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テレビ放送講座 平成10年度テキスト「第3回 富山湾の恵み・海沿いの家」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '99/01/30

TOP 第3回 富山湾の恵み・海沿いの家 上野 幸夫

田村邸浦方十村そして政界で活躍、田村邸
 田村家は藩政期に富山湾東部海岸の漁業・海運に関するいっさいの支配・統括を行う浦方十村を代々務め、明治維新後は自由民権運動の中心メンバーとして県議や国会議員を務め、また、北洋漁場の開拓など海に生き、政治・経済界に活躍した。
 屋敷は目前に富山湾が広がる位置(黒部市生地)にあり、敷地は約1,000坪の広さを誇る。庭には黒松の美林と黒部の名水が自噴する湧水地があり、全国の銘石と多種の樹木を配し、自然を生かした庭園になる。
 建物の外観は中二階の高さで総二階とし、切妻造りの屋根とした姿だが、2階の部屋は片方端にだけ設けるため、窓のほとんど無い下見板張りの質素な造りになる。後述する奇抜な室内と相反した外観は意図的に計画されたものであり、唯一屋根上に建つ3階の望楼だけが異彩をはなっている。
「数寄の境地」モダンな隠居部屋
 主屋から突き出した隠居部屋は、1階の中で最も奇抜な意匠になる。正面の壁には大胆な菱形を描き、中央の菱を黄色にして四隅を朱・青・茶・黒の色壁とし一際目を引く。床や書院廻りにも珍木や銘木を多用し、板戸も多種の板材を斜めに張った特異なもので、更には、天井が八角形平面で中央の八角形鏡板に向かって周囲から折り上がり、全体的にダイヤカット状になる。天井板も材質や張り方を変え、数寄屋風に竹や皮付きの細縁で押さえている。
 この部屋以外の部屋も奇抜な意匠と変化に富み、1畳大の一枚板を天井一面に張った部屋や、竿縁天井の竿を1本1本色を変えて5色の漆塗りにした部屋や槍を天井竿とした部屋、または1畳大以上もある幅広の一枚板に幾何学的な線彫り彫刻を施した床板の部屋など、形式にこだわらず自由奔放に創作され、見る者を飽きさせない。
 この建物は西洋文化の入って間もない明治時代に、前衛的な美的感覚を持った施主の要望に職人が技で応え、はじめて完成をみたものである。
自分だけの遊び部屋
 二階への階段口は押入状の襖建としているため家の者にしか分からない、この隠れ部屋的な二階で、心の許せる者だけを招いて自由民権運動を論じたのだろう。各室全て奇抜な意匠になり、東に面する4畳半の和室は、畳を四辻敷とし、トコ板には線彫りを施し、柱は皮付きの松・竹・梅とし、落し掛けには太い網綱を用いている。また、障子の組子や下地窓には羽の付いた弓矢が用いられ、天井は斜め45度に張るといった数寄なものである。
 階段室を挟んだ8畳間奥の応接間も、また一段と変化に富み、床は室内中央と窓際端部に舟板を張って他は大小の丸太木口を敷きつめている。壁は赤・青・緑・白等に着色した玉砂利を幾何模様に塗り、壁面には舟の櫓や流木を埋め込み、床の間は竹を縦に隙間無く並べた壁面とし、地袋も様々な細竹で作られる。最も目を引くのが天井で、太い網綱を天井廻縁にして、赤・青・黄・白・紺の色紙が大胆な幾何模様で貼られている。書斎側の掛込天井も竹を隙間無く並べたものとしている。
世界を見ていた三階の望楼
 二階屋根上にのる望楼は7畳半ほどの広さがある。戸袋部分を除いて360度眺望できる窓を開け、少しでも開放的な空間を得るために四隅に立つ柱は径1寸程の細い鉄柱としている。室内の中央には大木を輪切りにした円形机が据えられ、その真上の天井には八角形の板が取り付けられる。それぞれに十二支による方位図が描かれ、西比利亜(シベリア)、濠太刺利(オーストラリア)等世界各国の地名がそれぞれの方向に記され、窓上の壁には県内各地の主要な地名が記されている。
 階段口にはふちに仕口穴のある舟板に弓を添えた袖壁を立て、「以高山行漫満面魚踊海浩悠」と六言古詩の漢詩が書かれ、天井枚は1畳大にそれぞれ違った材質の板を張り、廻縁や竿縁は面皮付きの細縁を使用し、数寄屋風な造りとしている。
濱元家灘浦定置網で財を成す、網元・濱元家
 濱元家は代々氷見の網元として漁業を営んできた家柄で現当主で17代目を数える。
 名の頭に四郎(良)を付けることから「シロサ」、または網元であることから「オヤカタ」と呼ばれてきた。
 現在の建物は明治後期から大正時代にかけて大敷網の豊漁で財を成した14代四郎三郎が、明治42年の泊大火後に再建したもので、火災を教訓に宇波の荻野家を参考に土蔵造りの防火構造としている。屋敷は幅約30メートル奥行約80メートルと細長く、手前左手に庭、右手には味噌製造のための土蔵3棟が連続して配され、中央を通路としている。庭境には生け垣が巡らされ、蔵前の余地にも庭石や庭木が植えられており、緑豊かな風情ある門からのアプローチで、奥の式台玄関を望む。
百余坪の平面と防火構造の外観
 建物は間口10間半、奥行11間の約116坪もあるほぼ正方形平面で、3列三段平面の二階建て入母屋造瓦屋根になる主屋の四方に、土間や縁を主とした1間半の下屋を付けた構造となる。平面は手前二段がハレの空間で、奥の一段はケの空間とし、竪列は建物の中心を仏間にして、右列は広間、左列を座敷としている。
 外観は正面上部に三角形屋根の妻を見せ、軒裏とともに木部をすべて白漆喰で塗り込んだ防火構造とし、二階の窓も鉄板張りの防火雨戸を備えている。
幅1間半の広い通り土間と式台玄関
 建物の右手端には通常の玄関口を開き中へ入ると幅1間半、奥行10間程の広々とした通り土間となる。左手の床上境には、分厚い欅の切目縁と内法高には漆塗りの成2尺弱の太いヒラモン(指鴨居)が一直線に通り、奥行の深い独特な空間を作り出している。
 正面玄関の左脇には3間幅の広い式台が設けられ、更に座敷前にも庭から飛び石伝いに入る2間半幅の式台がある。共に出は1間半と広く、手前3尺を土間にして中央に沓脱石を据え、奥1間を欅の切目縁とし、天井は漆塗りの格天井とする。
「九(ここ)の間」取り18畳の広間
 通り土間に接した広間は、平物を四周に回すが、梁間材を一段高く成(せい)違いに入れて、下を欄間障子とした特異な構造とする。これは意匠だけでなく柱に仕口穴が集中して構造的に弱くなるのを防ぐためと考えられる。また、広間を間仕切る建具は一般的に漆塗りの帯戸を建て込み固い雰囲気で間仕切るが、濱元家の場合は、採光を考えて中抜きの襖にして室内空間を柔らかく見せている。
 吹き抜けにして上部に井桁に組まれた梁組は、寸法と曲率を揃えた材が使用されて漆が塗られ、梁組の上に二階の障子窓を開く特異な構成とし、天井は格天井で、格縁が黒漆で面を金箔とした豪華なものである。
 前広間の棹縁天井の天井板は、伊勢神宮造営用の檜を払受けたものと伝えられ、長さ2間半で3尺幅の無節材である。
賓客をもてなす座敷・土庇・庭
 座敷は12畳半の前座敷と、床・違い棚・書院を備えた10畳の奥座敷から成り、左手には幅1間半の広々とした切目縁を設けた土庇を降ろし、その外に庭を造る。また、正面左端の隅には賓客をもてなすために4畳半の茶室が配されている。
 床廻りや書院は意匠も斬新で、材には銘木が用いられて最上級の塗りが施されている。襖や障子も建具師や京師の技術の粋が駆使され、引手も七宝焼や地に名物裂を貼ったものなど変化に富み、欄間も四君子や老い松を題材に空間を生かして彫られた彫刻欄間や正絹に鰤の絵を描いた珍しい欄間等が嵌め込まれている。天井も黒漆塗りの廻縁と棹縁に、2尺幅の屋久杉天井板を張ったものである。
 各室の部材はすべて割れの無い十分乾燥された良質の木材と平滑な鉋仕上げの丁寧な大工仕事になり、そして、鏡のように光る上等な仕上げの漆塗りになる。
宮林家「銭五」と並ぶ豪商、宮林家
 宮林家(新湊市)は代々漁業・海運を営み町役人も努めた家柄で、幕末から明治にかけて海商として財を成し、2千2百石を越す大地主で前田家とも親密な関係にあった。屋号は綿屋と称し、代々彦九郎を襲名しており現在で16代目となる。
 屋敷は東西約60メートル、南北約70メートルあり、北側に門口を開く。主屋を中心に周囲には土蔵や庭が配され、四周には、かつて幅約8メートルの濠が巡らされ、海とつながり、舟が蔵に横付けできたと言われる。庭には大きな黒松が生い茂り、座敷前には池が掘られ、全国の銘石と多種の石灯籠や樹木が配されている。明治25年頃までは南西隅の位置に2棟の茶室もあったが、現在は他に移築されて無い。
 現在の主屋は、遊康済の号を持つ彦九郎が安政6年に計画し、文久2年に建設したもので、その後まもなくして加賀藩14代藩主前田慶寧の四女慰子姫を養育するために座敷を主に改装している。
落ちついた初期アズマダチの外観
 主屋は正面に切妻屋根の三角を見せて、狭い間隔に束を建てて貫を入れたアズマダチになるが、屋根が当初は板葺石置きであったために旧内山邸と同様に緩く、後世に見られるアズマダチのように極端に妻面を強調したものと違って落ちついた姿になる。正面の左手には両袖壁の付いた土間玄関、右手には式台玄関を開き、ともに幅3間の広い土庇状の下屋になるため、一層落ちついた景観を形づくる。
24畳のヒロマと洗練された枠内造
 式台玄関の奥は3×4間の24畳もあるヒロマとし、七寸角の太い柱を立てて上部の梁を井桁に組んだワクノウチヅクリ(枠内造)としており、木部はすべて漆塗りになる。一般にワクノウチの場合は内法にヒラモン(指鴨居)を入れて柱を緊結するが、藩政期に一般の住宅では許可されなかった鴨居と長押を回し、内法上の壁も貫を化粧に見せず白漆喰にして書院造風の軽やかな室内空間としている。
1間の畳廊下と1間半の土庇
 ヒロマの奥には6畳間を間に、入側の1間幅の畳廊下と、その外に1間半と幅の広い土庇の下屋を設ける。土庇は金沢兼六園にある成巽閣の清香軒と同じように縁板をまったく設けない土庇になり、大きな鞍馬石の沓脱石と飛び石が庇内に配されている。縁桁の下には障子欄間が入れられ、直射日光を遮り柔らかな日差しが室内に取り込まれる。
 座敷と庭をつなぐ日本独特の空間である開放的な縁が、現代住宅においてほとんど見られなくなったのは嘆かわしい。
 畳廊下に接して8畳床の間付きの見付座敷があり、座敷の内には矩手に中廊下状に鞘の間が付き、奥の御本間へと続く。
姫様教育のための御本間
 御本間は慰子姫教育のために総檜で造られた部屋で、10畳間に床と違い棚を設け蟻壁長押まで取り付けられた正統な書院造りになる。壁は朱の色壁とし、襖障子には鶴の絵が描かれ、釘隠や引き手も鶴を題材とし、鞘の間境は襖に山並みを描いて欄間には老松に鷹の緻密な彫刻欄間がはめ込まれている。
 外に面しては入側の畳廊下と矩手に縁側のついた土庇の下屋が取り付き、内庭へと連なる。また、縁側を介して美しい色硝子戸を建て込んだ髪結の間や数寄屋造の立派な雪隠が取り付き、御姫様の日常生活空間を垣間見ることができる。
(うえの さちお・富山国際職藝学院教授)
−平成11年1月30日放送−
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