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テレビ放送講座 平成8年度テキスト「第1回 越中の川魚漁」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第1回 越中の川魚漁 廣瀬 誠

川と生きる 〜富山の川魚漁〜川の幸 川の恵み
 人類の古い文明は黄河、揚子江、ガンジス川、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川など大河の流域から生まれ、川の恵み川の幸に育(はぐく)まれて豊かに発展した。
  わが国の大和、山城の古い文化を育てたのも吉野川、泊瀬(はつせ)川、飛鳥川、佐保川、そして宇治川、木津川、賀茂川などの川の恵みであった。よく山の幸、海の幸と併称するが、これに川の幸を加えたい。
  神武天皇建国神話にも吉野川で簗(やな)を仕掛けて魚を捕る鵜養(うかい)の祖が登場する。  『日本書紀』応神天皇の条には、吉野山間の国樔(くずひと)が鮎(あゆ)などを献上するのを慣例としたと記す。歴代天皇即位式の時、紫宸殿(ししんでん)の前庭に立てられる万歳旛(ばんぜいばん)には建国神話ゆかりの鮎が描かれている。
  鮎は魚篇に占と書き、神意を占う神聖な魚でもあった。神功皇后鮎占(あゆうら)の神話にちなみ、入善町の入善神社には皇后鮎釣りの姿の銅像が建つ。
  西日本・南日本の川魚を代表するのが鮎。これに対して東日本・北日本の川魚の代表が鮭(さけ)・鱒(ます)であった。東西日本文化の相接し、相交わる越中(富山県)の地は鮎の文化も、鮭鱒の文化も重なりあって豊かであった。
越中最古の川魚史料
 越中の川魚が登場する最古の史料は平城宮跡から出土した和銅3年(710)の木簡で、これに記された魚は鮒(ふな)。花形の鮎ではなくて、意外にも地味な鮒だ。
 木簡の表には「越中国利波郡川上里鮒雑」、その裏面に「(きたひ)一斗五升」「和銅三年正月十四日」と記されている。は干物(ひもの)である。小矢部川流域で獲れた鮒の干魚が貢租、献上物として都に送られた、それに付けられた木製の荷札だ。
 『万葉集』には高安王が娘子(おとめ)に鮒を贈り、「妹(いも)がためわが漁(すなど)れる藻伏束鮒(もふしつかふな)」の1首を添えたとある。王のような身分のある人が川で苦労して鮒を捕り、恋人への贈り物にしたのだ。藻伏束鮒は川藻の中に潜む、一つかみほどの大きさの鮒のことで、この表現も面白い。
 なお『万葉集』に登場する川魚はアユを筆頭にして、フナ・クソフナ(タナゴ?)・ムナギ(ウナギ)・ヒヲの5種。サケもマスもまだ登場しない。
 どちらかといえば、鮎は弥生文化的、鮭鱒は縄文文化のにおいが強い。
万葉集と越中の鵜漁
 天平19年(747)大伴家持は「越中は山が高く川が雄大だ」と胸を張って歌いあげた。そして越中の川で鵜を使っての川漁をしばしば歌った。
 「鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養(うかい)が伴は ゆく川の 清き瀬ごとに 篝(かがり)さし なづさひのぼる…」(長歌の一節)すなわち鵜漁を職業とする鵜飼たちがいて、片手にかがり火を持ち、片手で鵜をさばきながら、川の瀬を溯って鮎を捕っていたのだ。
 鵜を使って川漁をすることを「鵜川を立つ」といったが、家持は宇奈比(うなひ)河(氷見の宇波川)でも、辟田(ささた)河(子撫川?)でも鵜川を立てて漁をたのしんだ。家持にとっては鵜漁はスポーツであり遊びであった。売比(めひ)河(多分神通川)では  
 売比河の早き瀬ごとにかがりさし 八十伴(やそとも)の男(お)は鵜河立ちけり
 と見事に歌った。
 また越前国へ転出した親友の大伴池主(いけぬし)に鵜を贈り届け、「この鵜を使って鵜漁をたのしみなさい」とすすめ、「鵜漁で獲れた鮎のハタ(ひれ)は私の方へ向けて下さい」と言い添えた。思う人の方へ獲物の魚のひれを向けるという、蔭膳(かげぜん)のような当時の儀礼であろう。
 『万葉集』には吉野川の鵜漁、泊瀬(はつせ)川の鵜漁を歌った歌が各2首あるが、具体的に鵜漁のありさまをこまごまと何首も歌ったのは越中の家持ただ一人だ。
 仏教の殺生禁断の思想から鵜飼禁止の勅が養老5年(721)にも天平17年(745)にも出されているが、多分徹底しては実施されなかったのであろう。それにしても都周辺では遠慮がちであったかもしれぬが、「天(あま)ざかる鄙(ひな)」の越中では家持は自由に鵜川をたのしんだ。まさに越中は鵜漁の天国であった。川の幸の醍醐味を満喫できる地であった。
 現在、長良川で行われている鵜飼は舟漁であるが、家持のころは川瀬を踏み渡りながらの歩(かち)漁であった。歩漁の鵜飼が現在も行われているのは和歌山県の有田川ただ1カ所であるという。
 元禄11年(1698)浪化の雄神川(庄川)舟中吟に鵜漁が何句も詠まれているから、江戸時代なお鵜漁は続いていた(金子宰大氏指摘)らしいが、その後残念ながら越中の鵜漁は断絶した。
浪化の句
   首立てて鵜のむれのぼる早瀬哉
   鵜のいろの照りにてりたる川原かな
   中喰に鵜飼のもどる夜半かな
風名のアユと魚名のアユ
 大伴家持は富山湾から陸地へ吹きつけてくる「あゆの風」を幾度も歌い、特にこの風名を「越の俗語」と注記した。後世にいたるまで日本海沿岸各地で「アイノ風」と呼ばれた風だ。柳田国男氏や池田弥三郎氏によれば、「アユノ風」は海のかなたから珍しい物を吹き寄せてくる「幸(さち)を運ぶ風」であるという。鮎もまた海から川を溯り、陸地に幸をもたらす魚だ。風名のアユと魚名のアユ。偶然の一致であろうか。それとも語源的に何か関連があるのであろうか。
延喜式の鮭加工品
 平安時代の『延喜式』(延長5年、927)には越中国の中男作物(若者に課された租税)として「鮭楚割(さけすわり)、鮭鮨(すし)、鮭氷頭(ひず)、鮭背腸(せわた)、鮭子」の5種が列挙されている。楚割は魚肉を細長く割いて塩干にしたもの。鮨は魚の臓物を除去して飯と酒を混ぜ合わせて詰め、発酵させたもの。氷頭は頭部の軟骨。背腸は背骨についた血肉を塩辛にしたもの。鮭子はハラゴ。これら鮭加工品が貢租として越中国に割り当てられていた。
 これら鮭加工品の割当は信濃国、越後国もほぼ共通しているが、鮭鮨だけは越中国にのみ割り当てられ、外の国の貢租品目にない。スシの作り方はかなりちがうが、後年、越中名物となった鱒のすしが連想されて興味深い。
神秘的な溯上魚サケ
 鱒を神聖視した伝承はあまりないようであるが、鮭を神として祀った神社は東北地方に多いという。これは、鱒の溯上が春であるのに対し、鮭の溯上が初冬であることとも関連があろう。初冬の神無月(かんなづき・旧暦10月)は神の月で、そのとき溯上してくる鮭が神聖視されたのであろう。「鮭の大助いまのぼる」と言いながら溯上ってくるといわれ、その声を聞くことを畏れ、耳塞ぎ餅をつき、酒盛りして騒ぐ習俗が東北地方にあったという。
 越中では、芦峅(あしくら)の釣鐘が洪水で常願寺川に流失したが、その鐘が鮭になって旧暦10月の立山開山上人の八講祭のとき、芦峅まで溯上してくるという。
 また長沢(現婦中町)の貧農六治古(ろくじこ)が鮭を助けてやったが、やがてその鮭が女の姿になって雪の夜、六治古の家に泊めてもらい、ついに六治古の妻となり、夫を助けて、夫六治古を奥婦負(ねい)開拓の豪族にしたという。その妻は本来は龍神の娘 で、龍女が鮭の姿で出現したのであった。
 武部神社(大山町文珠寺)の女神が熊野川を渡るとき、鮭の背を踏んで足を滑らせ、ずぶぬれになったので、女神に恨まれ、その地点「糠淵(ぬかぶち)」には鮭が上がって来なくなったという伝説は、話が屈折しているが、やはり鮭が神秘的な魚とされていたことと無関係ではあるまい。
 なお谷川で、それ以上魚の溯上できぬ地点には「魚止まり」「魚止めの滝」などの地名がつく。上高地への昔の道であった島々谷には「止(いわなど)め」の地名があって登山者に親しまれた。
岩魚の美味と怪異談
 黒部峡谷は岩魚(いわな)の宝庫で、江戸時代、信州の漁師が入り込み、小屋掛けして岩魚を捕った。加賀藩の奥山廻り役はきびしくこれを取り締まった。
 明治になって日本アルプスに入山した英国人の紀行にはしばしば岩魚が登場する。明治11年(1878)アーネスト・サトウは黒部の平(だいら)ノ小屋で「夕食にイワナという美味しい魚を食べた」と書き、それは「鳥の羽で出来た毛針を使って釣ったもので、重さはおよそ4分の3ポンドあった」と(『サトウ日記』)。
 ウォルター・ウエストンは明治26年(1893)やはり平ノ小屋で「一番元気のいい若者が重さ1ポンドもあるおいしいイワナを黒部川で捕って来てくれたので夕食は一層うまいものになった。」と書いた(『日本アルプス登山と探検』)。
(注、1ポンドは約0.45キログラム)
 イワナは獰猛(どうもう)な魚としても知られ、五箇山の天柱石の下の淵で岩魚と蛇が大格闘の末、9尺もある大きな蛇がついに水中に引き込まれたという下梨村仁右衛門の実見談がある(注、1尺は約0.33メートル)(宮永正運著『越の下草』天明6年、1786)。
 また百瀬川(ももせがわ)の奥で杣(そま)たちが毒流し漁法の計画をしていると、深夜、僧がたずねて来て「毒流しは止めなさい」と制止したが、翌日予定通り毒を流したところ、7、8尺の大岩魚が捕れた。岩魚の腹から昨夜僧に与えた団子が三つ四つ出て来たので、あの僧の正体は岩魚だったとわかり驚いた。大岩魚を埋葬して弔ってやろうとしたが、一人の男が「ぜひ食いたい」といって食べたところ、その夜高熱を発して苦しみもがき死んだという。
 同じような伝説は常願寺川支流の小口川にもあるが、僧でなくて、ギャーギャー泣く赤子を抱いた女が深夜、杣たちの仕事場に現れた。皆気味悪がり小豆飯(あずきめし)を与えて帰した。翌朝釣った大岩魚の腹からは前夜の小豆飯が出て来たという。
 黒部川の水源と双六(すごろく)谷(神通川の支流高原川の支谷)の水源は続いていて、黒部川の岩魚が双六谷へ越え、双六谷の岩魚が黒部川へ越えるという話は冠(かんむり)松次郎氏が山の人から聞いて書きとめた。
アユのスシからマスのスシへ
 享保2年(1717)富山藩士吉村新八が神通川の鮎を用いてスシを漬けた。藩主利興(としおき)はたいそうこれを賞味して将軍吉宗にも献呈し、吉宗もこれを賞し、以後富山藩から幕府への献上品となり、富山名物となった。
 神通川舟橋のたもとの茶店では鮎のすし(鮨・鮓)を売り、旅人はこれを賞味してゆくのが例となった。十返舎一九の『金草鞋(かねのわらじ)』(文政11年、1828刊)には挿し絵も入れ、狂歌も添えて鮎の鮨の美味を称賛した。越中川魚文化の記念すべき1冊である。その狂歌「名物の鮎の鮨とて買ふ人のおしかけてくる茶屋の賑はひ」。なおこの鮨は早鮨でなく、12日ほど漬けておく馴れ鮨であった。
 尾張藩士某の『三山廻り(みつのやまめぐり)』(文政6年)には「この神通川、名物とて鮓(すし)にして売る」とある。は通常ハヤと読む字だが、ここではアユと読むべきである。貝原益軒『大和本草』・毛利梅園『魚譜』等もアユに字を当てている。を鱒とする説は、後世の鱒の鮨から類推し、無理にこれに引き寄せた強弁である。
 明治33年(1900)登山家小島烏水(うすい)の紀行『山水無尽蔵』によると、神通河畔でミヤゲとして「鮎のうるかと鮎の鮨」を買い求めたとあるから、明治になっても神通川の名産は鮎の鮨であった。
 多年、富山名物として激賞されてきた鮎の鮨は、いつのまにか鱒の鮨にとって代られた。近現代、一般に馴れ鮨は敬遠され、早鮨をもてはやす食傾向が強い。寿司屋で出すのはすべて即製の早鮨である。この近代人の嗜好の変化が大きく作用したのであろう。
明治天皇と富山県の川魚
 明治11年(1878)明治天皇北陸巡幸のとき、神通川舟橋の上から鮎漁を御覧になった。十余艘の漁船を漕ぎ連ね、網をあげると、かかった鮎が立山を昇る朝日に輝いて見事であったという。庄川の雄神橋では、紅白の旗を橋上に建て連ねて鮭漁の勇壮なありさまを御覧に入れたという。(富山県『北陸御巡幸六十年記念誌』)。
 千葉胤明氏の『明治天皇御製謹話』に神通川で鮭漁を御覧に入れたとあるが、これはあるいは庄川の誤りであろうか。このとき万一の不漁に備え、あらかじめ鮭を縛って網にひそませて置いたのを天皇が気付かれ、高崎正風(まさかぜ)が機転をきかせてその場をとりつくろったという。
 神通川の川魚はきわめて美味であるので、やがて神通川は皇室の御猟場(ごりょうば)に指定された。川で御猟場になったのは長良川と神通川の両川であった。しかも長良川は鮎だけであったが、神通川は鮎・鮭・鱒の3種にわたっての指定であったという(重杉俊雄『神通川誌』)。
 しかし指定後初めて獲れた鮎は、明治天皇が崩御されたため、御霊前にお供えしたという。(御猟場制度は現在廃止)。
川魚のまほろば越中
 越中の川魚の美味なことについては、京都の漢詩人中嶋棕隠(そういん)が天保5年(1834)越中を来訪したとき、「北越三冬の食品、鮭魚を第一とす」と記している。北陸の冬の食べ物では鮭魚すなわちサケが一番うまいというのである。冬、鮭の新巻を並べ下げた店頭風景が思い合わされて感興深い。
 前述の小島烏水は明治33年、神通川伝いに飛騨から越中に入り、片掛の茶店で昼食を取ったが、「串刺の鮭の鮮肉に醤油を塗りて炙(あぶ)りたるを勧」められ、「香気沸(ふつ)々、頤((おとがい)・あご)落ち」るほど美味で、つい御飯を何杯もおかわりしたという。その鮭は、神通川を「閃光よりも早く溯りくるを」「竹槍にてその眼を貫くに」「百中の妙あり」と、神通峡の名人漁師の漁法にも言及している。
 ウエストンも明治26年(1893)神通峡を通過したとき「神通川にはいろいろな種類の魚がたくさんいた。時には8ポンドもあるようなマスは四つ又の銛(もり)で取るが、アユやイワナは網で捕る」と書いている(『日本アルプス登山と探検』)。
 昭和11年、歌人川田順は富山の歌友藻谷銀河を訪ね、鮎料理に舌鼓を打ち、
この家の老いたる母のもてなしは神通川の落鮎を焼く
と喜び、昭和12年、木俣修は黒部峡谷鐘釣温泉で
火に寄りて岩魚食(は)みゐる時の間(ま)も渓邃(たにふか)く行く瀬の音たちぬ
の1首をとどめた。
 越中富山はまさに川魚の宝庫である。この川の恵み川の幸にあらためて感謝し、この豊かな自然環境「川魚のまほろば」を守るとともに、長い伝統に培われた魚食文化・漁撈文化を受けつぎ、後々までも伝えてゆきたいものである。
(ひろせ まこと・富山女子短期大学教授)
−平成9年1月18日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在のもので表示しています。

 

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