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テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第8回 未来へつなぐ道 =道・その多彩な姿と役割=」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第8回 未来へつなぐ道 =道・その多彩な姿と役割= 宮口 侗廸

はじめに
 いままでの7回の講座では、どちらかと言えば富山県の方々に身近な道や街道の歴史や文化が、語られてきました。今回は最終回ということでもありますので、思い切って視野を広げ、歴史上重要な古今東西の道、あるいはおもしろい役割を持った道などについてさまざまな姿と役割を紹介し、現代にふさわしい道の役割について考えてみたいと思います。
1.遠距離を結ぶ昔の大街道
(1)道のシステムによって成立した大ローマ帝国
 「ローマは1日にして成らず」ということわざは誰でも聞いたことがあると思いますが、「すべての道はローマに通ず」をご承知の方も多いことでしょう。このことわざに出てくる「すべての道」は、もちろん自然に存在したものではなく、ローマ帝国がヨーロッパに勢力を拡大していく過程で、作られていったものです。この道路は軍団の進む道となり、後には、それぞれの地域を治めるために建設された数多くの都市を、きちんとローマに結び付ける道路網となりました。一時的な軍事キャンプが都市に発展した例も多く、−casterとか−chesterという語尾を持つ地名の都市がそうだといわれています。
 ローマ帝国は、もともと地中海という、静かな海を舞台とした物資の輸送を基盤として成立した帝国です。広大な帝国が成立するためには、地方からの物資と情報を絶えず集めることと、地方に対して権力を行使できるシステムが必要です。ローマ帝国はアフリカの北岸から今のイギリスの北部までを支配下におき、しかもかなり長くその状態を維持したという点で、世界史上空前の存在ですが、その陰には、周辺を治める都市群をきちんと結び、ローマに繋ぐ、立派な道路網の存在があったことを知ってほしいものです。
 現在でも、ヨーロッパの各地ではローマ時代の道路がそのまま用いられています。緩やかにうねる大平原をはるかに真っすぐにのびるローマの道に立つと、映画で見た大軍団の姿がはっきりと浮かび上がってくることでしょう。
(2)超遠距離輸送の元祖=シルクロード=
 少し前、日本にはシルクロード・ブームが起こりました。中国が西域を外国旅行者に開放し、多くの日本人が、あの大乾燥地域に点々と連なるオアシス都市を訪れましたし、テレビでも多くの放送がありました。
 シルクロードは古代のロマンとして情緒的な日本人の憧れの対象となってきましたが、そのルートは、砂漠の岩山をぬう、とても道とはいえないようなものです。きびしい自然に加えて略奪の危険は極めて大きかったに違いありません。そこにこのようなルートが成立したのは、やはり、ローマと古代中国という絶対的な権威が東西にあって、その間を繋ぐことが確実で莫大な利益をもたらしたからです。当然ながらこの輸送に従事した人達は、大もうけをたくらむ商人と、その日暮らしの人夫と用心棒たちだったことでしょう。もちろん、幾つもの中継地をへて文物が運ばれていたわけで、このルートは多くの交易都市を成立させることになりました。
 わたしはイランで遠い昔の隊商宿(キャラバン・サライ)の廃墟をいくつか見かけたことがありますが、そのうちの一つは、塀をめぐらし、門のところが見張り台になっている砦のような立派な建物でした。隊商が運ぶ貴重な品物を外敵から護ることがこのような宿の役割だったからです。ペルシャ方面からは、胡瓜・胡桃・胡豆・胡麻・胡弓など胡のつくもののほか、柘榴・葡萄などが、唐の長安に伝えられたと言われています。古代中国が内陸に都をもつ大帝国であったことも、このような陸路の成立にかかわっているのではないでしょうか。
 また、西からもたらされた品物の一部が日本にまで運ばれていることもよく知られています。
(3)東海道五十三次=日本的秩序の成立=
 さしたる武力をもたない人間が安全に長旅をすることができるためには、その途中において安全をまもる制度が出来上がっていなければなりません。たとえばお金を払って宿に泊まることができるとか、おいはぎを捕まえる役人がいるとかいうことです。鎌倉時代に日本にも襲来した元は、その広大な領域に駅逓制度を確立したことでも知られています。マルコ・ポーロがアジア大陸の東まで旅をすることができたのはそこにそのような秩序があったからなのです。
 江戸時代の日本は、それぞれの大名の統治する藩に分かれていましたが、最も多くの人が行き来した東海道には、五十三次と呼ばれる宿場町が設けられ、普通の人が気軽に旅に出られるようになりました。このような制度ができるためには、共通の通貨が作られる必要がありますし、それぞれの地域の社会制度にもある程度の共通点を必要とします。長期にわたって鎖国を維持した徳川政権の秩序のもとで、東海道を代表とする幹線道路には、大名行列のみならず、多数の商人やお伊勢まいりの庶民などが行き来するようになりました。
 このような動きの中で、現代にも伝えられている各地の特産品が広い範囲に売りさばかれるようになりましたし、土地の名物と言われるような料理・食品の類いが旅人に供され、全国に語り伝えられるようになったわけです。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、当時の庶民の旅がおもしろおかしく描かれています。
2.都市と道(街道)
(1)ローマ時代の都市と街路
 ヨーロッパ文明のふるさとはギリシャとよくいわれますが、古代ギリシャはまさに都市国家でした。そしてその後、ローマ帝国は広大な領域に多数の都市を作りました。これらの都市はキヴィタス(Civitas)と呼ばれましたが、実はこの言葉から今の英語のシヴィライゼーション(Civilization 文明)という言葉が出来たのです。ヨーロッパにおいて都市とはまさに文明の象徴なのです。これらの都市は城壁で囲まれ、農村部とはっきり区別されました。その中に住める人が市民であった訳で、市民権という言葉はここから生まれました。
 ローマ帝国がつくった都市は、直交する大通りを中心とした格子状のパターンをもっていました。大通りは馬車とか軍団の通行を前提にした十分な幅をもった道路で、この交差するあたりには、礼拝施設、行政機関、貯蔵庫、市場、図書館、学校などの重要施設が集まっていました。この交差点は市民が集まる会のための広場でもあり、フォールム(forum)と呼ばれました。これが現在使われているフォーラムという言葉の起こりです。現在でも、いくつかのヨーロッパの都市の中心部に、ローマ時代の格子状の道路パターンが残っています。図に示したものは、一部点線の箇所で建物がかつての道路の場所をふさいでいますが、ほぼ完全にパターンが残っている例です。
 このように、古代ローマにおいては、都市を作ることはまず街路網を作ることでした。そして、道路が広場の機能を持つものと最初から考えられていたことを知っておく必要があります。これらの考え方は現在でもヨーロッパの都市に受け継がれていて、都市に住む人の住所は、通りの名前と建物の番号で示されます。街路がまずあって、その両側に家が並んで一つの町を作るわけです。ロンドンやパリのような大都市でも、タクシーは、通りの名前と家の番号を言うだけで、きちんとその場所へ運んでくれます。また、交差点の中央が島のような広場になっていて、モニュメントや花壇があったりします。
(2)近代的都市内道路システム=ブルヴアールの建設=
 パリの凱旋門からセーヌ川の北岸へ向かって真っすぐ伸びる広い通りがあります。有名なシャンゼリゼー通りです。それまで存在した小さな道を突っ切って作られたこのような広い通りを、フランスではブルヴァール(boulevard)と言います。これは時の権力者が、眺めても美しく、かつ自らが馬車で隊列を引き連れて通行するために建設した通りで、このために多くの居住者が強制的に移動させられました。
 ただ、このような道路は、多くの重要な拠点を持つ近代都市の中を能率的に結ぶことができるために、都市計画には欠かせないものとなっています。アメリカ合衆国の首都ワシントンの都市計画には、フランス人のプランナーのブルヴァール・システムが採用されました。東京では、オリンピックの際につくられた青山通りがそのような雰囲気を持っています。
3.日本の都市と道路
(1)京都における道路名称の多彩さ
 「日本の道路には名前がない」とか「日本語には道を表す語が少ない」と、よくいわれます。確かに都市の中を走る道路で名前のないものはたくさんありますし、道路の両側が一つの町になっている例よりは、各町内の境界線が道路の上に引かれている例のほうが多くなっているように思われます。
 しかし、日本の古い都市には極めて多彩な街路の名称がつけられていますし、町というものも通りの両側が一つの単位であるという例が、大変に多いのです。たとえば京都には、大路・小路・十字・辻子・町通り・突抜というような多彩な街路名称があり、それらはみなきちんと、あるタイプの道路を指している名称なのです。大阪のような新しい城下町では、これに筋が加わります。
 京都は平安京の時代には大路と小路で正方形の単位に区画されていましたが、中世を通じてこれらの一部が商業地化し、道の両側に間口の狭い(1間〜2間半)町屋がぎっしりと並ぶようになって、これらが一つの町の単位となる町通りが生まれました。辻子というのはこれらの間に派生した通りで、町通りになる前の段階に対して名付けられたもので、突抜というのは家並みを突き抜いて既存の道を延長し、他の街路につないだ場合につけられた名称です(足利健亮著『中近世都市の歴史地理−町・筋・辻子をめぐつて−』にくわしく論証されています)。
 これに対して近代以降の急速な都市の拡大は、道に囲まれた農地のブロックを単位とした町の区画を普及させ、道自体が単に通行のためのものとなり、人を呼び寄せるという機能を持たなくなってしまったのです。住所を表現するにも、農地の地番を細分して用いざるを得なくなり、これが複雑すぎるために住居表示というものが導入されることになったわけです。この制度の導入にあたって、都市における街路の歴史的意味に無頓着に、ブロック式に町を区分けした例がかなり多く、このあたりがヨーロッパと大きく違って来ています。
(2)八尾の町並みとおわら・曳き山
 地方の古い町にも、道路そのものが町であるという姿を残しているものがあります。富山県にもいくつかみられますが、おわらで有名な八尾町はその典型的な例です。山地の端の狭い土地に、道路を挟んで間口の狭い町屋がぎっしりと並び、道の両側がまとまって一つの町をつくって来ました。これがおわら風の盆や曳き山というすばらしい行事の単位にもなっていることはよく知られています。
 八尾の人々が加賀藩に願い出て町をつくったのは寛永13年(1636)のことですが、このときまずつくられた東町・西町、また少し後からつくられた上新町・諏訪町など、背中合わせになった2列の町並みをみると、道すなわち町という雰囲気がよくわかると思います。
 なだらかな坂道に間口の狭い家並みがぎっしり並ぶ中での、八尾のおわらと曳き山は独特の雰囲気を作り出して来ました。特に胡弓の音色とともに繰り広げられるおわらの町流しは、今やこの世に二つとない、究極の日本美を浮かび上がらせるものに育ちました。これらの通りは、自動車の通行や駐車といった面では現代生活にそぐわない問題点を指摘されますけれども、日本の都市が失ってきた、都市が本来的に持つ、しかも美となって結実した姿がここにあるということを知ってもらいたいと思います。
4.道の上のパフォーマンス
 おわらや曳き山は、神輿・獅子舞あるいは軍隊の行進とともに一種の路上パフォーマンスともいえます。マラソンや駅伝なども道路あっての競技です。このようなきちんとした形式を持つものばかりではなく、道の上には古来さまざまなパフォーマンスが繰り広げられてきました。
 スペインなどでは、歩道に絵を描いている人の姿が目立ちます。特に夏はほとんど雨が降りませんし、もともとこのような行動をとがめる習慣が余りないようで、それをきれいだなと思う人がわずかなお金をおいて行きます。もちろん今でもヨーロッパには大道芸人はたくさんいます。先日パリへ行ったときは、地下鉄の中で楽器を弾いてお金を集めて回る人さえいましたし、ノートルダム寺院の前の通りでは、ジュースの空き缶を並べて、ローラースケートでその間をジグザグに通り抜けるパフォーマンスをやっていました。このように、都市の街路は市民のものであるという感覚が、ヨーロッパではあたりまえのようです。
 日本でも最近は休日の歩行者天国が一般化してきましたし、東京の原宿の竹下通りに集まる若者のパフォーマンスはすっかり有名になりました。野球の日本シリーズや大相撲の優勝のパレードも道路の利用方法の一つとして挙げておかなければならないでしょう。
5.豊かな社会における道の役割
 道というものは、本来、人間が移動したり、いろんなものを運んだりするために、人類が地上に作り出してきたものでした。しかし今までに述べてきたように、古来、道はその使命をはるかに超える働きをして、人類の生活を豊かに彩ってきたのです。特に、都市というものが人類の進んだ状態を実現したと意識されているヨーロッパにおいて、道はいろんな役割を果たしてきたように思います。それでは豊かな現代社会において道はどんな役割を担うべきでしょうか。
 まず、なんといっても現代は高速交通の時代です。日本の各地方の中心都市を結ぶ幹線道路として、高速自動車道路網は欠かすことのできない存在です。この高速自動車道路網は次第に完成しつつありますし、富山県を通る北陸自動車道も1988年に全線開通し、東京まで、マイカーで6時間程度で行けるようになりました。すべてが高速道路というわけにもいきませんが、都市の間を結ぶ幹線道路も、多くのバイパスの建設によって、物資の輸送時間は格段に短くなりました。
 一方、都市内部の道は、スピードよりもゆとりが求められるようになってきました。道路自体にさまざまな化粧が施されたり、道路わきにモニュメントを配した水辺が作られたりして、市民がゆったりと快適な時間を過ごせるような配慮が試みられるようになりました。世界に類のない経済成長で突っ走ってきた日本が、ようやく、人間性の回復に向けて動き出したといえましょう。このような動きは、経済の繁栄の後ろ盾があって出てきた面もありますが、少しの不景気で後戻りするようであってはならないと思います。市民が自分たちの世界をそこに持っているという認識こそ、精神的な安定剤といえましょう。もちろん、そこでさまざまなパフォーマンスが、市民の楽しみとして繰り広げられることが望ましいことは、言うまでもありません。
 さらに、過疎問題が騒がれるようになってから、農山村地域の道路も、格段によくなりました。山村で都会から離れて暮らしていても、かなり定期的に都市部と関係を持つことは容易になりました。一時は道路ができたおかげで過疎が進んだなどと言う人がいましたが、これは間違っています。多くの情報を得て孤立しないで暮らすことは、現代生活の最低条件です。きちんとした道路網に支えられて、山村に新しい生活スタイルが生まれることを期待したいと思います。
 人々の余暇の過ごし方も、自動車で相当遠距離まで出歩けるようになって、自由度は極めて大きくなりました。旅先でのレンタカーの利用も、ごく普通のことになりました。もちろん一方で交通事故というありがたくないものも増加の一途をたどっています。道路の発展が、天国と地獄を紙一重で分けるようになったといってよいかも知れません。このあたりからも、道路の持つ意味を真剣に考えておきたいものです。
(みやぐち としみち・早稲田大学教授)
−平成4年3月14日放送−
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