2018年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

富山県民生涯学習カレッジ本部 TOP > テレビ放送講座 テキスト一覧  >  テレビ放送講座 テキスト詳細

テレビ放送講座 平成元年度テキスト「第3回 縄文人へのおくりもの」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第3回 縄文人へのおくりもの 小島 俊彰

 今日、私ども富山県民の眼の前に、四季それぞれの趣を見せて広がる富山湾は、富山県内のあちこちにその足跡を残した旧石器時代の人びとの眼にも青々と映ったであろうし、その波打ち際に立った者もあっただろう。
 だが、この富山湾と人との関わりが遺物によって証明できるのは、そう早い事ではない。文様にアナダラ属の貝殻の縁を押し付けた縄文時代早期の土器(7,000年前)が、人と海との関わりを具体的に語る最も古いものである。この土器様式は東北地方が本場で、飛騨の山中にも伝えられている。
1 イルカ
 縄文人の生活に富山湾が強く関わった確実な証拠を挙げることができるのは、さらに下がった縄文早期の末から前期の初め(6,000年前)の遺物によってである。朝日町の明石A遺跡や、石川県穴水町の甲・小寺遺跡、能登島町佐波遺跡など海岸部の遺跡から、漁が行なわれていたことを推定させる石で作った錘が発見されている。
 これら前期初頭の集落でどんな魚が食膳に上ったかは分からないが、氷見市朝日貝塚(中期)では、アカエイ・タイ・マグロの骨が検出されている。石川県能都町の真脇遺跡(前期〜晩期)では、サバ・カツオが比較的多く、スズキ・クロダイ・マダイ・イシダイ・マフグ、あるいは大型魚のマグロ類・サメ類など、20種近くの魚骨が検出されている。網漁のほかに釣りによる漁も行なわれていたことは、富山市の小竹貝塚(前期)から出土している釣り針がそれを物語っている。
真脇・朝日貝塚・上山田貝塚出土の種別獣骨個体数率
 朝日貝塚は、アカガイやハマグリ・バイを主とした貝塚だが、発見された貝の種類は40種類にも上っていて、縄文人は貝にも目がなかったと評することができる。
 その朝日貝塚出土の骨で見落とせないのが、イルカである。現在氷見市立博物館に保管されている資料では、少なくとも24頭を数えることができる。内訳は、マイルカ17頭、カマイルカ3頭、バンドウイルカ2頭、ゴンドウクジラ類1頭、不明1頭。この数は朝日貝塚出土のイノシシやシカなどの陸獣の2倍以上も多い数である。朝日貝塚の人びとは、富山湾に生活を委ねていたということになる。小竹貝塚でも、イルカ骨が他の獣骨より多い。
 真脇遺跡でも、300頭に近いイルカの出土が確認されていて、ここでもイノシシやシカに圧倒的な差をつけている。全てが温暖種で、カマイルカ・マイルカ類が多い。
 縄文時代にイルカ漁を盛んに行っていた証拠が残されている地域は、富山湾岸以外では、北海道東部の釧路川河口付近と中央部の内浦湾沿岸地域、それに東京湾・相模灘沿岸地域があるだけである。同じ北陸でも、日本海に直接面している石川県宇ノ気町の上山田貝塚では、イルカの比重は極端に少ない。岸近くまで深さを保つ富山湾では、真脇の小さな湾や、かつての十二町潟や放生津潟の潟口まで、イカやイワシの群を追ってイルカが回遊してきたのである。
 真脇遺跡のイルカ骨の出土状態は、「足の踏み場もない位」と表現されるものだった。それは、縄文時代もイルカの大量捕獲があったかと思わせた。真脇遺跡の近辺では江戸時代から昭和初期までイルカの追い込み漁が盛んであったという記録とも重なって。だが、イルカの捕獲活動について研究を進めた平口哲夫氏(金沢医科大学)は、「1回に何十頭も捕獲したのではなく、5、6頭以下というのが平均的な捕獲数ではなかったか」という。数十頭数百頭という大量捕獲がなかったとしても、小型イルカ類の平均体重はシカやイノシシと極端な差はないから、その数頭の捕獲はムラの食卓を潤してなおあまりあるものであったろう。
 縄文人はその地その地の自然を巧みに利用し、採集経済社会としての極めて高度な生活を各地で展開していたが、富山湾岸に住む人々には、対馬暖流に乗って春から秋に回遊して必ずやって来るイルカは、正に富山湾からのまたとない贈り物であった。
 イルカの群れが発見されると、丸木舟で漕ぎ出して湾内に追い込む。網で仕切り、槍で突き刺し、浅瀬に追い込んだものは素手で引き上げる。危険性と緊張感を必要とするこの共同作業は、集団の結束を促すものでもあったろう。朝日貝塚で発掘された15歳前後と推定される男性人骨は、魚の脊椎骨を首飾りとしていたと報告されている。イルカの歯に穴を開けた装身具もある。海に生活を求めた朝日貝塚人に似つかわしい飾り物だ。
2 ヒスイ
 重要文化財に指定されている長さが15.9センチもあるヒスイの大きな珠が、朝日貝塚から出土している。縄文時代中期のものだ。朝日町境A遺跡からは、縄文時代中期から晩期にわたるヒスイの珠や原石・未製品が沢山発掘されている。富山県内では、他にもヒスイの採集されている遺跡は多い。
 一般にヒスイという場合、ジェーダイトとネフライト、硬玉ヒスイと軟玉の二つを合せていることが多いが、両者は同じ緑色系でも鉱物学的には全く異なる。硬玉は輝石の一種でナトリウムを主成分としていて、硬度は軟玉の5.6〜6.0に対して6.5〜7.0と堅く、比重も3.3〜3.5と重い。朝日貝塚や境A遺跡など、縄文遺跡から出土するヒスイは、この硬玉ヒスイである。
 ところで、この硬玉ヒスイの産地は昭和14年まで国内では知られていなかった。そのため、縄文時代の遺跡から出土したヒスイ製品は、渡来したものではないかとも推論されていたのである。
 昭和14年、新潟県糸魚川市の姫川の支流小滝川でヒスイの原石が発見されたことが報告され、続いて隣接する青海町の青海川上流でも発見があった。このほかに鉱物学的にヒスイと断定できるものを産出する地域は、鳥取県、兵庫県、岡山県、長崎県なども挙げられるようになったが、縄文人が使用したヒスイは、質的に見て糸魚川・青海地域のものと考えられている。
 ところで、境A遺跡の前に広がる宮崎海岸には、ヒスイが打ち上げられる。地元の人たちがヒスイ海岸と呼ぶように。波が強く打ち寄せる浜を歩けば、そして幸運ならば、「したたるような濃緑、溶けそうな半透明の味、手にとればしっとりとしたあの重み」を持つヒスイを拾うことができる。
 縄文人たちも、盛んに拾ったことであろうこの宮崎海岸のヒスイは、ヒスイのもつ神秘な怪しい美しさに似た、不思議な旅の末に宮崎の浜に現れたものだ。
 ヒスイは、深い海底下の地殻の一部が低温で高い圧力を受けて誕生した。蛇紋岩がこのヒスイを取り込んで地下の20キロも30キロも深い所から上昇して、姫川の支流小滝川や青海川の上流に運び上げた。母岩から剥離したヒスイは、転石となって川を下りおち、一部は再び海に戻る。波に流される漂石は、親不知・子不知を越え、一部が宮崎の海岸に打ち上がる。入善町の海岸に達するものもあるという。宮崎浜の護岸工事の際に、一抱えはあるヒスイの大礫までも発見されている。自然の力の偉大さを見る思いがする。海底に産地があるのではと推定する人もある。
 日本海に突き出た能登半島と深い富山湾、この両者が作りだした宮崎の浜の東から西への強い流れがヒスイを浜に呼び寄せたのだ。宮崎浜のヒスイが、富山湾の贈り物というのは、この意味でもある。このヒスイに縄文人が目を向けたのは何時のことなのだろうか。中期の半ば以降には朝日貝塚出土のものを代表として、沢山作られるのだが。
 朝日町の明石A遺跡で前期初頭の人々がヒスイの礫を採集していたという報告はあるが、加工された製品が北陸地方で確認できるのは、中期前葉である。朝日町馬場山G遺跡の住居跡内から、ヒスイ製品が発掘されている。
 全国での最も古いヒスイの遺物は、山梨県北巨摩郡大泉村天神遺跡の土壙から出土した長さ5.5センチの大珠である。諸磯C式土器と共に出土しているから、縄文時代の前期末葉(約5,000年前)ということになる。このヒスイは北陸産と見なされているから、北陸での証拠が挙がってはいないが、ほぼこの前期末葉あたりから加工が始まったということであろう。
 天神遺跡の大珠は、良質の緑が入った形のよい転石に少し手を加えたもので、紐を通す孔が開けられている。孔は径が一定していて、直線的にスポッと開いている。朝日貝塚の大珠の直径は4センチ強だが、これにも同じ様式の孔が開けられている。このあけ方は、中期のヒスイ製品には一般的なものである。
 硬度が7に近いヒスイに、金属器を持たぬ人たちがいかにしてこのような孔を開けたのだろうか。その答えは、「管錐」、細い竹を用いるのである。失敗して放棄されたものの穿孔途中の穴の中に突起を残すものがあって、管錐によることを語っている。
 水と砂粒を竹管の先端部につけて回転を加えて行く。平均した力でこの回転を長時間繰返すことによって貫通する。このような穿孔の実験を行なった土田孝雄氏(糸魚川市)によれば、粗雑な礫に窪みができ始めたとき、その穴の中に現われる緑には驚きと神秘さを感じたという。玉は日本では旧石器時代から既にあり、縄文時代の前期からは玦状耳飾なども作られるが、管錐を用いる穿孔技術が用いられることはなかった。管錐技法は、ヒスイの加工と共に出現したものだ。いや、管錐技法が使われたからこそヒスイは玉として登場したのだ。
 では、新しい技術はどこから得たものか。あるいは、自ら獲得したものか。
 ヒスイの産地はまた、縄文時代の木材伐採具であり加工具である磨製石斧に最適な蛇紋岩の産地でもある。よって、この地は磨製石斧の生産地である。宮崎の浜から糸魚川にかけてのヒスイ産地の人々は、蛇紋岩を採取し加工するなかで、堅く、美しく、手に入りにくいヒスイを知った。神秘な緑に、永遠の生命力を、再生の力を感じたかも知れない。管錐技法は、擦り切り技法を用いて磨製石斧の製作を行っていた彼等が、試行錯誤を繰り返したうえで自ら獲得したものではないだろうかと、私は考えている。
 ヒスイの加工法を会得した人々は、姫川で、青海町の海岸で、そして宮崎の浜でヒスイを拾い加工に精を出した。加工されて珠となったヒスイは、北陸はもとより、関東、中部、東日本を中心に広がる。北海道、東海や近畿、九州にも出土例がある。それはどのように伝えられて行ったのだろうか。手渡し手渡しでなのだろうか。あるいは、ある地域に一括して運ばれ、それがまた広がっていくのだろうか。加工に当たり払われた大きな労力によって、ヒスイの玉は貴重な「交換財」となったことであろう。その代償は、何であったのだろうか。富山湾が引き寄せたヒスイは、富山湾岸の人々に更に何をもたらしたのだろうか。
 ヒスイの珠は、現在知られる最古の製品が墓の中から出土したことに象徴されるように、当初から呪術的な意味付けがされていたと考えられる。呪術者的な人物が胸に下げていたと解釈されてもいる。
 近年、藤田富士夫氏(富山市教育委員会)は大珠の出土状況が胸ではなく腹の位置にあることを指摘して、それが中国山東省の大汶遺跡の副葬品と同じ部位にあることになり、中国と日本で共通した習俗(不老長寿を願う)があったのかも知れないという。さらに進めて、「日本のヒスイ文化、とりわけ硬玉製大珠の出現・普及は、中国山東省、落葉広葉樹林帯の文化との関係で理解される必要がある」とまで、論を進めている。検討されるべき試案である。
(こじま としあき・金沢美術工芸大学助教授)
−平成2年2月3日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在で表示しています
お問合わせ お問い合わせ
富山県民生涯学習カレッジ本部
 Tel 076-441-8401
 Fax 076-441-6157
リンクの際は、こちらのURLをご利用ください。
 トップページへ  このページの先頭へ   前のページへ