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テレビ放送講座 平成5年度テキスト「第1回 鉾留光る 〜築山と曳山の祭り〜」


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TOP 第1回 鉾留光る 〜築山と曳山の祭り〜 伊藤 曙覧

 雪深い北陸路も春のきざしがさしかけてくると雪どけが早く、それとともにあちこちの町や村で笛や太鼓の響きが聞こえ、春祭りがはじまる、春へのよろこびは北陸の人でなければわからないであろう。
 その中で最も絢爛豪華な祭りは曳山であろう。 
築山
 ところで曳山とともに大切なものが築山である。
 築山は高岡市二上山麓の射水神社と、新湊市放生津八幡宮でみられる。
 まず二上射水神社の築山は4月23日、正面参道を入り左三本杉の下に築山が作られる。実は祭り前日午後、神主とご幣ドン(山森家)が奥のご前へ登り日吉社を迎え、帰りは悪王社の前を通らずに下りて、神は祭壇のすぐ横のご幣ドンの家で泊る。祭り当日ご幣ドンが前日の日吉社のご幣を築山の上の祠へ移す。
 祭壇は三本杉の前に本殿の方を向いて桟敷舞台が作られ、舞台の上に小祠がある。その上に赤衣を着た藁人形の天狗が斧をもって宙に下げられる。
 この壇の上には四天王が配され、その前に造花の枝を篭にさしておかれる。造花は桜と木蓮で、3尺程の竹につけた造花は氏子の家数だけ作られて、式終了後に各家へ配布されるという。
 儀式は祝詞(のりと)に続いて神輿(みこし)が巡回して築山の前へ進むと、再び祝詞があり、神輿は本殿へ帰る。このあとは獅子舞が村の中へと出廻り築山儀式が終了する。この日夕方築山はすべて解体される。
 つぎに新湊市放生津八幡宮の築山は10月2日であるが、組み立ては9月30日夕方4時頃境内老松を背景に西面して築山が作られ、高さ2.7m幅7.2m奥行3.6mの壇を組立て、回りは欄干で、しめ縄を張り、欄干の下に幕がはられ、中央小祠上にオンババ(姥神)が祀られ、鬼女の仮面をつけ、白衣をきて白髪をふり乱し、ご幣のついた竹竿をもっている。下壇四隅に四天王が甲冑姿で各旗が立てられる。1日は曳山で、2日は築山前で祝詞儀式がされる。
 高岡と新湊の築山で注目されるものに四天王信仰がある。四天王はわが古代彫刻等にもみえるが、簡単にふれておく。持国天は治国、安民とも訳し、東方の守り神、国土を保つものの意で、増長天は増広とも訳し、増大するものの意、南方を守る神で、大威徳がある。
 広目天は醜目とも訳し、西方守護神で、異様な目をもつものの意で、自在天の化身ともいった。
 多聞天は晋門とも訳し、北方守護神で、仏の近くに居て多く聞く意で、仏法を護持する善神と言った。
 これら四天王は須弥山の中腹にすみ、帝釈天に仕えて、仏法の守護を念願し、仏法に帰依する人々を守護する役で、仏敵を威嚇する護法神とされ、「金光明経」によったとされる。日本に入ると須弥山の四方を守ることから壇場化して須弥壇での四隅に当て、それを築山の壇にそのまま当てて四天王を配したものである。
 次に築山から曳山への過程である。
 わが国では古く神は社殿に常在するものではなく、天上や山上から神を招き降臨されて祭りがなされると考えられ、そのために神が訪れやすく降りやすい目印としての依代が作られ、少し高い処、盛砂、祭壇ができ、ご幣、松、榊、杉、人形等が飾られ固定の神座ができると築山となり、固定神座が複雑になると置山の型ができてくる。
 仏教が入っても同じことで、藤原定家『明月記』には灌佛会に山型を作っていることがみえるのも同じものであろう。
 この神を招く祭場が氏子によって担がれて氏子の町へ出た形が舁山(かきやま)である。ところがこの氏子の町へ巡幸すると、装飾、彫刻に手が加わり、金工、漆工、花立、鉾、人形が華麗になり、風流(フリュウ)としての曳山、山車、屋台が出来てくるとみられている。
 特に築山で注意されるのは、築山の地が修験道、山岳信仰に関連していることである。先の新湊市放生津八幡宮築山は「日の出から日の入まで飾る」とされ真言宗当山派山伏両学坊が別当職をつとめており、高岡市二上射水神社築山も真言宗二上山養老寺別当寺(神宮寺)がつとめたという。この他文献では氷見市朝日上日寺(真言宗)の享和3年(1803)「口上書」にも3月18日日吉山王社祭礼においても「付山」のあったことが判明している。また能越国境の石動山も旧暦3月23日から25日に造山(築山)が講堂前庭であり、三段組み仮舞台の上に猿田彦、中下段に浦島子と尉と姥が飾られていた。しかも「石動山は口なし、新湊は足なし、二上は手なし」との築山主神伝承があって築山には真言系修験道の地に多いことも注目されてくる。  
曳山
 つぎに曳山についてその大要を述べることにする。江戸期越中の曳山は総数百台をこえていたのである。
 高岡市関野神社5月1日春大祭に7本の山車が出る。維持には10町内で、各山町から2名の役員、計20名の理事がおり、2か町ずつ交替で年番町となりその運営の責任をもつ。又周辺53ケ町が氏子となり、約5,000戸が氏子といわれ、北陸随一の曳山といわれる。
 名称は高岡御車山(みくるまやま)と呼ばれ、花鉾山車の形で、幕をめぐらした山車の上に鉾を立て、その上に放射状の花枝が上下に向き、花枝の内に篭があり、花枝上部に鉾留があり、台上に人形がおかれ、後部には各町の標旗と花枝があり、幕、高欄、後屏などに優美を示し、各山車に、輪棒、人足、囃子方、稚児、人形方、供奉者、山大工計379人が役割を分担し、曳廻し順がきめられる。曳山の重要点は、放射状の花枝と篭で古い信仰を保存していること、諸事古式をより豪華に伝えている点で、昭和35年国指定重要有形無形文化財となった。ただこれを保存する上で、山を曳く人、嚇子方の人々が次第に得難くなったことが心配されている。
 この高岡曳山の流れをうけたのが、新湊、伏木、氷見、石動、戸出、大門、中田、海老江の曳山などである。
 また城端曳山は形は同じであるが、6本の曳山は享保4年(1919)にでき、9年から曳き出したという。現在は曳山の6町内が5月1日に連合会をして打合わせをし各町で庵屋台の囃し唄をきめて練習をし、唄、三味線、横笛、太鼓合奏で13日まで稽古があり、祭りは14日宵祭からで14日に曳山と屋台を組立てる。神輿がお旅所へ移される。町の人は御旅所へおまいりする。15日は早朝に曳山へ福神を移し、お旅所の前へ集まり、10時頃から神輿、曳山、屋台の行列が町をまわる。曳山をひく人は近辺農村の人である。神輿は金戸、千福、国広などの人、曳山は、東下は次郎丸、川上中、堀越、出丸は信末、徳成、利波河、北野、西下は野田、信末、東上は蓑谷、大工町は大鋸屋、打尾、林道、西上は野田、信末、金戸、北野等から依頼している。
 各町の曳山塗は小原治五右ヱ門系の城端塗、人形は唐津屋和助により、山車の大工仕事はいずれもこの町の人々の手によっていることが特徴とされる。
 特に城端曳山で注目されるのは傘鉾である。大きな唐傘の周囲に幕をたれめぐらせ、傘の上にダシという飾りがある。ダシ8本は太鼓に金鶏(西下)、三宝に鈴、玉手箱(西上)、打出小槌(東下)、碁盤に小野道風、柳に蛙(出丸)千枚分銅(大工町)金の鶏(東上)…などがある。この傘鉾は町曳山以前貞享の頃からの存続と伝える。このような傘鉾と類似したものは中世祭礼絵巻に多く。大阪住吉踊、播磨総社三つ山、越後の綾子舞、小矢部市綾子の願念坊踊にもみえて念彿踊系に広くみえ、今後の比較研究がまたれる。城端では庵屋台が出るのも注目される。
 次に高岡曳山の形式とやや異なる曳山として、特に婦負郡八尾町5月5日の曳山があり、普通八ツ棟造りと呼び、二重の屋根形造りで、高欄は二段となり、上は人形依代、下は囃子方が入り、車が梶棒の内に入り、車軸幅が狭く、狭い道も入りやすく、次第に豪華なものへと発展してきた。
 5月2日各氏子は山から松の小枝を用意して、戸毎に注連を張りそこに松小枝を飾る。各町内役員が下新町八幡社に参り、祓いをうけ、各町の山蔵から神体を出し、各町公民館へ飾る。3日に曳山を組み建て午後各町を曳きまわす。夜は供物を供え、曳山ばやしを奏する。4日は各町内で曳山の点検をして準備をした。
 5日は10時今町に並び、獅子、神輿、曳山の順で各町をまわる。6日は曳山を解体して山蔵へ納め、午後城ケ山公園へ山行きをして慰労をした。曳山経費は、各町内で平生から集め、12月町の「万雑割り」で集めている。
 このような御殿風屋根型曳山は城端、八尾、上大久保、戸出、出町、入善などにみられる。
 次に曳山で注目されるのは、各地曳山に色々と工夫がされ、前人形に唐子の宙返り、太鼓打ちのからくり人形が登場して喜ばれてくると、文楽人形芝居が上演され、更に子供歌舞伎が登場して曳山をもり上げ、夜に入るとすべてが堤灯山に変りその美を競うようになった。  
歌舞伎曳山
 歌舞伎曳山は、江戸期からもみえ、宇奈月町浦山、魚津市、滑川市、高岡市戸出等にみられたがいずれも廃止した。
 砺波歌舞伎はよく知られている。砺波市出町の神明社春祭りに天明頃(1781〜89)曳山ができた。4月16・7日(現、5月1・2日)西町、中町、東町が曳山の上で子供歌舞伎を演じて人気を集めている。子供歌舞伎は天明期に西町でおこり、中町、東町でもできた。幕末から明治にかけて村芝居が流行した時で、これが曳山と浄瑠璃芝居を結びつける原因となった。
 芝居は4月に入ると開始されるが、1幕30分程のもの2題選ぶ。昭和初年まで6歳から12、3歳の男の子から選んだが、戦後は女の役には女の子から選ぶことになった。宿は東町は神明社、中町は真寿寺、西町は真光寺であった。外題は絵本太功記尼ケ崎の段。鎌倉三代記三浦別れの段、本朝二十四孝十種香の段、奥州安達原袖萩祭文の段、鬼一法眼三略巻菊畑の段、一の谷嫩軍記熊谷陣屋の段、御所桜弁慶上使の段などよく知られた中から選ぶことにしている。
 また村芝居として婦負郡細入村猪谷で復興し毎年上演されていることも忘れてならない。  
むすび
富山県内・築山・曳山・庵屋台等一覧 以上富山県の築山・曳山などの大要を述べてきた。築山については、神祭りではあるが石動山信仰、山岳信仰、修験道と深いつながりのあることが指摘される。
 次に曳山について、古い神を迎える花や篭などがあり、民俗信仰発展過程を究明する民俗であるが、江戸期の大きな町に続々と曳山が作られ、町の経済的地盤と密接に関連していたのである。続く明治・大正・昭和では町としても皆新しい町に成立し、程なく廃止されたのも注目されてくる。
 曳山が素朴な時代から風流としての方向への中で、依代、標識の中でおめでたいものに因んで、松竹梅(高岡)小判(大門)打出小槌(新湊、海老江、石動)鳳凰(八尾)重ね太鼓(海老江)千成瓢箪(伏木、石動)寿(新湊)猩々(高岡)尉と姥(高岡)特に七福神(弁才天が入っていないが、高岡、新湊、伏木、石動、戸出、八尾)孔明、孔子など中国古典の人物・武将(新湊)などが取り入れられて、各々の時代背景というものを知ることができる。
 次に曳山で忘れられないのは、修験道の姿が取り入れられていることである。錫杖(高岡、福光、新湊)法螺貝(新湊)かね、鉦鼓(石動)傘鉾(福野、城端)、これらを並べてみると曳山文化が築山から展開してきた過程をよりいっそうみることになるとともに、曳山、築山という神々の行事の中に仏教的要素がかなり伝承されていることも忘れてはならない。
(いとう あけみ・小杉町文化財審議委員)
−平成6年1月29日放送−
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