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テレビ放送講座 平成5年度テキスト「第7回 聖なる火の祭り 〜御神灯とおしようらい〜」


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TOP 第7回 聖なる火の祭り 〜御神灯とおしようらい〜 伊藤 曙覧

火の神秘
 『世界史』の教科書をみると、人間の特性として火の使用があげられている。人類文化の歴史は火の歴史といわれ、「火は人類が獲得した最初にして、まさに最大の力の源泉」とまで言われている。
 火の使用は照明と暖房と炊事3つが主役で、実用面では宗教儀礼、狩猟用、工作用、信号用、喫煙用、医療用などに広く用いられている。
 火の神秘は色々な面でのべられるが、現在のように都市生活が明るくなると、夜の深さ、夜の神秘、夜の美しさはわからなくなってしまう。
 ことに夜の美しさは祭りによっていっそう味わうことができる。火はおい払うこと、焼くこと、おしやること、清めることができ、又火は神、祖霊を招くこと、送ることもできる。
 昔から老人たちは夜は人間より神の活動される時だとよく言った。祖霊・神々が夜訪れることは、夜はまたあの世に通じていることになる。
正月の火
 まず正月の火からみることにする。
 立山町岩峅寺では正月3日間各家の主人が12時をもって井戸水を汲み若水という。豆殻に火打石で火をつけて湯をわかし、女の人は手を出さないことにしている。こうして正月の若水と火の使用がその家の主人によることは火が重要視されていたことの証である。
 今はなき有峰の集落でも主人が正月3日間は火打石で朝の火をつける役をしたという。福岡町沢川の田畑家でも、1月1日暗い頃に主人が裃を着て、新しい気分で炉の火をつける習慣になっている。
 火が生活の中心であったことは日本だけでなく、朝鮮古代にもみることができる。恩師三品彰英博士は、古代における家の生活は炉が中心であり、火はフル、フルであり、やがて集落を形成したときの村がフル、フル、更に発展した国の都京城がソフル、火が大きな意味をもっていることを述べられた。
 火の大切さは日本の昔話にもみられる。大歳の晩、大切にしていた炉の火をなくし困って、外へ火をもらいに行こうとした時、提灯を持った人に会い、その火をもらったら、荷物をあずけ、暫くしてからもらいに寄るという。幾日たっても来ないので、しらべると黄金であった話がある。火が大切であった昔話としてみることができる。
夜高
 火については、また先祖様がこの国土へ来臨する折の目印になった。天空から来臨する折下りやすい処は山頂であるが、お盆に山頂で火を焚く風習があった。
 一方田に迎えるものもあった。農村に夜高祭が多い。砺波地方の夜高はすでに知られているが射水平野では小杉町黒河に8月23日夜、村あげて大人も子供も夜高行事を楽しんでいる。更に夜高伝説としての岩見重大郎ヒヒ退治を子供達が演劇化している。
 夜高は夜高く火を掲げ神を迎えるものであるが、火は誘蛾灯の役目も持っていたようである。
 能登半島に広く分布するキリコ祭りもこの夜高と同じ民俗であって、越後弥彦神社灯籠祭らとともに広い範囲での比較研究が課題になるであろう。
左義長
 次に県下の正月火祭りとしては左義長の祭りをあげることができる。
 県下では1月10日夜、呉西は左義長、呉東はサイト焼きという。サイトの語は修験道で用い、当山(真言系)は柴灯(さいと)護摩、本山派(天台系)では採灯護摩と区別しているが、両方の語を併用している所も多いという。
 左義長は村の広場などで子供たちが竹を円錘形に組み藁豆殻をつみ、下に火のつけやすい所を作り、正月飾りも焼き、餅を焼き食べると一年無病息災になると言った。また燃えて倒れた方向が豊作になるとか、残灰を集め田に入れると豊作だとかいわれた。入善はサイト神、細入はドンド、黒部では福の神、城端、福光では歳徳とも言った。大きな声で一斉に罵声をあげるのは悪霊を追い払うとの心意があったのであろう。氷見市長坂でホラ貝を吹くのも同じ心意であろう。
盆の迎え火
 正月とともに盆には類似行事が多く、日本人の心意伝承を知る上で大切である。ところで盆は精霊を迎え、また送るわけであるが、盆の迎え火の中で県下を代表するものが、上市町でみられる。8月13日夜、中新川郡上市町上市川の東橋近くで、祖先の霊を招くニオトンボがある。「ショーライコ、ショーライコ」と村の子供たち叫び、精霊ヤグラ(ニオトンボ)が勢いよく燃えつづける。
 東町から天神町の河原に14本の円錘形、約12.3mを各町が担当して組む、竹で骨ぐみをし、藁、七夕飾り等を入れて一日がかりで作ったものである。ニオトンボの焼ける音は夜空に響き、最近では白竜橋の下流で花火が打ち上げられる。
 同じ型が婦負郡八尾町でもみられた。8月13日夕方、ショーライ盆という。この日井田川の川原で東西に迎え火を焚いた。子供達が大竹を4本組み石をつみ、大人達が手伝って麦藁、藁、焚木をつみ、竹に藁をつるし、夕方に火をつけ、バンバンという音が印象的であった。各村単位であって、大人が責任をもってあとしまつをした。八尾の旧町では明治の頃は山頂で迎え火を焚いたが大正からは川原で火をたきショーライ ショーライといった。室牧の村では昭和20年代まで、この日夕方シヨウライが来られたと言って家族が広間に坐って迎えた。玄関に足洗粥を出して精霊様が足を洗って入り、お粥をたべられるのだと言った。こうした精霊迎えの習俗の中で、火をたよりに先祖様が来られるのだと考えている。上市と同じように円錘形精霊迎えの習俗は形としては正月の左義長とよく似ている。
 お盆の迎え火は県下でも広く分布していたが少なくなったようである。一方盆の送り火もみられた。
盆の送り火
 盆送りは16日早朝、立山町岩峅寺では提灯をもち先祖を墓へ送る習わしがあった。盆送り、おさめ盆は20日以後に多いが、16日を「おたち日」と呼んで、団子を作り精霊様に持たせ、みやげ団子といい紙に包み海や川へ流すことが小矢部市津沢、滑川市でもあった。
 ところが射水郡下村加茂では8月23日地蔵盆の夜、村人がオクリ火と言って加茂社の横の川へ集まり灯篭流し送り火をしている。8月16日新湊市で灯篭流しの習俗と同型のものをみることができる。
松明祭り
 10月5日下新川郡宇奈月町愛本新の天満宮で松明祭りがある。奇祭としてその名が知られている。
 伝承によると、寛政年間に愛本新・舟見野地域は水利の便が悪く、荒野であったが、十村役の伊東彦四郎が用水を作ることを加賀藩へ願出た。そして現地を測量して寛政10年(1798)から享保2年(1802)5年間をかけようやく完成した。その労苦は大変なものであったが村人は喜び、松明を作って集まり、火のついた松明を手に水の流れを追ってお祝いをした。以来前田殿様の遺徳を偲んで松明まつりを続けているという。松柱は古く柱松明、焚松、焼松とも書いた。
 愛本の松明は高さ3m、太さ1m、竹藁、太鼓に合わせて担ぎ、威勢よく走る。子供達は小松明を手にもってまわる。最後は天満宮の境内を練り回る。約1時間くらいで終了する。松明の火の粉を道にたくさんまき散らすのも悪霊を除き浄めることである。
 黒部市生地の新治神社でも古くからの行事に松明祭りがある。
 伝えによると、或年、舟が沖へ出た頃はよかったが、夕方から海が荒狂い舟は木の葉のようになり、今にも沈没かと思った。くらい中で丘(陸)と思われる所に霊火がみえ、この火を目的に舟を漕いだ、皆心を合わせたおかげでどうにか陸にたどりついた。火の場所は新治神社の境内で着くと火はプッツリと消えた。これは神様が我々を助けたのだと、そのご恩に松明を持っておまいりしているのだという。
花火
 こうした松明は入善町でもあったらしいが、更に花火行事として展開したものがある。花火でしられるのが、下新川郡入善町の花火である。
 入善の扇谷峯吉が特に花火造りに努力し、入善花火の名を残した。農家収穫が終ると花火を競い、幕末に越後へ行って勉強したという。その頃の花火は弾丸でなく、茶壷形の筒弾であった。当時の花火の秘伝として『花火法』が残されている。「三光星」「マクリ玉」「五色揚」「重打」「獅子牡丹」の名や薬品調合が記され、その他「花火家伝乃本」は天保3年8月のもので、天の川、日暮引、夜這星、蛍合戦、道成寺、巴、藤袴、糸萩などが記されている。入善の椚山の長島家でも花火がされて椚山花火の名で知られていた。
 新川地方に普及したのは、魚津の高松正治氏が花火を作り、新潟花火を習得し普及したもので、黒部市若栗の花火大会も知られたが高松氏亡きあと大正期に衰えたという。
 江戸末の花火は、江戸の、両国、三河、近畿、長野、新潟、九州などであったが、明治20年代に外国から塩素酸カリウムが入ると、赤、黄、緑色の花火が好まれた。日本では球形で発達し、昭和初期に青木儀作氏が、八重心菊花型花火を完成し、画期的な発達をしてきた。
 東砺波郡庄川町の花火大会も昭和30年代で、富山花火大会を参考に、町観光課、商工会が進めたもので、元来砺波地方に多い夜高を観光町づくりとして企画し、その折に花火大会をしたのが原因とされる。富山、高岡、新湊、庄川、婦中、滑川、小杉など多くの町でも進められている。
火渡リ
 火の祭りで注目されるものに、火渡りの行事がある。
 県内では富山市山王社、上市町稗田に古くあったらしいが、今は小矢部市慈光院や福野町安居寺、獅子舞の火渡りとして新湊市六渡寺、大門町二口熊野神社、大門町串田がよく知られている。
 火渡りは燃える炭火の上を裸足で歩くが、修験道では火生三昧耶法(かしょうさんまいやほう)と言って、火の上を歩く験術で、広くシャーマンの間にも行われている。火渡りを体得することで穢れをやき超自然的な力を発揮するものと考え自分が不動明王と一体になるものと信じられている。
 獅子舞の火渡りも、火をとび越えるのは穢れを焼き、それによって超自然的な力がみなぎり、新しい生命を得ようとしているものである。
むすび
 火は人間の生活に欠くことのできない大切なものであり、家の中心でもあった。火を大切にすることは当然であるが、その火によって神を迎え、祖先を迎えること、それは正月左義長、盆の迎え火の中でも知ることができた。ときにはバンバン大きな音を出すが、人間の生活に害を与えるもの悪霊を防ぐことにもなった。一方田の神、夜高まつりなどは、夜高く火をかかげ神を迎えやすくし、一方田に及ぼす害虫を防ぐ役をも持っていた。また火は松明、花火も信仰、芸能、観光など多岐に展開しており、火の呪術的な面は次第に姿を没しているようである。
 火渡りの行事も、今は観光に見物が集まるが、かつては、人間と火が一体になった世界があり、獅子舞の火渡りも修験的なものが多くみられた。
 他面火を生活から離れさせる別火の風はそこに新しい生命を念じた庶民の心意伝承をみることができる。
(いとう あけみ・小杉町文化財審議委員)
−平成6年3月12日放送−
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