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テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第5回 能登への道」


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TOP 第5回 能登への道 太田 久夫

能登への玄関口・氷見の街
 氷見の街は、能登半島国定公園に含まれ、富山県側の基部にあって、重要な位置を占めているといえよう。海岸通りは漁師街でもあるが、国道415号線が延長約3キロメートルの街を、貫くように走っており、市民生活は活況を呈している。
 この氷見市街から能登へ通ずる道は、幾筋かある。①御上使往来といわれる臼ケ峰を越えるルート、②論田・熊無を通って羽咋へ出る道、③懸札を越える道、④一刎越えの道、⑤磯辺・国見を通って荒山峠を越える道、⑥石動山を経る道、⑦海岸沿いに行く道である。もっとも、一刎越えの道は、廃道に等しいのが現状である。
 これらの道は、それぞれ歴史を秘めているが、ここでは荒山峠越えの道を取り上げることにする。かつては、能登へ通ずる道として、もっとも賑わっていた道だからである。そして、街道筋の歴史や文化財、また文学作品に描かれた荒山峠を紹介し、先人達の築き上げた足跡をたどり、その中から今日に通ずるものがないかを追及してみたいからである。
街道筋の歴史と文化財
 約3キロメートルの旧氷見町の北のはずれにある上庄川に架かる橋を、「北の橋」という。上庄川の河口は、氷見漁港となっており、朝早くからセリの声が響く魚市場や、大型冷蔵庫が設けてあり、この一帯は繁華街を形成している。
 この漁港から沖合い300メートルほどのところに、唐島がある。動植物学や地質学研究上貴重な存在で、県指定文化財(天然記念物)となっている。なお、島は、素哲が開いた光禅寺の所有である。
 「北の橋」を過ぎると、今は北大町といっているが、加納町・池田町と続いていたのを、住居表示の改正に伴い、昭和43年に現町名となった。この街の通りは、商店街を形成するとともに、地蔵堂や魚取社が鎮座しており、漁業家たちが尊崇している。
 北大町のうち、旧池田町の北端近くに金谷春省家があり、同家の庭に庚申塔がある。高さ約2メートルの石柱であるが元来ここは庚申塚とよばれ、加納村と池田新の村境であったといわれる。明治初年に新道が開設されて、民家の敷地内に取り込まれたのである。これより東側20メートルくらいの旧道が間島新村に至る道で、かつての荒山へ通ずる道であった。間島新村は、今は間島といっているが、昔は半農半漁の村であった。昭和40年に、海岸沿いに道路が新しくつけられ、広い直線道路となった。
 間島から阿尾まで海に面しており、かつては防風防波のための松並木が、見事な景観を為していた。昭和8年に伐採しコンクリートの防波提を築き、通行する人々を浪害から守った。
 このあたりへ来ると、海へ突き出た岬が目に飛び込んで来る。阿尾城跡である。この城は、肥後の菊池氏から出た菊池武勝が築いたといわれるが、築城年も廃城年もはっきりしたことは分からない。天正13年(1585)守山城主神保氏張に攻められたが、前田の家臣村井長頼の応援を得て、神保を退去せしめた。
 なお、菊池武勝が伊勢神宮に参拝し、境内の榊を項戴してきて阿尾の地に植え、根付いたことから、この地に城を築いたといわれる。そして、榊の生い茂る社の意で榊葉乎布神社と名付けた。阿尾で、道は2筋に分かれる。いずれも能登へ通ずる道であるが、左手の山麓づたいに行くのが荒山往来である。この道も、明治22年に、阿尾から八代村吉滝まで、ほぼ直線に新設された道で、本来はもっと山麓の曲りくねった道が、荒山へ通じていた。
 しばらく行くと、森寺という集落に着く。この村には、西念寺という名刹がある。浄土真宗大谷派の寺で、上野山高木道場と号している。寺伝では、文亀元年(1501)八代庄の地頭吉滝掃部定孝の願いによって、能登から吉滝村滝野に移り、寛永19年(1642)に、森寺に再度移ったといわれる。同寺には、戦国期の寄進状があり、土豪と一向宗徒の結び付きを知る上で貴重なものである。「方便法身仏裏書」の永正10年(1513)の年号は氷見で明らかになっている。
 年代のものとしては、最も古いものである。この他にも「連誓画像」など、数多くの寺宝が所蔵されている。
 村の西北に、森寺城跡がある。今は公園化されており、県の自然遊歩道にも指定されている。この城は戦略の要点で、荒山街道を抑えることによって能登を守り、越中を攻める基地でもあった。築城は室町中ごろ、守護畠山義続が築いたという説がある。畠山の部将遊佐続光築城説もある。また、上杉謙信が攻めて来たとき、城を守った湯山左衛門続甚が築いたともいわれる。城の規模は、『三州志』に「本丸縦十七間、横十間。二丸縦四十八間、横二十八間。本丸の西に調馬場跡三間に十間余あり」と記されている。標高は161メートルほどあり、氷見では最も規模の大きい城であった。最高部は御殿山と呼び、本丸跡や二の丸跡があったといわれる。石垣や井戸跡・馬場跡も残っており、戦国時代の要衝であったことを、今に伝えている。森寺城跡は、昭和48年氷見市の文化財(史跡)に指定された。
 森寺を過ぎて北上すると、吉滝にたどり着く。江戸時代から明治期にかけて、宿場として栄えた。かつては3軒の宿屋があった。桜橋の側の、仲谷正人家もそんな1軒で、明治時代の宿泊や休憩した人々の名簿が残されている。明治12年9月、アメリカ人宣教師ウヱンが休んでいる。彼は、この街道を通った最初の外国人であろう。ウヱンは、金沢で布教活動を行ったトーマス・C・ウインと同一人物であると思われる。金沢の資料によれば、ウインは明治12年10月に金沢に来て31年まで滞在し、単に布教するだけでなく、夫人とともに西洋文化の輸入に、多大の貢献をした。彼は、明治14年8月、船で七尾から伏木へ来て布教しようとしたが、砂などを投げつけられ、散々なめにあっている。
 仲谷家は、宿屋のほか、内国通運会社の吉滝駅取扱所であった。今でいえば、運送会社の役割も果たしていたのである。当時は難路であったので、荷物が着くと人夫が集まり、荒山峠越えに能登二宮まで運んだ。橋本芳雄氏の調査によると、明治20年ころ120人位働いていたという。1日1往復日給12銭で、盛時には150人位が峠を越えたといわれる。そのため、籠5、6台、人力車も5、6台あった。人力車は、2人で曳かないと荒山へは登れなかった。人ばかりでなく、農耕馬が長蛇の列をつくって移動したのもこの街道であった。
 さらに北上すると、磯辺集落に着く。磯部神社は、磯部氏の祖、天日方寄日方命を祭る延喜式内社である。磯部氏は、伊勢の大氏族で、伊勢神宮の造営や供御にも尽くした。故国を離れ、この地の祖先となった。社叢は、氷見市文化財の天然記念物に指定されている。ウラジロカシ・ユズリハ・シイが主で、うっそうと茂り昼なお暗い自然林で、約130種の植物が自生しているといわれる。
 磯辺では、かつて亜炭を産出した記録も残っているが、炭質は不良で、廃絶・再開を繰り返したという。
 磯辺からさらに北へ行くと、国見という集落が左に見えて来る。かつての荒山往来は、国見・小滝と迂回して通っていたが、この地は地滑り地帯で、必然的にそのようなルートだったのであろう。今は道路も改良されているが、地滑りは続いているようで、防止工事が続行している。大正6、7、8年と、連続して地滑りが起こり、阿尾川を堰き止めた崩土は、俗称「国見が池」を作ったが、相次ぐ土砂の流入で埋もれてしまった。
 小滝は、もっとも荒山峠寄りの集落でやはり地滑り地帯である。明治の中ごろには、地滑りの被害を受けた人々が、北海道へ渡ったといわれる。
 いよいよ荒山峠である。ここから北方1キロメートルにある荒山城(荒山砦)を舞台に、天正10年(1582)から12年にかけて、織田信長の軍団と畠山氏の残党・石動山の衆徒らが戦いを繰り広げた。その前ぶれは、上杉謙信の越中侵攻であった。謙信は、前後10回も越中へ攻めて来たが、天正4年(1576)には越中を平定し、翌年には能登を攻めようとした。石動山天平寺の衆徒は謙信に好意的で、石動山大宮坊を本拠に、七尾城を攻めおとした。
 七尾城にいた長連龍が、柴田勝家の援けを受けて穴水に行ったのは天正8年であったが、七尾城兵に攻められ、守山城に逃れた。翌年には前田利家に援けられ七尾城を奪いかえした。このとき、畠山の家臣温井景隆・三宅長盛は七尾を脱出し、上杉景勝のもとに逃れた。天正10年織田信長が本能寺で殺されると、景隆・長盛は、景勝の兵の援けを受けて能登奪回を企てた。6月20日女良に到着した一行は、荒山に至って砦を築き、七尾の前田利家に対峙した。利家は、佐久間盛政の応援を得て、荒山峠で景隆・長盛を破り、この戦いは終わったのである。
荒山峠と文学
 荒山峠は、かつては能登への主要道路であった。それゆえ多くの文人墨客もこの道を通り、作品に残した。
 各務支考(1665〜1731)は、見龍・蓮二坊等の号も使った美濃の俳人で、元禄14年(1701)初めて北陸路を訪ねた。その後、しばしば訪れ、詩嚢を肥やした。荒山峠では
あら山や鬼も近づきの百合の花
という句を詠んでいる。伊勢の幾晩の編んだ『百合野集』に、支考の「道の記」も含まれているが、これによると、元禄16年にこの峠を通っているようである。荒山の難路ぶりは、「道の記」の中に″あら山越の名を聞くだに、むねつぶれぬべし″と記しているが、その荒山に咲き誇っている可憐な百合の花を見て詠んだのであろうか。
 滑稽本作者十返舎一九(1765〜1831)は、『東海道中膝栗毛』でよく知られているが、これに匹敵する作品に、『方言修行金草鞋』がある。その第一八編は越中関係で、「越中立山参詣記行方言修行金草鞋」の題名で文政11年(1828)に刊行されている。
 金草鞋は全25編からなるが、狂歌師鼻毛延高と僧知久良が、諸国の名所・旧蹟・宿駅・港湾等を見物し、滑稽な会話体で狂歌を挟みながら記したものである。
 一九は、実際に越中へ来たかどうか分からないが、作品の中では、能登・和倉温泉へ行こうとして氷見へ寄り、「よき町にて繁昌のところ」と記し、荒山峠についても、次のように書き留めている。
 氷見の宿よりしばし行きて、荒山の麓にいたる。この峠越中能登の境なりいたって難所の山道、やすむところもなく、峠に二、三軒茶屋あるのみなり。されども北海一目に見渡し、風景よきことたぐひなし
(狂歌)はるばると越路をあとに見かへればけしきたぐひも荒山峠
 次いで旅人は景色の素晴らしさに1首詠みたいと思い、地元の人に料紙と硯を持って来いと、横柄な態度をとっていることが記されている。
 パーシバル・ローエル(1855〜1916)は、アメリカの天文学者として著名であるが、明治22年東京から能登へ2週間の旅にでた。特にこれといった目的もなく、ただ能登に憧れ、矢も楯もたまらず出かけた旅であった。科学者であると同時に、詩人的要素も持っていた人といえよう。帰国後、天体研究を行い、海王星のかなたに惑星があることを、数学的計算によって予知した。この時の紀行は、『能登・人に知られぬ日本の辺境』によって知ることが出来る。氷見の街へ着いて宿を探したが、外国人に係わりを持つのを嫌ってか、ことごとく満員であるといって断られている。困り果てたローエルは、警察署を訪ねて事情を話し、ようやく宿泊することができた。この宿は、先年氷見の郷土史家田中清一氏の調査で今はすでに無いが、当時の警察署隣の久保屋旅館であったことが判明した。翌日は快晴で、気分も壮快に氷見の街を、憧れの荒山峠を目指して人力車で出発した。しかし、道は必ずしも平坦ではなく、氷見の街を離れるころから次第に先細りとなり、人力車もついに進むことができず、峠の麓の谷間の茶店の前で降ろされてしまった。やむをえずローエル一行は、農夫に頼み込んで荷物を持ってもらうことにした。几帳面とも思える農夫の動作に感嘆しているが、先を急ぐローエルにとって、緩慢な農夫の歩みにいらだちを感じてもいた。途中の景観等も細かに記し、峠近くではるかに望見した立山連峰の荘厳な姿に感動している。峠には2軒の茶店があって、「どうぞ一服なすって」の呼声もものかは、何よりも能登側の断崖に立って宿願の能登を眺めたが、その眺望は予期に反し、やや落胆した様子を書き留めている。
 人情・人の機微・四囲の景観に触れるなど、荒山峠を扱った作品としては、出色のものといえよう。峠で撮影した写真が残っており、当時の風俗を知る貴重な資料である。
 加賀藩士竹中邦香(1842〜1896)の著した『越中遊覧志』にも、「荒山越」として、阿尾からの荒山往来のことを、次のように記している。
(略)吉滝村までハわづかに車を通すべし。是よりやうやく山間に入る。(略)国見村を通れバ路さかしく上る。小滝村よりますます嶮にして、つひに阿尾川に別る。上りて絶頂にいたれバ茶亭二軒相対す。これを荒山峠とす。則ち能越の国境にして、二軒の茶亭、一は小滝村に属し、一は能登の鹿島郡芹川村に属す。頂上より望めバ、東ハ有磯の海青ミわたりて、その向ひに連山の高く聳へてうち連るハ、立山の山脉を中心として東のかた宮崎の岬に走るものなり。(略)
  これ等の作品に見られるように、この峠の風景は、道を通る人々の心を捕らえたことがわかる。今日では、通行する人は少ないかも知れないが、忘れ去られようとしている歴史道と素晴らしい景観を、いつまでも守っていきたいものである。
(おおた ひさお・高岡市立中央図書館館長)
−平成4年2月22日放送−
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