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テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第6回 峠の道・五箇山山往来」


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TOP 第6回 峠の道・五箇山山往来 佐伯 安一

朴峠追分け身の毛もよだつ 下は谷底人喰らい

 五箇山追分に難所と唄われた人喰谷(ひとくいだに)も、今は国道304号線の五箇山トンネルで、車だと5分ほどで通り抜けてしまう。あっという間である。城端からは30分足らずで下梨へ着く。
 時間が短縮されたばかりではない。雪に閉ざされて5月まで陸の孤島化した五箇山が、冬でも車で砺波平野へ出ることができるようになったのである。それは五箇山村民にとって、長い間の夢であり、悲願であった。
5つの谷と峠
 このトンネルと庄川沿いの国道156号線が改良されるまでは、五箇山へ入るには必ずどこかの峠を越えねばならなかった。
 五箇山は庄川上流の山村である。現在は庄川本流に沿う上平・平村と、支流利賀川沿いの利賀村からなる。そこには近世以来の70の集落があり、俗に赤尾谷(あかおだに)・上梨谷(かみなしだに)・下梨谷(しもなしだに)・小谷(おたん)・利賀谷(とがだに)とよばれる5つのブロックに分かれている。
 普通、川の上流の山村は谷口から川沿いに遡るのであるが、庄川の場合は谷口に近い小牧(おまき)で深い峡谷となって、人馬の通行を拒絶してきた。現在小牧ダムが設けられているように、そこは牛岳と八乙女山が東西から迫っているのである。そのため砺波平野から五箇山の村々へ入るには千メートル級の高清水(たかしょうず)山系の鞍部を選んで峠越えしなければならなかった。上流からブナオ峠・小瀬(おぜ)峠・細尾(ほそお)峠・朴(ほう)峠・杉尾(すぎお)峠・栃原(とちはら)峠・杉谷(すぎたに)峠などがそれである。このほか、利賀谷から庄川本流筋へ出る山神(やまのかみ)峠、利賀谷・百瀬(ももせ)谷から八尾町へ行く栃折(とちおり)峠などがある。
 小瀬峠は赤尾谷の人たちが利用した。朴峠は上梨谷と下梨谷。上梨谷の人たちは鹿熊(かくま)峠を越えてこの峠へ至り、下梨谷の人たちは直接この峠を利用した。また、利賀谷でも北大豆谷村以南の村々は山神峠や猫池へ出る道で下梨へ出た上で、この峠を通った。小谷の村々は、杉尾峠を越えて城端へ、栃原峠を越えて井波へ出た。利賀谷の押場以北の村々も杉谷峠である。5つの谷というブロックは、各峠を利用する村々のまとまりのようである。少くとも赤尾谷・上梨谷・下梨谷についてはそのようにいえる。
 江戸時代はじめの正保3年(1646)、幕府は各藩から国絵図を徴した。そのとき加賀藩では藩内の道筋の解説書を作った。その越中国の分が「越中道記」(正保4年)である。そこに記された五箇山道は、飛騨へ通ずる道として羽根道と小白川道を挙げている。羽根道は井波から杉谷峠を越えて、利賀川筋・百瀬川筋を通り(後には大勘場を通る)、水無から野田尾(のだのお)峠を越えて飛騨の羽根村へ出るもの(角川から高山へ向う)で、水無の手前から牛首峠を越えて白川の萩町へ出ることもできる。小白川道は城端から二ツ屋(上田)まで行き、小瀬峠を越えて西赤尾へ出、飛騨小白川から白川地方へ通ずる道であった。
これは他国へ通ずる道に重点を置いているので朴峠道は記されていないが、五箇山の人たちの生活道としてもっとも利用されたのは前に述べたように朴峠道であった。
朴峠道
 宝暦11年(1761)の城端町絵図によると、東新田町から南へ向かう道が「下梨谷道」とある。東新田町は機場(はたば)の町である。五箇山で生産された繭がこの町で絹に織られ、古くから城端町の経済を支えたのである。下梨谷道の到達点が東新田町であり、さらに進むとこの地方の真宗のメッカ城端別院善徳寺であることは、五箇山と城端の関係を見事に示す構図ということができよう。
 城端から朴峠ルートで下梨に至る距離は、天明ごろ宮永正運の著した『越(こし)の下草(したくさ)』によると、次のように4里とされている。地元民の生活感覚からの距離といえよう。
城端 −(1里)− 若杉 −(半里)− からき峠 −(半里)− 朴峠 −(1里)− 梨谷 −(1里) − 下梨
 その後、文政4年(1821)に石黒信由が実測し、その「三州測量図籍」には「城端よりホウ峠迄、道程二里六町五十三間」「ホウ峠より下梨村前庄川篭渡迄、道程一里十四町二十七間」とあり、合計3里21町20間となる。
 この道は大正末ごろに廃道となり、今はブッシュに覆われているが、その下に道はかすかに残っている。その跡をたどってみよう。
 城端の東新田町から南へ向かうと、追分地蔵がある。林道(りんどう)の湯から縄ケ池へ行く道との追分けである。さらに南進すると山裾に達する。ここからは打尾川に沿って山へ入って行く。途中に蓮如上人が腰をかけたという馬乗り石がある。ほどなく若杉の廃村跡につく。かつてはボッカの集落として栄えた所で、往来する人々の休憩地であったが、昭和30年代に廃村となり、今は「若杉神明社跡」の石碑が残るだけである。
 近くに夫婦(めおと)滝がある。昔は木立の聞から時折望見される幻の滝であったが、今は縄ケ池へ行く林道があって下まで行ける。高落場(たかおちば)山から2本の滝が落ちるところで、『越の下草』には次の記事がある。
城端より一里許(ばかり)南に、大鋸屋村の属地若杉といふ処也。五箇山朴嶺(ホウトウゲ)へ登り口なり。此所の滝川の水源にて、滝の長弐丈許もあらんか。滝の口わかれて男女滝すじに成落る。夜に入は女滝へ落かさなりて、一筋に成て流るるといひ伝ふ。五箇山往来道より望む也。
 若杉から200メートルほどは急坂である。この道程の中でもっとも急な登り坂で、道には階段のような石畳が敷かれている。昔の人が五斗俵(75キロ)をかついで、一歩一歩踏みしめた道である。ここを登りつめたところが唐木(からき)峠(標高約690メートル)で、視界が開ける。はるか前方にめざす朴峠(標高約880メートル)の鞍部が見える。その間は深い谷のいわゆる人喰(ひとく)い谷である。
 むかし、山の人たちが列を組んでここを通ったが、雪崩にあって谷へ落ちた。春になって探したが、人も荷物も見当たらなかったので、人喰い谷と呼ぶようになったという。しかし、谷は深いが道は谷の上を巻くようにつけられているので、案外平坦である。地形に逆らわずに無理なくつけられているのである。昔の人の生活の知恵を感じさせる。ずっと下には五箇山トンネルの入口が、おもちゃのように見える。
 朴峠には昔はお助け小屋があった。今も屋敷跡の基礎石が残る。この小屋を守っていた家は姓も朴峠といい、明治34年に梨谷へ下りた。屋敷跡の脇に峠の地蔵の祀られていた岩組のがんがある。この地蔵も梨谷へ下りている。「城端町尾張屋幸左門」とある。尾張屋寄進の地蔵は小瀬峠、杉尾峠にもある。
 朴峠からの道は梨谷へ向けて下り一方である。少し下りるとミツジという地点へ着く。ここで上梨谷の人は右へ分かれ、二つ梨谷へ出て上梨へ向かう。下梨谷の人は直進してタテ石という岩のところまでくると梨谷はすぐ下で、梨谷川が見える。梨谷から下(しも)の杉ノ峠という小さい峠を越えて小来栖(こぐるす)から一直線に下梨へ下りると瑞願寺の横へたどりつく。
峠越えの民俗
 昔の五箇山の人たちは、里へ出るにも帰るにも、空身(からみ)で歩くことはなかった。行くときは生産物を、帰りには米や生活物資を運ばねばならなかったからである。
 近世の五箇山の主な生産物は塩硝(えんしょう)・繭・和紙であった。このほか菅蓑・そうけ・蠟・漆などがあった。いずれも目方の割に金目になるものであるのは、人や牛の背で峠を越えなければならなかったからである。
 帰り荷には米や日用品をかついできた。ことに晩秋には越冬用の米かつぎが続いた。養蚕の盛期には桑の葉をかつぎあげた。仏壇や唐箕のように大きな荷もあった。
 ミシカモンにわらじばき、ミノゴモを着てセイタをつけて荷をかつぐ。ネンジョという持手が二股の杖は必需品で、歩くときは杖に、小休止するときは荷の下へあてて支えた。その場合、杖が荷に突きささらないようにネンジョタテとよぶ30センチばかりの板に縄を巻いたものを荷の下にあてた。ボッカ仕事は単独ではせず、必ず仲間を作って列を組んで歩いた。先頭には慣れた者が歩き、後へ続く者の能力に応じて速度を調整し、立ったまま小休止をするときはハイと声をかけた。これをネンジョのハイという。
 冬はわらじにマタウソ(爪がけ)とキビスカケ、すねにハバキを当てた。利賀ではこれを「四品一足」(よしないっそく)という。4点でセットになるわけで、いろりの上で干すときも、ばらすので乾きやすかった。雪道のネンジョはフユネンジョといい、先端が板状になっている。雪道に沈まないためと、時には深雪をこぐラッセルの役目も果たしたのである。
 ベンタゾリというものがある。スキーのように先端を反らした短い一枚ぞりで、米俵の背に縦に結わいておき、下り坂へくると俵をおろして雪面をすべり落とすのである。
朴峠道から五箇山トンネルまで
 この苦しい峠越えの道から、車で通過する五箇山トンネルの道まで、何段階もの道路の改良があった。明治以降の五箇山の歴史は、道との戦いの歴史であったともいえる。
 朴峠道から離れて細尾峠(標高約720メートル)ルートが開かれたのは明治20年である。城端から峠下の上田(二ツ屋)までを改良して馬車を通すようにした。ここはかつての小瀬峠への登り口である。ここから細尾峠までは人力で荷運びをする。峠からは道谷(どうだん)新道がつけられ、下梨まで馬車を通せるようにした。つまり、細尾峠だけをかついで運べば、前後は馬車が通じたのである。しかし、新しい峠は急坂だったので、大正末年ごろまではゆるやかな朴峠道を利用する人もあった。
 大正7年、自動車を通すために城端−八幡道路期成組合が結成され、同10年、大鋸屋側から着工して、昭和2年に完成した。折から庄川の電源開発が始まった時期(小牧ダムは昭和5年完成)でもある。城端町の県会議員黒川義明の献身的な働きもあった。その後、庄川上流に次々とダムが築造されたので改良が続けられた。太平洋戦争末期から戦後へかけて、木炭の撒出道路として重要な役目を果たした。昭和29年には初めて地鉄バスが通い、ほどなく国鉄バス・名鉄バスも乗り入れるようになった。
 しかし、トラックが通りバスが通じても、12月から5月の雪解けまではどうにもならず、昔ながらの雪ごもりに甘んじなければならなかった。小牧ダムからの船運、細尾峠の郵便逓送隊が活躍したのはこのころである。
 五箇山トンネルの意見書を国に提出したのは早くも昭和20年2月である。とはいえ、その当時は夢のまた夢にすぎなかった。その後昭和35年に五箇山隧道期成同盟会を結成し、強力な運動を展開、41年には起工式を挙げるまでこぎつけた。45年には主要地方道金沢−下梨間が一般国道304号線に昇格して大きなはずみとなった。49年、まず梨谷トンネルが竣工。本格的な五箇山トンネルは54年に着工して同59年3月10日に開通式を行い、ここに長年の悲願は結実したのである。
 一方、庄川町から川沿いに五箇山へ入る沿岸道がある。かつては絶壁が続き、雪崩や落石で危険極まる道であった。大正13年に改修されて井波から馬車道が開通したが、冬を越すごとに傷んで、すぐ通れなくなった。昭和28年5月、岐阜−高岡間の2級国道156号線に昇格し、改良が続けられた。当初は年中どこかで工事による交通止めがあり、落石や雪崩があったので人々は「酷道イチコロ線」と皮肉っていた。しかし、次第に改良が進み、長大なスノーシェッドで被覆された。昭和54年に「飛越国境合掌ライン」として開通式が行われ、冬でも通行できるようになった。五箇山トンネルの開通に先立つ5年前である。
 今、太平洋側と日本海側を結ぶ名古屋−砺波間の東海北陸自動車道が、両側から急ピッチに進められている。五箇山のインターチェンジは上平村の上中田・田ノ下に予定され、2000年富山国体までの開通を目ざしている。“秘境五箇山”という悲しいイメージは払拭されつつあるが、暖かい五箇山の人情だけは失いたくないものである。
(さえき やすかず・砺波郷土資料館館長)
−平成4年2月29日放送−
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