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テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第1回 道のはじまり」


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TOP 第1回 道のはじまり 藤田 富士夫

けもの道から踏み分け道へ
 シカやイノシシなどの動物は、通う道が定まっている。シカはシカみち、イノシシはウジ、クマはクマみち、カモシカはカモシカみちなどと呼ばれる。何度も同じところを通るので、草原や山林の草が踏まれ「けもの道」が大地に刻まれる。旧石器時代の人々は、目的によってそれぞれの「けもの道」を追っていた。
 私はかつて豊かな自然が残っているモンゴル人民共和国の山岳地帯を歩き、シカ道をたどったことがある。日本では、旧石器時代には生息していたが、その後急速に絶滅してしまったオオツノシカ系のシカなどが、まだ、悠々と自然とともに生きていた。シカ道は、ブッシュの中を直線に、そして弧を描いて、何本も縦横に走っていた。道筋には、糞があり、自然落下した大きな角があった。また、ある時には、オオカミが生息するという岩場の近くに内臓の破られたシカの死骸を見た。モンゴルの猟師は、けもの道をたどり、それが見渡せる岩場の上に陣取った。
 人間は、けもの道をたどって狩猟し、獲物をしとめてきた。狩りの道でもある。何度も人間が通ると「踏み分け道」となる。最初の道は、このようにして始まった。踏み分け道は、尾根や谷筋を通り、やがて日常生活圏以外の道とも連結しあい、広域に及ぶネットワークを形成した。旧石器時代の人々は、道具の原材料である石器材料を求めながら、動物を追い、移動を繰り返すハンターであった。
 福光町の山間部に立野ケ原という広大な大地がひろがる。ここに旧石器時代後期の立美遺跡がある。今から約1万4000〜1万5000年前の遺跡である。1974年に行われた調査で、1,525点の石器が発掘された。それは両面加工の整美な尖頭器を特色とし、揉錘器、掻器、削器、彫器、スポール、ナイフ様石器などの種類がある。このうち、1,300点が「黒曜石」という、黒くて加工しやすいガラス質の石材で占められる。この石は、立教大学の鈴木正男教授による理化学的分析では直線距離にして、100キロも離れた長野県の和田峠産であるとされている。遠く和田峠から運ばれてきた黒曜石は、8〜10センチ大の礫塊で、携帯には手ごろな大きさである。
 経路は、松本から安房峠を経て神通川を流下するルートと、姫川流域から富山県東部を経由して入るルートが考えられている。3〜4人の男性を核とした群れが、各地の旧石器人と互いに交流しながら立野ケ原でキャンピングをし、また立ち去ったのである。
 旧石器時代には、交易は行われていなかったと考えられている。石器は、猟をし生活をするための必需品である。その原材料の産地がどれだけ離れていようとも、直接採取に出かけたとされている。
 黒曜石の利用は、神奈川県箱根産が約2万5000年前の東京都小金井市の平代坂遺跡第Ⅸ層で検出されており、このころに始まると見られている。和田峠産はこれよりやや遅れて利用が始まる。
 遠隔地にあって、しかも原産地についての情報がなければ、原石を得ることができない。集団がたとえどこに移動していようとも、原産地とそこに至るルートの情報と経験が恒常的に受け継がれていたものと思われる。
日常生活圏の道
 「踏み分け道」は、けもの道を基本とするが、それだけではなく、人間の意図によってつけられたものもある。特に、人間の日常的な生活圏において、それは顕著であった。
 縄文時代は、狩猟だけでなく、山の幸の採集を行っていた時代でもある。いわゆるドングリ、トチの実、栗、クルミなどが発掘されている。それらは、厳しい冬期を乗り切るための重要な食糧である。雪が来るまでの短期間に拾い集めなければならない。射水郡大門町の小泉遺跡では、花粉分析によって、縄文時代前期後半に半栽培された栗林が集落近くに営まれていたとさえ言われている。彼らは、どの山に、何の木があっていつごろ落下するなどの情報は熟知していた。そこに至る効率の良い踏み分け道があった。
 現代の事例であるが、婦負郡細入村の猟友会では、狩りの際にヤマヘ登るルートは決まっているという。片掛地区より下では谷あいを登り、上では支脈の尾根筋を登る。登りきった尾根最高位には、他のいくつかのヤマへとつながる踏み分けの尾根道が走る。踏み分けの道に囲まれた範囲には、熊のよく出る地帯が含まれている。
 細入村のこれは、長年の経験から生まれた自然発生的な「狩り道」である。狩り道や、踏み分け道で現在は使われていないが、最高位の尾根を跨いで、細入村と八尾町とを結ぶ幹道となっていたものがある。山田道や桐谷道と称されているものがそれである。この山田道の尾根中腹で、縄文時代中期前葉の石斧が出土している。あるいは、楡原の石黒谷から登る「狩り道」でも棒状の石器が発見されている。これらの道は、縄文時代中期前葉からすでに利用されていたことを示すものである。
 近年の、民族学や地理学の研究によって、狩猟採集民の生活領域は、ホームベースを中心にして半径10キロ(歩行時間にして2時間)が目安であるとされる。それを超えると経済効率が著しく低下し、必要に応じてホームベースを移すことになるという。すなわち、この圏内における道は、踏み分け道よりは整えられた「径」であり、人の通る「路」の発生をみていたであろう。そしてヤマには山神の通る「ミチ」があり、墓域には霊魂の通る「ミチ」の観念も生まれていた。縄文時代の生活圏における道は、かなり整備されたものであっただろう。
交易の道
 縄文時代には、日常生活の空間領域が明確になるとともに、それを超えた遠隔地域間の交易が発達した。その顕著な事例は、原産地が特定できる黒曜石と硬玉(ヒスイ)にうかがうことができる。内陸の長野県諏訪の黒曜石が松本盆地を経て、姫川を下り日本海側にもたらされた。逆に日本海の姫川河口周辺に産出するヒスイの製品(蛇紋岩製磨製石斧も含まれる)が姫川をさかのぼり内陸へと運ばれた。黒曜石とヒスイの交差する道である。その道は今の千国街道のルートとほぼ重なる。いわばプレ千国街道と称する「大道」が縄文時代に確立されたのである。次にその詳細を見ておこう。
(1)黒曜石の道
 黒曜石は、諏訪湖の北方にそびえる霧ケ峰にある和田峠、星ケ塔、星ケ台、東餅屋、鷲ヶ峰、星糞峠、男女倉などに産する。いずれも標高1,500メートル前後で高位にある。星ケ塔などでは、黒曜石を採掘した凹地が40か所余発見されており、中から縄文晩期の土器の検出があるなど、縄文時代の採掘が確認されている。
 また、諏訪湖から霧ケ峰へいたる途中の角間新田地区には、神籠石という岩山がある。1948年に岩山の洞穴からトラック1台分にもなる黒曜石の礫が出土した。一緒に、関東の諸磯C式土器(縄文前期末葉)が発見された。ここは、原産地までは往復1日の行程になる位置である。縄文前期の関東人が、黒曜石の現地での集積場としてこの洞穴を利用していたのである。
最近の研究では、原産地に近い諏訪盆地や松本盆地の縄文中期の遺跡を主として、黒曜石が集落内に貯蔵されているケースのあることが分かってきた(1984年で22遺跡がある=長崎元廣氏調べ)。それには、屋内と屋外の2ケースがあり、屋内のものは住居の奥壁近く、または出入口近くの壁ぎわの床面に置かれたり埋納されたりしたものが多い。
 具体例を1つ掲げる。塩尻市の中島遺跡第19号址では「南東壁下に23×21センチの大きさで、深さが9センチほどのピットを掘り込み、その中に7センチ角から5センチ角の大小合わせて20個の黒曜石の原石を貯蔵した貯蔵穴が発見された」(小林康男ほか『中島遺跡』塩尻市教育委員会1980年)。黒曜石はほとんど加工されていないものであり、剥片なども検出されていない。ここで加工を行ったものではない。自己消費のためのものではなく、近隣そして遠方の集落へ供給するためのものであった。
 いわゆる和田峠産の黒曜石は、松本〜大町を経て姫川水系を流下して糸魚川に至った。地理学のフォッサ・マグナと重なっての文化伝播である。日本海に面する糸魚川に出た黒曜石は、姫川で産するヒスイとセットとなって、西は富山県や石川県、福井県へ、そして東は新潟県へと運ばれていった。
 富山県では、和田峠産黒曜石の縄文時代遺跡からの出土は一般的である。立山町の吉峰遺跡では、縄文前期後半のおびただしい量の黒曜石が出土している。また、縄文中期の天神山遺跡(魚津市)や浦山寺蔵遺跡(宇奈月町)などでも黒曜石で作った石鏃などが発掘されている(これらの中期の遺跡ではあわせて糸魚川産のヒスイも出土している)。
(2)ヒスイの道
 縄文時代の玉や、古墳時代の勾玉にヒスイ製品がある。ヒスイは、かつてはミャンマー(旧ビルマ)や中国で産し、日本では産出しないと考えられていた。このため、原石は海をわたって伝播したと考えられていた時期があった。しかし、1938年に姫川の支流小滝川で、ヒスイの原石産地が発見され、日本での産出が知られるところとなった(学界発表は翌年)。
 小滝川は、明星山の裾を削るように流れ、直径3メートルにも及ぶヒスイ大塊がいくつも清流に洗われている。ここを産地とするヒスイが、姫川に流れ出て、そして河原や海岸で漂石となって採取される。さらに、小滝川の北西の青海町橋立地区でも1955年にヒスイの大塊がいくつも発見されており、合わせて糸魚川原産地と称されている。
 富山県朝日町の宮崎海岸は、青海が寄せた美しい礫塊に混じったヒスイが拾える海岸として知られている。量が多いので、海底に原産地が有るのだとする考えも最近浮上してきたが確認されていない。
 これらの、原産地の周辺にはヒスイの加工遺跡が集中している。
 富山県朝日町の馬場山G遺跡では、古い段階のヒスイ加工が実施されている。縄文中期前葉の住居跡から、ヒスイの剥片や大珠未成品が出土している。大珠は、わずかにくぼんだ穿孔痕をもつ。穿孔痕は、丁寧な回転によって行われたらしく、ガラス光沢に近い輝きを放っている。
 ヒスイで製作された大珠を特に、硬玉製大珠と呼んでいる。長さが5センチ以上にもなる細長い鰹節形をした玉で、体部にスパッと一孔が開けられ、葬送の呪具や祭祀に用いられる。金属器のない縄文時代中期に主に製作されたもので、穿孔は管状の錘(竹や鳥の管骨)で根気よく開ける。雪国の人々の根気強さがあっての生産であろうか。
 糸魚川市の長者ケ原遺跡は縄文中期の大遺跡で、1954年から1958年まで3次にわたる発掘調査が行われた。明確な加工の工房跡は検出されなかったが、硬玉製大珠の加工の実施が日本で最初に確認された。磨き痕のある硬玉原石、硬玉製敲石、硬玉製大珠などが出土し、加工具としての砥石もある。この調査が行われたことで、ヒスイのビルマ産輸入説は聞かれなくなった。
 待望の、硬玉製大珠加工の工房跡は、1973年に新潟県青海町の寺地遺跡で検出された。工房跡は、径約5メートルの円形プランを呈する。硬玉加工用の特殊なピットが床面に穿ってあって、底部に細かな砂が堆積していた。この砂は、硬玉を研磨したり、穿孔したりするさいの研ぎ砂やそれに伴って生じた砂である。伴出した土器は、縄文中期後葉のものである。出土遺物には、硬玉の原石、剥片、玉類未成品など66点、蠟石製大珠(完成品)とその未成品各1点がある。寺地遺跡では、縄文後期・晩期の硬玉の加工も実施されており、加工の伝統が長期にわたっていたことを示す。
 明確な硬玉製大珠加工の遺構は検出されていないが、原石や未成品の大量出土によって、その実施の分かる遺跡がある。朝日町の境A遺跡がそれである。宮崎海岸に面する丘陵に営まれた縄文中期から晩期にかけての遺跡で、硬玉原石、加工品、硬玉製玉類は計10,915点が出土している。
 長者ケ原遺跡、寺地遺跡、境A遺跡では硬玉製大珠のほかに蛇紋岩製の磨製石斧の製作も行っている。それも集団内での消費を超える多くの量で、集団外への交易品として製作されている。ヒスイ製品と組み合わせて交易されたのであろう。
 氷見市の朝日貝塚で発見されている硬玉製大珠は、全長が15.9センチで、今まで発見されている大珠のなかでは最大である。また、福島県会津若松市の大町出土と伝える硬玉製大珠は全長11.9センチで、これも見事な製品である。これらはともに国の重要文化財に指定されている。
 金属器のなかった縄文時代にこれだけの大きな硬玉が加工され遠隔地に運ばれているのである。それは、東北や北海道にまで検出されている。硬玉製大珠以外のヒスイ製玉類も含めたヒスイ製品は全国で約370か所の縄文遺跡で出土している。
 さて、糸魚川市との周辺で製作された硬玉製大珠やヒスイ玉は、姫川をさかのぼり松本盆地、諏訪盆地、伊那盆地などへと分布している。長野県全域では約70遺跡で出土している。さらに、関東7県では140遺跡が知られている。地理的な経路からすれば、関東圏への主ルートは、塩尻(諏訪盆地)経由であったとすることができる。
 塩尻市の上木戸遺跡では、縄文中期の土壙墓から5点もの硬玉製大珠がまとまって出土している。被葬者の社会的地位の高さをうかがえる。同時に、製作地から一括して当地域へもたらされた硬玉製大珠が上木戸遺跡のような核となる集落から周辺に「分配」されたとする視点も成り立つ。交易の経済性を考えると充分に有り得ることであろう。
 縄文後期・晩期になると、大町市の木崎湖畔にある一津遺跡に硬玉原石が持ち込まれ、丸玉などの加工が行われている。姫川河口から54キロの地点である。内陸部へ移動してきた玉作りの人々が残した遺跡である。
 ちなみに、京都大学原子炉実験所の非破壊による蛍光X線分析法によれば、北海道から九州までの全国で出土しているヒスイ遺物は、時代を問わずすべて糸魚川産としてよいという。この地域で、生産されたヒスイ玉は、海路、陸路それぞれのルートを通って全国へと運ばれたのであろう。先史・古代における広域な道のネットワークの存在なくしてはとうてい理解できないことである。
日本海の神が通った道
 糸魚川市とその周辺のヒスイ加工の伝統は、弥生時代を経て、古墳時代中期にまで及ぶ。富山県朝日町の浜山(玉作)遺跡は、日本で最初にヒスイ勾玉の製作が確認された遺跡として知られている。工作用の施設からは、ヒスイ勾玉、滑石の管玉、棗玉、ソロバン玉、臼玉などの玉類をはじめ、多くの未成品や剥片が出土した。同時に、勾玉の背や腹を磨く砥石も検出された。
 浜山道跡では、ヒスイの勾玉の加工を行うとともに滑石製の石製模造品の製作がある。同じ様な性格の遺跡は、糸魚川市の笛吹田遺跡・田伏遺跡・青海町の大角地遺跡でも認められている。これらの遺跡の集中する地域には、『古事記』の八千矛神(大国主命ともいう)と沼河比売の愛の問答、求婚神話で有名な沼河比売を祭る奴奈川神社が分布している。高志の沼河比売の勢力圏はこの範囲を主とすると見られている。比売は古代ヒスイを掌握した女王であった。
 八千矛神と沼河比売の一子に建御名方神がいる。この神は諏訪大社のご祭神である。北陸の沼河比売と縁続きの神が諏訪に根拠地をもっているのである。諏訪地方がプレ千国街道でもって北陸と結ばれていた伝統が、このような神の系譜に表現されたのかもしれない。プレ千国街道にそって、沼河比売と建御名方神に関する伝承が多く残っている。ちなみに、諏訪には富士見町の御射山社や茅野市の御座石神社などに「高志招河比売」が祭られている。
 一方、諏訪大社と言えば、御柱が有名である。長さ4丈〜5丈5尺(12.1〜16.7メートル)の柱が、宝殿を中心にして四隅に規則正しく立っている。これは、7年毎に作り替えされ、御柱曳の行事は豪壮ななかにも深淵で素朴な信仰を感じさせるものがある。かくして巨大な木柱が建てられる。そのルーツは明確でない。
 しかし、巨木といえば、北陸で特に発見されている縄文時代晩期の巨木遺構を想起させられる。石川県金沢市の新保チカモリ遺跡・同県能都町の真脇遺跡、富山県小矢部市の桜町遺跡、そして新潟県青海町の寺地遺跡でも知られている。寺地道跡では、直径60センチの柱材を使っており、有柱方形配石遺構と名付けられたものがそれに当たる。和洋女子大学の寺村光晴教授は、縄文晩期の寺地遺跡の巨木に連なる古い神祭りの要素が諏訪大社の御柱に現れていると見ている。
 プレ千国街道は、古代神々が内陸へとのぼった道であった。穂高町に残る御船祭りは、海人文化の伝統と深く関わっている。穂高神社の例大祭は、9月26日と27日に行われる。山国にあって船形をした大きな檀尻が引き回されて、クライマックスには船同士のぶつけあいが行われる。穂高神社は、穂高見神をご祭神とする。この神は海神である。穂高町の地域は安曇野の地域である。安曇は阿曇とも書き、古代の海人に連なる一族を表す。7世紀の阿曇連比羅夫は、船師170艘を指揮して、日本にいた百済国の王子を百済にまで送ったこともあり海人族では名門である。阿曇氏は、日本海からプレ千国街道を南下し、陸上がりした海人であった。
おわりに
 プレ千国街道は、先史・古代にあって、地域間とりわけ日本海と内陸とを結ぶ重要な幹道であった(古代までは「大道」といった方がふさわしい)。意外にも、「長野県は山国」といった一般的な常識があるにもかかわらず、街道すじには海人文化の伝統や日本海沿岸の文化が深く染みついている。この街道は、やがて「塩の道」とも形容されて、その重要性はますます高まった。塩尻からは、東山道とも結んでいて太平洋沿岸の文化とも通じる。これは列島を縦断する稀にみる大道であったとすることができよう。
 先史・古代の道のはじまりを探るには、発掘調査によってそれが確認できることが一番望ましい。しかし、道は、利用されるものであればあるほど前代のものを整備して使用されるので、その最初を発掘するのはまた困難である。このことは一方では、幹道・大道と称される道には意外と古い起源をもつものがあるということにもなる。元をたどれば、「けもの道」、「踏み分け道」に始まる。プレ千国街道は、まさにそれに相当する。
(ふじた ふじお・富山市教育委員会生涯学習課課長代理.文化係長)
−平成4年1月25日放送−
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