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テレビ放送講座 平成10年度テキスト「第4回 町家とその町並み」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '99/02/06

TOP 第4回 町家とその町並み 土屋 敦夫

風雪を刻んで 〜富山の住まいと暮らし〜遊動から定住へ
町と町家
 近世以来の富山県の町をみると、平野の中央には富山や高岡のような大きな城下町があり、海岸には交易や漁業で栄えた氷見・伏木・新湊・東岩瀬・水橋といった港町があり、街道沿いには石動・福岡・小杉などの宿場町があった。そのほか城端・井波・八尾など、あちこちに在郷町があり、地域の中心となっていた。
図1 こういった「町」には、商人や職人の住まいである「町家」が建てられた。町家の基本形である一列町家(図1)の間取りは、片側に奥まで続く土間のトオリニワがあり、表からミセノマ、中央にチャノマ、その後にブツマやザシキという部屋が一列に並び、主屋を構成する。トオリニワは主屋の後に続き、台所や便所、風呂の前を通って、いちばん後の土蔵に達している。ザシキの後は庭木を植えた中庭として、ザシキを飾ると同時に、オープンスペースとしてザシキや台所に採光や通風を与えている。町家の間口が大さくなると、二列型、三列型と規模が大きくなるが、表をミセノマとすることや、後の庭に面してザシキをとることなど、その間取りの基本は変わらない。この町家の間取りは、きわめて様式化と類型化が進んでおり、関東より西ではほとんど同じである。
 町家は表の道に面して、隣どうし軒を接して建ち並ぶから、「町並み」を形成する。基本的に町並みは、町家の集合体なのである。町並みという言葉は、文字通り定義すれば、町の通りにただ単に家が並んだ状態を指すだけであるが、普通「町並み」というと、伝統的な町家が並んでいて、景観的にも美しい状態である特別な町並みを言う。
 良い町並みが今に残されているためには、いくつかの条件が必要である。その条件の第一は、やはりその町が繁栄したことが必要である。町並みを構成する個々の町家が経済的に豊かになれば、良い家が建てられる。質の良い家であるからこそ、住民は自分の家を誇りにして住み続け、家もきちんと維持管理され、良い町並みが残る。
 第二に、大火や戦火に遭わなかったことである。町並みにとって最大の敵は火災である。木造で、隣どうし軒を接して建つ町家の家並みは、大火に弱い。かつて北陸の町家の屋根は、すべて板葺き石置き屋根であった。コバ板を並べて緩い勾配の屋根を葺き、風で飛ばされないよう板を石で押さえていたのである。板葺き屋根は非常に類焼しやすかった。そのうえ北陸は乾いて強い風の吹くフェーン現象になりやすく、こういったとき町に火事が起これば、大火は免れなかった。北陸、ことに富山県の町は、しばしばこのフェーン現象による大火に遭っている。
 逆に、大火の復興を期に、良い町並みが形成される場合もある。高岡では、明治期の大火の後、防火構造で家を建てなければならないという建築規制のため、土蔵造りという特異な町並みが形成された。
 良い町並みの形成と喪失は、その町の経済的発展と大火を巡って展開するといえるのである。
 それではこれから、富山県の良い町並みを見てゆこう。
伝統的な富山型町家の町並み
 高岡市金屋町
 明治期中期までの伝統的な富山の町家の表構えは、背の低い二階建てで、屋根は板葺き石置き屋根、二階の軒の出は深く、一階庇より前に出るくらいである。
 この深い二階の屋根はがっしりとした斜めの登り梁が支える。2階の両側面には、袖ウダツを付ける。一階庇は厚い一枚板の板庇とし、上に押さえ木をのせる。石川県、ことに金沢の町家と富山県の町家とは似ているが、富山の町家は二階軒を深くとり、あくまでも登り梁構造に固執する。富山では今でも一階庇を板庇にしている家が多いが、これは二階軒が一階軒より深く、一階の庇にあまり雨があたらないため、庇の板が腐らなかったからである。いっぼう金沢では、二階軒は簡単な腕木構造で、軒の出が浅いため、一階の板庇はあまり残っておらず、瓦葺きの庇に変わっている。富山の町家は、この太い登り梁と深い庇とにより、がっしりとした印象を受けるし、家の表構えには深い陰影が付いている。これを富山型町家と名付けよう。
 この伝統的な富山型町家の建ち並んだ良い町並みは、高岡市金屋町に残っている。金屋町は、1609年に前田利長によって城下町高岡が築かれたとき、高岡の復興のため、金屋がここに拝領地を与えられて居住したことに始まる。江戸時代からさかんに鍋や釜を生産し、明治以後は銅器産業に幅を広げ、現在でも高岡の伝統工芸である銅器の生産や金属業にたずさわっている人が、住民の半分近いという典型的な同業者町である。
 金屋はもともと火を使う職業であるため、火事を起こしやすい。したがって金屋町だけは、城下町高岡の中心部をはずれて、千保川の左岸に置かれたのである。後で触れるように、高岡は明治33年に大火に遭い、市街の中心部はほとんど全焼してしまったが、皮肉なことに金屋町だけは、市街地から離れていたため類焼を免れたのである。このため江戸期や明治期の富山伝統型の表構えをもつ町家の家並みがよく残っている。
 金屋町のような同業者町は、伝統的なコミュニティーが今でも生きている。現在でもこの町独自で、毎年利長に感謝する「御印祭り」が行われているほどである。昭和57年の町並み調査をきっかけに、400年の伝統をもつ拝領地金屋の家並みを残そうという動きが住民から起こり、住民はすぐにまとまって、格子造りの家並みを大切にしようという住民憲章が制定された。高岡市もこれに呼応して、無電柱化・道路の敷石化・金屋町公園の建設など、町づくりに務め、町並み保存を側面から支えている。
廻船問屋の町並み
 富山市東岩瀬
 富山市東岩瀬は、神通川河口の港町で、富山の外港として発展した町である。江戸中期以後、西回り航路の発達につれて、北陸の海は交易のメインルートとなり、とくに江戸後期からは北海道・東北と上方を結ぶ北前船がさかんになる。本土からは米や、むしろ・縄などのわら製品をはじめとする生活物資、北からは魚肥・かずのこ・昆布・サケなどを運んだ。北陸の港町は廻船業で栄え、廻船問屋の巨大な町家が軒を連ねるようになる。廻船問屋は、船を所有する海運業者であり、荷主であり、そういった商品をさばく問屋商人であったのである。
 東岩瀬は、明治6年大火にみまわれ町はほとんど全焼した。じつはこの明治初期は北前船の最盛期であったのである。大火は町に大きな損害をもたらしたが、同時に、藩政期からの古い階層と新しい階層との主役の交代を引き起こした。全盛を迎えた廻船問屋たちは、大火からの復興に際し、岩瀬大町の川岸を背にした西側に進出し、その財力にものをいわせ、巨大で念の入った仕上げの家を競って建てていったのである。
図2 図2は、東岩瀬の代表的な廻船問屋である森家の平面図である。この家は大火の後十分な準備をして明治11年に建てられている。これは間口の広い三列型町家で、トオリニワに面して家の中央に、屋根裏まで吹き抜けになつた広いオイをとり、いちばん奥にザシキをとるという町家の基本形は変わっていない。ただし三列目の表に前庭をとり、マエザシキやチャシツの格を高めているのが特徴的である。この前庭をもつ三列型の間取りは、東岩瀬の廻船問屋の発展の完成形であり、森家のほか、馬場家、佐藤家、佐渡家などでも用いられている。主屋の後には庭を隔てて、家の道具を仕舞っておく道具蔵が二棟建ち、その後にはかつて米蔵や商品の魚肥を入れておく蔵が並び、船を泊めた後の川に開いた門から直接荷物を出し入れしたという。
図3 注目したいのは、この森家の表構え(図3)である。町家の表構えは、「家」が外に対してどうみずからを表現するかという重要なポイントである。町家の間取りはあまり地域性は見られないが、表構えのデザインにはかなり地域性と時代性が表現される。
 一階左は入口の大戸である。その右に四つ並んだ細かい横線の入った部分は、スムシコといって、簾を格子のように使ったものである。スムシコは金沢にもほんの少し残っているもので、木の格子(キムシコ)以前の古い形である。
 一階の庇はムクリ(膨れた曲線)の付いたコケラ葺きで、雲形の曲線をもった腕木で支えられ、庇の両端の破風板や格子下の持ち送りには刳り形(曲線を用いた彫刻)が施されている。こういった部分や二階の出格子などは装飾的で、洗練された繊細な表現である。
 それに対し二階大屋根の軒の出は2メートルを超し、登り梁、柱などの構造材はきわめて太く、頑丈な造りである。つまりこの家は最大限の念入りな仕上げで、繊細な表情をもつと同時に、重厚な構造の家なのであって、繊細さと重厚さという、いっけんあい矛盾する要素を見事に調和させた表構えになっている。明治初期の最盛期の廻船問屋の財力を背景に、明治になって江戸期からのさまざまな制約から解放された町人の要求と、それにこたえた大工とによって創られた新しい表現なのである。
 このようなムクリをもったコケラ葺きの庇にスムシコという形式は、富山の伝統的な町家の形ではなく、東岩瀬廻船問屋型というべき独特の形である。この形は森家、米田家などに見られ、さきほどの前庭を持つ三列型の間取りも含めて、東岩瀬の廻船問屋のプロトタイプになっている。
 この東岩瀬の廻船問屋の新しいデザインは、よそにも強い影響を及ぼした。たとえば東岩瀬に近い港町・水橋にも、いくつか廻船問屋の大きな家が残っているが、そのなかで石金家、小松家などは、ムクリをもつたコケラ葺きの庇にスムシコという形である。これらは明治中期以後に建てられたもので、東岩瀬の廻船問屋型町家の形が廻船問屋の新しいプロトタイプとして意識され、水橋の廻船問屋もその型にそって家を建てたものである。
 なおつけくわえておくと、すべての東岩瀬の廻船問屋がこういう形で再建されたのではない。先にふれた富山県の伝統的な富山型町家の形の家も同数ほどあったようである。その代表例が、森家の隣に並んで建つ、東岩瀬最大の廻船問屋であった馬場家である。
土蔵造りの町並み
 高岡市山町筋
 高岡市の山町筋は、かつては国道筋で、問屋など大きな商店の建ち並ぶ高岡一の繁華街であった。この旧国道筋の通町、御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町、坂下町、大手町には、今でもおよそ100棟ほど、土蔵造りの町家が残っている。土蔵造りとは、木造でありながら木部を厚く土壁で塗り回して防火構造とした建築である。土蔵造りは、もともと土蔵の建築に用いられたものであるが、火災の多かった関東では、表に面する町家の主屋も土蔵造りにすることが奨励された。現在土蔵造りの町並みは川越が有名であるが、高岡の山町筋の土蔵造りの町並みは、それに勝るとも劣らないものである。かつては東京や富山にも土蔵造りの町並みがみられたが、震災や戦災でいずれも失われ、いまでは高岡と川越にもっともよく残っている。高岡山町筋の土蔵造りの町並みは、木造に終始しながらも火災と戦い続けてきた。日本の都市住宅である町家の貴重な遺産なのである。
 まずはじめになぜ高岡に、関東で発達した土蔵造りの町並みが見られるか、その経緯を見てみよう。フェーン現象による大火が多かったためか、明治20年に富山県は、市街地に建つ建物の屋根を瓦葺きにするようにという建築制限令を出している。これは、隣の石川県の同様の建築制限令に比べ、20年ぐらい早いものであった。ところが明治32年8月には、富山市の中心繁華街の大半を焼くという大火が起こる。そこで富山県は、同年9月にさらに厳しい建築制限令に切り替えた。これは一般市街地を瓦葺きにするだけでなく、富山市、高岡市、伏木町の国道筋を中心とする繁華街については、瓦屋根の下には厚さ2寸の土を載せること、外部に面する柱などの木部には3寸以上の土壁を回すこと、また開口部は不燃質の囲い戸で密閉でさるようにすることというものであった。これは土蔵造りにせよという規定ではなかったが、実質的には土蔵造りや煉瓦造りしか建築できないという厳しい規定であった。このように厳しい建築制限令を出したのは、東京と富山県に知られるだけである。
 富山県のこういった規定は新築家屋に適用されるだけであったが、大火が起こるとそれがとたんに利いてくることになる。この条例が出て1年もたたない明治33年6月、こんどは高岡で市の中心部をほぼ全焼するという大火が起こる。山町筋の家々は復興に際し、土蔵造りで家を建てなければならないことになったのである。土蔵造りは外部に面した木部を土壁で塗り回すから、左官工事に多くの手間がかかる。さらに外壁だけでなく屋根下にも土を載せるため建物の重量が増し、構造も頑丈にしなければならない。とうぜん一般の町家に比べ、はるかに費用がかかったのである。
 山町筋の土蔵造りの町家には、大きく分けて2種類のデザインがある。その第一は、関東の土蔵造りの影響を受けたもので、屋根上には大きな箱棟を載せ、外壁は黒い漆喰壁で仕上げ、二階の背も高く、土蔵造りらしい豪快な独特の表現をもつものである。もう一つは、外壁も薄茶色や灰色の砂壁で、二階の背は低く、全体に大げさな表情はもたない建物である。これは、土蔵造りを強制されたため、富山の伝統的な町家建築の外壁をとにかく塗り込んで仕上げたというもので、数としてはこちらの方が多い。後者は土蔵造りという形式にまだ慣れていないという印象で、形としてはとうぜん前者のタイプがおもしろい。
 その代表例が守山町の菅野家(図45)である。屋根の頂上には、大きな箱棟を置き、その上に一列に雪割瓦を並べ、両端は鯱で飾る。箱棟に付けられた雷文模様の土板も印象的である。二階の壁面は黒光する漆喰で仕上げ、窓には観音開きの漆喰戸を付ける。一階は全面伝統的な格子であるが、その外側に鉄製の防火戸をはめ込むようになっている。きちんと塗り込んだ一階の深い庇は鉄柱で支えられ、庇下にランプをつり下げるようになった洋風の中心飾りの饅仕上げは見事である。家の両端は釉薬のかかった煉瓦を積んだ防火壁がたてられ、先端には花崗岩の石柱が付けられている。土蔵造りは土壁を塗り回すから、重々しい印象をぬぐえない。その重さに負けないためには、洋風の要素を入れ、ダイナミックな表現をとらざるをえない。これこそまさに明治という時代の実現であった。
 このように、表構えは煉瓦や鉄柱や中心飾りといった洋風を取り込み、重厚で豪快な表情をもつが、逆に家の内部はあくまでも伝統的な町家建築そのもので、ザシキなどきわめて格調が高く、重苦しさなど感じさせない。間取りは内玄関をもつ三列型町家で、さらに右手に前庭をもった内向きの部分があり、全体の敷地間口は11間半、二階建ての土蔵造りの主屋間口が7間という巨大な家である。
(つちや あつお・滋賀県立大学人間文化学部教授)
−平成11年2月6日放送−
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