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テレビ放送講座 平成8年度テキスト「第6回 幼き日々の思い出・鮒漁」


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TOP 第6回 幼き日々の思い出・鮒漁 佐藤 久三

川と生きる 〜富山の川魚漁〜人々と鮒
 その昔、日本列島に住み着いた私達の先祖の生活は、野に山にそして川・海に食料を求める採集・狩猟から始まった。
 その食料の中で川魚は、身近な動物性蛋白質(たんぱく)源として日常生活と深くかかわっていたと考えられる。なかでも、鮒は北海道から沖縄に至るまで、日本中至るところの小川や池に普通に生息していたので、手軽に利用されていた魚であったにちがいない。
 鮒に関する越中最古の文書は平城宮址出土の木簡である。表には「越中国利波郡川上里 鮒雑」、裏には「腊一斗五升」「和銅三年正月十四日」とあり、西暦710年の事である。
 私にとって越中の古文書に出てくる最初の魚が鮒であることは興味深い。一般に淡水魚は食料として保存しにくいのであるが、その中でも腐り易い鮒をはるばると奈良の都に貢粗品として届けていることは、越中人の鮒とのつき合いが古く、食料としてたいせつなものであったことを伺わせるからである。
 奈良時代以降の古文書に食料として出てくる川魚は、鮒がもっとも多く、次いで鮎であり、動物性蛋白源として川魚を利用する風習は古くから近年まで続いていたと思われる。それは、今日のように漁獲量の多い海洋漁業の発達したのは、近年に入ってからだからである。しかし、古い時代の川魚の漁獲量についての記録は見あたらない。
 富山県においても川魚の鯉の漁獲量(図1)は、昭和元年になって農林水産統計資料に6トンが見られ、以後、昭和11年には34トンに増え、昭和17年の28トンまで記録は続いている。昭和18年から昭和23年までは、戦争中の手不足と敗戦の混乱によるためか記録はない。昭和24年以降は途中の中断はあるが、平成時代には10トンから20トン程度の記録がある。
図1
図1
 鮒(図1)は昭和24年の6トンの漁獲量が初見である。その後、昭和39年172トンにまで急増し、翌年の昭和40年には2トンに激減し、その後は1トン足らずの漁獲量で推移し、平成時代では10トン以下である。
 ウグイも鮒と同じく昭和24年の10トンが最初の記録で、その後30トン余りで推移し、昭和42年に264トンに大飛躍するが、ここ数年は40トン程度に安定している。
 このように、川魚は県民にとっては身近で庶民的な動物性蛋白源でありながら、昭和20年代にいたるまで、漁獲量の記録が少ないのは、漁業上の価値があまり評価されていなかったためか、或いは、戦中、戦後の食料の配給制度のなかで、内水面漁業の川魚は食料統制から外されていたためかもしれない。そのため内水面漁業従事者はその漁獲を自由に売買が出来た。
 昭和24年以降の漁獲量がかなり多いのは、放生津潟の漁獲量が比較的正確に記録されてきたためであろう。しかし、高度経済成長に伴って、海洋漁業に比べて内水面漁業の経済性は軽視され、より経済効率が高いと思われた新工業地帯として開発され、放生津潟は消滅した。
 このことで昭和40年以降は、鮒と鯉の漁獲量は衰退の一途をたどっている(図1)。それはまた、生産性の向上のために環境問題を無視した「たれ流し」による水質の汚濁・汚染と、河川の用排水路の三方コンクリート化による自然破壊によって、川魚が生態系内での生存権さえも奪われることによって加速されている。このことは、庶民の趣味と実益を兼ねた、鮒釣りや鯉釣りの楽しみさえも奪うことになった。
鮒釣り
 5・60歳の年輩のほとんどの人は春先の暖かい日から秋が来るまで、竿を出して鮒やハゼを釣るとか、網でドジョウや子鮒をすくった経験を持っていることだろう。
 坪田譲治が「故郷の鮒」のなかで、東京の散髪屋へ田舎から見習いにきている小僧が、あまりにも田舎へ帰りたがっているので、理由を尋ねると「仕事がきついから帰りたいのではなく、鮒が釣りたいのだ」といって皆から笑われているのを見て、自分の幼年の頃を思い出し鮒が欲しかったのではなくて、鮒釣りを通して故郷が懐かしかったのでしょう、とのべている。
 今日流にいうならば、思いきり遊び回って体を鍛え、原体験をすりこみ、大脳を開発して心を育んだ故郷に郷愁を感じたのだろう。
 私も子どもの頃の体験で釣りの占める割合が大きい。小遣いを貯めて釣針やすじ糸・重りを手に入れ、竿も手製のもので釣果を競った。
 釣れるものの多くは鮒であったが、極くまれに釣れる鯉は自慢の種であった。生えている4本のひげと、鯉だけに見られる美しい鱗の並びを眺めては悦に入ったものである。色鯉を釣れば話の種になり、子どもらの中では英雄にでもなったかのように羨ましがられた。着物についた濡れた泥を、干してもみ落すことを覚えたのもその頃であった。
 母は私が釣ってきた鮒は必ず料理してくれて、釣った魚は最後まで面倒を見るものだと教えてくれた。ある年の鮒の「乗り込み」の季節に沢山の鮒を釣ってきて、明日はもっと釣ってこようと言ったとき「漁師でもないのにそんなに鮒を捕まえてどうする」と、言ってたしなめられ、慰みに殺生をしてはいけないことを教えられた。母は貪(むさぼ)りを戒める信心深い人であった。
 今の私流にいえば、物質循環、エネルギーの流れの生態系の中での殺生は許されても、それ以外の殺生は罪悪である、ということだろうか。
 その当時の多くの人達の釣りは今日のへラ鮒釣りの「キャッチ アンド リリース」という単なる遊びとは本質的に違っていたように思う。今日のへラ鮒釣りは商業主義に乗せられた、弱いもの苛めのスポーツである以外のなにものでもないように思う。私の子どもの頃のように、例え泥水であっても生態系に有害な物質の含まれていない、美しい水の中にすむ鮒を釣り、安心して食べることは出来ないものだろうか。生態系のバランスの中で生命を尊重しながら……。
鮒漁のことなど
 生業(なりわい)としての漁(すなどり)を含めて、今日の鮒漁・鮒釣りの衰退は、(1)鮒が泥臭いこと(2)生息環境のイメージの悪さ…水質の汚染、汚濁に耐える生命力の強さが災いしている(3)ブランド指向、高級魚指向の世相に逆行して、あまりにも身近で庶民的な魚であることが、その原因と考えられる。しかし、このことは古来日本民族を育み、その健康を守ってきた栄養価の高い魚であることを否定するものではない。
 ちなみに、食品100グラム中に含まれるカルシウムは表1のとおりに鮒が抜群に多いことがわかる。その他の栄養価についても鮒はすばらしい食品であるが、そのことはあまり知られていない。そのために、鮒の食品としての評価を低くし、漁業としての評価をも低くして、ほとんど無視されることになっているのだろう。
表1 食品100グラム中に含まれるカルシウム(mg)

牛肉・豚肉

4
8
15
アユ 50
コイ 72
フナ 150
シジミ 170
ドジョウ 640
 鮒は富山県農林水産統計資料に昭和23年まで内水面漁業の魚種にはない。昭和24年(図1)の放生津潟(新湊)、十二町潟(氷見)での漁獲量は6トン余りである。この量は当時放生津潟に川手操網が5統あり、投網や三角網(三角だも)でも漁が行われていたといわれながら少ない。
 その他、白岩川や、戦中、戦後の蛋白源として、趣味と実益を兼ねた一般人の釣りや、たも綱で捕獲された量もかなりあったと思われ、その年以降は毎年記録を更新して昭和39年には172トンに増加した。しかし、昭和36年に放生津潟で始まっていた富山新港の建設や、それに伴って行われた射水平野乾田化事業の影響で、昭和40年に19トンに急落している。富山新港の開港された昭和44年度以降の鮒漁は数トンである。鯉は戦前でもかなりの需要があり、富山県でも最高30トンあまりの漁獲量がある。近年は10トン余りの漁獲量で推移している。
 放生津潟に流れ込んでいた下条(げじょう)川や十二町潟では冬になると寒鮒漁が盛んに行われていた。3メートル足らずの田舟(たずる)に乗って、枯れた葦やマコモの根元や、岸の杭のまわりの底泥のなかに手を入れて、冬眠中の鮒を手掴みにしたり、川の深みにある鮒の寄り場を探り当てて、竿を5本程並べての寒鮒釣りは冬の風物詩であった。
 泥をかぶって冬籠りをしている寒中の鮒は、餌をあまり食べていない。そのため、腹の中がきれいで、冬眠前に採った栄養で太り、寒さで肉が縮まって泥臭さが少ない。それを狙って人々は寒さもいとわずに漁をしたのである。
 寒鮒漁はいまでも氷見市の万尾(もお)川、仏生寺(ぶっしょうじ)川、そして福岡町、高岡市の福田六家(ろっけ)付近の小矢部川の中流域で、三角網等を使って少数の人々で行われている。付近の小料理屋で頼むと、昔懐かしい鮒料理を出してくれる。
 山越えをした隣の羽咋市の邑知潟(おうちがた)では、冬に「白鳥と寒鮒の里・邑知潟フェスタ」が行われて、各種鮒料理が出される。金沢市でも近江町の市場で売られている河北潟や邑知潟の寒鮒を素焼にし、茶がらで煮て、甘辛く味を付ける伝統料理を、正月料理としている旧家がある。
 鮒が泥地の柔らかいところを好むのは、敵に襲われた場合に泥濁りを立てて逃散するためである。弱い鮒にはそれが身を護る最上の手段であり、寒い冬に泥に身を潜めて静かに春を待つのにも適している。
 3月になると、梅一輪一輪と暖かくなって鮒も深みの巣と浅場との間に姿を現し、いわゆる「巣離れ」が始まる。冬の間の欠食を回復するために一気に餌をあさり始め、桜のつぼみが膨らむと産卵のために、深みから浅場へ、背鰭(せびれ)が出るほどの浅い田圃の用水(今日ではこんな用水はない)や浅瀬へと入ってくる。これが「乗り込み鮒」である。この頃の鮒は一番捕りやすい子もち鮒で、琵琶湖では「なれずし」用の鮒の塩きり(塩漬け)が始まる。産卵を終えた鮒は小川や用水に残り、餌を捕り産卵で衰えた体力の回復をはかる。この頃の鮒は食用としてはあまり好まれない。
 仏生寺川の流域には稲の花の咲かないうちに鮒を食べると「あて」られるという言い伝えがある。栄養価の低い鮒を食べるな、という戒めなのであろうが、水田に落ちた稲の葯(やく)の栄養価の高い花粉を食べて、鮒は体力を回復するのであろうか。いずれにしても鮒は夏から秋にかけて自由に水中を泳ぎまわって餌を食べ、やがて来る冬の生活に備える。11月には浅場から深みへ移動する「落ち鮒」となり冬籠りに入る。 
鮒料理
 人々に捕らえられた鮒は、産卵後の体力回復期の初夏を除けば、大小を問わず年中滋養分の豊かな庶民的な食べ物として利用されてきた。その重宝されてきた鮒が、わが国の経済活動の活性化に伴い、食べ物としての価値はほとんど顧みられなくなり、その生存権さえも無視されてきた。潟や沼はなくなり、用水は三方をコンクリートで、川の岸辺は矢板で固められ、ヨシ、マコモその他の水草が生えなくなり、生活の場を失って自然の片隅に押しやられている。人間の快適な生活を支える生産効率重視の建設は、鮒にとっては生存環境の破壊なのである。
 ここで、鮒の価値を見直すために、数十年前までは私達日本人の食生活のなかに深く溶け込んでいた鮒料理について振り返ってみたい。
 1年魚の小型の鮒は佃煮として小児から大人まで食べていたし、産卵後体力が回復した2年魚以上のものは晩夏から冬まで「洗い」として賞味された。今でも一部の人に喜ばれる寒鮒は、煮たり焼いたりしてその利用法は多様である。それを列挙すると鮒甘露煮、鮒味噌煮、鮒ヌタ、鮒のソロバン、鮒雀焼き、鮒昆布巻き、鮒こく(鮒汁)、鮒ずし等が巷間に伝えられる伝統料理である。鮒甘露煮はかなり大きな鮒でも素焼きにして、茶がらで煮、醤油・みりん・水飴等で味付けして煮込んだものである。
 鮒ずしをつくる伝統は今は富山にはないが、琵琶湖周辺ではすばらしい郷土料理として伝えられている。それは5〜6月の産卵期に塩きりにされた鮒を、夏から秋にかけて飯に漬け込み、長時間乳酸発酵させたものである。味といい、栄養価といい、薬効といい健康食品としては第一級品である。ただ、光秀が信長のもてなし料理に使って不興を買ったという独特の臭いがあるが、世界の珍味にはその例が多い。
 栄養価は消化吸収のよいタンパク質が生鮒の切り身100グラムに18グラムだが鮒ずしには25グラム、カルシウムは生鮒の切り身100グラムに100ミリグラムだが、鮒ずしには1,000ミリグラムあり、しかも乳酸カルシウムなのでイオン化しやすくなって含まれている。
 滋養効果としては疲労回復、夏バテ、下痢、整腸、食欲増進、風邪の治療、つわりのときの食物であり、乳酸はTCAサイクル(クエン酸サイクル)の活性化を促す。中国やわが国では生きた鮒と同様に産婦の乳の出を良くするといわれており、精力増強にも卓効があると中国の医師張瀧英(ちょうろうえい)氏は証言している。 
富山の鮒
 主にギンブナとゲンゴロウブナだが、ニゴロブナとテツギョの記録もある。
 ギンブナは肉付きがよく丸みを帯びて河川の下流域や潟沼の底層に生息して、群をつくる習性がある。雑食性で小型の底生動物や藻類、動物性プランクトンも食べる。不思議なことにこの鮒は、最近の研究によると全ての個体が雌で、雄がいない。ギンブナの卵は他の鮒の精子はもとより、コイ、ドジョウ、ナマズのような他の種類の魚の精子でも発生する。つまり、精子は卵発生開始の引金としてのみ働き、雄親の遺伝子は発現しない雌性発生をする。
 ギンブナ以外のフナの染色体数は1個の生殖細胞のそれを1倍体とすると、雌雄の生殖細胞が合体して子供をつくるので2倍体である。ところがギンブナは3倍体で、明らかに他の鮒とは異なっている。ギンブナが広く自然分布しているのは、この生殖方法が生存力となっているためかもしれない。
 ゲンゴロウブナは琵琶湖原産で、釣り堀用に品種改良されたものがカワチブナである。ヘラ鮒とも呼ばれ、放流されて競技用へラ鮒釣りの対象になっている。
 ニゴロブナは琵琶湖特有の鮒の亜種であるとされているので、本県ではその存在には疑問があるが、もし生息しているとするならば、滋賀県の名物である鮒ずしのもっとも良い材料なので、富山県でも「鮒なれずし」の生産に期待がもてる。しかし、私の調査では、オオキンブナの生息している可能性が大きい。
 テツギョは小矢部市の内山(うちやま)の池にいたが、道路の拡張工事によって埋められ、池がかなり小さく浅くなって環境が変化したためか、今はいない。ただ福岡町の養鯉業者は金魚のコメットと一緒に生まれているのを見かけたり、仏生寺川・小矢部川の漁師は、鮒のなかにときどきみかけることがあるという。
 コイフナを捕らえたという話を庄川と小矢部川の漁師にかつて聞いた。宮地伝三郎さんが「淡水の動物誌」で、今世紀のはじめに松井佳一さんが鯉と鮒を掛け合わせてつくった話を書いているが、それとおなじものであろう。
 松井さんの場合は鯉と鮒のどちらを雌に使っても形や性質に差がなかったという。外形は鮒にはひげがないが、鯉には4本、コイフナには2本ある。染色体の数も鯉と鮒の中間であるという。淡水魚にはこのような種間雑種の出来やすいものがいるが、コイ科の鯉と鮒もその例であり、生物の進化を調べる上で興味の深い存在である。
私は鮒
 生息域をせばめられ、生存権を奪われて、虐げられている鮒を見直し、鮒に代わって自己主張をしてきた。
 山紫水明の富山の風土で鮒の生態的位置付けは、物質循環とエネルギーの流れのなかに組み込まれてきた一つの歯車にしか過ぎないが、そのことは私達の健康な生命にとって、とても大切なことなのである。生態系では、もし、一つの歯車が抜けてなくなっても、新しい歯車が出来てくる。しかし、その歯車が環境に馴染むまでは不安定で、選択され、淘汰されて安定した歯車となり、健康な生態系に回復するまでにはかなり時間がかかるようだ。
 現在地球上の生態系の骨格をなす歯車は、全てが悠久の昔に地球上に発生し、淘汰されて生態系の歯車となっているのである。
 鮒がユーラシア大陸に住み着いたのは、人間に比べると問題にならないくらいに遠い昔であり、平地の殆ど至るところの水中に生息している。その長い時間をかけて選択され、淘汰されてきたものが、抜けてなくなった後には、なにが位置付くのであろうか。
 自然のどこにでもいたものが無くなって、新しい生態系が出来ることは、自然界の革命であるが現代合理主義に汚染された日本人は、いとも簡単に、先の見通しもなく歴史的な価値を取り除こうとしている。
 日本人はもっと現在の生態系の歯車に、責任をもって経済活動をしないと、その人間性が疑われることであろう。
(さとう きゅうぞう・氷見市イタセンパラ保護指導委員)
−平成9年2月22日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在のもので表示しています
鮒ずし考
 和銅3年に、越中国利波郡川上里より鮒雑、腊一斗五升が平城京に貢租されている。川上里とは、小矢部川の上流一帯を指し、城端町から福光町あたりの庄川扇状地西側を包含する地域を指すようである。腊については諸橋大漢和辞典に、腊魚(さくぎょ・しほびき、ひもの、魚腊)とある。そして1斗5升という容量は、干物を容器に入れた量というよりも、塩と共に塩漬けした魚を入れた容器の容量と見るのが妥当であろう。鮒の塩漬けは今日の食品として残っていないが、それを加工した食品として、琵琶湖周辺の「鮒なれずし」がある。
 「なれずし」の技法は、すし研究の権威である篠田統(しのだおさむ)氏によると「悠久の昔に大陸からイネの渡来のとき、それと一緒に伝わった乳酸発酵による魚類加工法の一つ」であると述べられている。
 であるとするならば、奈良の都に送られた越中よりの鮒腊は、更に味良く保存できる「鮒なれずし」にされていたとも考えられる。
 この私の独断と偏見はさらに飛躍する。年代的に見ると当時の北陸にも、「なれずし」の技法は伝えられていたであろうから、鮒の塩づけは「なれずし」として保存され、私達の先祖の生活を支えていた、と考えるのは無理であろうか。
 ちなみに、城端別院善徳寺と、井波の瑞泉寺には、寺としては珍しく「鯖のなれずし」が毎年の夏の虫干し法要の後の、お斎(とき)に付けられ、名物になっている海のヨーグルト・チーズである。そのルーツは不明である。

 

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