2018年12月
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

富山県民生涯学習カレッジ本部 TOP > テレビ放送講座 テキスト一覧  >  テレビ放送講座 テキスト詳細

テレビ放送講座 平成13年度テキスト「第1回 「先用後利」の大事業」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '02/01/19

TOP 第1回 「先用後利」の大事業 米原 寛

売薬 越中売薬のこころと知恵富山売薬業の特徴
 富山売薬というのは、原料の仕入れ、製造、販売を総称して全体に与えられた名称である。売薬業は全国行商によって成立し、交通の不便な江戸時代にあって全国行商を押し進めるのは、当時としては想像以上に積極的な努力が必要であった。
 富山売薬の特色は、(1)商圏の広さとともに、鎖国時代にあって、原料となる麝香(じゃこう)や牛黄(ごおう)などの漢方薬が、中国から長崎に輸入され、さらに長崎から大坂の道修町に、そして富山に送られるという、想像以上に壮大な輸入ルートを持っていたことである。 (2)医薬品の販売については、山岳信仰、神社、寺院などの宗教的な霊験あらたかさが背景にあった中世に対して、近世になると薬そのものの効用、あるいは商品自体に医薬品としての価値を求め、中世的な宗教からの解放という国民の意識改革があった。 (3)商品の薬効が高いこと。そして何よりも、得意先に対して常に信用と信頼を重視してきたこと。売薬業者は常に旅先の経済事情や政治環境などの情報を、細心の注意をもって収集したことなど経営の巧みさがある。 (4)販売に際して財務会計が巧みである。各藩での行商とその取引を間違いなくするため、得意先の住所、氏名、配置した薬の銘柄、数量、前の配置における消費高、集金額を明確に記帳し、経営の正確な実体を数量的に把握できる「懸場帳(かけばちょう)」を作成したことである。
 しかし、売薬の販売形態である「行商」や「先用後利」という経営方式もとりわけ「富山売薬」の専売特許ではなく、近世の行商に多く見られる商慣行に過ぎないのである。しかし、富山売薬は「先用後利」の方式を最大限に生かしきったところに最大の特徴がある。
売薬の起源論
 ある現象の歴史的発展の原点を「起源」として捉えることは、その構造や展開の仕方について重要な意味を持つものである。しかし、産業について「起源」を歴史的に明らかにすることは多くの場合甚だ困難である。ことに売薬については、日本の各地にそれぞれ特有の霊薬が伝わっていて、その起源や形成については宗教的、迷信的権威の伝説に満ちているのが普通である。
 明治の始めに作られた「富山売薬の縁起」には「立山信仰」が起源であるとされる。富山売薬の起源を立山信仰に求めたのは、薬種がかって宗教的、迷信的権威によるものであったためであろう。しかし、売薬の得意先の権利を記した「懸場帳」と、立山信仰における宿坊の衆徒(檀那(だんな))の「諸国配札帳」「檀那場帳」は似たような性格を持つ。何れが考案し、発展的に整備したのかは分からないが時代の経過につれて相互に影響しあったことは確かである。芦峅寺の衆徒は護符などの御札と同時に、富山売薬の「反魂丹」をも販売していることからも、相互の関係を窺うことができる。
 ここで富山売薬の起源を歴史的系譜、成立の社会的基盤、の2点から考えると、まず歴史的系譜については、嘉吉3年(1443)頃の『康富記』に「薬売者施薬院所相計也」と記され(『古事類苑』方技部十四)、この頃に売薬の商人がいたことが窺われる。越中においても、室町時代に薬種を営む「唐人座」があったという。また「富士山之記」には、江戸初期の富山城下に関する記載のなかで、「薬種ノ類者、沈ン香、麝香、薫陸香、人尽、甘草、桂心、肉桂」な24種の薬種が記されている。 このように江戸の始期までには、すでに合薬が各地で現れており、売薬の出発点となったのである。成立の社会的基盤については、近世の交通路、物資の流通機構の整備を挙げることができる。西廻り航路が形成され、東北と北陸、北陸と瀬戸内海・関西・九州などの諸地域との物流が活発化した。富山売薬はこのルートに乗って大坂から原料を輸入し、製造された薬は全国への積極的な販路開拓に役立ったのである。また、飛騨街道を通じて美濃、そして太平洋沿岸への道も開かれ、北陸の富山から陸路・海路の両面で全国へのルートが確立され、売薬商人が全国行商に出かけることになったのである。
富山藩の財政危機と売薬振興
 富山売薬は、支配領域から「富山売薬」と「加賀売薬」に大別され、加賀売薬は地域によって滑川売薬、射水売薬、高岡売薬などと呼んでいる。また、一般に富山売薬というと、富山藩領の売薬を指し、富山藩がバックアップして経営する、今でいう藩と民間の第3セクターによる商業である。
 富山藩は文化13年(1816)に、売薬人の統制管理、薬種の仕入れおよび合薬製造の管理、経営指導、資金融資、他藩との交渉などを業務とする「反魂丹役所」を設置し、藩の銘品として保護育成したのである。こうした藩の売薬政策には藩財政上の思惑があった。江戸後期の天保5年(1834)の事例ではあるが、年貢米収入は24,762石、小物成(こものなり・山・川・海などからの産物に課せられた税)など現金収入は10,284両、一方、歳出は江戸藩邸・富山城下などの消費が約30,758両余で、これを換米すると約39,370石となり、年間約1,000石以上の赤字財政となる。このほかに累積借財が30万両であるという。富山藩は早くも延宝3年(1675)には京都・金沢・富山領内の借財高が4,800貫目に至るほどの財政難に陥っていた。この延宝3年から家中よりの借知(藩士の給料である知行の借用)も始まり、それ以後は領民からの年貢率アップも幕末まで続けられた(「富山藩政史の諸問題」水島茂『富山史壇』50・51合併号)。藩の産業統制策は、享保年間(1716〜1735)より見られるが、特に財政難が破局的となってきた明和ー安永−天明年間に、藩財政難への寄与策として強化されてきた。売薬業はまさに恰好の産業であったのである。
 こうした慢性的な財政難に陥っていた富山藩は、売薬を保護する代償として御役金を賦課し、弘化元年(1844)には1,841両余、幕末の安政4年(1857)には2,889両にも及んでいるのである(「反魂丹役所の機能と構造」筆者、『富山史壇』62・63合併号)。
富山藩主前田氏系図
全国への展開
 富山売薬が他藩へ行商を行った最初は、寛永年間(1624〜1643)肥後の国への行商である(嘉永元年の熊本の財津九十郎の手紙)。また、万治年間には豊前から豊後・筑後に、さらに肥後にも行商を広げ(「薬種屋権七由来書」)、元禄の頃には八重崎屋源六が中国筋に出かけている(『富山売薬沿革概要』広貫堂編)。また、この頃には仙台へも出かけている。こうして富山売薬は九州地方から中国地方へ、そして東北地方へと、遠隔地から次第に近隣地へと販路を拡大していったのである。
 富山売薬の行商圏の拡大の様相は、地理的条件、陸上・海上の交通路や市場関係などにより、九州と中国が先躯的で、次いで日本海沿岸地域、近畿、東北、関東などに普及したものと思われる。こうして天保の頃には文字通り全国の至る所に販路を拡大したのである。『大坂商業史資料集』には天保年間の売薬として富山売薬をまず挙げ、「今は昔し天保時代に名高かりし売薬は、言ずともこれ越中富山が本家にて、その他諸国に行われたるその概略をあぐれば、(以下略)」として、富山売薬は日本の売薬の第一に挙げられ、大和売薬や近江売薬などの追随を許さなかった。
越中薩摩組と北前船交易〈昆布ロードと売薬〉
 売薬人は他領行商に際して、富山藩で他国売薬の許可を得るとともに、旅先の藩で販売許可を得なければならなかった。売薬の行商は、他藩にとって今でいう貿易の輸入に当たり、藩経済の立場からすれば保護統制の必要が常にあった。藩財政が逼迫する江戸後期から、各藩は国産の奨励を進め、専売制度を設けるなど各種施策を講ずるとともに、外からの輸入を極力抑える保護貿易主義に傾いていった。その結果、全国を行商する売薬商人は各地で度々営業差止を受けた。売薬人はこの営業差止を何らかの形で解除したり、あるいは差止を未然に防ぐために、それぞれの旅先藩の立場を考慮し、藩経済にプラスになるような方策を行なわねばならなかった。
 薩摩領内における売薬行商がその好例である。当時の意識として薩摩は本州の最南端に位置し、琉球あるいは中国(清国)との密貿易が盛んで、藩外からの人や物の流入には甚だ警戒が厳しかった。このため「越中薩摩組」の売薬人たちは、薩摩藩の地理的特徴を生かし、蝦夷松前の昆布を薩摩藩主に献上し、さらに琉球貿易や中国との出合貿易の交易品とする昆布を、薩摩組が富山で雇い入れた船で大坂から蝦夷、薩摩に運行した。昆布交易である。 薩摩藩と富山売薬の秘密裡にして継続的な回漕業であった。こうした蝦夷からの昆布輸送に要る資金として、薩摩藩主から総額500両の助成(借入金)を受けていた。昆布6万斤を仕入れ、1万斤は薩摩藩主へ献上、残り5万斤は薩摩藩で買い上げるというものであった。こうした政策は当時としては奇想天外ともいえるもので、また、想像を絶する困難を克服して行われた驚くべき雄大な貿易構想であった。幕末の嘉永3年(1850)のことである。
(よねはら ひろし・富山県立山博物館館長)
−平成14年1月19日放送−

「越中売薬」と「富山売薬」の言葉の使い分けについて
 このテキストでは、富山県の売薬の呼称を「越中売薬」あるいは「富山売薬」表記している。「越中売薬」と呼称した場合は、概括的に富山県の売薬業を指す場合と、越中が富山県となった明治16年以降の富山県全域を対象とする場合とである。しかし、「富山売薬」とは、江戸時代において富山藩領の売薬人が行った売薬を指すもので、いわゆる「時代」と「地域」を特定した呼称である。富山県の領域が、かつて富山藩領と加賀藩領からなっていたため、富山藩領の売薬を富山売薬」、加賀藩領の売薬は居住地によって「高岡売薬」・「射水売薬(小杉売薬)」・「水橋売薬」・「上市売薬」・「滑川売薬」などと呼んで、両者を明確に区別していた。
 ことに「富山売薬」は富山藩が江戸中期からの藩財政建て直しの格好の産業、藩では「富山第一の銘産」として、保護統制の対象とした特異な産業であった。
お問合わせ お問い合わせ
富山県民生涯学習カレッジ本部
 Tel 076-441-8401
 Fax 076-441-6157
リンクの際は、こちらのURLをご利用ください。
 トップページへ  このページの先頭へ   前のページへ