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テレビ放送講座 平成2年度テキスト「第5回 川ではない、これは滝だ・常願寺川」


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TOP 第5回 川ではない、これは滝だ・常願寺川 高瀬 信忠

1.はじめに
 私達の住んでいる地球は、太陽という一つの星の周りを公転している小さな惑星の一つに過ぎない。そして、この太陽自身、約2千億個位あるといわれている他の星々とともに銀河系星雲の中で、太陽系の中心をなしているものの一つに過ぎないのであるが、生きとし生ける全生物の生命を支えているものが水であることはいうまでもない。しかし、生命体の存在が確認されているのは現在のところ地球だけであり、地球は唯一の「生命体のある生きた貴重な星」ということになるが、地球と太陽との距離(約1億5千万キロメートル)と両者の質量、更に、地球の公転、自転速度等が完全にバランスがとれているため水が液体として存在するとともに、地球の重力圏内でその周辺を大循環して無限の循環資源となっており、これらのことは宇宙における全く奇跡的な現象であるともいわれている。なお、その水循環の中で地球上における降水の海や湖等への運び役を演じているのが河川であり、私達もその河川とともに偉大なる恩恵を受けながら生活しているということにもなる。
2.北陸の河川と常願寺川流域
 北陸地方は北に日本海、南に北アルプスを控えた地形で海岸付近を中心として広大な富山平野、加賀平野や福井平野等が拡がり、その中を常願寺川、手取川や九頭竜川等をはじめ多くの河川が流れている。そして、これら平野の大部分は背後の山岳地帯から流出する土砂の堆積により発達した扇状地、三角洲平野で海岸には砂丘の発達している所が多く漂砂も多い。また、その気象は一般に多湿多雨の、いわゆる日本海型であり、雨量は短時間の豪雨は比較的少ないが、北陸地方全体の年間平均降水量(上空より地上に降る水の総量で雨・雪・霧・あられ等を含む)は約2,500ミリメートル以上と非常に多く、山岳地帯では約4千ミリメートル以上に及ぶ所もあり、わが国でも有数の多降水地域である。従って、山地部における侵食崩壊作用も顕著であり、流出する洪水流量等も大変多いので、今までの河川計画と工事は、上流部における砂防事業と河道部における洪水処理(治水)が主体としてなされてきた。
 常願寺川は、その流域面積約368平方キロメートル(山地部約331平方キロメートル、平地部約19平方キロメートル、水面および水路部約18平方キロメートル)、幹川流路延長約56キロメートル(平地部約18キロメートル)の1級河川で、平均河床勾配約30分の1(1/30)で流れるという、わが国のみならず 世界的にも屈指の急流河川となっているが、そのため、日本一の暴れ川と呼ばれ、昔から現在まで多くの大災害を繰り返してきた。
 明治6年、日本政府がオランダよりお雇い技師として招いたヨハネス・デ・レーケは、「これは川ではない、滝だ」といった言葉は余りにも有名であるが、この急勾配が土砂や土石等を下流に運び易い河状を呈していることになる。
3.常願寺川流域における砂防工事
 常願寺川流域における大災害のクライマックスは、安政5年(1858、江戸時代後期)に起こった鳶(とんび)山の大崩壊と、それに伴う大洪水は余りにも有名な事実として語りつがれている。まず、2月26日に発生した跡津川断層ぞいの直下型大地震が激烈を極め、そのマグニチュードは約6.8Mと推定されているが、鳶山の大崩壊となって莫大な土砂が立山カルデラ(立山の火山活動で形成された陥没地)の一部の緑地と渓谷を埋めつくし、この崩壊した土砂は何と約4億1千万立方メートルという膨大な量となって旧立山温泉は崩れ落ちた土砂の下に深く埋まり、同温泉に宿泊して材木の伐採作業にきていた村人達(32人)が下敷きとなった。更に、3月10日には第二、第三の大地震と土石流が追いうちをかけ、そして、4月26日になって崩壊した土砂で堰(せき)止められていた泥水湖は遂に決壊し、大土石流が大音響とともに猛烈な勢いで富山平野に押し寄せ、死者は140人、負傷者が8,945人という大被害をこの土石流がもたらした。そして、立山カルデラを埋めつくした約4億1千万立方メートルの崩壊土砂は、100年以上経過した現在も約半分の2億立方メートルが残っており、この量は有峰ダム湖の満水時の水量に匹敵することになるが、この土砂を巻き込みながら流れる常願寺川を土砂流災害の脅威等から守るために砂防工事が実施されている。
 この安政5年の大災害以来、富山県では最悪の事態に対処して、明治39年(1906)7月から20カ年継続事業として国庫補助を受けて県営砂防事業を実施したのであるが、たび重なる大災害のため、大正15年(1926)から国の直轄事業に変わり、今日の建設省※立山砂防工事事務所が設立され、砂防の現場としては日本における代表的な存在となり、現在に至っている。
 立山の玄関口である同工事事務所のある千寿が原から工事資材運搬などに使われる砂防専用軌道に乗り、砂防事業の根拠地である立山カルデラの扇の要(かなめ)にあたる水谷平(たいら)(建設省※水谷出張所がある)まで約1時間半(約18.2キロメートル)をカタゴトとレールの上を走る音を聞きながら上ってゆくと、途中9カ所42段のスイッチバック(方向転換)で標高約1,100メートルまで達することができる。そして、車窓から常願寺川を横目にしながら進んで水谷平が近づくと日本最大のスイッチバック(18段)になるが、途中、立山砂防の象徴ともいえる「白岩砂防ダム群」を眺めることができる。立山カルデラから流れ落ちる湯川を堰止めるこれら砂防ダム群における8つのダムの高低差は103メートルであるが、その中の一つは高さ63メートルで砂防ダムとしては全国一であり、大変もろくなっている立山カルデラの水源地から流出しようとする土砂を食い止めて、下流河川を安定させるのに大きな効果を上げている。
 ※ 建設省は、現在の国土交通省です。
4.常願寺川における河川改修工事
 常願寺川は前述したように河流の激しいこと抜群で、そのために富山平野はいつも洪水による多くの大災害に見舞われていたことから、富山城主になった佐々成政は居城のある富山平野を水害から守り、あわせて下流域地帯を耕地化するために古くから治水事業の河川改修工事を進めてきた。天正8年(1580)の常願寺川大洪水に際し、佐々成政が築いた石堤である「佐々堤」などが往時の治水事業を今に語り伝えている。
 明治以降の改修事業は明治24年7月の大洪水後、前述のヨハネス・デ・レーケの意見に基づき、川幅の拡張、新堤の築造、支川白岩川との分離、常西十二用水の合口等を主体とする全川改修の治水対策基本計画が策定された。また、上流からの土砂流出が激しいため、明治39年に上流域の砂防事業が実施され、その後、大正3年、11年等の大洪水によるたび重なる大災害により、大正15年からは直轄砂防事業が着手されたことは前述した通りである。
 その後、昭和9年にも大洪水があり、これをもとに同11年に瓶岩(かめいわ)における計画高水流量(洪水処理計画の基礎となる流量の最大流量)を毎秒3,100立方メートルとし、直轄事業としての改修工事が進められた。更に、治水調査会において同23年に改修計画が検討され、翌24年には改修計画が樹立されて工事が進められてきたのであるが、昭和39年7月、同44年8月の洪水および近年における流域の開発状況などに鑑み、同50年4月に現計画(前述の瓶岩における計画高水流量を日本海に流れ出るまで毎秒4,600立方メートル)に改定された。なお、常願寺川水系工事実施基本計画における治水計画の概要は、次の通りである。
 1.基本高水(計画の基礎となる洪水の大きさと型)およびその河道への配分としては、基準地点における前述の瓶岩での同基本高水の最大流量(洪水調節用ダム等がないので前述の計画高水流量に同じ)を毎秒4,600立方メートルとし、これを河道に配分する。
 2.主要な施設に対する計画としては、上滝(平野部に流入する地点)から海に流れ出る河口までの区間における川幅は現状のままとし、そして、河川堤防の幅を拡大(拡築)し、上滝から常願寺橋までの区間については河道を整正するとともに、常願寺橋から河口までの区間については河道堀削を行い河積の増大を図る。なお、全区間に護岸・根固めおよび水衝部には水制を施工し、洪水の安全な流過を図るが、上流の上滝地区に床固めを設置するとともに、河口部には河口閉塞対策を実施するものとする。
5.おわりに
 世界の文化・文明が大河のほとりに発生し、都市は河川の沿岸に発展して交通機関の多くも河川に沿って開けているが、水は私達の生活から一時も切り離して考えることはできず、現代都市の発展が水によって制約されていることから考えても、河川により受ける恩恵は余りにも偉大なものがあるといわなければならない。
 富山県には、常願寺川、神通川、黒部川、庄川、小矢部川など大小多くの河川が流れているが、北アルプス等の高い山から一挙に流れ下るため大変短くて急流であるため、平常は流量が少ない河川でも大雨が降ると一気に水かさが増え昔から氾濫を繰り返してきた。富山県に住む人達は、これらの河川災害に悩まされ、洪水と闘ってきたのであるが、大正の初め頃までの富山県財政の4割以上が土木費(その大部分が治水事業費)であったといわれている。そして、以前の富山県は石川県に併合されていたのであるが、明治16年に石川県と分かれたのも治水事業が主因であったようで、水害防止を最重要項目にすべきであると主張した富山県に対し、石川県は道路を主張して対立した。しかし、県会議員の少ない富山県は、結局のところ押し切られてしまったが、これではいつまでたっても富山県は良くならないということで分県運動を起こし、それが明治16年に実現して富山県が誕生したようである。
 常願寺川の名は、「川が氾濫しないことを常に願う」ことから付けられたともいわれているが、流域住民の人達にとっては治山・治水事業こそ最重要課題だったように思われる。わが国における明治政府は、国土保全の河川治水対策に力を注ぐため先進欧米諸国の高度な技術の導入をはかる目的で数多くの「お雇い外国人」を招いたが、その外人の大半はオランダ人技術者で占められていたともいわれている。前述のヨハネス・デ・レーケは、同じく前述の安政5年における大地震で崩壊した立山カルデラの大量の土砂を目前にして、「これは全山を銅板で覆わねば崩壊を止められない」といったとも伝えられているが、前述の「これは川ではない、滝だ」といった言葉とともに余りにも有名な話となって残っている。
 私達は現在、何の心配もなく雨が降っても暮らしており、過去における多大な水との闘いの末に今日の水の豊かさを逆に誇りにできるまでになった富山県ではあるが、こうした先人達の血のにじむような治山・治水事業に対する努力を忘れてはならない。また、これら事業における現地の危険な工事現場等では数多くの犠牲者を出しているが、今日の流域に住む人達にとっての安全性と安心感は、こうした先人達の苦労と犠牲の上にあることを認識するとともに深謝しなければならないものと思われる。
(たかせ のぶただ・金沢大学日本海域研究所自然科学研究部長)
−平成3年2月23日放送−
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