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テレビ放送講座 平成13年度テキスト「第4回 売薬は文化を運ぶ」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '02/02/09

TOP 第4回 売薬は文化を運ぶ 坂森 幹浩

売薬 越中売薬のこころと知恵 富山売薬が全国に販路を広げた理由として、「先用後利」の販売システムを早くに整えたことが挙げられる。しかし、それと並んで「進物」の魅力も得意先を惹きつけたことであろう。富山の売薬といえば、現在でも紙風船が思い出されるほど、進物との関わりは深い。また、馴染み深いパッケージデザインという点も、富山売薬のイメージ形成に役立っていたと思われる。
「進物」と「おまけ」 
 売薬進物は、現在では「おまけ」と呼ばれることが多い。しかし、「おまけ」は景品、付録だが、「進物」は贈り物であり、その意味合いは異なっている。
 売薬業は、一軒一軒の家庭を訪れる配置商法であるため、得意先との信頼関係を維持していくことが重視される。その関係維持のため贈られる品が売薬進物である。これは江戸期に売薬商人たちが、商売継続を図るため、旅先藩の藩主や重役たちに献上品を贈っていたことと共通するものである。
 このことから「おまけ」よりも「進物」という表現が正確であろう。いつの時点かに、売薬進物の使い方に変化があり、進物とおまけが混同されるようになったのかもしれない。
【江戸時代】 薬袋の様相
 配置薬の場合、薬袋にはいくつか分類がある。「上袋(うわぶくろ)」は「中包(なかつつみ)」に包んだ薬を入れる袋である。また、同一の上袋をまとめて入れる袋を「差袋(さしぶくろ)」と呼ぶ。それぞれの袋には薬品名、製造者名、そして効能などが記されている。袋以外にも、薬によっては桐箱を使用しているものもあり、そこには袋と同様に印刷の施されたラベルが貼られていた。
 江戸期の薬袋は、墨刷り一色で文字だけのものが多く、印などに朱色が使われている程度である。図柄は、熊胆が処方された薬には熊が描かれるように、一目で何の薬かが分かるようなものとなっている。例としては、虫下しの薬=寄生虫、風邪薬=達磨や鍾馗(しょうき)、子供薬=幼児、婦人薬=女性などがある。ただし、これらの図柄は、富山独特のものとまではいえず、全国の売薬産地などとおおむね共通するものと考えてよいだろう。
 この頃の薬づくりは、売薬人が自ら行う自家製造であったが、その際に薬袋も一緒に作られていた。ただ袋の印刷に使う版木は、専門の彫師に依頼しており、その技術が次に述べる「売薬版画」の基盤となるのである。
売薬版画の登場
 最初の進物といわれているのが、売薬版画(錦絵と呼ばれていた)である。江戸時代後期から明治時代後期にかけて、進物の主流を占めていた。その始まりについては未詳の部分も多いが、最初は江戸や上方の浮世絵を配ったものと思われる。浮世絵が進物に取り入れられた理由として、軽くてかさ張らないため、持ち運びに便利であった点が挙げられよう。その後、天保年間(1830〜1843)前後から、歌川広重(うたがわひろしげ)などの江戸の浮世絵作品が富山でも刷り始められたと考えられている。続いて嘉永年間(1848〜1853)になると、地元の絵師である松浦守美(まつうらもりよし)が登場し、数多くの版画作品を描いていった。
 売薬版画の最大の特徴は、ごく初期を除いて富山の版元によって、富山の絵師の作品が、富山で制作、されたことである。しかし、浮世絵に比べて色数が少なく、紙も粗悪なものを使うなど非常に安刷りであった。これは、進物という性格上、制作費用を低く抑えていたことを示している。
 主題には当時流行していた図柄が選ばれており、江戸期は名所絵や役者絵など娯楽性の高い作品のほか、暦絵や熨斗絵のように実用的な作品も制作された。それらの作品は江戸浮世絵に範を取ったものが多く、守美もしばしば江戸版からの引用を行なっている。このことからも売薬版画は、地方の人々が江戸文化の代表である浮世絵に触れるため、媒体の役割を果たしていたといえよう。
 また、富山では江戸時代から芝居が好まれ、それに伴ない浄瑠璃も大流行した。この芝居熱・浄瑠璃熱は町人によって支えられており、特に売薬人は役者絵などをただ配るだけではなく、その題材を語って聞かせたという。この「売薬さんの一ロ浄瑠璃」が、売薬版画の魅力をより高めたと思われる。売薬版画は目で見るだけではなく、語りを伴なうことによって多くの情報を伝えていたのである。また、この時期は、扇子・糸・縫針・元結なども進物として配られていた。
【明治時代】 新時代を迎えて
 明治の新時代に入っても、初期の頃は前代のデザインを踏襲した薬袋が多い。しかし、「秘伝」「秘方」「家伝」などの表記は禁止され、代わって「官許」の文字が登場した。また、政府の指導で「薬づくり」は自家製造から製薬会社へと移行していき、これに伴ない薬袋の印刷も次第に専門業者に依頼するようになった。加えて、新しいデザイン(ポンチ絵風の図柄など)も登場し、新時代の変化が現われ始めていた。
 一方、政府は洋薬尊重の方針を取り、売薬営業税や売薬印紙税などを課したため、売薬業は一時困難な時期を迎えた。しかし、それらを克服し、明治20年代になると富山売薬は再び進展し、また、製薬技術の改良(丸薬器の開発)もあり大量生産の時代に入っていった。
売薬版画の最盛期
 明治時代に入ると、売薬版画にも輸入染料が使用され初め、「赤絵」と呼ばれる強烈な色彩の作品が登場した。そして明治20年代における売薬業の成長に伴ない、売薬版画は質量ともに最盛期を迎えた。
 これに合わせるように尾竹国一(おたけくにかず・新潟県出身)が登場した。国一は明治23年から32年(1890〜1899)末まで富山で活動し、松浦守美と並び多数の作品を遺している。また、需要の伸びに合わせ、尾竹竹坡や国観(国一の弟)、竹翁、国晴など多数の絵師が登場するとともに、版元も富山市内や水橋に加えて、滑川にも成立した。しかし、多くの作品は相変わらず安刷りの範囲を出るものではなかった。
 明治時代における主題は、初期の頃は世相に合わせて開化絵も描かれていたが、中期になると役者絵が主流となる。加えて、時局報道絵(日清戦争など)が現れるのもこの時期である。このことは、売薬が得意先としていた地方の農山村部にも、より速い情報を求める「情報化」が進展してきたことを示している。
 この他、1枚に多くの役者を描き込んだ役者絵が多数見られる点も、この時期の特徴である。これは浮世絵の続物を1枚にまとめたものであり、プラスの商法である進物商法らしい付加価植の付け方であろう。また、この頃すでに、後の時期につながる動きも見られる。それは判の大小や出来具具合の上下などによる、作品のランク分けが明確になったことである。このことが後の進物の多様性につながっていったのであろう。
【明治から大正・昭和へ】 売薬版画の衰退
 売薬版画は明治30年代半ば以降、木版から石版へと印刷技術の転換が進むにつれて次第に衰え始めた。理由として、新聞や雑誌などが普及し、情報伝達手段としての役割を果たせなくなったことが挙げられる。また、色刷りの印刷物が珍しくなくなったことや、さらに写真の普及によって版画の魅力が失われたこともあろう。
 売薬版画は、最後は近代印刷へと印刷方法を変化させつつ、昭和初期まで続いた。その頃になると「喰合せ表」なども登場し、広告チラシ類に吸収されていったと考えられる。
 一方、印刷技術の発展は、パッケージデザインに多彩さを加えていった。大正・昭和期になると、当時流行のデザイン(アール・デコ調など)が取り入れられるなど、伝統的なデザインからの脱皮が進んでいった。
紙風船の登場−進物の最盛期−
 富山では明治30年代に紙風船が流行したというが、このことが進物に取り入れられるきっかけになったのではないかと想像される。小さくて軽い紙風船は、売薬人にとって売薬版画と同様に扱い易い品物だからである。進物の主流は、売薬版画から子供向けの紙風船へと移っていったのである。
 昭和初期が売薬進物の最盛期であり、当時、富山市内には、20軒以上の進物商が営業していたという。その頃の進物には、大人・家庭向け=九谷焼の湯呑・若狭塗の箸・コースター・氷見の縫針・手拭・暦・喰合せ表、子供向け=紙風船・絵飛行機・折紙・トンガリ帽子などのように、多種多様な品物があった。
 また、薬を入れ替えている時に、民謡(越中おわら節など)を歌ったり、種籾や牛耕などの農業技術を伝えるといったことは、「品物ではない進物」であったといえるだろう。
 進物は、得意先ごとに売り上げの5パーセントを目安に配られており、売上高の上下によって品物にも違いがあった。しかし、最盛期は長く続かず、日中戦争が始まると物資統制のため不要不急のものとされ、売薬進物は一時姿を消してしまった。
広告チラシ類について
 進物とともに、各得意先に配布したものとして広告チラシ類が挙げられる。広告チラシ類は、江戸期以来の引札(ひきふだ)の系譜を引くものと考えてよい。引礼は明治・大正の頃まで制作され、富山売薬でも薬種商や売薬商らの様々な作品が残っている。また、売薬版画の中にも画中に宣伝文句を入れたものが見られ、広告チラシと判別し難い作品もある。昭和になると、喰合せ表や暦などの入った多彩な広告チラシが現われるが、人々は主としてこれら作品のことを絵紙(えがみ)と呼んだのであろう。
【現在の富山売薬】
 第二次世界大戦が終わると、様々な統制が解除され、富山売薬は再び活発な行商を行うようになった。戦後、薬袋は印刷業者から購入するようになり、売薬人が薬袋づくりを行うこともなくなっていった。伝統的なデザインは姿を消していき、大衆薬と変わらないデザインが主流を占めるようになった。
 また、業界では過当競争を防ぐため、進物について高価な品は廃止して、紙風船やチラシ類に留める申し合わせを行なった。このため、現在ではゴム風船ぐらいしか見られなくなってしまった。しかし、今でも角型の紙風船を覚えている人は多く、富山の売薬人と紙風船は分かち難く結びついている。また近年、富山の薬袋のレトロなイメージが若い人を中心に人気を集めている。
 進物とパッケージデザイン、いずれも人々の目に一番触れやすいものである。そのイメージは富山売薬にとって大きな財産であろう。
(さかもり みきひろ・富山市売薬資料館学芸員)
−平成14年2月9日放送−
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