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テレビ放送講座 平成2年度テキスト「第8回 過去と未来をつなぐ・神通川」


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TOP 第8回 過去と未来をつなぐ・神通川 宮口 侗廸

1.神通川の姿
 神通川は富山県のほぼ真ん中を南から北へ流れ、富山湾に注いでいます。流域面積は2,720平方キロメートル、幹川流路の長さは120キロメートルです。富山湾には多くの河川が流れ込んでいますが、神通川はこの中で、流域面積においても長さにおいても、最大の川なのです。
 ただ、地図で見ればよくわかるように、神通川の流域のかなりの部分が岐阜県の北部、昔の飛騨の国にあります。神通川は飛騨では宮川と呼ばれ、その上流部には江戸時代から飛騨の中心として栄えてきた高山市がありますし、やはり飛騨を流れる大きな支流である高原川沿いには、有数の亜鉛の産地である神岡鉱山があります。神通川は、大きな山国である飛騨の広い範囲から水を集めてきている川なのです。黒部川や常願寺川のような超急流河川と比べると、少し穏やかで水量も安定しているといえるかも知れません。また、神通川の流域図が海に近いところで細くなっているのは、西を呉羽山丘陵にさえぎられているためと、東からは、はるかに大量に土砂を運んできた常願寺川の勢力に押されているためです。熊野川が常願寺川に近いところで山から流れ出ているにもかかわらず神通川に流れ込んでいるのも、このためだと考えられます。
 神通川は富山県に入ってもしばらく峡谷部を流れます。細入村と大沢野町の一部にはさまれる部分で、ここが神通峡と呼ばれているところです。右岸では、大沢野町の笹津からが平野部になり、左岸では、JR高山線の東八尾駅あたりからが平野部といってよいでしょう。神通川の両岸には川のすぐそばの平地よりもかなり高い平らな地形面が数多くありますが、これらは皆、何万年も前の時代に神通川の川底だったところです。河口部近くでは、比較的新しい時代になっても、神通川の流路が動いています。江戸時代の大洪水では、主たる流路が東に移動し、富山藩の重要な港であった西岩瀬が、大きな打撃を受けました。
 今の神通川は、県都富山市を流れる貴重な川です。水量にも恵まれたこの川は、現代都市社会にあってかけがえのない価値を持つといえましょう。
2.その名のとおり「通り道の川」
 神通川が、飛騨の中心地高山と富山平野を結んでいる谷間を形成していることから、この谷筋は古くから飛騨と越中を結ぶ重要な通路になってきました。特に江戸時代になると、平野部から神通川の両岸をそれぞれ通るルートが、「飛州往来」と呼ばれる街道として確立してきます。
飛州往来 図に示すように、神通川右岸の現在の大沢野町下夕地区を通って、高原川右岸を船津(今の神岡町)へ向かうものが飛州往来東道と呼ばれ、細入村から宮川左岸を古川町へ向かうのが、西道と呼ばれてきました。この両方のルートには、それぞれ関所が置かれていました。その後、西道から、宮川の高原川との合流点近くをわたり、しばらく高原川の左岸を行く中往来も重要なルートとなりました。ここには明治初期に橋が架けられるまで、有名な籠の渡しが利用されていました。
 江戸時代の旅人や物資の通過の様子は、現在、細入村猪谷の関所館の資料から知ることができます。富山側から飛騨へ運ばれた重要な品物は、米・魚・塩などでした。これを特に、登せ米・登せ魚・登せ塩と呼びました。また、飛騨からの品物は、木材や木製品が中心でした。木材はいかだを組んだりして、専門の職人たちの手で川を流してきたのです。後には、神岡鉱山の産出物も神通川沿いに運び出されるようになります。
 また、多くの渡り鳥が神通川の谷筋に沿って日本列島を横断して行くことも、よく知られています。
 このように、神通川の川筋は、長い年月にわたって、神のように貴重なものの通り道となってきたといえましょう。
3.河道の変遷と改修の歩み
流路図 富山藩が成立した寛永16年(1639)のころ神通川の流路は、おおよそ、図に示したようになっていたと思われます。
 流路は下流で二つに分かれ、今の草島付近は中州のようになっていました。そして西の河口にあたる場所に富山藩の重要な港であった西岩瀬港がありました。ところが、万治3年(1660)の大洪水以来西岩瀬の方には水が流れなくなり、これ以降、金沢藩領であった東岩瀬の方が港として発展したといわれています。
 また、神通川の旧流路は、今の富山大橋のところで大きく東に曲がり、さらに西に向きを変えて富山駅の北側を通り、今の流路へ流れ込んでいました。江戸時代の風物として有名な舟橋は、今の七軒町から、かつては左岸にあった愛宕村の方へつけられていました。
松川 また、マス漁もさかんで、鱒のすしもつくられていました。明治34年に、富山県は神通川の流路を付け換えるという大事業を行いました。 約1,600メートルにわたって、川幅約450メートルの開削工事を行ったのです。これを馳越工事といっています。この結果神通川は現在のような流路となり、旧流路のあとには、その後県庁を始め多くの建物が建てられることになりました。松川が昔の神通川の名残だということをご存じの方も多いと思います。
 その後、大正7年に、国の直轄事業として河口から22キロメートルの区間について洪水防御工事が実施され、神通川はほぼ現在の姿になりました。
4.水田と発電所−富山の風物詩−
 日本で最も早く水田が開発されたのは、山麓に近い平地や、盆地など、あまり洪水の心配のない場所でした。しかし江戸時代になると、大がかりな治水工事が行われるようになり、大河川のまわりに大水田地帯が出現するようになります。また、水不足の土地にも遠くから用水が建設されて、ますます水田が増えました。特に富山県では、平地のほとんどが、江戸時代に水田化されました。神通川からも何本もの用水が引かれ、流域の水田を潅漑しています。
 神通川からの最大の農業用水は牛ケ首用水です。牛ケ首用水は、水不足に悩んでいた呉羽山丘陵の北側に拡がる平野の農民たちの願いに対し、加賀藩が費用を全面的に負担して着工した用水で、最初は山田川から、続いて井田川からも取水して、寛永元年(1624)から9年の歳月をかけて完成し、2万5千石あまりの水田を潤した大用水です。富山藩分立後にさらに神通川から取水した大量の水を加えることにより、これらの河川からの新たな用水の取水を可能にし、神通川流域における水田面積の飛躍的な増大をもたらしました。配水する水田が富山・加賀両藩にまたがるため、両藩で共同管理を行っていた珍しい用水でもあります。今は神通川第三ダムから取水しています。
 江戸時代の後期の文化年間(1810年代)には、舟倉用水が開削されています。これは、神通川の支流の長棟川から崖づたいに、今の大沢野町船峅地区の台地に引かれた用水路で、これにより、水不足で開田できなかった高台に一気に水田が開かれました。この少し前に、大久保用水が開かれ、さらに明治に入ってからはそれらの間に大沢野用水が引かれています。
 このように、簡単には水を引けないような高台(極めて古い扇状地の削り残されたもの)になんとか水を引いて徹底的に水田を造成した結果が、富山県の耕地の中に占める水田の割合を日本一にしてきたのです。
 明治32年には、大久保用水の分流が崖を落ちる落差を利用して、富山県最初の発電所が建設されました。現在の北陸電力大久保発電所です。さらに、明治44年には、細入村の庵谷に2,600キロワットの出力をもつ本格的な水力発電所が完成し、次第に発展する富山県工業の基盤を支えることになります。
 続いて大正8年には庵谷第二発電所が、さらに当時東洋一といわれた蟹寺発電所(現関西電力所属)が大正14年に、送電を開始しました。神通川の電源開発は、昭和20年代の終わりには、3つの大きなダムの建設によって再び本格化し、その後も上流や支流に多くの発電所が建設されました。神通川水系の発電所は56を数えます。
 先に述べた牛ケ首用水にも、5か所に発電所が設けられています。いずれもかわいい発電所ですが、神通川に限らず、平野部を流れる農業用水に極めて多数の発電所が設けられているのも、水の国富山の風物詩といえましょう。
 
5.神通川と現代生活
 今までに述べたように、神通川は、農業・輸送・発電といった人間の暮らしの基本的なものを支える長い歩みを示してきました。河川改修も進み、大きな被害をもたらすような洪水も、今はほとんどありません。そして現代の生活に都市的な要素が増えて行くにつれて、川は貴重な自然とのふれあいの場として、強く認識されるようになってきました。この点で、特に富山市を流れる神通川の役割は大きいと思います。
 上流部の宮川、支流の高原川には随所に急流の部分が残り、毎年アユが放流されて多くの釣り人を楽しませています。かつて鉱毒のためにあまり魚の住まなかった高原川にも魚が戻っています。神通川第一ダムの湖水では、昭和30年代に貸ボートや遊覧船の営業がいちはやく行われていました。毎年のように全国制覇を成し遂げている八尾高校ボート部は、第二ダムを本拠地としています。
 第三ダムの下流から富山空港付近までは、かなりの早瀬が大小の礫の間を流れており、格好のアユ釣り場となっています。夏の休日にはずいぶんたくさんの人が、釣り糸をたれているのが見られます。イカダ下り大会のようなイベントも、若い人達の主催で、数年前から実施されています。
 富山空港から下流になると、川の勾配はやや緩くなり、河原にはヤナギ・ススキ・ヨシなどが群生し、チドリ類・シギ類・セキレイ類など、多くの鳥類が生息しています。また、富山市の中心部に近い安野屋地区では、高水敷の部分が河川公園として整備され、いろんな催しが行われています。毎年8月1日に開催される花火大会も、すっかり定着しました。
 このように、かつては氾濫をくりかえした神通川も、発電や農業用水といった実用的な面だけではなく、現代の地域生活の中に、貴重な自然とのふれあいの機会を提供してくれるようになってきています。しかしわたしたちは、川の持つ素晴らしい価値をまだまだ十分には利用していないように思います。水に恵まれた富山県にあって、ふつうの生活の中に河川のもつ価値をしっかりと組み込んでいくことこそ、大都市では実現できないすばらしい地域生活を創造していく大前提となるのではないでしょうか。
6.未来の神通川−都市地域における水辺空間の創造−
 現在の富山市には、神通川の本流だけではなく、松川やいたち川があり、さらに、かつて富山港から富山駅の北側まで引かれた運河が残っています。このような豊かな水あふれる空間をどのように整備すれば、地域生活に類いまれな価値を付け加えることができるのかを、われわれは真剣に考えていく必要があります。そのことによって、地域が、他の地域には見られない輝きを発するようになるのです。
 もちろん行政の方でも、このような水辺空間の全体の将来像は完成してはいません。しかし、都市計画・河川・港湾といった担当部局で、さまざまな構想が練られ、基本的な調査が実施されて、その作業の責任分担が決まりつつあるようです。それらを簡単に紹介することにしましょう。
 まず、昭和60年には、「とやま21世紀水公園神通川プラン」という形で、神通川を軸とした水公園ネットワーク整備構想が出されています。その考え方の基本は、「豊かな水と緑を、新しい視点からの未来のまちづくりの中でも尊重し、うるおいのある県都を創る」というものです。そして、「国際的水準の快適性(アメニティ)と、個性的な地域風土性(アイデンティティ)を備え」ることをめざしています。このような基本姿勢に基づいて、富山港・運河・神通川本体・松川・いたち川などを7つの地区に分け、それぞれの性格づけを行っているのですが、このような大きな全体構想を基本にしながらも、最近では、さらに細かいレベルで検討が進められています。
 水公園プランの7つの整備地区の中で、運河・舟だまり地区には、カナルパーク構想があります。水と緑のオープンスペースとして、水公園ネットワークの中心に据えようというものです。この舟だまり地区は、現在あらためて「都市MIRAI構想」のもとで都市施設の整備が進行中の富山駅北地区に接しています。ここに生まれる新しい諸機能とカナルパークが一体となって、都市としての整備が比較的遅れてきた富山駅北地区が生まれ変ることは、富山県全体にとっても望ましいことです。
 さらに、港と運河全般に関してはポートルネッサンス構想が生まれ、カナルパークを含む形で、港湾と運河が現代生活に提供できる新しい価値の創造が図られています。
 神通川本体については、昭和62年に「うるおいをはぐくむ神通川をめざして」という副題のついた、河川環境管理基本計画が策定されています。
 以上のような多くの構想は、政策の立案としては県や市の多くの部局にまたがりますし、国レベルでも建設省河川局・都市局・運輸省港湾局などがかかわります。行政の中では、水というものを統一的・総合的に一つの部局で把握するようにはなっていません。しかし、地域は総合的な存在であり、水はあくまで水として人間にかかわるのです。運河の水質の改善の問題にしても、全体的な水の利用と配分のシステムを考えなければ実現しないことは明らかです。多くの制度上の困難をのりこえて、水というかけがえのない存在が日々の暮らしにうるおいをもたらしてくれるシステムの構築が急がれます。神通川の未来が、川の存在に恵まれた地方都市と川のすばらしい関係のモデルになるように、そしてその結果、過去になかったような価値を地方都市が持つ日が来るように、期待したいと思います。
(みやぐち としみち・早稲田大学教育学部教授)
−平成3年3月16日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在で表示しています
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