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テレビ放送講座 平成元年度テキスト「第8回 越の海の道」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第8回 越の海の道 山口 博

 水平線の彼方は、昔から人々の幸をもたらすところとされていた。幸を寄せてくるのは主に風の力によるもので、富山湾ではこの風をアエ(アイ・アユ)の風という。吹いてくる方角によって、能登アエと、宮崎アエとの二つのアエの風がある。大伴家持は
東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ
 この歌の東風は宮崎アエのことで朝日町宮崎方面から吹いてくる。能登から吹くアエは山にさえぎられて、氷見地方の一角に限られている。
 家持は東風という文字をあてているが、「アエ」は風のくる方角を示す言葉ではない。奥能登では12月にアエノコトという国指定無形民俗文化財である古い行事が行なわれている。秋の収穫後に田の神を家に迎えて饗応する行事である。宇奈月町にもこれに酷似したエビス迎えがあり、小豆飯・鯛・神酒等山海の幸をととのえて、エビス神をもてなす行事である。このように、酒肴でもてなすことを古語では饗(あ)えという。この語源からみても、アエノカゼは食物を運んでくる恵みの風という意味であり、この風が強く吹いた2、3日後には豊漁がくると、土地の人たちはいう。
 氷見の漁夫の方言で「タカアイ」「ヤスアイ」の二つがある。タカアイは北西風で、そのあとは鰹や鰤、ヤスアイは北東風で、鮪がよくとれるといっている。11月中旬「ブリオコシ」とよぶ北西風が吹きあれ、湾に寄り回り波がよせると南下する鰤の群れが岸に近づいてきて、歳末の近づく漁村をうるおす。
 ひところ海の彼方からもたらされる幸の最大なものは鯨であった。漁民の間で鯨をエビスとみなすふうは全国にある。昔氷見の大境では鯨がとれると、その頭を海の見おろせる場所に積んでおいた。こうすると、仲間を呼んでまた漁があるという。さらに鯨が回遊魚群を追いかけてきて陸地へ近づくにつれて、魚群も湾内に入り込む。新湊・氷見では鯨に追われた鰯がとれたりすることをカルモンという。カルモンとは「狩り物」で、狩りの獲物という意味である。このように漁獲物を招きよせる鯨を氷見の漁師もやはりエビスとよんでいる。
 海からもたらされるものは魚のみとは限らないのである。富山県内には海中から出現した秘蔵の神仏を祀るところが多い。魚津市小川寺の千光寺に安置されている千手観音像も経田の浜からあがったものである。後藤某の網にかかってひきあげられ、本尊として安置されたものと伝えられる。仏のあがった地を今も仏が浦とよんでいて、33年毎の開帳のおりには経田から屋形船があがる。
 氷見の森本家では神棚に、古めかしいエビス・大黒の像を祀り朝夕礼拝をかかさない。この像は、この家の定置網にかかって引きあげられたもので、これを祀ってから大漁が続くようになったという。入善町では土人形と狛犬、朝日町ではエビス様、水橋では大黒様をそれぞれ海から引きあげて祀って以来、その家では漁があるようになったといわれている。
 黒部市の某家では主人の夢枕に、観音様が立たれて、「海底はつめたいから引きあげてくれ」とのお告げがあった。観音像を引きあげて生地の光明寺へ祀って以来、家業が好調となり、家運がうわむいたという。海の中で漁をする人達は、時折り海難による流れ仏に出あう。漁師はこの流れ仏を決して見すごすことはなく、拾いあげて丁重に葬る。そのあとはきまったように豊漁になるといい、この流れ仏をエビスとよんでいる。このように海によって生業を営む人々の間には、流れ寄るものは、すべて予期せぬ幸をもたらすという確とした信仰が根づいていたのである。
 また、海は交易の大道でもあった。鉄道もなく道路も整備されていなかった時代は、海路が陸よりはるかに便利であった。北海道との海上交易の盛んな頃、北へ行く船は若狭方面から吹くワカサ風にのった。ワカサ風の呼び名は、富山、能登を中心に青森湾の内海に面した漁村にまで知られている。この風にのって、伏木・岩瀬・石田・横山等の港から米・縄・竹等を積みこんだ船は、北海道へむけて帆をあげる。普通6日かかるところをこのワカサクダリが3日つづけば北海道へ着けるといい、この風が吹かなければ出港を見合わせたほどである。
 その当時不足がちな米を待ち望んでいた北海道では、この船を弁財船とよんだ。函館等の港に荷を降した船は、昆布・干鱈・鰊肥等の産物を積みこみ、こんどはアエノ風を待つ。この風にのると、北海道南端の福山から能登までやはり3日間でつくというまことに良い追い風である。このように、海は珍らしい物、貴重な物を戴せた船をも運んでくれる頼もしい存在でもあった。この思いを象徴したものに、全国的にもまれな舟型の三方(さんぼう)がある。上市町護摩堂の八幡社には木製のもの、魚津市古鹿熊の白山社には石でつくった舟型の三方が拝殿に置かれている。これは舟が運んでくれた貴重な異郷の品物を神にささげるという心からつくられたものである。
 海はさまざまな恵みを人に与える反面、一度荒れ狂うと怒涛が逆巻き、多くの惨劇を惹き起こして、人びとに畏怖をいだかせる。人びとはそのような海の神秘性をみとめ、海を司る綿津見の神の信仰が生れ、海神のおわす海底の宮は、綿津見の国にあると考えられてきた。これはまた竜宮の存在を暗示するものである。
 氷見の海岸には年に幾度か5メートル余りの紐状の魚がうちあげられることがある。この魚を土地の人は「竜宮の使い」とよんでいる。また、海岸には年に2度くらい体長80センチほどの大亀がはいあがってくることがある。これも竜宮からきたものとして、酒を呑ませて海へ帰してやるという。これらの話から、富山湾にはアイガメ(饗甕であろう)といわれる深くえぐられた海底の谷があり、恐らくそこには竜宮があると思われていたと推察される。また、春のなぎの日、海上に浮かぶ蜃気楼は、この竜宮が出現したものと思われたであろう。
 竜宮の使いは人魚ともよばれている。この人魚を食べて800才まで生きたという八百比丘尼の伝説がある。黒部市村椿の長者の娘が、父の持ち帰ったご馳走のなかの人魚の肉をこっそりたべた。以来幾年たっても年をとらず、17、8の姿のままであった。娘はそれを恥じて尼となり、白玉椿の枝を手にして諸国を巡礼したという。この伝説は、竜宮から持ち帰った玉手箱をあけるまで、年を取らなかったという浦島太郎の昔話と共通するものを持つ。このように海底にある常世(とこよ)の国といわれる国は不老不死の楽土と考えられた。また常世の国は人の死後、魂が行くと考えられた国でもあった。
 お盆になると常世の国から祖先の霊が帰ってくる。お盆の8月13日の夕方、八尾町や上市町では、各町内が競って川原にニョトンボという三角錐の櫓を組む。夜の8時頃一斉にこれに火を放ち夜空を赤々と染め、帰ってくる祖先の霊に我が町の方角を示す。また家中総出で手に手に火をつけた麻殻をもち、海にむかってぐるぐるまわしながら「ジーサの精霊、パーサの精霊」と大声でよびかける。このように精霊火を振ってむかえる風習は、富山市の神通大橋でも行われている。お盆の夜、海の彼方から祖霊を迎えようとする光景は今も昔も変りはない。このように常世の国は現世より融通無碍で、この世と往ったり来たりできる第二の世界であった。
 古くから海の彼方は聖地と考えられていて、そのうえこの世の罪や穢れを受けいれ、清めてくれるところでもあった。7月31日滑川市ではネブタ流しが行われる。各町内の青年や子ども達が、各戸から、わら・こも・むしろ・竹・木屑などを持ちより2メートルから7メートル余りの人形をつくる。さらにこの中へ病人の着た着物やよごれ物等も包みこむ。はしごを横倒しにした中央にこの人形を直立させ、はしごを担いで「ネブタ流され 朝おきゃれ」 の掛け声も賑やかに町内をねり歩く。その後、海中へ吊りだして人形を燃やしてしまう。このわら人形は「ネブタ」と称する睡魔を形どったもので、収穫の秋をひかえて、眠気ははなはだ農作業の邪魔になる。ゆえに、この人形に罪や穢れ、病気等を包みこみ、燃やし、海へ流すことによって、きたる収穫の秋を息災でのりきることができるよう願ったのである。さらにこの日、町の人はみな、海へ入ってみそぎをしたもので、昭和30年頃まで続けられていた。
 南砺波地方の熱送りは7月22日頃で、男女2柱の人形を乗せた紙張り子の舟形を担いで、村の農道をくまなくまわる。大人は太鼓を打ち鳴らし、子供達は笹竹で田の面を払い 「おくるばい ねつおくるばい」とはやして行く。このようにして稲田の熱を払い終わると、払った笹は小矢部川に流す。これで稲熱病の厄神は払われたと、安堵して祝酒となる。
 ネブタに限らず、七夕や虫送り、疫病送りやほうそう流しなど災禍を送りだす行事はすべて海にむけて行われたのである。
 大祓詞に「大海原に流し去られた罪穢は、速開都比売(はやあきつひめ)が、すべてを呑みこみ給ひ、気吹戸主(いぶきどぬし)がその罪と穢を根の国におくれば速佐須良比売(はやさすらひめ)が罪穢を除きて清らなる姿にかえし給ふ」と述べられている。
 このようにみてくると、海の彼方は幸をもたらすのみならず、また罪や穢れの行きつくところでもあり、物にとりついた罪や穢れを除いて、神聖な状態にかえすところでもあった。穢れたもの、汚れたものを海が清めてくれるということは、昔ならではのことであり、現代のように化学物質や化学製品の海中投棄による海の汚染が問題化している今日では考えられないことである。昔の人たちの使っていたものは、すべて自然から生みだされたものであり、自然に返してもその中へとけこんでいき、何ら不都合を残さなかったのである。つまり、人間と自然が一体となり、調和を保って生きていた時代ならではの行事であった。
 人々の海へのあこがれは、さらに貴重なものは海よりきたると信じさせたようである。八尾町本法寺の法華経曼荼羅図は、もと放生津浦の海中に光っていたという。それが漁師の網にひきあげられたものだと伝えられている。この絵図は22幅そろっている珍しいもので、全国にも例がなく、旧国宝制度ができた明治33年初年度の国宝に指定された。曼荼羅図としてだけでなく、わが国の説話絵の代表作としても価値の高い絵画である。本来なら法華経を描くにはインド風に描くはずのものが、インド風俗をしらない当時の知識ゆえ、中国風に建物や人物が描かれている。さらに細かい部分は、日本の風俗画になっていて、風俗史の上からも貴重なものである。縦193.5センチ、横128.5センチの大幅で、製作年代は、いまから650年ほど前の、嘉暦年間(1326〜29年)にさかのぼる。
 この曼荼羅図の出所は定かではない。にもかかわらず海からあがったと称するのは、この曼荼羅図のような尊いもの、めずらかなるものは必ず海の彼方からやってくるという考え方が人々の心底深く根ざしていたからと考えられる。
 以上のべたように、海底ないし海の彼方を神霊の国とし、海より渡りくるもの、海より出現するものを聖なるものとする思想が生まれたのは、海にとりかこまれて暮らしてきた我が国としては、必然と肯定できるのである。
 地球上で生命が最初に生まれたのは海中であったといわれている。科学者の説によれば、海が現代に近い状態つまり生物の生息可能な濃度の酸素を保つようになったのは古生代であるという。その頃になって海は緑藻類をもち、原始的な貝類を生みだすようになり、生命をはぐくむゆりかごとなった。さらに幾星霜を経て生き残った生命は発展をつづけ、ついに呼吸を主とした高能率の生物を生むにいたり、水より陸へ上ったといわれている。この海が生命発生の母体であるという考え方は、期せずして古代人の海への憧憬の心情や思想と一致するものである。
(うるま もとみ・富山県文化財保護審議会委員)
−平成2年1月20日放送−
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