2017年10月
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

富山県民生涯学習カレッジ本部 TOP > テレビ放送講座 テキスト一覧  >  テレビ放送講座 テキスト詳細

テレビ放送講座 昭和63年度テキスト「第3回 鷹と熊」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第3回 鷹と熊 廣瀬 誠

1、有頼開山物語
 しまった! 少年は拳(こぶし)をにぎりしめたまま、ぼう然と天空の一点をにらみつづけた。白鷹(しらたか)は一つの点となって青空のかなたに遠ざかっていった。
 われに返った少年は、まっしぐらに鷹のあとを追って走り出した。髪は乱れ、足には血がにじんだ。日が暮れると、草を枕として寝たが、朝目を覚ますとまた、少年は鷹の飛び去った方角めがけて小走りに歩きつづけた。
 少年は名を有頼(ありより)といい、越中守(かみ)、佐伯有若(さえきありわか)の一人むすこであった。有若の館(やかた)は片貝川と布施川の落ちあう地点、老柳の茂るところにあったという。有頼少年は父秘蔵の白鷹をこっそり持ち出し、父のまねをして鷹狩りをしてみたのであった。
 鷹は有頼の手を放れて獲物(えもの)に襲いかかったが、どうしたはずみか、獲物の小鳥は身をひるがえして鷹の鋭い爪をのがれた。
 すると鷹はそのまま天高く飛び去ってしまった。有頼はあわてた。父秘蔵の鷹を逃がして、どうしておめおめ家に帰られるものか、どんなことがあっても取りもどしてみせるぞと、死物狂いで鷹のあとを追跡したのであった。
 幾日か追跡してゆくと、森の中から、片手に剣をさげ、片手に数珠を持った老人が現われ、「お前の探している鷹はこの方角だ」と指さし教えてくれた。「あなたはどなたで?」と聞きかえすと、「わしは刀尾(たちお)天神」と名のった。うやうやしくお礼の言葉を述べ、教えられた方角へ行くと、やがて常願寺川の岸にたどり着いた。川のがけっぷち、大きな松のこずえには白鷹がつばさを休めているではないか。有頼はおどりあがって喜んだ。
 手に餌をのせて呼ぶと、鷹は羽ばたきして飛び立ち、有頼の拳に舞いおりた。鷹の爪がうれしいほど痛い。
 しめた!と思ったとき、一頭の荒々しい熊が飛び出し、有頼めがけて襲いかかって来た。その瞬間、鷹はどこかへ飛び立ってしまった。
 怒り心頭に発した有頼は、弓に矢をつがえ、憎き熊めと射放った。矢はぴしっと熊の胸を射抜き、鮮血がほとばしった。熊は矢を立てたまま山奥へまっしぐらに逃げ走った。
 なびき伏した草の間に点々と落ちた血のあとをつけて、有頼は坂を登り、谷を渡り、また坂を登り、追いつづけた。疲れはてて草叢(くさむら)に倒れたが、口もとにあたった草を何気なく噛み、その汁を吸うと、たちまち気力を回復し、また熊を追跡した。
 いつのまにか有頼は広々とした高原に出た。そこには、夏だというのに雪が残っていた。雪を踏み、岩をよじ、ヤブを分け、汗みどろになって登ってゆくと、岩穴に熊の逃げこむ姿が見えた。
 よし、こんどこそ逃がすものか。剛気な有頼は弓に矢をつがえ直し、岩穴にはいろうとした。
 急に、有頼はまぶしさを感し、次の瞬間、目の前がまっ暗になり、気が遠くなった。
 夢かうつつか分からぬうちに、有頼は光り輝く仏さまを見た。仏さまの胸には矢が突つ立ち、したたり落ちる血は蓮台まで赤く染めていた。その矢はまごうかたなく、自分の射た矢であった。さては、熊と思って射(う)ったのは仏さまであったか。有頼驚き、起き直り、ひれ伏してお詑びを申し上げていると、有頼の耳もとに不思議な声が聞こえた。
 「私は衆生を救うため、この立山に地獄も極楽も現わして、人々の来るのを待っている。しかし、世の人はまだこの尊い山を知らない。そこで私は鷹に姿を変え、熊に姿を変えて、有頼、そなたをここまで導いてきたのだ。世のすべての人が立山にお詣(まい)りできるよう努力せよ。有頼、頼むぞ」と。
 そして仏さまの姿は消え、取り残された有頼は、自失して岩穴の入口に座りつづけていた。
 あたりがほのかに明るくなった。有頼が目を見開くと、天を突くような岩山が夜目に黒々と立ちはだかっていた。
 高い空に夜明けの星が一つきらめいている。やがて、山ぎわが次第に明るく、いよいよ明るく、突如、まっ赤な日輪が山の頂きにさし昇った。有頼は思わず合掌した。日輪を背に、逆光にけぶってそそり立つ山の姿こそ、まさしく昨夜、夢うつつのうちに拝んだ仏さまの姿そのままではないか。有頼は仏さまのお声を思い出した。
 「夢ではない。たしかに聞いた!今もはっきり耳もとに残っている!」涙がはらはら頬を伝った。
 有頼は感激のあまり、弓を切り捨てた。矢も折り捨てた。「自分は仏門に入り、僧となって、この霊山立山を開くために一生をささげよう」と固く決心した。弓も、矢も、着衣も、びっしょり夜露にぬれていた。
 山を下った有頼は、ふもとに薬勢上人という徳の高い僧がいると聞き、薬勢の庵をたずね、事情を話して、入門を願い出た。薬勢の太い眉がぴくりと動いた。薬勢はうなづきうなづき有頼の話を聞き、その弟子入りを許した。薬勢は有頼の頭を剃(そ)って、慈興という僧名を与えた。
 慈興は薬勢の教えを受けて仏道の修行に励み、やがて師弟協力して立山を開くため全力を尽くした。
 草を刈り、やぶを切り払い、けわしい坂に道を作り、谷川には籠の渡りを取りつけた。予想以上に困難な仕事の連続であったが、慈興はひたすらに仏の教えを念じて、この難事業を成し遂げた。
 ふもとの大河、常願寺川の南側には、薬勢上人が本宮寺・光明山・報恩寺などの寺を建てた。大河の北側には、慈興上人が芦峅寺(あしくらじ)根本中堂・禅光寺・岩峅寺などの寺を建て、これらの寺々を立山登拝のための根拠地とし、また僧たちの修行の場とした。
 立山を神と祭る神社が古くから山ろく各地に点在していたが、これらの古い神社は、新しく建てた寺と結ばれ、社寺一体の姿で運営され、立山大権現とあがめられた。
 芦峅寺の根本中宮(こんぼんちゅうぐう)に対して、岩峅寺の神社は麓ノ大宮(ふもとのおおみや)と呼ばれ、相並んで立山信仰の基地とされた。大河の南側の本宮寺のかたわらには立蔵(たちくら)権現が祭られていた。中宮・大宮・本宮の名称、アシクラ・イワクラ・タチクラの地名はいずれも重要な意味を持っていた。有頼が白鷹を追跡したとき、これを助けた土地の神々、刀尾(たちお)天神や森尻(もりじり)権現も、手厚く祭られた。
 慈興上人、俗名有頼が初めて仏さまに出あい、仏さまのお告げを聞いた山上の岩穴は、玉殿(たまどの)ノ岩屋と名づけられ、特別な聖地とされた。岩屋には幾体もの石仏が安置されたが、また山に登って修行する時の宿泊所の役にも立てられた。
 この岩屋に座り、はるか下の谷あいから、そうそうとひびいてくる浄土川の音を聞くとき、慈興は、仏に出あったおりの感激を思い返し、初心に立ちかえるのであった。
 有頼が鷹・熊を追跡して、山を踏み分け、霊山を開いたという特別のいわれによって、熊と鷹は立山の神獣・神鳥としてたいせつにされた。熊と鷹の図柄(ずがら)は立山のお護り札に使用された。また神社の神紋には「鷹の違い羽」の紋が選ばれ、社頭のまん幕にはこの鷹の羽のデザインがすがすがしく染め抜かれた。
 薬勢・慈興両上人は協力して人々に立山信仰を説きひろめた。
 このこうごうしい山に登れば、おのずから心が清められて、生きながら仏の世界に近づくということを、慈興は自分の貴重な体験を踏まえ、確信をこめて説いた。けわしい山道を汗水たらして登ってゆくうちに、心も体も鍛えられて、不思議な神の力が身に備わってくることも力説した。
 悪いことをしてはならぬ、いたずらに生き物を殺して無益な殺生をしてはならぬということを、立山地獄谷のものすごい光景を示して説き、人々の道徳心・宗教心を高めるため、心魂を砕いて説教した。
 こうして、霊山立山の存在は日本中に知れ渡り、全国から多くの人々が登拝するようになったのであった。
 立山を開く大事業を成し遂げた慈興上人は、83歳の時、みずからの命終わる時が来たことを悟り、芦峅寺の龍象洞の地下に入って定(じょう)を組み、しずかに念仏を唱えた。7日間、地下から念仏の声が聞こえたという。
2、有若開山物語・狩人開山物語
 以上が、地もと芦峅・岩峅に語り伝えられて来た「立山開山縁起」の大筋であるが、立山開山の縁起を記した最も古い文献は、鎌倉時代初頭にできた「伊呂波(いろは)字類抄」の10巻本である。
 それによると、立山を開いたのは越中守佐伯宿禰 (すくね)有若自身であったという。有若が鷹狩りをしていて、逃げた鷹のあとを追って、夏も雪のある高山に登り、ここで出会った熊を射殺(いころ)した。ところが、その熊は金色(こんじき)の阿彌陀如来(あみだにょらい)であった。その場所から仰ぎ見ると、そびえ立つ岩石の山の姿は仏のお姿さながらであった。有若は感銘、肝に銘じ、菩提心(ぼだいしん・仏道に入る心)を起こし、弓を切り、髪を剃(そ)り、名を慈興と改め、薬勢上人を師として、師弟協力して立山を開き、大河の南と北とに手分けして寺々を建立したという。
 話の骨組みはほぼ同じであるが、この伝承では、仏のお告げを聞いたのではなくて、射殺した熊が仏であったという奇瑞に驚いて菩提心を起こしたとなっている。熊が逃げこんだ玉殿岩屋のことも記されず、全般に話は簡素である。
 何よりも、開山の主人公が有頼少年ではなくて、その父親の、しかも越中守という、いかめしい肩書きを持った佐伯有若となっている点が大きな違いだ。
 有若は歴史上実在の人物で、その署名した延喜5年(905)の古文書が、京都の随心院という寺に現存している。山を開いた僧の名は、どちらの伝承も慈興上人となっているが、その俗名を有若、すなわち越中国守とする伝えと、その子有頼少年とする伝えとがあるわけだ。
  更に、鎌倉時代末ごろの「類聚既験抄(るいじゅうきげんしょう)」という書物によると、立山のふもとの狩人(かりうど)が山で熊を射殺したが、その熊は阿弥陀如来であった、よって立山は開かれたといった程度の、きわめて簡単な話だ。
 簡単なのは細部を省略したためであろうが、重大なのは、この伝承では、立山を開いた主人公は、国守でもなく、国守のむすこでもなく、全く無名の狩人となっている点だ。この素朴(そぼく)な形の話が、立山開山伝説として多分最も古いものなのであろう。
 山ろくの名も無き狩人が、立山山中で熊を殺し、不思議な出来事に遭遇し、発心して僧となり、霊山立山を開いたというのが開山伝説の原形なのであろう。その狩人は多分、芦峅村落の佐伯一族の者だったのであろう。
 おりしも、名門の出、佐伯宿禰 有若が越中守として在任中で、狩人が奇瑞に感じて出家し、立山を開くということを聞き、これに深く賛同して、経済的・行政的に多大の援助を与えたのであろう。
 狩人が自分と同じ佐伯姓であることからも、特別の親近感を持ち、立山信仰を積極的に保護支援したのであろう。 (「今昔物語」には、立山信仰を大々的に援助して、多くの人に奨めて写経をさせた国守の説話が記されている。そのように国守有若も立山開山を手助けしたのであろう)。
 国守が身をのり出して立山開山を助けたことから、やがて国守自身が立山を開いたというように語り伝えられたのではなかろうか。
 次に、国守有若の話から少年有頼の話に変ってくる。
 越中では、古来、男子は16歳になると必ず立山に登るしきたりであった。民俗学の言葉でいうと、通過儀礼ということになるが、立山登拝をすませて初めて一人前(いちにんまえ)の男と社会的に認められ、村の若衆組(青年団)に参加する資格を与えられた。結婚の資格も与えられた。立山登拝こそは越中男子一生に一度の大事であった。このような社会習慣が反映して、国守有若の話から、そのむすこ十六歳の少年有頼を主人公とする話に変っていったのではなかろうかと思う。
 その有頼という名は、江戸時代初期の延宝のころ(1675前後)有若の名にちなんで創作されたもの、従って有頼は架空の人物かともいわれているが、もしかしたら、古く、実際に立山を開いた山ろくの狩人の名が有頼で、その名が地もとに細々と伝承されていたのではなかろうか。その名を、国守有若のむすこという形で活用したのではないかと思う。
 二転、三転した立山開山伝説も、それぞれ根拠があったと思われる。合理主義で割り切って、一を正、他を誤として否定するような軽率な態度は慎まねばならぬと思う。
 いずれにしても、熊を殺したことによって仏を感得したという点が重要だ。一生物のささやかな命から、宇宙の大生命を感じ取り、その大いなる命のみなぎる聖地に目ざめたのだ。日本固有の神祇信仰では、すべてのものを神と認めた。仏教もまた一切に仏性(ぶっしょう)ありと説く。そのような東洋的アニミズムが立山信仰の根底に力強く息づいているのである。
3、熊野縁起との対比
 立山開山伝説では、鷹と熊が重要な役を勤めるが、立山の熊の話とよく似ているのが紀州(和歌山県)熊野の縁起だ。熊野から吉野にかけての深山は修験道の本場で、古くから大勢の人が交通の不便苦労もいとわず、いわゆる熊野詣(もう)でをした霊地だ。
 その熊野の縁起では、猟師近兼(ちかかね)が熊を射ち、そのあとを追跡してゆくと、岩穴の中で熊は仏さまに変っていた。近兼は驚き、弓を切り、頭を剃って僧になったという。立山開山縁起と瓜二つの話だ。
 熊野信仰の勢力は絶大で、熊野修験道は全国に及んでいたから、立山もその影響を深く受けたのであろう。
 熊は日本に生息する最大の動物で、古来、特別に扱われて来た。広く九州から中部にかけて、猟師の間では、熊を狩猟とすると、まず熊の遺骸を拭き清め、これを上座に据え、あるいは熊の月の輪にシメナワを張り、供え物を飾り、近隣・知人・親類の人々が集まり、ノリトをあげたりしてから祝宴に移ったという。
 また熊を捕ると、熊荒れといって、山の天候が激変すると恐れられて来た。泉鏡花も作品の中で、熊荒れを取り上げている。このような熊に関する特別な感情が、熊野縁起にも立山縁起にも噴(ふ)き出ているのであろう。
 熊を神獣とする信仰習慣は、北辺のアイヌ、更にヨーロッパ北部からシベリアを越え、北米の北部にまで分布しているという。立山信仰も国際的視野から再検討しなければならないであろう。
4、立山の古文学(万葉集と善知鳥)
 立山が現われた最初の文学は「万葉集」だ。天平19年(747)、大伴家持は力こめて「立山の賦(たちやまのふ)」と題した長短歌を作り、これに唱和して、越中掾(じよう)大伴池主(いけぬし)が「敬和立山の賦」を作り、立山の「朝日さし、そがひに見ゆる」清朗感、「白雲の千重(ちへ)を押し分け」高々と「天(あま)そそり」立つ雄大感、「冬夏と分くこともなく、白妙(しろたへ)に雪降り置」く清浄感、「こごしかも、岩の神(かむ)さび」岩石峨々(がが)たる豪荘崇(すう)高感を絶讃した。
 そして、山にあわせて「峰高み、谷を深みと、落ち激(たぎ)つ」谷川の清冽(れつ)さ、その谷あいに雲霧の生々躍動する、力強い潤(うるお)いを歌い、
 立(たち)山に降りおける雪の常(とこ)夏に消(け)ずてわたるは神ながらとぞ
と歌い収め、神山としての立山を手放しで讃えた。雪と岩のアルプス的高山を歌った日本最初の文学だ。
 平安時代末期の「今昔(こんじゃく)物語」には、立山の地獄に墜(お)ちた女人(にょにん)をめぐる説話がいくつも収録され、立山地獄信仰が文学の脚光を浴びてくるが、室町時代には男の亡霊の登場する謡曲「善知鳥(うとう)」が作られた。
 その筋は、諸国巡歴の僧が立山に登ると、猟師の亡霊が現れた。猟師は生前、善知鳥(うとう)という鳥を多く捕殺したむくいで、立山地獄に堕ち、日夜たえがたい苦難を受けていると語り、このことを陸奥(みちのく)外ケ浜((そとがはま・青森県)の自分の遺族に伝言してくれと頼み、着物の片袖(かたそで)をちぎって僧に手渡した。僧が遺族をたずね、託された片袖をさし出す。遺族が顔色を変えて猟師の形見の着物を取り出してみると、いつのまにか片袖がちぎれてなくなっている。僧持参の片袖とぴったり合い、まさしく猟師は立山地獄に堕ちたのだとわかった。供養すると、猟師の亡霊が現れ、「助けてたべや、おん僧、助けてたべや、おん僧」と哀願しながら消えてゆく。凄愴(せいそう)、背筋の寒くなるような傑作だ。
 神の山立山の雄大さ清浄さ崇高さと、その自然美を絶讃した「万葉集」、おどろおどろしい地獄信仰をテーマとした亡霊物の「今昔物語」「謡曲」、熊と白鷹が活躍する開山伝承、これらの文学が織りまぜられて、立山を深く豊かにいろどって来たのであった。
(ひろせ まこと・富山女子短期大学教授)
−昭和63年10月30日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在で表示しています
お問合わせ お問い合わせ
富山県民生涯学習カレッジ本部
 Tel 076-441-8401
 Fax 076-441-6157
リンクの際は、こちらのURLをご利用ください。
 トップページへ  このページの先頭へ   前のページへ