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テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第4回 鰤の道・飛騨街道」


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TOP 第4回 鰤の道・飛騨街道 高瀬 保

飛騨街道と鉱山町の繁栄
 越中から、また美濃から、飛騨高山に通じる道筋を飛騨街道と呼んで来た。藩政初期の富山からの飛騨街道の道筋は『越中道記』によって明らかとなる。それによると(1)富山から布市・小黒・東笹津を経て、神通川右岸に沿うて飛騨横山に出て高山に至るもの、(2)富山西郊の五福から城生を経て、神通川左岸に沿い楡原・加賀沢より飛騨小豆沢に出て高山に至るものがあった。前者は東路、後者は西路である。この東路に沿う牛増・芦生・今生津・町長・寺津・吉野・伏木・小糸・舟渡・東猪谷など11か村、西路に沿う葛原・小羽・笹津・岩稲・楡原・庵谷・片掛・西猪谷・蟹寺・加賀沢の10か村は早くから飛騨街道の人・物資の輸送にあたる牛方の村で牛役を納入した。
 つぎに幕末、天保7年(1836)の状況は、石黒信由著『増補大路水経』によってわかる。それによると飛騨街道を本道・(2)中往来・(3)東路の3つに分け、いずれも富山から中野・最勝寺・栗山・八木山と直線的に東笹津に至る。そして(1)の本道は神通川を渡舟で渡り、西笹津・ 楡原・西猪谷・蟹寺・加賀沢より飛騨小豆沢・古川を経て高山に出る。(2)の中道は本道の途中の蟹寺にて宮川を籠の渡で越え、飛騨谷・船津を経て高山に出る。(3)の東路は笹津より神通川・高原川の東岸に沿い船津を経て高山に出るものであった。
 文禄3年(1594)、加賀藩初代前田利家は、新川郡より東猪谷へ輸送する米などの諸荷物は、牛増までは富山宿方の伝馬が、牛増から東猪谷までは、そこの牛方が入り込んで輸送するように特許した判物を下した。当時、神通川の両側の片掛・庵谷、長棟・吉野、さらに飛騨では茂住・和佐保などで、相ついで金鉱が発見され、ゴールドラッシュがおこり、それぞれ数千人の鉱山町が出現した。このころ、越中をも支配した前田利家・利長は検地をやり取りたてた年貢米を大阪など上方に販売しようとしたが、大阪はまだ都市として機能せず年貢米が売れず困りはて、年貢を納めた百姓に無理やり売り付けたりしていた時であった。つまり、これら鉱山町は、年貢米を買い付けてくれる大阪など上方の役割を担ったのである。慶長9年(1604)には東猪谷に1万2,000俵の米を運んでいるので、神通川の山峡の鉱山町の繁栄が想像される。神通川の両岸の東・西猪谷に関所が出来たのは、越中の農民も一獲千金を夢見て、これら鉱山町に移ろうとしたので、それを取り締まり、またそこへ運ばれる物資に課税するためであった。
 栄えた鉱山町は寛文ごろ(1661〜)より衰退するが、このころ大阪は「天下の台所」に成長したので、大阪に年貢米を運ぶことになっていった。
人と文化の道
 寛永16年(1639)、富山10万石が分藩した。領域は婦負郡6万石のほか、加賀手取川の下流地方と、黒部川の下流地方に4万石が飛地として分散しており、初代藩主前田利次は富山城を借用して住んだので何かと不都合であった。そこで万治2年(1659)に富山町、および付近の土地と替地(かえち)した。富山藩は飛騨交易に重点を入れ、西猪谷関所番人に藩士橋本作内・吉村忠左衛門の両人をあてた。子孫も関所番を天職ときめ実直に明治4年(1871)まで連綿と勤め、廃藩置県後も西猪谷に住まいした。この西猪谷関所は富山藩だけの国境警備のためのものでなく、本家加賀藩の「三ヶ国(加・越・能)締方ニ有之場所」と記されているように、三か国警備の一端を担うもので、そこの規定は加越能三か国に通用するものであった。
 越飛交易は、はじめ東路が中心であったが、富山藩の成立、替地の後の富山町の整備にしたがい、富山町から笹津間が直線となり、西路が栄え、さらに中道が開かれ中心となっていったものであろう。さいわいに関所番人であった橋本家に関所文書が残っているので、同文書によりながら飛騨街道の人・物の交流を概観してみることにする。
 「西猪谷御関所御番勤向ヶ条書」がある。これは関所通行規定で、それによると西猪谷関所を通って出国する場合、富山藩家中は御用番(家老)の発行した過書による、幕府役人の通行は事前に郡奉行よりの御入状(案内書)による、領内の寺社は寺社奉行発行の過書、富山町人・旅人は富山町奉行発行の過書、八尾・西岩瀬・四方町民はそれぞれ町肝煎発行の過書、農民は十村発行の過書によると定めている。入国については、諸国侍の通行は主人発行の手形、行先を糺して通す、他国寺社・修業者は寺社・主人発行の手形によって通す、旅人は国郡、商売、名前を糺して通すことなどが細かに記され、入国より出国、男より女の方が留意されたことに特色があった。
 しかし関所近辺の13か村には村別に焼札195枚渡され、それによって通行が出来、また月に3、4度あて飛騨に往来する八尾・四方・放生津などの魚商、先述した葛原など10か村の牛方で人柄の明らかな者は過書なしで通行することが慣行であった。
 橋本家文書に関所を通行したとき受け取った過書が246枚ある。それを一覧するとつぎの表になる。
 この表によって通行者の居住地は、越中・加賀・越前・越後・佐渡・飛騨・美濃・尾張・甲斐・江戸・京都・大和・大阪・伯耆・その他、14か国をこえ、行先は越中・飛騨・信濃・美濃・尾張・伊勢・伊賀・山城・紀伊・三河・遠江・甲斐・武蔵と13か国にまたがっていたことがわかる。これによって飛騨街道は北陸地方と飛騨を結ぶだけでなく、東海地方を結び、東海道によって江戸・京都・大阪に通じる大動脈であったこと、また途中、中山道に通じていたこともわかる。また富山・四方・東岩瀬・東西水橋・滑川・高月・田中蓑浦の過書は関所通行期日が4〜5月、9月に集中し、美濃大垣・同加納、名古屋・伊勢桑名、遠江浜松などに同一人が年2回も出掛けているので売薬行商人のものであったことが考えられる。幕末の越中売薬商人は3,000人、うち飛騨・美濃・尾張・三河・駿河に行商したものは500人ぐらいである。これらの人々はこの飛騨街道を往復した。関所を通るとき、反魂丹荷物1荷に銭24文の役銭が懸けられた。また諏訪大明神・尾張熱田神宮・伊勢皇太神宮、甲斐身延山への参詣の過書、江戸相撲取、軍談師など芸能人のものもあった。
 関所番人は職務上の留書、日記を書いた。そのなかから324件の関所通行者を知ることが出来た。それによっても飛騨街道を通じ、北陸地方は中山道・東海道と結ばれ、江戸・京都・大阪のみでなく、関東・中国・四国・九州と結ばれていたこと、茶人・碁石打・画家・軍書語(ぐんしょかたり)・相撲取・易者・医師が通行し芸能文化の道であったこと、越中立山・京都本願寺・信濃善光寺など参詣者も通行したことがわかる。また旅の途中にて足痛、病気、行き倒れとなり、家もとに送り返されたものが38件、途中で絶命した者もある。また雪崩で絶命負傷したものもあり当時の旅行は生易しいものでなかったことがわかる。
 飛騨街道わきの野仏のいくつかは、その供養のために作られたものであろう。また、途中盗難にあい途方に暮れる者もあった。
 飛騨街道に宿場の指定がなかった。しかし街道に沿うて牛役を納入した村は牛方として人・物の輸送にあたり、また蟹寺・片懸村では旅人を宿泊させていた。蟹寺の間兵衛・五郎兵衛の居屋敷は大きく、富山藩主が籠の渡を観光したとき、両家で泊ることが多かった。
米と塩の道
 文禄(1592〜)慶長(1596〜)のころ、越中新川地方の年貢米は越飛国境に栄えた鉱山町に、猪谷払米の名目で多量に売られた。その南の飛騨は、元来は山国で山林・畠地が多く米が不足していたので、越中から毎年5,000石から1万石を買い付けた。飛騨で越中との関係を調査をすると、高山では谷屋・大阪屋・打保屋・板屋・加賀屋・上木屋などが、神岡では北沢屋・庵屋などが、富山藩勘定方・富山藩士・富山町人・また富山藩の有力農民に毎年、金貸しをした証文扣(ひかえ)が数多く見出すことが出来る。その証文に貸金の「引当てとして当秋に米を御渡し下さるべく」と記されていて、これらの金貸しは有利に米を買い付けるための前渡し金であったことがわかる。高山の豪商日下部家はもと国境近くの谷村にあったが、元禄頃(1688〜)現在地に移り、谷屋と号し諸商売を営なんだが、越中から買い付けた米による利益が蓄財の源であったことは、決算帳に記された「北国仕入方、別て宜敷」「買米ニ而徳用多ク御座候」などの言葉からわかる。
 飛騨は海のない国で、北方地方の塩は富山藩より買い付けた。富山藩は高山陣屋と交渉し、毎年能登・瀬戸内塩3万〜4万俵を高山・船津など塩差配人(しおさはいにん)に運び大きな利益を得ていた。米と塩の飛騨への輸送は、先述した神通川左岸の牛役を納めた牛方が富山藩勘定所の許可状をうけ、米は富山の千石蔵・赤蔵から、また農家から、塩は四方・西岩瀬の塩蔵から請け運んだ。この帰荷として飛騨より挽板(ひきいた)・椽(たるき)を買い、富山・滑川・魚津・小杉・高岡、加賀の津幡・金沢・大聖寺、さらに越前にまで販売していた。この牛方の稼ぎに対し、北陸街道の伝馬を持つ宿場町は「我らの職を奪うものだ」と主張し対立した。(越中への木材は、ほか神通川による大量の流木がある)
魚の道
 越飛国境に金山が栄えたとき、米・酒のほか魚がたくさん輸送された。飛騨の茂住・和佐保金山では運ばれて来る各種の品物402品目から役銭を取ったが、うち89品目は魚で、生魚・干魚・海草がさかんに送られたことがわかる。国境の金山は寛文ごろ(1661〜)から衰退したが、その頃から越中の魚は、さらに飛騨一円(いちえん)に広く販売されていき、寛文5年(1665)に越中の肴屋29名が高山町日枝神社に商売繁盛を祈念して絵馬を寄進した。そしてその一部が信濃にまで売られ、「飛騨鰤」のことばが生まれてくる。飛騨登り魚にはどんな理由があったか。
 能登半島・富山湾など豊かな魚場を支配した加賀藩では、早いころ城下の金沢に中央魚市場を作り、寛文2年(1662)に越中・加賀・能登に国別魚問屋を作った。越中の高岡、加賀の宮腰、能登の七尾の魚問屋で、その下に、たとえば越中では氷見・放生津・魚津などに生産地問屋を作り、上魚を金沢の中央問屋へ、並(なみ)魚を地払いとし、余り魚を他国に売り出す見事な魚問屋組織を作った。そして金沢登り魚に六分(6%)、地払い魚に八分(8%)、他国出魚に三分半(3・5%)の税、鰤には別に十分の一税(10%)をかけることにした。
 しかし、魚は生鮮食品で鮮度が何より求められる。氷見・放生津の魚は生きのいいうちに金沢へ運ぶことが出来たが、神通川を越えた新川地方と奥能登(鳳至・珠州郡)の魚は鮮度を保ちながら金沢に運ぶことが出来なかった。そこで両地方の上魚は金沢へ3分の1だけと規定されただけで、結局は魚問屋の取り扱いから除外された。こうして新川地方の魚は富山に集められ、富山商人の手を経て飛騨街道を通って高山に売られた。四方・東岩瀬・水橋・滑川の人々も続き、また射水郡放生津の人々も余り魚を飛騨に売ることになっていった。したがって越中には、藩権力で作られた金沢中心の魚市場、富山商人・新川郡の人々による飛騨への魚市場と2本建てであったことになる。
 享保13年(1728)、越中で十分の一税のかけられた鰤の漁獲数は34,000尾で、うち30,000尾が氷見・伏木・放生津の分、東水橋・魚津・生地など新川郡の分が4,000尾であった。新川郡分が少ないのは、獲れなかったからでなく、魚問屋組織から除外されていたからである。この役銭の懸けられない鰤は飛騨高山に運ばれ、また野麦峠・安房峠をこえ、信濃の松本・諏訪地方に運ばれ、「飛騨鰤」となった。日本には正月を迎えるにあたり神様に鮭、また鰤を供える習慣があり、飛騨・信濃地方には今も色濃く残っている。
 西猪谷関所では、この飛騨への魚の通行に、1荷(天秤棒)から銭31文、1駄(牛方)から銭70文の役銭を取った。ところで役銭帳に「役銭不足書上 浜不足分」と書き、四方・岩瀬・水橋・高月・滑川・富山・新庄・舟橋向の人々の名前を記している。これは魚商は有(あ)り金(がね)の全部をはたいて魚を仕入れ、飛騨にて販売した帰路に魚役銭を支払ったことを示し、その記帳の金額も銭31文であることから天秤棒で魚を担ぎ運んだことがわかる。天保12年(1841)富山藩はこの飛騨登り魚に対する課税強化のため富山の役所で飛騨登り魚荷に送状を付けることにした。関所では送状を受け取り通したが、その送状の書き上げから、年間天秤棒3,000肩をこえる魚が運ばれたことがわかる。
 このほか、茶・牛・鷹・楮など多様な物資の通行があった。
情報の道
 西猪谷関所は富山・加賀藩の南辺の守りの要(かなめ)であり、ことに天領であった飛騨国の動向に敏感であった。
 安永2年(1773)飛騨の農民は年貢の引き上げに反対し、農民騒動がおきた。幕府からの命により近隣の諸藩が出兵、富山藩も一番隊400人を国境の蟹寺に配置した。飛騨農民が逃げ込み、まきぞえになってはかなわないと、関所番人は通行者から細かに状況を聞き取り、富山藩に報告した。
 安政6年(1759)春、四方沖をロシアの軍艦が横切り、伏木港の水深を測り、北上していった。関所番人は四方の浜の様子を「往来之者より悉く聞き取」り、黒船の長さ56間・帆柱3本・船中より煙を出すこと大火の如しとまで記した。
 文久3年(1863)、大和五条代官所が尊攘派の土佐藩の吉村寅太郎に襲われる天誅組(てんちゅうぐみ)の変がおきた。五条代官の手代の近親者が高山陣屋に居ることからも、高山陣屋は浪人の乱入に備えた。関所番人は通行者から美濃笠松で浪人による乱があり、狩人(かりうど)を集め下原番所固めをしたこと、高山では町端(まちは)に町人を立て張り番をしていることなど聞き取り、富山藩に報告した。
 元治元年(1864)水戸藩の天狗党(てんぐとう)は筑波山で挙兵、一行は11月から12月にかけ、雪を踏み京都に上ろうと常陸→武蔵→上野→信濃→美濃→越前へと進んだ。富山藩は飛騨を経て越中を通らないかと緊張した。関所番人は通行者より天狗党の刻々の動向を聞き取り、さらに京都の蛤御門の変、長州征伐に関する情報をも集め、富山藩に報告した。
まとめ
 以上、「橋本家文書」を中心に飛騨街道を概観して来た。旅が足にたよった長い長い間、北陸街道は上方と奥羽・江戸を結ぶものであったのに対し、飛騨街道は日本海と太平洋を最短距離で結ぶ街道であって、人と文化、また各種の物資、また情報の往き交った大動脈、人々の喜怒哀楽も交差したところであった。
(たかせ たもつ・富山大学教養部非常勤講師)
−平成4年2月15日放送−
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