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テレビ放送講座 昭和63年度テキスト「第1回 立山まんだらと山岳信仰」


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TOP 第1回 立山まんだらと山岳信仰 高瀬 重雄

(一)
 純なるもの、清浄なるものを求めてやまぬ人びとは、違い昔から山に入り、山に登り続けて来ました。
 高きもの、永遠なるものを愛してやまぬ人びとは、山林を遊行(ゆぎょう)し、岩窟で夜を明かし、天に近い清浄の山の頂で、ご来迎を拝しました。
 都の春は水ぬるみ、桃の花も咲いているのに、弘法大師空海よ、あなたはなぜ、寒い山の中にひとりこもっていらっしゃるのですか。都へ出ていらっしゃいと良岑安世(よしみねやすよ・785〜830)は申しました。
すると空海はこれに答えました。「山中に何のたのしびかある」という詩がそれです。
 山鳥ときどきに来って、歌ひとたび奏す。
 山猿軽くをどって、伎(わざ).倫(ともがら)に絶へたり。
 春の花、秋の菊、わらって我に向へり。
 暁(あけ)の月、朝の風、情塵(せいじん)を洗ふ。
つまり山の中こそは、自然を友としながら濁世(じょくせ)の塵(ちり)を洗い不生不滅の法身(ほっしん)を保つことができる清浄の世界だと空海は申しました。
 空海のこの詩は、千年前の山岳讃歌にほかなりません。
 実は日本の高山の多くはこの空海や最澄の時代から登頂されはじめました。勝道上人が日光の山の頂をきわめた記録が、ほかならぬ空海の手によって書き残されております。しかもそれは、世界における高山登頂記録の最も古いもののひとつです。
 日本の山々は、もともと神がうしはくところと考えられました。また山は、神に他ならぬという考えもありました。天にそびえる山は、天空に最も近い。神が天にましますならば、山は神に最も近い。神が天から地上に天降(あも)りますには、山の頂が適切であって、山の頂こそは天と地の接点、神と自然の接点だと人びとは考えたのであります。しかしやがて、天台宗や真言宗のいわゆる密教の僧徒が山に入り、山路を辿り、山の頂きを極めるようになると、山々は密教のもつ自然や山の考え方にいろどられるようになりました。そして、神と佛が習合した特殊な宗教儀礼が発達しました。それが修験道であります。修験宗は、明治のはじめに禁止されましたけれども、しかし神仏習合は、千年の長きにわたって、特色ある山の宗教を形成していたのであります。
(二)
 ところでマンダラというのは、もともと佛教とくに密教のなかにあった概念であります。梵語のMandalaであります。輪円具足と訳したり、また本質と訳したり心髄と訳したりしますが、要するに諸仏・諸尊のさとりの世界を表現したもの、またはさとりの世界を表現した絵図の意味であります。四種曼荼羅や両界曼荼羅などの別がありますけれども、そうした曼荼羅絵をかかげながら礼拝・法要をいとなむことが、日本の密教寺院では、しばしば行なわれていました。
 しかもそうした曼荼羅絵を描くことは、山の宗教のなかにも取り入れられるようになりました。日本の山々には、それぞれの山の名をつけた曼荼羅絵が、今日もあちこちに残されるに至りました。なかでも熊野曼荼羅図が、もっとも有名ですが、富士山曼荼羅もあれば、白山曼荼羅もあれば、また立山にも立山曼荼羅絵が残されているわけであります。
 私が今日まで拝見しました立山曼荼羅は、大体25点ほどであります。その25点を、つぶさに観察いたしますと、第一は芦峅寺系のもの、第二は岩峅寺系のもの、第三は第一、第二の系統には属さないものの3種類があります。第一のものは、芦峅寺の寺社建築が強調され、とくに布橋大灌頂の儀礼が強調されている特徴があります。また第二のものは、岩峅寺の諸堂宇が大きく描かれているのが目立ちます。そして第三のものは、一、二のいずれの特徴も明確でないものであります。
 また現存の立山曼荼羅絵は、様式的には三幅対にしたてられたものもありますが、四幅対に仕立てられたものが最も多く、一幅仕立てはすくないようであります。最近は、こうした立山曼荼羅絵の遥かな源を、遠くシルクロードの絵画に求めようとする研究もあらわれて、庶民生活に密着した宗教絵画または絵とき文学の素材として、世人の注目をあびてきている次第であります。
(三)
 そこで立山曼荼羅絵は、何を描いているのかということを、四幅対の絵から抽出して考えてみます。曼荼羅である以上は、諸尊のさとりの世界の表現であります。なかには、胎蔵界と金剛界のマンダラの世界の表現もないではありません。立山の登山口にあたる芦峅寺や岩峅寺は、胎蔵界に相当いたします。しかし弥陀ケ原を登りつめて、岩山ばかりの立山の峰や、剣の峰は、金剛界に相当いたします。そして道中のいたるところにさとりをひらいた諸佛・諸菩薩が止住するという表現をみますと、立山曼荼羅絵も、たしかに諸尊のさとりの世界の表現であるということができます。
 しかし立山曼荼羅絵は、密教絵画の両界曼荼羅絵などと著しくちがって、多くの絵のモチーフがまざって描かれています。それらのもろもろのモチーフを、あらかじめ分離認識した上で、拝見いたしませんと、立山曼荼羅絵を十分理解することはできません。実際は、立山曼荼羅絵は、山の御師たちによって、絵解きされてはじめて一般に理解し得るものでありましたし、絵解きのためのせりふの台本が何種か今日も残っています。そういう台本を検討しましても、おおよそ次のような色々なモチーフをもって描かれていることがわかります。
(四)
 第一は、立山開山縁起です。佐伯有頼が、飛び去った鷹を求めて山中に入ると、熊があらわれる。矢疵をうけた熊が、山頂の方にむかって逃げ、ついには山頂ちかくの岩窟に逃げこむ。有頼が岩窟の入口に立つと、矢疵をうけた筈の熊が、たちまち阿弥陀如来のすがたであらわれた。有頼はこの金色の阿弥陀如来の出現に感激して、佛道に帰依しました。そして慈興上人とよばれる立山の開山として仰がれるようになったという縁起であります。立山曼荼羅絵の第一のモチーフは、こうした立山開山縁起を説話画として描写することでありました。
 立山曼荼羅絵の第二のモチーフは、山中に展開する地獄と極楽の描写であります。人里を遠くはなれた山の中に、地獄と極楽があると考えられたのは、立山に限るわけではありません。しかし立山の地獄は、古代以来広く喧伝されておりました。地獄をつかさどる帝釈天が止住する山だと考えられていました。地獄には閻魔(えんま)王庁・奪衣婆(だついば)・火の車・賽の河原(さいのかわら)・畜生道(ちくしょうどう)・餓鬼道(がきどう)・修羅道(しゅらどう)などが描かれています。血盆経供養(けつぼんぎょう)・施餓鬼(せがき)法会などの様子も描かれています。立山の地獄に堕ちて苦悩のどん底につきおとされた霊も、佛菩薩への供養をつむことによって、やがては極楽浄土に往生することができることを示しているのであります。
 また立山曼荼羅に示される極楽浄土は、阿弥陀如来の浄土であります。人は地獄の谷からはい上って、けわしい立山の頂上に至ると、そこではじめて阿弥陀如来の来迎(らいごう)にあうことができます。如来は観音(かんのん)・勢至(せいし)をはじめとする25の菩薩とともに、五色の雲にのりながら人の霊を迎えて下さるという浄土教の信仰による絵図であります。二十五菩薩は、それぞれ楽器を奏でて、微妙な交響楽を奏しながら人の霊を迎えるというわけであります。立山山中に、浄土山と名づけられた峰があり、弥陀ケ原と名づけられた高原があり、称名滝と名づけられた滝があります。高原には供鳴鳥(くみょうちょう)がさえずり、四時を分たず美しい花も咲きみだれていると説かれたわけであります。
 以上のように立山山中には、地獄と極楽とがともに展開しているとされたのでありますが、地獄がとくに強烈な印象をいだかれていたとみえまして、『今昔物語』に出てくる立山関係の説話は、いずれも立山の地獄におちこんだ亡霊の話ばかりであります。しかし地獄におちた亡霊といえども、たとえば観音さまを供養することにより、または地蔵さまの救助の手によって、極楽浄土に往生することができるという構造の説話でありました。
 思うに地獄は、苦悩にみちた世界、いわゆる六道悪趣(ろくどうあくしゅ)の世界であります。しかし、人は苦悩の谷が深ければ深いほど、安養の浄土を欣求(ごんぐ)する願いが切実であります。安養の浄土、清浄の聖地は、地獄の谷から遥かな道をよじのぼって、山頂に至ったときにはじめて到達することができたのであります。立山曼荼羅は、この地獄から極楽への道程を、こまやかに描いているとみることができます。
(五)
 第三には、布橋灌頂会の様子が描かれます。布橋灌頂会は、芦峅寺の閻魔堂から布橋を渡って、姥堂にいたる間で行われます。布橋には、白い布が敷き渡されてありますが、この橋の上の白い道こそは、此岸から彼岸に渡る道であり、現世と来世をつなぐ道でもあります。
 布橋大灌頂会は、秋の彼岸の中日に行われる例であって、この日は閻魔堂も布橋も、また姥堂も、万燈や幡や供物で美しく荘厳(しょうごん)されます。まずはじめに閻魔堂のなかで、立山の別当を導師とする法要が行なわれます。法要が終ると、布橋を渡って姥堂へむかう僧徒の行列がはじまる。これを「行渡り」と申します。此岸から彼岸へ、亡者を行渡すという意味であって、姥堂の前には「来迎使(らいごうし)」とよばれる高僧が立って行列をまちうけます。一行が姥堂に入ると、姥尊に対する供養がはじまる。姥尊は、立山の開山者慈興上人の母なる神だといわれてもいましたが、姥尊への供養は、離苦得楽・往生浄刹の祈りに他ならぬともいわれていました。
 けれども姥堂は、他面で「女人成仏の霊場」とも記録されております。7月15日の大施餓鬼会には、女人救済のための血盆経(けつぼんぎょう)の儀礼が行なわれていました。ですから女人は、山の頂きに登ることは禁制されていたけれども、秋の彼岸の布橋灌頂会に参詣することによって、救済されて、成仏することができると説かれていました。布橋灌頂会には、白装束に身をかためた女人が、僧徒の行列の先に立って歩みを続け、来迎使のおむかえをうけたのであります。
 この布橋灌頂の行列は、立山曼荼羅が描く特色ある儀礼のひとつであります。最近の民俗学者は、布橋灌頂こそは、擬死再生の儀礼にほかならぬのではないかとして、注目をしております。擬死再生というのは、ひとたびは白い死出の装束をつけて閻魔王のさばきをうけ、彼岸への行列とともに姥堂に入って供養をすますと、身も心も清浄となり、再び此岸に生まれかわることができる。そのための儀式であろうというのであります。
 死するということは、母なる姥の胎内にかえることに他なりませんでした。姥の胎内に帰ることは、即ち再生を可能にすることであり、それによって永遠の生命、不老長生が得られるのだと考えたのでありましょう。
(六)
 第四に立山曼荼羅絵は、山中のあちこちに多くの佛たちが止住したことを示しています。立山山頂に来迎する阿弥陀如来、阿弥陀にしたがう二十五菩薩のほかにも、山中のあちこちに尊い諸佛・諸菩薩があって、さとりの境地をひらいているというのです。
 それを立山の十所の王子とよび、また立山の十二所光佛とよんでいました。十所の王子や十二所権現の止住を山中に設置することは、吉野から熊野への山中をはじめとして、日本の各地の山々にみられたのでありますが、立山にもこれはみられたのであります。
 さらに一言しますならば、立山山中の雄山のあのごつごつした岩山は、岩山そのものが佛体にほかならぬともされていました。そして一の越(こし)は佛体の膝に当り、二の越は佛体の腰にあたり、三の越は肩に当り、四の越は首、五の越は佛面であるというのであります。そして五の越の佛面には、阿弥陀如来を本地とする立山権現がおわしますというのであります。
 私はいささかくだくだしい説明をしたきらいがありますが、立山といえばすぐに地獄と考え、諸佛・諸菩薩の止住を重視しない傾向があったのは事実であります。しかし、地獄だけがあって、諸佛・諸菩薩のない世界は、曼荼羅絵とはいい難いのです。それは地獄絵ではあっても、曼荼羅絵とよぶことができません。曼荼羅絵は、諸佛・諸菩薩のさとりの世界を表現しているものだからであります。
(七)
 第五には、立山禅定(ぜんじょう)名所案内の一面をそなえています。立山曼荼羅は、立山信仰の布教のための絵解(えと)きに使う説話画でありました。しかし同時に、立山に集って来る禅定人(ぜんじょうにん)に対する山中の名所案内の性格にもなっておりました。名所案内の図は、芦峅寺や岩峅寺の宿坊で発行された一枚刷りの木版画もありましたけれども、立山曼荼羅絵のなかにも山中あちこちの名所が記入されていて、禅定入山者に対する名所案内の性格も盛られているのであります。
 たとえば、材木坂や美女平、勝妙の滝や鏡石(かがみいし)などの多くの名所が記入されておりまして、曼荼羅を絵解きする場合には、これらの名所にまつわる不思議な伝承も、解き明かされました。止宇呂(とうろ)の尼が、木材をまたいだので、木材は一夜にして石材に化してしまったというような伝承であります。また4段に分かれた勝妙滝はすなわち佛体であって、上段は大日如来、二段は阿弥陀如来、三段は不動明王、四段は観音菩薩であると説明されたのでありまして、ここにも自然は佛体であるという修験道的な世界観が秘められていたのであります。
 第六には、日月照光の世界が描かれております。すなわち立山曼荼羅の右上のところに紅(くれない)の日がえがかれており、左上のところに白い月が描かれて、この山は日月照光の霊山にほかならぬことを示しております。
 日月照光ということばは、古く『日本書紀』や『日向風土記』にみえておりまして、いわゆる日向の高千穂の二上の峰を日月照光といっております。そこにはカムロギ・カムロミの二柱の神があるとされたり、男女二柱の神があって、陰陽和合・男女歓楽の山を意味したのであります。
 中国で理想郷とうたわれた蓬 山も、紅日と白月の相会するところとされていましたが、そういう思想をうけついで、立山も紅日と白月の相会する理想の山という意味をこめたのかも知れません。そこは万穀豊穣・天下泰平・諸民安穏の世界だというのであります。
 もっとも立山では日月燈明神を意味し、日月燈明神の本地は、炎高地蔵菩薩にほかならぬと申しまして、神佛習合的な解釈をほどこした文献もないではありませんが、私はむしろ『日本書紀』に記す日月照光の山、永遠の生命が躍動する山という意識が、底流していたにちがいないとみております。
(八)
 立山曼荼羅は、以上申しましたような6種類ぐらいのモチーフを、ひとつの画面にもり込んで描かれております。したがって、それは、複雑な内容といわねばなりません。複雑な内容をはらみながら、しかも全体としては、諸佛・諸菩薩のさとりの世界を表現したのであります。あるいは、諸佛・諸菩薩のさとりの境地、すなわち佛教的な宇宙観をあらわしているといっても過言ではありますまい。
 ではこのような曼荼羅絵が、現代の社会にとって、どんな意味があるのか。なぜいま、曼荼羅が世人の高い関心をよんでいるのかという問題があります。
 ある宗教学者(頼富本宏教授)は、こういうことを申しております。
 現代のように価値が多様化して、唯一絶対の座標軸ではとうてい規定しにくい時代。しかも互いに同一次元の関係論にのみ熱中して、心の自由性が希薄になっている時代。こういう時代には、より高次の立場からあらゆるものを活かし、そして何よりもわれわれの生命の燃焼を基本とする宗教とくに密教が求められるのではないか。また密教のシンボルとしての曼荼羅の意義が求められているのではないか。
と。たしかにそうかも知れませんが、立山曼荼羅に関する限りでもうすこし別ないい方で申してみたいのです。かつて立山に入山した多くの人びとは、地獄におちた自分の親族にあいたい気持でした。山中の難行苦行は、山の中に地獄があるだけではないことを知らせました。浄土があることも知らされるのです。それは頂上におもむいて、山頂における無類の大景観に接したとき、そこでは、二十五菩薩の美しい交響楽の音がきこえ、五色の雲に乗った阿弥陀如来の来迎がありました。人は、神仏と大自然との接点に立ち、清浄のよろこびにひたるのでした。すなわち極楽の世界なのです。
 立山に登ることの目的は、地獄など六道悪趣の世界を経ながら、しかもそれを脱し、清浄無碍(むげ)なる極楽に至り、身も心も清められて、再び地上にうまれかわることにありました。そしてこのことこそ宗教登山とよばれるゆえんでありました。穢悪(えお)から清浄への旅立ち、心身ともに清められて、地上にうまれかわるわけであります。
(九)
 しかし時代の進展とともに登山の目的そのものにも幾変遷がありました。宗教登山から探検登山へ、探検登山からスポーツ登山へ、さらにレクリエーション登山から現代はレジャー登山の時代といわれます。女性も子供も、山の清浄ななかで、山を楽しむことができます。雪の多い冬季でも、スキーを楽しむ人びとがたくさんあります。
 しかし現代の登山では、山に対する敬虔な気持はすくなくなりました。山は神佛のおわします清浄の地であることを意識する人はすくなくなりました。地上の穢悪を山中にもたらして、自然破壊だけが進むという傾向さえないではありません。つまり宗教登山の姿は、まるで失われて参りましたが、果してこれでよいのかという反省もまた起っているのです。
 私はこの稿のはじめに「純なるもの、清きものを求めてやまぬ人々」が、山へ登ったと申しました。「高きもの永遠なるものを愛する人々」が、山路に入ったと申しました。山ふところに余暇を過すだけでも結構ですが、しかしやはり、純真な気持、崇高なものを仰ぐ気持も養っていただきたいと思います。それには、立山曼荼羅に描かれている佛菩薩のさとりの境地について、多少なりとも理解をふかめていただくことが大切です。
 私は最後に、現代の詩人前田鉄之助氏が、立山連峰の剣岳をよんだ詩の一節を引用したいと思います。「剣岳に対す」と題してあります。
県民カレッジ 注
 前田鉄之助氏「剣岳に対す」は、著作権法に基づく許諾をいただいた上で掲載することとしています。
(たかせ しげお・富山大学名誉教授)
−昭和63年10月16日放送−
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