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テレビ放送講座 平成10年度テキスト「第2回 農村の住まい 〜呉東・呉西・氷見〜」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '99/01/23

TOP 第2回 農村の住まい 〜呉東・呉西・氷見〜 佐伯 安一

風雪を刻んで 〜富山の住まいと暮らし〜消えた草屋根
 いつのまにか、見なれていた草屋根がどんどん無くなって、今では文化財に指定された民家以外はほとんど姿を消してしまった。                       
 日本の民家の草屋根には寄棟(よせむね)・入母屋(いりもや)・切妻(きりづま)の3タイプがあるが、富山県では各タイプがそろっている。県下一般には入母屋であるが、砺波平野は寄棟であり、五箇山は切妻(合掌造り)である。また、氷見は入母屋ではあるが勾配がゆるく、北隣する能登と同じなので能登式入母屋とも呼ばれる。入母屋は京都を中心に東西へ広がっており、日本海側では富山がその東端である。その意味では富山の屋根型は上方の影響を受けているということができる。しかし、間取りは広間型が基調で、これはむしろ、東北に近い。このように西と東の特徴が混在しているのは東西日本の接点にある本県の位置によるもので、このことは方言や民俗など、基層文化全般についてもいえることである。
 屋根の勾配は氷見を除いて60度と急で、断面は正三角形となる。雪を滑り落ちやすくする工夫であろう。
 日本の農家の間取りは、作業空間の土間と住居空間の床(ゆか)部分からなる。この床部分に梁間(はリま)一杯の広間をとり、そのかみ手を2室に分けるのを広間型、床部分を四つに仕切るのを田の字型(整型間取り)という。本県の場合は全般に広間型であるが、氷見地方は能登とともに田の字型、五箇山は小規模のものは広間型であるが梁間の大きい家では田の字型となる。
呉西と呉東では少し間の取り方に違いがある
 さて、広間型といっても呉西と呉東では少し間の取り方に違いがある。ここではそれぞれの特徴を示す保存民家によってその違いを見る。
旧中嶋家住宅(呉西の広間型)
旧中嶋家住宅(呉西の広間型) もと砺波市江波(よなみ)にあった農家で、現在は砺波チューリップ公園に移されている。
 屋根は寄棟、入口は平入(ひらい)りで、間口(まぐち)10間(約18.2メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の、主屋(おもや)に、後方へ幅3間、奥行4間の中(なか)ヅノが直角に取りついている。東向きで、間取りは3間(げん)四方のオイ(広間)を中央にして、しも手に土間のネワ、かみ手は梁間(はりま)方向に二間(ふたま)続きの座敷をとる。オイの後ろへ広げたツノ部分は、かみ手に6畳のヘヤ(寝室)2室としも手に10畳のチャノマを配す。
 オイの上大黒(かみだいこく)柱と下大黒柱の上にはウシと呼ばれる横梁が架けられ、その上にこれと交叉してハルマモンと呼ばれる縦梁が2本架けられている。柱と柱の間はヒラモンとよばれる差鴨居(さしがもい)で連結され、枠を組んだようになっているので、この構造をワクノウチヅクリと呼んでいる。
 オイのしも手、やや奥寄りにエンナカ(いろり)が切られ、上からカンサマ(自在かぎ)が下がっている。ここで煮たき・暖房・接客が行われ、食事もこのそばでとられる。エンナカのまわりの座名は、かみ手の座敷を背にしたところがヨコザで一家のおやじが座るところ、その左手台所に近いところはタナマエといって主婦の座、ヨコザの向かいがシモザで火を焚くところ、入口に近いところがオトコザで、家族や来客が座るところである。
 かみ手奥のヒラモンの上には神棚が東面して祀られている。入口側は二つに分けてかみ手半分は式台縁となり、しも手はデモシコといって3尺(90センチ)前へ広げて取りこまれている。本来ここは玄関で、冬期の来客が雪を払う場所で、仮設的に囲ったものが常設化し、床張(ゆかば)りとなったものである。
 このようにオイは生活上も構造上も家の中心的な存在である。
 オイのかみ手は梁間方向に二間続きの座敷となっていて、その奥側、つまり家の前からみての突当りに仏壇と床(とこ)の間が並んでいる。富山県は真宗王国といわれるだけに、どの家の仏壇も大きくて豪華である。仏事(お座など)・結婚式・葬式などモノゴトのときは、座敷とオイの間のオビ戸をはずしてお寺の御堂のような広い空間として利用する。座敷の外側には土縁があり、障子を開けると庭が見える。外縁の東隅に小間(2畳)がある。
 オイのしも手は土間のネワである。東北隅に1間半四方を囲って馬屋がある。ネワは屋内作業をするところで、晩秋にはウススリ(籾すり)、冬はわら仕事をする。ネワの入口左隅にアマバシゴがあり、ここからアマ(屋根裏)へ上がる。アマには燃料のわらや屋根ふき用の茅(かや)などが積まれている。アマバシゴの下にはジョウボ石といってわらを打つ台石が据えられている。
 ネワの前玄関のしも手には便所がある。ここは東向きの家では東北隅になる。この地方では西南風が卓越するので、東北隅は風(かざ)しもになる。つまり、便所や馬屋の悪臭が家に入らないように工夫されているのである。
 オイの後ろのかみ手はヘヤ(寝室)である。そのしも手はネワの後ろ半分へかけてチャノマと流しになっている。オイにあったエンナカをここへ移し、それとともの煮たきや食事などのプライベイト部分もここへ移ることになる。エンナカの火焚き口はヒガシイレへ移り、そことシモザの間隔は燃料置場のシバヤとなる。
有馬家住宅 (呉東の広間型)
有馬家住宅 (呉東の広間型) もと立山町榎(えのき)にあった農家で、現在は立山風土記の丘へ移されている。榎はもと榎新村といい、常願寺川中流右岸高原野の1村である。有馬家は高原野の新開とともに成長してさた豪農で、主屋(おもや)の前側に多門(たもん)を構えている。
 茅茸き入母屋の屋根で平入り。間口(まぐち)9間半(約17.3メートル)に奥行3間(約7.46メートル) の主屋に、後ろへ3間の両ヅノを出し、その間をカケオロシの屋根にしている。
 間取りは3間四方のヒロマをまん中にして、しも手は土間のニワ、かみ手は上大黒を境に二分し(実際は1尺5寸後方へずれているが)、前側は座敷、後ろ側はナカノマ(本来は寝室になるところ)とカネンテ。後方の両ヅノとカケオロシの拡張部分は、かみからヘヤ(寝室)、チャノマ、ダイドコロ、ニワとなっている。
 ヒロマは奥行2間半に前側へ3尺広げた形式で、そのため柱は隅柱の前3尺にもう1本立てている。これは呉東の民家の特徴で、かみ手の座敷の幅を広くとりたいための工夫である。ヒロマの構造はナカワク(呉西のワクノウチに同じ)になっている。この間(ま)にはエンナカ(いろり)があったはずであるが、後ろへチャノマを設けたために今はない。
 ヒロマのかみ手前側は、桁行方向に二間(ふたま)続きの座敷とし、その突当り、つまり妻側に仏壇と床の間を置く。後ろ側のナカノマは普通規模の民家ではヘヤ(寝室)になるところであるが、この家ではヘヤはさらに後ろのツノ部分に取っているので、ナカノマと呼んでいる。
 その奥はカネンテという。カネンテというのは座敷から「曲(かね)の手」に曲って入るからで、ここは坊さんの控間になる。
 ヒロマの後ろは広いチャノマである。明治期にこの建物は役場に利用された由で、改造されているが、当初はヒロマにあったエンナカをここへ移してあったのであろう。そのエンナカは、さらに隣接してニワ部分へ張り出したダイドコロヘ移されている。
 ヒロマのしも手のニワは、さらにツノ部分も含めて広い空間となっている。前側はウチニワ(内玄関)とし、そのしも手に1間半四方の馬屋をとっている。馬屋は中二階とし、そこは住みこみのオトコサ(作男)の寝所となっていた。
仏壇の位置 (呉西と呉東)
 中嶋家と有馬家はともに梁間一杯の広間を中央に置く広間型の家であるが、大きく異なるのは仏壇の位置である。これは呉西と呉東の民家の決定的な違いである。すなわち、東向きの家の場合、中嶋家(呉西)の仏壇は東を向いているのに村し、有馬家(呉東)の仏壇は北を向いている。位置的にいうと中嶋家は平側に仏壇・床がある平床(ひらどこ)、有馬家は妻側にある妻床(つまどこ)ということになる。
 このような違いはどこから生まれたのあろうか。まず、寝室のとり方によっても規制されるが、何よりも広間への入り方によって「奥」の認識に違いがあったからであろう。呉西では広間の前(東側)から出入りするので、そこから見ての後ろを奥と意識するのに対して、呉東では広間のしも手すなわちニワ(北側)から上がるので南側を奥と意識するのである。この区別は実にはっきりしている。
 ただし、呉西でも五箇山の民家は呉東と同じである。むしろ、呉東・五箇山は加賀・越前の妻入民家(前土間型)に通ずるもので、呉西だけが特異というべきかもしれない。それは能登・氷見・射水・砺波の広がりでとらえることができる。それにしても砺波・射水の民家の寝室が、主屋(おもや)の下からはずれて広間の後ろの下屋(げや)部分にあることが不思議である。能登・氷見の場合は田の字型間取りであるから、寝室部分も主屋の中に納まっているのである。
氷見の民家(田の字型)
 氷見の民家は基本的には能登の民家と同じだ。屋根は50度ほどの勾配のゆるい入母屋で、間取りは田の字型である。家の規模は俗に「四六間(しろっけん)」といって、間口(まぐち)6間・梁間(はりま)4間が標準とされている。間口6間を3等分して、しも手2間を土間、かみ手4間の床部分を十字に仕切ると田の字型になる。つまり、8畳間4室ができることになる。土間に面した前側がオイ、後ろ側がナンド(寝室)と茶の間(茶の間は土間部分へはみ出すことが多い)、かみ手が二間続きの座敷となり、その奥に仏壇と床の間が置かれる。つまり平床で、その限りでは呉西の仏壇の位置と同じことになる。県下の広間型民家では広間の上にさす(合掌)を組むが、ここでは広間と後ろのナンド部分を含めて梁間とし、この上にさすを組む。その場合、梁間4間では屋根が大きくなりすぎるので、前後3尺入ったところを合掌尻とし、これをマエベと称している。
 オイのかみ手には大黒柱がない。また、オイの梁組も県内の広間型民家ではウシ(横梁)をかけてからその上にハリマモンを交叉させるが、氷見ではハリマモンをかけてから横梁をかける。これらはすべて能登の民家に通ずることである。
アズマダチ  妻面の美しい瓦葺きの大屋根
 切妻の妻面を前へ向けた瓦葺きの大屋根の家。妻面には太い梁と束を格子に組み、間に大樌(ぬき)を入れる。木部は漆を塗り、間を白壁で仕上げる。これを幅広い破風板(はふいた)が斜めに切る。屋根のまたぎが大きいので迫力がある。県西部、ことに砺波地方に多い。
 もともと主屋の後ろへ間(ま)を広げる方法としては、カケオロシの屋根にしたり、ツノ屋根をつけたりしていたが、雨仕舞がよくないので、主屋根と後ろの屋根をとり払って一枚の大屋根をのせたもの。
 この地方にこの屋根型式が出現したのは幕末からで、そんなに古いことではない。最初は十村の役宅や寺の庫裡で、それも板葺きであった。金沢の武家住宅の屋根を模したものである。元来加賀の民家は妻入であるからまたぎは小さいが、当地方では平入りの民家にこの屋根を採用したので、またぎが大きくなった。
 明治期に入って身分制が緩んでくると大地主の家にとり入れられ、明治末期になると瓦の普及とともに一般化するようになった。茅葺きの屋根をおろしてアズマダチにすることは、一種のステータスとして昭和30年代まで続いたが、そのデザインの美しさに魅かれて現在の新住宅にも影響を与えている。
散居村と屋敷林
 散居村というとまず砺波平野が引合いに出されるが、県下では入善あたりの黒部川扇状地にもあるし、常願寺川扇状地の富山市富南地方や立山町高原野にも自然度の高い屋敷林を持った散居村が広がっている。むしろ、富山県では中世末から近世に開けた各河川の扇央部は散居村であるといってもよさそうだ。
 散居村は屋敷が散らばっている景観をいうが、重要な特徴は家のまわりの水田を耕作していることである。それは開拓予定地のまん中に住居を定めてまわりを開いて行ったという発生事情によるのであろう。
 ほ場整備によって水田は大型化したが、もとは小さいいびつな田が錯そうしており、家へ通ずる道は曲りくねった細い道であった。
 家は東向きで、深いカイニョ(屋敷林)に包まれている。強い西南の風を背にするためで、カイニョもその部分に厚い。樹種は杉を主とし、その他アテ・ケヤキ・竹などが混生し、屋敷のまわりはスンゴシワ(杉の生け垣)によって囲まれている。杉は用材となるほか、多量に落ちるスンバ(杉葉)は山に遠い平野部では貴重な燃料であった。竹は屋根葺き、桶のたが、野菜づくりの資材として欠かせず、また大河川沿いの村では蛇かご用に大切なものであった。前庭には必ず柿の木が2、3本植えられ、梅・桃などもあった。屋敷のまわりにはフキやセリ・ミョウガなどが生えており、雑草の中にはドクダミ・オオバコ・ツバブキ・ユキノシタ・ゲンノショウコなどの薬草もある。こうして屋敷林は生活と一体になった存在であった。屋敷へは小川が引かれ、飲料水、生活用水として利用された。
 主屋の前には馬屋や作業納屋、家によっては土蔵も建てられている。また屋敷の入口には必ず灰小屋がある。水田地帯では燃料は主にわらであるため、毎日多量の灰が出る。朝、いろりの灰をとり、ここへ収納しておく。灰は肥料になり、また春先野面の雪を早く消すために撒かれた。こうしてわらは土に還るまで有効に利用された。
 このような自然と調和した見事な生活システムも、近代化とよばれる生活環境の激変によって大きな転換期を迎えている。たとえば大切な燃料であったスンバも、プロパンガスの普及によって不要となり、逆に庭はきが大変と厄介視されるしまつ。屋敷林は家屋を風雪から守るためのものであったが、屋根は瓦葺きとなり、外装材やアルミ建具によってその必要性は薄くなり、逆に日陰になるからと伐られるようになった。残したくても家屋が大型化したため邪魔になったこともある。
 しかし、夏は木陰を作り、冬は家屋を暖かく包む屋敷林の効用を見直したい。健康のための森林浴や平野の緑の資源として新しいメリットを見出し、本県の代表的景観を守っていきたいものである。
(さえき やすかず・富山県文化財保護審議会長)
  −平成11年1月23日放送−
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