生状態の悪さから駆虫薬などが全国で求められ、同25年には7594人もの売薬さんが全国に出かけていた。戦後の廃墟の中から、富山売薬はまたたく間によみがえったのである。そして昭和35年(1960)の薬事法改正で、配置売薬は法文上「医薬品配置販売業」となり、わが国における医薬品販売業の一つに規定された。翌36年2月には「配置販売品目指定基準」も発表され、いわゆる「置き薬」の定義も明確にされたのである。
 先進諸国のどこにも「配置売薬」といった医薬品販売形態は存在しない。したがって戦後の法整備においても、配置売薬という形態の存続の是非が検討された。これに強い危機感を抱いた、特に富山の薬業界の首脳たちは、伝統的地場産業でもある配置売薬が法律上に明記され、存続できるように、機会あるごとに厚生省や関係方面に陳情・要請を重ねていた。薬事法にわが国独自の「配置販売業」という医薬品販売形態が明記されたのは、当時の富山売薬人たちの大変な努力の賜物だった−と言っても決して過言ではない。
 こうして富山売薬は、戦後もまた、全国の家庭で受け入れられ、昭和36年(1961)には富山から全国へ出かける売薬さんの人数は11,685人を数えるまでになった。しかし、同年が戦後のピークであって、それ以降は毎年減少し続けている。
「現地居住」と「企業化」
 減少に転じた原因の第一は、昭和33年(1958)に新国民健康保険法が公布され、同36年から実施された国民皆保険制度だった。同制度は国民の医薬品需要を、一般大衆薬から医療用医薬品に一挙に大転換させた。
 それまでは医薬品全体に占める割合は、一般大衆薬が医療用医薬品を上回っていた。ところが、国民皆保険制度で「医者へ行けば、保険でただ同然で薬がもらえる」との風潮が生じ、一気に逆転してしまったのである。その打撃は深刻で売薬業者から自殺者が出るほどだった。
 第二の原因は、高度経済成長とともに、地元富山での就職先が増え、長期間、親元や家族と離れて暮らす配置販売業が敬遠され始めたことと、後継者難、あるいは経営・営業の効率化から、得意先のある土地に移り住んで配置販売業に従事する「現地居住」が、昭和30年代末から進行したことが挙げられる。また、移り住んだ配置販売業者たちが、株式会社や有限会社を設立し、営業地で配置従事者を多数雇用して業務を行う「企業化」の進展と、これら業者との競合激化も、富山からの売薬さんの減少を促した。
 富山県から全国に出かける売薬さんの数は、平成12年(2000)には、戦後のピークであった昭和36年(1961)当時のおよそ5分の1弱の2,438人にまで減少した。
 しかし、全国で配置販売業に従事する者はおよそ2万9千人で、その総数はここ数年さほど減少していない。富山の売薬さんなど、個人で営業する者は減少しているものの、大きな配置販売会社の従業員数が増えているからである。配置販売の最大手では一社の配置部門だけで320億円(平成12年度)も売り上げる会社も生まれた。このほか年間売上げ百億円単位の配置販売会社が1社、70億円から60億円が2社、40億円から30億円が数礼あるが、これら経営者やそれ以外の全国に点在する多くの配置販売会社の経営トップの70〜80パーセントは、富山から営業県へ移り住んだ人か、その子息たちなのである。つまり、富山売薬の系流が、その営業拠点を富山から全国各地に拡散しているのだ。
「売薬さん」と「配置員」
 しかし、富山売薬に代表される配置販売業界全体が、いま、大きな転換期を迎えているのも間違いない。平成11年(1999)の全国配置薬生産額は588億円で、前年の664億円に比べて76億円も減少した。これは医薬品販売の規制緩和で、これまで医薬品であって配置薬に分類されていたドリンク剤やその他が医薬部外品に移行され、コンビニエンスストアなどでも販売可能となったことによる統計分類上の減少もあるが、やはり全体として苦戦を強いられていることは否めない。
 配置薬だけではない。大衆薬全体もその比率を落としている。少子高齢社会の進展に伴ない、国民医療費(平成13年度・30兆7千億円)は増大の一途をたどり、いまだに年間およそ1兆円ずつ増え続けている現状で、自分の軽度な病気は自分で治すセルフメディケーションのぬ必要性が叫ばれ、それに伴ない国民の負担増加、一般大衆薬の需要は高まるものとされてきたが、現在の医薬品総生産額は約7兆円で、そのうち医療用医薬品87.5パーセント、一般大衆薬12.6パーセント、配置用医薬品0.9パーセントで、セルフメディケーションに貢献するはずの配置用医薬品が一般大衆薬とともに、皮肉にもその比率をむしろ低下させているのである。 比率低下の外的要因には、長引く深刻な消費不況やデフレ経済下での一部業者の極端な安売り攻勢、さらに前述した医薬品販売規制緩和など、国の政策の影響などが挙げられる。だが、業界の内的要因も考えられる。それは若い配置員に向かってある配置得意先が語ったという「あなたたちは単なるクスリ売りのセールスであって、『富山の売薬さん』とは違う」の言葉に如実に現れているように思われる。
 富山売薬はなぜ、江戸元禄年間から三百有余年もの間続いてきたのだろうか。その理由の第一は「先用後利」の商法でもなければ、特有の製品によるものでもない。それはおそらく、ひとえに「売薬さん」たちの総体的な「人間カ」だったのではなかろうか。であるから、仮に配置薬業が衰退するとすれば、それは本来の配置薬業の衰退ではなく、配置薬業界を構成しているヒト(人的要素)の衰退であり、特に、末端の顧客と直接応対する配置員に起因しているように思えてならない。
 やむを得ないことではあるが、富山売薬が以前のように富山から出かけて行った個人営業の、いわゆる「売薬さん」たちによるものではなく、営業地で採用した配置員が訪れるクスリのセールス形態に変質していっているところに大きなリスクが隠されているように思われる。
「富山売薬三百年」存続の秘訣
 富山売薬の家の次男に生まれ、昭和26年(1951)に単身東京に出て、一代で都内を中心に約150店舗、従業員約600名を擁するドラッグストアを育て上げた人がいる。平成12年(2000)9月に東証2部に株式上場も行なった全国有数のドラッグストアチェーンである株式会社セイジョーの創業者で社長の斎藤正巳氏である。
 同社は、他の大手ドラッグストアとは少々趣が異なる。社員1人当たりおよび売り場面積単位当たりの売上高が抜群に高いのだ。徹底した社員教育と説明販売で「薬局の東大病院」の異名をとり、利益率はドラッグストア業界ナンバーワンを誇る。その斎藤社長が、経営に積極的に取り入れているのが「富山売薬三百有余年存続の秘訣」であるという。
 斎藤社長は言う。「富山売薬とは本来、個人業者のものだ。いろんなことを勉強していて話題が豊富で、話もうまい。知識プラス説得力もある。説得する貫禄もある。また、話し相手のいないご老人の話も上手に聞いてあげる。だからお客さんは『いい話を聞いた』『この人にまた訪ねてきて欲しいから、この人の置き薬を飲もう』という気になった。値引きも言い出さない。これがただの物販だったら、『もっと安くしろ』『もっと安く薬が手に入るよ』となる。富山の売薬さんは置き薬以外のところで、仲人もしたり、田畑の作り方の指導をしたり、いっぱい『タネ』を撒いてきたのだ。これが富山売薬に限らず、ほんとうの意味での商いではないでしょうか」。
 同社の社員教育は、まず徹底した顧客への接客態度に始まる。挨拶から釣銭の出し方に始まり、それから医薬品などに関する知識へと移る。最近では、ロイヤルカスタマー登録という顧客サービス制度も設け、幾度も来店する顧客に関しては、レジなどで名前で呼びかけるように社員教育しているという。店頭販売において顧客一人ひとりを「個」で捉えるまでに指導しているというのだ。コンピュータによる情報管理でそれがいっそう可能となった。
 では、この顧客一人ひとりの「顔」を実際に見て、その一人ひとりに個々に対応してきたビジネスの代表は何か。それは言うまでもなく一軒一軒の家庭を訪ね、その家の人の「顔」と「生活の揚」をしっかりと見て商いを行なってきた、他でもない富山売薬だった。
「礼儀作法」「教養」「モラル」
 そうした「他人の生活の場」に足を踏み入れるにあたって、富山売薬人たちは砕身の注意を払ってきた。それには決して欠かしてはいけないルールがあった。それは「正直」であり、「勤勉さ」であり、さらに仏壇があれば必ず手を合わせ、その家のご先祖さまにまで敬意を表するといった「礼儀作法」であった。
 置き薬を長年愛用してきた、ある地方のお得意先が作った川柳に、「戸を閉めて、またおじぎするクスリ売り」というのがある。富山売薬人にとっては、薬を売ることだけが商いではなかったのである。その前に、いかに礼偽正しく、美しくお客さんの前で振舞うか、自分の身のこなし、一つ一つをいかに洗練されたものにするかが勝負だったのである。その礼儀正しい態度にお客さんも応え、決して粗末に応対はしなかった。かつて、50年間に一度も値引きをしたことがなかったと話した富山の売薬さんは、その秘訣を「それはひとえに、正しい礼儀作法のお陰です」と語った。
 富山売薬が三百有余年の風雪に耐えてきた要因に「先用後利の商法」「懸場帳」等などいろいろ挙げられる。そのいずれもが正しいかもしれない。しかし、それを超えて、その基本にあったものは、顧客を「個」で捉え、「個々」に対応し、その際に「正直」「勤勉」「倹約」を旨とし、さらに「礼儀作法」「教養」「モラル」に裏づけされた売薬人個々の「人間カ」だった。ひとえに、この「ヒト」に支えられて、富山売薬は江戸期から明治・大正・昭和という時代の風雪を乗り越えてきたように思えてならないし、この基本は平成の世になっても、その後も、なんら変わらないのではなかろうか。
(たなべ まさる・(株)薬日新聞社常務取締役編集長)
−平成14年2月23日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在のもので表示しています
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