2018年4月
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

富山県民生涯学習カレッジ本部 TOP > テレビ放送講座 テキスト一覧  >  テレビ放送講座 テキスト詳細

テレビ放送講座 平成13年度テキスト「第3回 商売は「人」なり」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '02/02/02

TOP 第3回 商売は「人」なり 青柳 正美

売薬 越中売薬のこころと知恵 売薬行商人などを教育する機関の一つとして寺子屋が挙げられる。近世の子供たちは、遊んだり、家職、家事を手伝って見習うというだけで、成人として社会から「一人前」と認められることはなかった。子供たちには「文字」の読み書き、算盤を使って計算能力を養うことが要望され、それに応えて民間の有識者や武士、浪人が任意に開いたのが寺子屋であった。
 寺子屋は、寺の後継者養成のために中世寺院に発生したものであるが、本来の僧侶教育のほかに僧侶にならない子供を預かり、いわゆる俗人数育も行なった。近世になると、寺院以外においても一般の子供たらに読み書き・算盤を教える施設が発達したが、「寺子」(生徒)と「屋」に分けて用いたので、本来の寺子屋ではなかった。これらは多く自然発生的に生じたもので、政治力をもってつくられた明治の学制による小学校や、古代の大学、国学などとは趣を異にしていた。
寺子屋の教育と「往来物」
 寺子屋の学習分野は、地域により、時代によって様々な形をとっていたが、「習字」は常に学習内容の中核となっていた。習字といっても、それは単に「字を上手に書く、器用にしたためる」ということに留まらず、手習いを通して「ものを読む」ことを教えた。なかでも多種多様な知識を盛り込んだ習字用・読本用手本である往来物が数多くつくられ、用いられるようになった。
 往来物がつくられるようになったのは11世紀の中頃で、平安後期に遡るといわれる。もともとは進状、返状といった往返一対の手紙をいくつも収録して、初歩教科書の形に編んだものを意味した。『明衡往来』『東山往来』などがその代表で、室町時代の『庭訓往来』のごときは教科書界、ひいては教育界に大きな影響を与えた。
 江戸時代になると、往来物は寺子屋の教科書として広く使用された。『商売往来』がテキストとしては重要な科目であった。商取引の言葉として、両替の金子、大判、小判、ほかにも新米、古米、早稲、問屋の蔵人、値段、相場、利潤などがある。『商売往来』の中では、361の項目が並べられ、その中に薬の名が45も出ていた。「…そもそも、商売の家輩に生れ、幼児の時より先ず手跡、算術執行肝要たるべきなり。総じて見世棚奇麗にて、挨拶、応答、饗応、柔和たるべし。大いに高利貧り、人の目を掠め、天罰を蒙るれば、重ねて問いに来たる人稀なるべし。天道の動きを恐れる輩は、富貴繁昌、子孫栄花の瑞相なり、倍々の利潤疑ひなし…」これが『商売往来』の結論である。
 富山の売薬業も、読み、書き、算盤のほかに、行商地域の地誌、歴史の概略、懸場帳付(配置業者が得意先に配置した薬方、数量、金高および入金高を記した帳面)に関する計算カ、薬石の調合・薬付に関する知識が要求された。
算法と算盤
 算術科目では、主として算盤を用い、関流の算法も取り入れられた。関流の算法については、富山の中田高寛の存在を忘れることはできない。高寛は元文4年(1739)3月、富山長柄町に生まれ、長じて富山藩に仕え、幼より算学を好み、後に乗除を学び、独学研鑽に努めた。安永2年(1773)、6代藩主前田利與は高寛の学才に感じ、江戸へ参勤の折、関流三伝の正統を伝えた山路主住の門に入れた。算学の奥義を極めようと難問に取り組み、安永8年(1779)関流算学の別伝印可を受けた。その後、高寛は富山に帰り、桃井町に算学の塾を開いた。富山はもとより、遠く伊勢、大聖寺、飛騨高山などからも算学学習の徒が集まったといわれる。
寺子屋「小西塾」
 明和3年(1766)、富山西三番町に、小西鳴鶴が開いた小西塾(臨池居(りんちきょ))は、日本三大寺子屋と称されるほど大規模で、その子有斐、有実、さらにその弟の有義が跡を引き継ぎ、明治の「学制」頒布の後も特例をもって廃止されず、明治32年(1899)まで続いた。有実が継ぐ頃は、商業取引、なかでも売薬の行商が盛況を極め、簡単な記帳や算盤が生活上必要のものとなり、私塾(漢学塾)の色彩が次第に薄れ、寺子屋の性格が濃くなった。特に、売薬を重視する傾向が強くなった。
本草学
 富山売薬が全国に行商を拡大し、継続したのは、教育施設が充実したところに要因があったが、これとともに藩当局も、この分野の研究を進めていたことも見逃せない。それは藩主の本草学の研究であった。
 富山売薬が販売する漢方薬は、主として売薬行商人が自宅で製造・調合したため、薬草に対する目利きは重大な関心事であった。富山売薬の最初は「反魂丹」と「奇応丸」のほか2、3種の薬品に過ぎなかったようであるが、幕末の頃には行商人は約2700人に達し、和漢医学の成果を取り入れた処方も約数十種類に達した。したがって売薬業者は信用保持のため、原料生薬の入手と、その吟味、薬剤の調合には特に意を用いた。売薬の原料である生薬の真偽鑑定が重要となり、ここに薬学(本草学)が生まれることとなった。
 本草学は博物学であり、動物・植物・鉱物などを研究し、かつその薬用について研究する学問で、中国では「医薬の学」と称した。
 本草学の研究にとりわけ大きな功練を遺したのが10代藩主前田利保である。殖産興業に取り組み、国産奨励、経済振興を図ったが、本草学の権威でもあった。江戸藩邸に草花を植え、貝原益軒の『大和本草』を読み、小野闌山の『本草綱目啓蒙』を学んだ。
 また、江戸において草木虫魚金石類の品評会を開き、これを「赭鞭会(しゃべんかい)」と名付けた。一方、富山では、富山では藩士や医師に所蔵する薬草・薬石その他の珍品奇物を提供させ、また売薬商に命じて他国の物産を収集した。嘉永6年(1853)梅沢町大法寺において、富山藩薬品会を開催し、出品数は211点にのぼったという。 藩主利保はまた、東田地方に薬草園をつくり、薬草の栽培・普及に努め、売薬業の振興に寄与した。退隠後、八尾方面の山地河川を廻り、薬草を採集し、『本草通串(ほんぞうつうかん)』(94巻)など、植物通鑑ともいうべき大著を作成した。絵師山下守胤・木村立嶽・松浦守美らによって写生された大図鑑『本草通串証図』(5巻)は見事である。
『本草通串証図』
『本草通串証図(ほんぞうつうかんしょうず)』は、『本草通串』の木版色刷りの原色図版本で、187種の草木を収める。嘉永6年(1853)富山藩絵師山下守胤、木村立嶽、松浦守美らが描いた。現在、富山藩主旧蔵本は富山県立図書館に収蔵されているが、極めて貴重な希少本である。
神農信仰
 富山市にある於保多(おおた)神社は、もともと富山藩と関わりの深い神社であるが、天神様のほかに、藩主の前田利次、正甫(まさとし)、利保が合祀されている。正甫は売薬や古銭収集でも著名だが、富山城址公園には「売薬の祖正甫」の立像が仰がれている。
 前述の利保の業績で有名な「赭鞭会」の赭鞭とは、赤い鞭のことで、「神農」の故事によるものである。神農とは、中国の神話、伝説上の帝王で、人身牛首の存在ともいわれる。中国の歴史書『史記』の中では、神農は木を切って鋤を作り、木をたわえてその柄を作って人々に耕作を教えたという。また、赤い鞭で草木を打ち、百草を嘗めて薬草を発見したとある。このことから中国では穀神、薬神として信仰するようになる。これがわが国に伝わって信仰されるようになる。神農信仰は、遣隋使や遣唐使によって大陸文化が伝来された時代に、その萌芽があったといわれる。平安・鎌倉時代の重要な医薬文献にも神農の名が見られ、また、室町時代には雪舟が水墨画で神農を描き、五山の僧の月舟寿桂が「神農像賛」を遺していることはよく知られている。
 売薬業の家では、神農は守護神として厚く信仰され、その肖像は掛軸や木像などの形となって親しまれている。また、それと一緒に、商売繁盛を願って弁財天を飾ったり、富山で広く信仰されている天神像を飾ったりする家も少なくない。県内最大の製薬会社の一つである広貫堂の玄関には、昭和11年(1936)松村外次郎作、高さ263センチの神農像が展示されている。
近代化と薬業教育
 明治維新とともに、西洋医学・薬学が取り入れられ、和漢医学や和漢薬は一時壊滅の苦難にさらされた。長年の努力によって築かれた富山売薬業も、瀕死の瀬戸際に追い込まれた。売薬業者は苦心惨胆、業務の継続に努めるとともに、西洋薬学の研究に迫られた。それは明治5年(1872)の「洋学授与願」となり、翌6年には文部省への「舎密学校建設願」となって現れた。これが本県における薬学校設立の最初の声であった。同9年には広貫堂が製薬会社として許可され、富山売薬業の中心を成してきた。特に、薬学教育の推進にあたって尽カし、その役割と功績は大きい。
 明治26年(1893)富山市の補助金300円を基に、広貫堂、弘明堂、師天堂、富山薬剤会社、保寿堂、精寿堂などの寄付金で賄われて、梅沢町の広貫堂の向かい側に敷地を求めて校舎を新築、富山県における最初の薬学校(共立薬学校)が創設された。共立薬学校は明治30年(1897)11月に市立となった。
 このように売薬商人の教育に乗り出したのであるが、入学者が少なく、有識者はまず生徒の募集に苦しんだ。同33年、富山市議会は校舎が火災にあったのを機に一旦は廃校の決議をしたが、熱心な売薬業者たち、特に青年たちはそれを阻止、撒回させた。その後、売薬業者らの努力により、明治43年(1910)に県立薬学専門学校となり、さらに大正9年(1920)には官立薬学専門学校となって、薬剤師の養成を目的とする学校となった。そのため、初期の目的であった売薬行商人の養成は頓挫する結果となった。
 そこで売薬業者は、大正13年(1924)頃から再び行商人の養成を行う薬業学校の設立運動を展開した。昭和2年(1927)4月、この願いが取り上げられ、実業補習学校規程により、市内の柳町尋常小学校の一部で市立富山薬学校を開校した。その後、この学校は同8年に文部省から優良実業補習学校として認定され、同14年には5年制に昇格した。
 昭和23年(1948)4月、県立富山薬業高等学校と県立滑川高等学校薬業科が設立され、同年9月にはその県立薬業高等学校と県立北部高等学校が合併して、県立北部高等学校薬業科となった。また、同33年には県立上市高等学校薬業科が設立された。
 一方、大学教育では、同24年に富山大学薬学部が発足し、昭和50年(1975)10月にはそれを受け継ぐ形で富山医科薬科大学が開校した。さらに、同53年には大学内に「和漢薬研究所」が設立され、富山売薬の歴史は新たな展開を見せようとしている。
(あおやぎ まさみ・元富山県生涯学習センター所長)
−平成14年2月2日放送−
お問合わせ お問い合わせ
富山県民生涯学習カレッジ本部
 Tel 076-441-8401
 Fax 076-441-6157
リンクの際は、こちらのURLをご利用ください。
 トップページへ  このページの先頭へ   前のページへ