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テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第7回 天険の道・越信新道」


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TOP 第7回 天険の道・越信新道 廣瀬 誠

1.佐々成政のざらざら越え
 天正12年(1584)厳冬、東西を敵に囲まれ、進退きわまった佐々成政は決死の雪山越えを断行、立山・後(うしろ)立山両大山脈を抜け、信州へ出て、一路南下、浜松・清洲におもむき、徳川家康・織田信雄(のぶかつ)に面会して、対秀吉戦への再決起を強く促した。有名な佐良佐良(ぎらざら)越えの壮挙だ。
 『武功夜話』は「熊の毛皮の胴着、同半袴(はんこ)、四尺に余る野太刀を負ひ、頭巾(ずきん)の出(い)で立ち、髯面(ひげづら)の中に眼光奕(えき)々、長途憔悴(しょうすい)して相貌極めがたし」と、一行の異様な服装・風貌をなまなましく描き、「蔵助(くらのすけ)殿(成政)、心気猛く語気強く、一言にして肺腑を貫く」「生来の豪気、なほ五躰に満々」と、そのすさまじい気魄(きはく)を伝えている。家康側近の松平家忠も、天正12年12月25日の日記に「越中の佐々蔵助、浜松へ越し候」と書きとめた。
 しかしこの道は、成政が暴虎の勇で道なき山々を突破したのではなかった。永禄年間(1558〜70)越中の武将寺島職定(もとさだ)が「信州エ罷透(まかりとおる)之義」を断乎禁止した文書が芦峅寺に現存している。こっそり信州へ越える者が跡を断たず、軍事スパイも出没したからこその禁令だ。古くから忍びの道が立山から黒部峡谷を越え、後立山山脈を越えて信州へ通じていたのだ。その古来の間道を成政も利用したのだが、おし迫った事情から、厳冬期にこれを敢行したのは、まさに決死の冒険、空前の壮挙であった。
2.加賀藩と黒部奥山道
 成政に代わって越中を支配した前田は、その忍びの道に神経をとがらせ、慶安元年(1648)、芦峅村の三左衛門・十三郎父子を案内に立てて調査隊を派遣し、成政が佐良佐良越えしたという秘密のルートを綿密に踏査させ、その報告に基づき、奥山廻り役を常設して、毎年、奥山を巡検させた。
 奥山検分は、はじめの間は、忍びの道を中心として軍事的意味あいが強かったが、太平の世が続くにつれて、藩領内資源の保全に重点を移した。信州の杣(そま・木こり)たちがひそかに黒部奥山に入りこみ、ネズなどの良材を大々的に伐採しているのに気付いたからであった。
 200年余、加賀藩奥山廻り役と信州杣の「追いつ追われつ」の角逐が続いた。山廻り役が盗伐現場に踏み込んだのは、たいてい逃げ足の早い杣の逃走後であった。盗伐小屋は再度利用されぬよう焼き払い、遺留の伐採用具は押収し、伐採木材も没収した。しかし、木材を越中側へ運び下ろすことは困難で、やむをえず、信州の木材商に呼びかけて払い下げたという。信州側が万事地の利を得ていたのだ。
 国境の要所要所には標札を立てて、加賀藩役人の見回ったことを書き記し、ここは加賀の藩領であることを明示した。その文面に巡検人数を500人などと書いている。実際は総勢30人程度であったが、誇張して盗伐者をおどしたのであろう。針ノ木峠は忍びの道のカナメの地点、従って巡検の最重要地点として、ここには必ず標札を立てた。
 もっとも、盗伐というのは加賀藩側の用語で、信州杣は黒部川を国境と見なし、川の東側は信州領と考え、山中に「野口山」と墨書した石標を立てていたという。信州野口村(現大町市)の山の意である。加賀の役人は憤慨して、石標の文字を砂磨きにして抹消したという。
 奥山廻り役には十村(とむら)クラスの豪農が選任され、これに藩から横目足軽が付き添った。更に食糧・衣料等運搬のため多数の杣人足(そまにんそく)が加わった。奥山廻り役は、山中の状況をつぶさにメモし、これをもとにして藩へ報告した。これら山廻りの日記は50種ほど現存し、山中の労苦をなまなましく伝えている。
 川渡りの時、人夫が押し流された。冷えて病人が出た。木の枝を切って組み立てた急造の仮小屋が暴風雨のため雨漏りした、等々苦しい話が多いが、中には、国境山稜を縦走していて、信州の人家やソバ畑が見えたとうれしそうに記した箇所もある。20日間もの山中生活で、下界がなつかしかったのであろう。
 加賀藩では、この秘密ルートの逆利用を考え、幕府との間に万一非常事態が発生した場合、藩主が江戸から金沢へ逃げ帰る最短の忍び道「加賀様の隠し道」としていたともいわれるが、そのような切迫した事態はついに起こらなかった。
3.御縮山と忍びの登拝路
 加賀藩は、黒部奥山一帯を国境警備上の要地「御縮山(おしまりやま)」として、一般人の立ち入りを禁止していた。出入りを許されたのは立山禅定道(ぜんじょうどう・信仰登山として定められたコース)だけであった。しかも、山開きから山閉(じ)まいまでの夏期に限られ、他の季節には全く閉ざされていた。
 黒部山中の状況を他言することも厳禁され、ために奥山廻りに雇われた荷担ぎ人夫たちは、あらかじめ起請文(きしょうもん)を書かされ、親子兄弟たりとも、山中のことは他言しないと誓約させられた。
 しかし、この立ち入り禁止区域へ、こっそり入り込む登拝者があった。信州人が立山登拝するには、正規には、越中側へ迂回することが必要であった。それでは時日が多くかかり、経費もかさむので、山閉まい後の秋口(あきぐち)、戦国以来の忍びのルートを利用して、針ノ木峠を越え、黒部川を渡り、佐良峠から湯川を下り、立山温泉を経由、松尾・弥陀ケ原を経て立山項上を登拝していた。百井塘雨(ももいとうう)の安永・天明ごろ(1772〜89)の『笈埃(きうあい)随筆』に記すところである。このようにして細々と忍び用いられて来た不思議な「山の古道」であった。
 なお、このルートの西端越中芦峅のうば堂にはうば尊が祀られていたが、これに対して、東端信州野口村大出(おおいで)にも大姥堂があって、佐々成政がもたらしたという姥尊を祀っていた。縄文時代の土偶を思わせるような姥尊が両端に鎮座してこの秘密の道を守っていたのであった。
4.山の夢、越信新道
 幕末の嘉永年間、信州野口村の大庄屋飯島善蔵は、この道を開削して越信間の物資輸送に役立てたいと願い出たが、加賀藩は「御縮山」政策上、そのような願いは頭から却下した。
 明治維新は、この細々とした奥山道ににわかに光を与えた。藩は奥山廻り役の制度を廃し、忍びの道に終止符を打った。
 もと加賀藩士の佐久間盛武らと信州のもと大庄屋飯島善右衛門らとが提携協力して、筑摩・新川両県の許可を受け、明治8年開通社を結成し、この山道を道幅9尺(約3メートル)に切り広げ、道程22里18丁(約90キロメートル)、要所要所に小屋を建て、牛小屋を置き、川には橋を架け、荷牛の通る「スーパー山道」に仕上げ、越中から塩や塩魚や薬などの物資を運んだ。道の最高地点は2,536メートルの針ノ木峠であった。荷牛の鳴きかわす声は朗々と山峡にこだましたことであろう。
 開通社の本社は金沢と信州野口の2カ所に置き、出張所は富山旅籠(はたご)町の島権二郎方に設置した。有料道路として、その収益で道の維持を図った。料金は立山温泉で徴収したといわれるが、黒部川渡河地点の平(だいら)ノ小屋がかなり後まで道銭小屋と呼ばれていたところを見ると、ここでも徴収していたのであろうか。
 この道を越信連帯新道、略して越信新道といい、立山新道・針ノ木新道とも称した。この困難な事業をやり遂げたことが明治天皇の上聞に達し、明治11年特別に御嘉賞をいただいた程であった。
 しかし、この道は冬期の崩壊破損が激しく、その修理が容易でなく、収支相償わず、明治15年、廃道願いを出して開通社も解散し、大きな「山の夢」はわずか数年で霧消したのであった。
5.越信新道とイギリス人たち
 しかしこの数年の間に、イギリスの登山愛好家たちが続々この道を利用して、針ノ木・黒部・立山の雄大な景観をたのしんだ。
 英国領事館の書記官(のち公使)アーネスト・サトウは明治11年、信州側から分け入り、針ノ木峠を越え、黒部川の小屋で泊り、ここで釣り上げた岩魚(いわな)に舌つづみを打ち、日本式にワラジばきで佐良峠を越えて立山温泉に泊まり、次の日、松尾坂をよじ登って、弥陀ケ原から室堂に到達、地獄谷を見物したが、あいにくの悪天候のため、頂上は断念して、雨でヌカルミとなった道を悩み悩み、芦峅へ下り、神官佐伯正範の家に宿泊した。その詳細を書きとめたサトウの日記はロンドン公文書館に保管されている(『富山県史、史料編』にも収録)。またサトウがこの登山について公使パークスに報告した書簡はパークスの日記に転載され、『パークス伝』にも訳出されている。
 なお、サトウは幕末の1867年8月7日(慶応3年7月8日)バジリスク号に乗って、佐渡から七尾へ航行中、海上に連なる立山連峰の雄大な姿に目を見張り、外人として初めてこれを書きとめた人であった。
 開成学校(東京大学の前身)の応用化学の教師であったアトキンソンは、明治12年7月、ジクソン・中沢岩太両名と同行で、甲斐・信濃・飛騨・加賀・越中巡歴の大旅行をした。富山では旅籠町の平井屋に1泊、サトウとは逆のコースで、まず立山に登り、黒部川・針ノ木峠を越えた。その紀行は、英文『日本旅行案内』(ロンドンのジョンマレー及び横浜のケリーウォルシュ社刊)に活用され、英米人の登山のための良き手引きとなった。
 サトウやアトキンソンよりも早く(明治6年〜10年の間)、ガウランドやデュランもこの道を利用して立山に登り、芦峅で宿泊している。多分、最も早い外人の立山登山であろう(サトウが宿泊したとき、数年前ガウランド一行が泊まっていったことを佐伯正範に聞き、これを日記に書きとめている。ちなみにガウランドは「日本アルプス」という名の名づけ親だ)。
 なお東京帝大教授をしていたチエムバレンもこの道を踏破したらしく、針ノ木峠を「悪絶嶮絶、天下無比」と驚嘆したチエムバレンの言葉は、その後長く針ノ木峠の枕詞(まくらことば)のように使われ、登山者の問に語り継がれた。(チエムバレンは日本文化研究家。『古事記』をはじめて英訳したのもこの人であった。そのような有名人が次々に越信新道に足を踏み入れたのであった)。
6.ウエストンを中心に
 開通社が解散し、この道が廃道となった後も、その細々とした踏み跡は多くの人に利用された。アメリカの世界的天文学者ローエルは明治22年5月、能登旅行の帰途、針ノ木越えを志し、富山から芦峅を経て立山温泉まで達したが、積雪期の突破は不可能と悟って引き返し、その苦労談を『能登』に書き記した。
 英国山岳会員で教会牧師として滞日していたウォルター・ウエストンは、明治26年8月、サトウと同じコースで、信州から針ノ木峠を越え、黒部川(当時橋なし)を徒渉、平ノ小屋の廃屋の柱と柱の間にハンモックをつるし、淙(そう)々たる川音を聞きながら眠ったという。翌日、佐良峠から日本海をながめ、立山温泉に到り、松尾坂・弥陀ケ原・室堂を経て立山に登頂した。
 頂上朱塗りの社殿の前で、神官のついでくれたお神酒(みき)を喜んで項戴したという。雄大な眺望をたのしんで立山温泉に帰着。翌日、湯川谷を下り、上瀧から馬の曳く荷車に便乗して富山へ向かったが、途中で、空(から)の人力車に出あい、これに乗り換えて富山に着き、旅籠町の木屋旅館に宿泊した。この旅館の快活親切で、いささか粗野な女中に靴下の破れを繕ってもらっているが、これは富山の女性を英文で世界に紹介した最初のものであろう。
 ウエストンは大正3年、前回と逆コースで、滑川から軽便鉄道に乗り換え、立山の代表的ガイド佐伯平蔵を紹介されて連れてゆく。芦峅の雄山神社で杉の林の中の静かな社務所に泊めてもらい、神職の親切鄭重な歓迎を喜んでいる。ただし蚊のため安眠できなかったという。ウエストンは信州でも穂高神社の社務所に泊まっているが、キリスト教会の牧師が日本の神社に好意を持ち、その神職と温かい交際をしていることは興味深い。
 ブナ坂のブナ茶屋で登山者の騒々しいのに悩まされたウエストンは、室堂では小屋に泊まらず、テントを張って、ひそかなプライバシーをたのしんだ。
 頂上の雄山神社を「この上なく神々しい小さな神社が王冠のように立っていた」と書き、ここでも日本の神社に好意を寄せている。雨の中を立山温泉に下って3日間滞在したが、ここでは富山県庁の役人から親切で友情あるもてなしを受けたという(同じ立山温泉で、柴崎測量官が県庁役人から冷遇されたのと対照的だ)。
 佐良峠で日本山岳会のバッジをつけた二人に出あったと記しているが、その一人は吉沢庄作であった(この時、ウエストンからもらった名刺は今も黒部市の吉沢家に大切に保管されている)。ウエストンは前回渡渉した黒部川を、今回は籠(かご)の渡(わたり)を利用して越え、針ノ木谷にかかったが、昔の踏みあと(越信新道のなごり)は全然残っていなかったという。
 ウエストン第1回の立山行は『日本アルプス登山と探検』に収めて1896(明治29)年、第2回の立山行は『極東の遊歩場』に収めて1918(大正7)年、いずれもロンドンで刊行され、その美しい文は世界の人々に日本の山のすばらしさを知らしめたのであった。
 ウエストンの助言で日本山岳会が結成され、登山の趣味は急速に日本の青年の間に広まり、登山家たちはサトウ、ウエストンの踏みあと、すなわち越信連帯新道のコースをたどった。
 古武士の風格を備えた登山家木暮理太郎は、明治28年針ノ木越えをして「ここばかりは一人旅になれた自分も、初めて山といふものの恐ろしさを感じて、心細さにたへられなかった」と述懐している。泉鏡花はこの針ノ木新道を舞台にして小説「ざらざら越え」を書いた。荒廃したこの峠道は物恐ろしいが、同時に不思議な魅力で人々を魅きつけてやまなかったのであった。
7.立山黒部アルペンルート
 第2次大戦後の昭和29年、材木坂のケーブルカー設置を手始めに、車による登山道が開かれた。立山黒部アルペンルートが全線開通したのは昭和46年であった。明治の針ノ木新道と部分的には違いながらも、ほぼこれに平行した形で富山県と長野県とを結び、いわば昭和の越信新道である。
 戦国以来、成政以来の忍びの道が、明治には旧藩士・旧大庄屋の努力で日の目を見、外人登山家の憧れの道となって、ロマンチックな脚光を浴び、富山県国際化の第一歩を踏み出した。その道がもとになって、年間100万人以上の大衆観光の一大ルートを、功罪相半ばしながら、現出したのであった。
(ひろせ まこと・富山女子短期大学教授)
−平成4年3月7日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在で表示しています
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