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テレビ放送講座 平成2年度テキスト「第7回 万葉のみやびをうたう・小矢部川」


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TOP 第7回 万葉のみやびをうたう・小矢部川 山口 博

1.万葉を流れる川
 狭い国土で、溢れる程の人が生きていくために、日に日に開発の進んでいる現在、万葉の昔を偲ばせる故地など、ほとんど存在しないのにもかかわらず、私たちはそれを求める。どぶ川のような飛鳥川を見ることによって天平の人を思い、喧騒の中に佐保の里を空想する。
 万葉に歌われた場所の中に、最も変貌した一つが川である。
 万葉を流れる川は全80河川。そのほとんどが流れを変え、地下に潜り、生活排水路に転じ、埋め立てられ、その痕跡を留めない川もある。
 富山県を流れる万葉の8河川は、現河川に比定の定まらぬ辟田(さきた)河を除いては健在で、今も私たちの生活を潤してくれている。射水川(小矢部川)、雄神河(庄川)、宇奈比河(うなひがわ・宇波川)、売比河(めひがわ・神通川)、鵜坂河(神通川)、延槻河(はやつきがわ・早月川)、可多加比河(かたかひがわ・片貝川)である。
 この8河川の多くが、1首ないしは2首程にしか読み込まれていない中で、射水川のみ6首である。
(大伴家持・巻一七・三九八五)
射水川 い行き廻(めぐ)れる 玉匣(たまくしげ) 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の 匂へる時に 出で立ちて 振り放(さ)け見れば………
(大伴家持・巻一七・三九九三)
藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今そ盛りと………思ふどち 馬うち群れて 携(たずさ)はり 出で立ち見れば 射水川 湊の洲鳥 朝凪(あさなぎ)に 潟にあさりし 潮満てば 妻呼び交す 羨(とも)しきに 見つつ過ぎ行き………
(大伴家持・巻一七・四〇〇六)
………愛(は)しきよし わが背の君を 朝去らず 逢ひて言問ひ 夕去れば 手携はりて 射水川 清き河内に 出で立ちて わが立ち見れば 東風(あゆのかぜ) いたくし吹けば 水門(みなと)には 白波高み 妻呼ぶと 洲鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 梶の音高し そこをしも あやにともしみ 思(しの)ひつつ 遊ぶ盛りを……
(大伴家持・巻一八・四一〇六)
………南風(みなみ)吹き 雪消(ゆきげ)まさりて 射水川 流る水沫(みなわ)の 寄辺(よるへ)なみ 作夫流(さぶる)その児に………
(大伴家持・巻一八・四一一六)
………射水川 雪消溢(はふ)りて 逝く水の いや増しにのみ 鶴(たづ)が鳴く 奈呉江の菅の ねもころに 思ひ結ぼれ 嘆きつつ 吾(あ)が待つ君が………
(大伴家持・巻一九・四一五〇)
朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌ふ舟人
 これら万葉歌を読み、目をつぶると、小矢部川の河口の工場地帯や港は消え、私たちの脳裏に、万葉の風景が蘇ってくる。二上山を帯のように廻り、雪消の清冽な水が溢れるように滔々と流れ、河口には鶴の鳴く長閑な射水川の風景。家持が愛してやまなかった風景である。
 それにしても、家持のこの射水川への愛着はどうだろうか。何を家持は射水川に見ていたのだろうか。
2.逝く水
 川は表情を持っている。多くの日本の川は、細く急で清らかな表情をしている。
(間人宿祢・巻九・一六八五)
川の瀬の 激(たぎつ)を見れば 玉をかも 散り乱れたる 川の常かも
 泉川(木津川)を詠んだ歌であるが、激流そして玉と見紛う美しい飛沫。これは泉川のみの表情ではない。日本の「川の常」と言うのである。
 越中の川も急勾配の斜面を流れ落ちる川である。例えば家持が片貝川を見て、
(巻一七・四〇〇五)
落ち激(たぎ)つ 片貝川の 絶えぬ如 今見る人も 止まず通はむ
 と歌うのも、もっともである。
 ところが家持は、越中で、
(巻一九・四一六〇)
天地(あめつち)の 遠き初めよ 世の中は 常なきものと 語り継ぎ ながらへ来たれ
 で始まる「世間の無常を悲しびたる歌」で、天地自然も時の移りには抗し難く、人もまた同じ、
紅の 色も移ろひ ぬばたまの 黒髪変はり 朝の咲(ゑ)み 暮(ゆふべ)変はらひ
と言い、
逝く水の 留まらぬ如く 常もなく 移ろふ見れば
と歌う。万物流転、無常を書き綴り、最後を、
流るる涙 止みかねつも
と、縷々流れる涙で締め括ったこの歌は、深みのある重厚な作品であること、万葉歌の中でも屈指の作品であろう。
 「逝く水」はまさに無常観である。しかし、滝のように激して落ちる川の流れから、「逝く水」という無常観を体得できるだろうか。
 私たちは「逝く水」というと、孔子の言葉を思い出す。
子、川のほとりに在りて曰く、逝く者はかくの如きかな。昼夜をおかず。
 孔子は、彼の故郷山東省曲阜に近い済南辺りを流れる黄河を見て、こうつぶやいたのだろう。ひたすら黄色に、黙々と、悠然と、ヴォリュムを持って流れる黄河。それであるから無常観も沸いて来るのだ。
 家持も『論語』は読んでおり、この一節は知っている。そうすると、いったい家持は、越中のどの川を見て無常観を感じたのであろうか。それは射水川を置いてはないであろう。
 富山を流れる1級河川(黒部川・常願寺川・神通川・庄川・小矢部川)の中でも、小矢部川は流路の70%が平野部を流れ、河床勾配は平均1/500〜1/1500。下流部は県でも珍しい緩流河川となっている。
 この緩流であることは昔もそうであっただろう。それだから、
朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌ふぶ舟人
というような、長閑な牧歌的風景も見られたのである。
 二上山から見下ろせば高岡市辺りで、又、小矢部市の津沢付近で大きく蛇行する姿を見ると、私には射水川が黄河に思える。まさに「逝く者はかくの如きかな。昼夜をおかず」の感がある。
 後でも触れるが、射水川は氾濫により度々流れを変えた。まさに、
世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる
である。この歌は『古今集』にある作者不明の古歌であるが、飛鳥川を詠むので奈良時代の作であろう。家持も知っていたかもしれない。そうすれば、流れを変える射水川は、奈良人にとっては、越中の飛鳥川であったのだ。
 朝の紅顔も、タベには白骨に変わるという、浄土真宗の御文書を思わせる家持長歌の表現は、彼が敬愛する山上憶良の「世間の住(とどま)り難きを哀しびたる歌」(巻五・八〇四)にも見られる。その題詞からも分かるように、家持長歌は憶良の歌の影響を受けているのだが、憶良の歌には「逝く水の 留まらぬ如く」の句はない。私は、この句は家持が滔々と流れる射水川に接してこそ、初めて生まれたものと思う。家持の「世間の無常を悲しびたる歌」は、射水川がなかったら、家持が越中に下向しなかったら、生まれなかったのである。
3.流水無常
 小矢部川は常に流れを変え、庄川と合っては離れ、離れては合うという状況を繰り返して今日に至る。
 小矢部川と庄川が分離し、全く別の川となったのは、意外に新しく大正元年のことである。高岡市の木町辺りでは、昭和の初めになっても、射水川の呼び名が生きていたという。
 両川に分離するそれ以前の合流点は、時により変わり、定まっていない。小矢部市津沢辺で合流していたとの説もあり、天平時代は小矢部市と福岡町の中間辺であっただろうともいわれている。
 延喜式によると、古代の北陸道の越中に入ってからの、駅(うやま)は、坂本・川人(かわと)・亘理(わたり)と続く。坂本はくりから峠の坂下を意味する地名で、砺波関付近。亘理は伏木港付近。その間の川人は川合とする記録もあるが川人が正しいか。
 現在の福岡町赤丸と、これに接する高岡市石堤に延喜式内社浅井神社がある。いずれが本家であるか分からないが、両社に17世紀末ごろまで川人明神という神社があったことを『越中志徴』は伝えている。この付近に川人の駅はあったのだろうが、亘理が「渡り」で、射水川河口の渡河地点であって、そこに駅があったように、川人は「川渡」で、駅が設けられていたのは、ここが、渡河地点であったからではないか。川水の増水などで渡河できない時には、宿りを取らねばならなかったであろうからである。
 現在、川人の辺りは小矢部川からかなり西の山麓に寄っているが、昔は山麓を射水川が流れていて、養老元年(717)に、あこが淵という所に神像が流れ着き、それを祭ったのが川人権現社(浅井神社)の始まりだと地元の伝説は言う。そうであれば、川人が渡河地点であった可能性はあるであろう。
 川人で射水川を渡り、更に雄神川を渡るということはしないであろう。川人では既に両川は合流していたのであり、合流地点は川人より少し上流であろう。その地点を教えてくれる有力な資料がある。
 延久元年(1069)橘為仲が越後守に任じられた。彼は北陸道を下ってきて射水川を渡る。
 越後守にて下り侍りしに、射水といふ所を渡りて、上津といふ所にとどまりたるに、松虫の鳴きしかば、
我ならぬ 人は越路と 思へども誰がためにか 松虫の鳴く
 北陸路を下るもの寂しさが歌われているが、為仲は上津で射水川を渡る。上津は今の福野町上津で、小矢部市の東南、福野町を流れて来た小矢部川が小矢部市に入る地点である。意外な地点を北陸道は通っているのだが、このルートがどこからどこへ行くのか全く分からない。近くには安居寺があり、かつては北陸道の主要幹線であったのだろうか。
 両川の合流点は、小矢部市と福岡町の中間の川人の辺り、それより上流の津沢、更に上流の上津、時代により流れを変え、まさに無常である。
 家持は、「雪消まさりて 射水川 流る水沫の 寄辺なみ」「射水川 雪消溢れて逝く水の いや増しにのみ」と雪消の水を飲み込み、水量の増した射水川を歌う。氾濫への恐怖が高まる。
 氾濫により沃土を与えてはくれるものの、住民にとっては、被害をもたらす恐怖の川でもあった。高岡市と福岡町の境に水神ミズハノメノ神を祭った浅井神社があるのも、そのことゆえであろう。
4.北陸古道
 飛鳥川や佐保川がそうであるように、所を得れば、二上山をバックにして流れる小矢部川にも、万葉の昔の面影を偲ぶこともできる。しかし、河口辺の流域にそれを求めることはほとんど不可能である。井上靖が小説『夜の声』で、現代という魔物の手にかかっての万葉故地の変貌と、糾弾した地域がここである。
 私は小矢部川流域で古代の面影を残している地域として、福岡町下向田から川人を通り、高岡市手洗野に至る約8キロの旧北陸古道を好む。道路の消滅する箇所もあるが、沿道には加茂・舞谷・月野谷などエレガントな名を持つ古い部落が点在し、古い寺社や史跡も多い。
 下向田に柏葉神社。加茂には、古文書を伝える真宗大谷派超願寺、宗祇の来訪を伝える宗祇塚。馬場と舞谷の間は人家のない山麓道が1キロ程続き、山道には古墳群・親王塚・総持寺跡などが点在する。史跡の中心は式内社の浅井神社。参道に杉並木、境内に老木大樹がある。
 なぜか理由は分からないが、この道の史跡には、元正天皇の養老年間の伝が多い。舞谷の加茂明神・同地清水観音跡、川人山鞍馬寺・川人明神など、いずれも元正天皇と関係づけている。手洗野という地名は昔はミタラシノであって、この地は二上神社の社前で、寛永13年までは神門があったというが、二上権現を祭る射水神社の建立も、養老元年(717)と伝えられているのである。
5.流域開発
 小矢部川と庄川に挟まれた砺波平野を横断するように、岸渡川・中川・祖父川・千保川・地久子川が流れている。昔も多くの川が砺波平野を流れていたであろう。これらの川は潅漑用水となり、度々の氾濫は沃土をもたらした。砺波平野が有数の穀倉地帯であるように、古代においても、射水川と雄神川の流域一帯は重要な稲作地帯であった。
 養老7年(723)の三世一身法、天平15年(743)の墾田永年私財法により律令の公地制度は崩れた。
 天平宝字3年(759)の越中国の墾田地図を見ると、砺波郡には、中央貴族の橘奈良麻呂・大原真人麻呂、在地豪族の利波臣志留志の私有地がある。
 公地、中央貴族・在地豪族の私有地、更に越中の場合は、これに東大寺領が加わった。
 墾田永年私財法の施行されて6年後の天平勝宝元年(749)には、東大寺の僧平栄が墾田地占定のため越中に下ってきており、史料は同年砺波郡伊加流伎・石粟の土地が、東大寺の私有地になったことを記録している。平栄下向の翌年、家持が墾田の検察に赴き、砺波郡の主帳多治比部北里(たぢひべのきたさと)の家に宿ったのも、中央貴族や東大寺の墾田のためであろうか。
 「越中国諸郡庄園惣券第一」によると、勝宝元年(749)に予定された東大寺墾田の総面積は、587町7段余である。しかし、宝字3年(759)までに開墾されたのは、154町1段余にとどまる。墾田の困難さが伺える。
 墾田地図にある地名が、現在のどこであるか定かではない。潅漑に有利な射水川・雄神川流域は耕地化しているであろうから、そこに東大寺の土地を求めることは中央貴族・地元豪族・国司とのトラブルは必至である。トラブルを避けるためには、開墾の行われていない湿地や高地を開くことになり、水利のための土木工事が必要になる。
 射水川・雄神川流域にどのようにして東大寺領の開墾が行われたか分からないが、家持にとっての越中経営の最大問題は、射水川・雄神川流域の開発であったのではないか。
 先に、墾田地図に在地豪族として利波臣志留志の私有地のあることを挙げた。無位の志留志が、天平19年(747)に外従五位下に叙せられたのは、米3千石を東大寺に寄進したからである。神護景雲元年(767)には従五位に叙せられ、越中員外介に任ぜられたのも、墾田100町を同寺に寄進したからである。前述のように、東大寺の越中開田は勝宝元年から宝字3年まで、10年を要しても150町であるから、志留志の100町寄進がいかに偉大であったかが分かる。その功認められて、後年、志留志は東大寺墾田地の専当国司として活躍する。
 家持の越中在任中、志留志はひたすら私有地の獲得に腐心している。公人として墾田に努める家持と、私人として墾田に意を尽くす志留志と。志留志は家持の前に一度もその姿を見せてはいない。射水川流域の土地開発をめぐって、国司と在地豪族との間に、複雑な拮抗関係が生じていたのである。
 西砺波郡福光町岩木に、志留志の墓と伝えられている塚がある。その塚は眼下に小矢部川を脾睨する。射水川流域開発への彼の執念を、今に感じさせているではないか。
 家持や志留志によって徴収された射水川上流砺波平野の米は、都の政府や権門に送られるため、舟で射水川河口に運ばれてきたであろう。道路の発達していない古代においては、流れの緩い射水川は重要な運輸の手段であった。家持が、
朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌ぶ舟人
と歌った舟人も、米を運んでいたのであろうか。
6.そして今
 そして今、流域開発は河口に移り、伏木外港建設計画が進んでいる。家持が鶴の姿を眺めて、しばしの憩いを求めた如く、河口は人々の憩いの場として、新たな脱皮を試みようとしているのである。
(やまぐち ひろし・富山大学人文学部教授)
−平成3年3月9日放送−
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