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テレビ放送講座 平成8年度テキスト「第2回 春を告げる鱒漁」


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TOP 第2回 春を告げる鱒漁 田子 泰彦

川と生きる 〜富山の川魚漁〜春の使者サクラマス
 冬も真っただ中の2月。時には春めいた日が見られることはあっても、神通川では連日神通川特有の山おろしの寒風が吹きすさみ、河原一面にはまだ雪が残っている。川はつい半年前、アユ釣りで賑わったあの夏がまるでうそのように、川底には垢が堆積して暗く、どんよりとしており、川水は生気もなく死んだように流れ、生き物の気配さえも感じられない。ただ、時折瀬のせせらぎと瀬音だけが、夏の面影を偲ばせてくれる。
 そんな中を2艘の川舟が神通川の川面を割って出ていく。何のためにか。そう、あのサクラマスをとるためにである。冬の間どれだけこの日を待ちこがれたことだろう。「もう、マスは来ているだろうか」、「出たい」、「いや、まだ早いだろう」、この心の葛藤を繰り返した後、ついに川に出る日が来たのだ。
 瀬を流れてきた2艘の舟は淵にさしかかる。淵の頭で網を入れる。2艘の舟は流れの芯に乗って、パッと東西に広がる。この時の舟の動きは芸術作品にも近い。舟はさらに開き、八の字状になってそのまま淵を流れに乗って下り、マスのいるポイントに近づく。「マスが掛かるなら、ここだろう。ここしかない」、櫂(かい)の持ち手にも網の持ち手にも緊張がみなぎり、回りの空気が張りつめる。と、突然「オッシヤー」と言う(言ってるかどうかわからないが、そう聞こえる)網の持ち手の怒号にも似た声が静寂を破り、網を上げる動作に移る。水面に魚が銀鱗を見せるまで、マスであるという確信が持てない。「マスだ」、銀色の魚体が網の中でさかんに躍動する。あわただしく、東西に開いていた舟が寄せられ、一つの舟に慎重にマスが入れられる。3キロ前後のまるまると太ったマスである。寒マスとまでいかなくとも、脂がのっているし、値も高い。もちろん、言うまでもなく、このマスは富山名産「ますの寿し」の原料となるあのマスである。櫂の漕ぎ手、網の持ち手とも、顔に笑みがこぼれる。今年もマスが来たか−。川の外見は未だに冬でも、川の中にはもう春を告げる使者が溯って来ていたのである。毎年、こういうふうに、神通川ではサクラマス漁が始まるのである。
 神通川のサクラマス漁は2月半ばから始まり6月中旬で終わる。盛期は5月。連休を過ぎる頃からがいい。もっとも、溯上時期は多少それよりも早くなるのだが、3〜4月にかけては、雪どけ水のため川が増水することが多く、マスをとりに出れる日は少なくなってしまう。
 マスをとる漁法は、冒頭の流し網漁を初め、流し刺網漁、投網漁があり、最近では遊漁者のルアー釣りも見られるようになった。マスが多かった時代にはヤス漁でも比較的多くとれ、県内のどこの河川でも、年輩の方からは潜って何本突いたという話をよく聞く。また、庄川や黒部川近辺の伏流水が多く湧く小河川や農業用水路にも多くのマスが溯上したものだという。
 ところで、富山県でマスをサクラマスと標準和名で呼ぶようになったのは、特に漁師の間では、ごく最近のことであるらしい。それまでは、マスはあくまでマス(神通川では本マスと呼ぶ)であった。秋にのぼるサケに対して、春にのぼるものとして、単にマスでよかったのである。ところが、マスメディアの発達にともないマスという魚にもいろいろあることが知れ渡るようになった。
 カラフトマス、サツキマス、マスノスケ、アメマス、ニジマスなどのサケ科魚類、はたまた塩マスなどの商品など、マスという名のものは多いのである。特にアマゴの降海型をサツキマスと呼ぶようになってからは、しっかりと区別するように、いやサツキマスではなく、もっと立派なマスであることを言いたいがために、漁師の間でもサクラマスと言うようになったと思われる。
 サツキマスは元岐阜県水産試験場長の本荘氏がサツキの咲く頃に溯るマスとして、サクラマスと区別する意味でサツキマスと名付けられたものである。サクラマスはもっと以前に魚類学者の大島正光博士が用いたのが最初らしいが、名前の由来はあいまいらしく、サクラの咲く頃から上るので、サクラマスと呼ぶようになった説が有力である。とにもかくにも、サクラマスは日本にいちはやく春を告げる魚なのである。
産卵・ふ化・成長
 サクラマスは秋(10月〜11月)、最下流に位置するダムや堰堤の下流にあるわずかばかりの産卵可能な場所で産卵する。ふ化した稚魚は冬の間を小砂利の中でじっとして過ごし、春を迎える。春には小砂利からはいだし、岸辺の緩みに集まり、ユスリカ、カゲロウなどの水生昆虫を食べてひっそりと成長し、雪解けの増水に乗って、下流域に広く分散する。
 6月下旬のアユの解禁日。それまでベールにつつまれていたサクラマスの幼魚が、鮮やかなパーマーク(パーとはサケ、マスの類の子供の意)を体側面に出現させて、突然人間の前に姿を現す。神通川では空港付近から上流で、庄川でも高速道路辺りから上流のいたるところで、幼魚がアユの網に入ってくる。この時期のアユの網漁による幼魚の混入状況で、昨年のサクラマス産卵量、幼魚の生育状況の一端を伺い知る事ができる。幼魚は体長(尾叉長)は9〜10センチ、体重10〜15グラムで、おなじ時期の増殖場で飼育されている幼魚と比べて魚体は大きいし、何と言っても幅広く、脂鰭(ひれ)や、尻鰭、尾鰭に発色している朱色がとても色鮮やかである。
 夏の間、アユの網漁という捕獲をかいくぐって生き残った幼魚は、翌年の2月頃になると、体型はより細長く、しなやかになり、鱗は銀白色になり、パーマークも徐々に見えなくなって、海に降(くだ)ろうとする個体が出現してくる。この時期前後に海に降る個体(スモルトと呼ばれる。生まれた稚魚の約60パーセント)と河川に残る個体(ヤマメとよばれる)に徐々に分れていく。降海時期は3月から4月、盛期は3月下旬から4月上旬頃。降海する個体は体長13〜15センチ、体重20〜30グラム、その7〜8割が雌である。 海に降りたサクラマスは、遠く日本海北部からオホーツク海にかけて1年間の大回遊をするが、いたるところで人間の営む定置網、ひき網、刺網といった難敵が待ちかまえている。これらを奇跡的に逃れた個体は、翌年の春、自分が生まれた富山の川に帰ってくるのである。
 ふ化した稚魚が降海し、再び母川に帰ってくることができるのは、1,000匹のうち、2、3匹。春、神通川で捕獲されるマスは、エリート中のエリートなのである。無事、生まれた川に帰ってきたマスは、淵に潜みながら今度は鱒漁によって狙われ、また鮎漁によっても体力の消耗を余儀なくされる。このような試練を経て、秋には再び上流域へ溯り、マスどうし、あるいはマスと河川に残ったヤマメとのペアが出来て、産卵の後、まる3年の命を閉じる。
マスとヤマメ
 ところで、マスの定義とはいったいなんであろうか。平成8年の7月上旬、私は某大学の教授といっしょに庄川で友釣りをしていた。その日は曇天で、水温も低く、アユの「追い」は極めて悪かった。昼さがり、私は河原で座って遅めのおにぎりを食べていたが、先生は、はやくも竿を出しておられた。
 と、突然「田子さん、掛かったよ」との声。慌てて先生を見ると、竿を弓なりに曲げながら必死に引きに耐えている様子。「田子さん、大きいよ、これは尺アユだ」と耐えきれないのか、少しずつ下流に下がって来られた。まさか、尺アユなんて、今の時期どころか、庄川には最近いたためしがない。そう思って見ていると「た、田子さん、こ、これは、アユ、アユじゃないよ」といって今度は走り出された。
 緊張感がみなぎる。数十メートルは下がっただろうか、もう下がれる限界…。と、やっと魚は銀色の魚体を水面上に見せた。「マスだ」、とその場に居合わせた誰もがそう思った。無事に上がるだろうかと、皆思ったが、そこは、アユ釣りの名手、0.25号の水中糸ながら、うまく緩みに誘導して釣りあげてしまった。掛かってから、陸に上げるまでにどれだけの時間が費やされたのかよく覚えていない。
 興奮もさめやらないうちに、またもや「田子さん、また尺アユだよ」といって、先生はまた魚と格闘し、またしてもマスを釣り上げてしまった。長さ約30センチ、体重は400〜500グラムはあろうかという立派に銀毛した魚体である。それはまさに長良川郡上八幡でのサツキマス釣り漁を彷彿とさせるシーンであるが、さて問題はこの魚をマスと呼んでいいかということである。  富山県内水面漁業調整規則にはマスとヤマメの言葉だけあって、サクラマスという単語は出てこず、マスとヤマメの区別については少しも触れてはいない。
 先ほどの魚については、神通川の漁師ならマスとは言わないであろう。しかし、普通の釣り人から言わせればヤマメのイメージからも離れ過ぎている。では大きさで決まるのかというと、そういう基準もないし、また、そういう分け方は面白くない。
 私自身は一旦海へ降って回遊し、再び川に溯ってきたものをマスと呼ぶのが一番妥当だと思うが、では体長30〜40センチ前後の、マスかヤマメかどちらか分からない魚が海に降ったものかどうかについては、実際のところ、魚に聞いてみないと分からないというのが正直なところである。
鱒漁の実際
 鱒漁には流し網漁、流し刺網漁、投網漁があるが、それについて述べる前に、各漁に共通した漁師の言い回しについて触れたい。
 漁師言葉では、川の上流域をオモテ、あるいはカマテ、下流域をウラあるいはシモという。例えば、大門町の人でかつて庄川で流し網漁をやっていた人では「おらっちゃみたい、シモのもんは、オモテ行ったら大変で、な−ん流しとれんちゃ。やっぱり、ウラでないとあかんわ」という具合に。オモテとウラは広い範囲に使い、カマテとシモは広い範囲でも、狭い範囲でも上流、下流を分ける言葉として使っているようだ。ただし、オモテとウラの区切りは漠然としていてはっきりしない。
 また、川舟は舟首部をへサキ、舟尾部をトモという。そして、上下流に対しての左右の向きは、西、東を使う。「おい、西やぞ、もっと西によれま」とか「めいっぱい、東の際行ってくれ。もっと東に引っ張らんか」というような会話がなされる。
流し網漁
 流し網漁は瀬の芯に乗って流すため神通川では「ノリカワ(乗り川?)」、また4人で行うため「ヨッタリ(四ったり)」とも呼ばれ、富山市七軒町の人が中心であった。神通川では往時は数十統の流し網漁の組が出漁していたらしい。
 漁の基本は東西それぞれに分かれた2艘の川舟が八の字に近い形になって、淵の流れの芯をほぼ平行に(正確には流芯に近い舟がやや先に流れる)上流から下流に流すことである。このため、漁場の中心は大きな淵のある中下流域になる。
 トモを下流側にしてトモの人が櫂を操り、ヘサキを上流側にして、ヘサキの人が網のついた青竿を持つ。東西の舟2艘で合わせて、トモの2人と網を持つ2人の計4人で漁を行う。もちろん、4人の呼吸がぴったり合わないとうまく舟は流れないし、舟がうまく流れないと、マスは捕れない。舟は流れに対して速く流れ過ぎても、遅く流れ過ぎてもいけない。
 漁は一般に風の落ちついている早朝から行われる。日中でもかまわないが、風が強くなるとそこで終わりとなる。天候は雨でもかまわないが、風の強いときには舟がうまく流れないので、漁は行えない。
 青竿の先端についている網は長さ10〜15メートル(15メートル以下に制限されている。)、幅1〜1.5メートルの一枚網で、網の底辺部分には重(おも)りが付いている。網の長さは長ければ入りやすいと思いがちだが、神通川のような大きな川でも、網の長さを15メートルにすると、長すぎてかえってとれないと言う。
 マスは底層にいることが多いので、網は川底近くを流す。ヘサキの人は片手に竿、片手に「クリソ(繰素?)」という紐をもって、網を多少上流側に袋状になるように保たなければならない。マスが網に当たった場合、クリソを離して、網の底辺の重りの部分をたぐると、自然と袋状になり、その中にマスがはいることとなる。漁の感じは冒頭で書いたとおりである。  私は平成3年から7年までの5カ年間に庄川の調査で計49回、延べ470キロの流し網に同乗、あるいは陸からトラックで伴走したことがある。
 その日のあらゆる生き物の躍動が始まる夜明け前、川は既に明るく、しんと静まりかえっている。川面には異様な霊気のようなものが漂い、時には神々しささえ感じられる。そんな中を2艘の川舟が瀬から淵へ淵から瀬へと、華麗に開いたり、閉じたりしながら流れていく。
 時に、怒号に近い声が静寂を破り、あわただしく網が揚げられる。マスが銀鱗の魚体をくねらせて川面を破る。まさに、至福の時である。もちろん、舟に乗せてもらっている私としては、マスがとれなくてもただそれだけで、例えようがなく幸せなのであるが、多く(259尾)のマスの捕獲に居合わせることができ、私はなんと幸せな日々を送ったことだろう。
 庄川でのサクラマス捕獲結果では、96%が淵での捕獲で、瀬ではわずかに4%に過ぎなかった。淵では、淵頭が17%、淵中が23%、淵尻が56%で、淵尻が半数以上を占めた。このことは、淵で網に気がついたマスは一旦は淵尻まで下がるが、ついにこらえきれなくなり、反転して網に突っ込むのが多いことを示唆しており、実際、淵尻でマスが反転し網に突っ込むのを舟の上で何度か見たことがある。
 同じ流し網漁でも、サケでは網に気がついた場合は淵から次の瀬へ落ちて行くという。サクラマスが次の瀬に落ちないで淵に執着するのは、溯上から産卵まで川で半年を過ごさなければならない宿命を背負い、その場合、どこが最も安全な場所であるかを、十分に認識しているからではなかろうか。
流し刺網漁
 流し刺網漁は神通川では「ナガセ(流瀬?)」と呼ばれる。網の半分から下がアユのテンカラ網のように袋状になっている。一枚網で淵を流すもので、基本的な流し方は流し網漁と同じである。ただし、舟は1艘(トモとへサキに2人いるのが普通だが、1人でもできないことはない)で、もう一方の舟の役目を昔なら樽、現在ではポリタンク、すなわち樽に水を入れ、それに網を繋げて川に放り込む、そして樽を舟よりも先に流しながら、舟がやや遅れてトモを下流側にして流れ、一つの淵を流すのである。この時のこつは、必ず樽を先に流すことである。このため、樽は流芯近くを流さなければいけない。
 網の長さは20メートル以下に制限されているが、実際は20メートルではマスは捕りにくい。昔は30〜40メートルもあったというが、現在でも本当は25〜30メートルはほしいところだという。網の幅は3〜4メートル。網は水面近く(浮子部分)が先に流れ(下流側にあり)、川底の重り部分が後から流れる(上流側にある)。すなわち、底から水面に上流から下流に向かって斜め状になって流れないといけない。
 底の部分で網に当たったマスは驚いて水面に向かって上がろうとして、網に刺さる。このシグナルは樽にも網にもすぐに表れる。淵を流している途中でマスが掛かっても、淵の尻まで流しきるのが基本である。網を上げる時にも網の重り部分が上流側にあって、浮子部分は下流側になければならず、この時網が返って(上下流逆になって)は、魚は逃げてしまうという。  神通川の吉田さんは昔このナガセで一度に最高8尾を掛けたことがあるという。ただし、ナガセができる場所はノリカワよりも限られ、淵尻のけつ(最後部分)が、かけ上がり状になっていなければならず、今の神通川ではただでさえ淵がすくなくなっているのに、そのような淵はさらに少ないという。
 6月上旬の夜、「ナガセ」をやる吉田さんの舟に2回ほど同乗させてもらった。暗い中、神通川の広い川面を、樽を見つめながら舟にのっていると、そのうち自分がどこにいるのか分からなくなり、気がついたときには遙か下流にいたりして、まるでワープしたような気分になった。吉田さんによると、ナガセはノリカワのようなことを、何とか1艘でできないものかと、昔の先達が考えだしたものではないかという。
投網漁
 投網漁は文字どおり投網を打ってマスをとるものだが、これに関しては全国でも神通川の吉田信親子の右に出るものはいないであろう。吉田さんの使っている網は、丈が3間半、円周が1目4寸の360目、重量13キログラムというからとてつもなく大きい。
 投網漁は上流でも下流でも行え、打てる場所も多く、二人でできる(舟を使わなければ一人でできる)ので、マスが少なくなった現在では最も効率のいい漁法かもしれない。
 吉田流の投げ方は(私が見た限りでは)、まず、舟のへサキに正面を下流側にして乗り(舟は下流から上流に向かって操作する)、網の一部を肩にかけ、網の残りの鎖(重り)が左手4、右手6の割合になるように網を捌(さば)く。この時右手の網は手の甲を上側にして、各指で網を均等に等分するように持つ(吉田信さんは左手首が不自由で、右手だけで網を捌かれるので、まさに驚異である)。
 トモの人の先導で、ポイントに着くと、舟を左右に揺さぶり、舟の反動を利用して一旦右肩側に軽く小さく振った後、その反動を利用して左肩背後上部に網を思いきり振り上げ、さらにその反動を利用して右肩後方(下流側から見てへサキの左前方)に勢いよく投げるのである。形としては横に8の字を描くような感じである。
 何度か吉田さんの投網漁に同乗させてもらったが、投げる様は豪快そのもので、あんなに舟を揺らしてよく川に落ちないものだと敬服してしまう。
 投網は淵の尻の方から上流に出向かってポイント、ポイントの深みを打っていく。普通アユの場合は、捨て打ち覚悟でこまめに打ってアユを淵の頭に追い込んでいくのであるが、マスの場合はいる場所が限られているので、そうはしないらしい。もっとも、マス網は重いので、アユ網と同じように回数を多く投げる訳にはいかない。
 投網を打った後、舟はトモの人の操作でスーと網の下流に入る。網を寄せるときは上流から下流側に網を寝かせるように引かなければならない。マスが入ったかどうかは網を寄せるときの手ごたえで分かるらしい。マスが入った時、やはり水面を割って舟に載せるまでは緊張の連続である。
 6月上旬の夜、神通川の有沢橋上流で吉田さんの鱒漁に同乗させていただいたことがある。川面には時々フーと上流からなま暖かい風が流れ、近くには富山市街のネオンがきらめき、幻想的でさえあった。
河川の激変
 神通川のサクラマスの漁獲量は、山形県の最上川、新潟県の信濃川などと一、二を争う全国屈指のものである。その神通川の最近の漁獲量は5トン前後であるが、明治40年代には約160トンもの漁獲量があった。それが昭和10〜30年代には約20トンと激減し、昭和50年代以降は10トンを割るようになった。
 この大きな原因としては神通川第一、第二、第三ダムを始めとする各種ダムや堰堤の構築による親魚の溯上区域や稚魚の棲息区域の激減と河川工事や電源・農業開発による大きな淵や流量の減少など、棲息環境の悪化が考えられる。サケやアユと違って、サクラマスの場合は産卵場と稚魚の育成場の大部分をダム・堰堤の構築で失ったのはあまりにも痛手であった。考えてみると、有史以来、悠久を流れてきた川がこのように激変したのは、わずかここ100年に満たないことなのである。  河川環境の重要性については、他の講師が詳しく述べられるであろうから、ここでは最近の黒部川の状況にだけ少し触れたい。
 黒部川出し平ダムの排砂から2週間程たった平成8年7月中旬、私は黒部川内水面漁協アユ部会の人達の協力を得て、黒部川の魚類棲息調査を行った。排砂後の黒部川は、至る所、泥と砂で埋まっており、河原を歩いていると時折、ズボッと足がぬめりこんでしまった。緩みには流木が沈んでいることが多く、投網の破損が激しかった。
 大人8人で、ほぼ1日を費やした結果は、河口付近の下黒部橋周辺で小さいアユがわずかばかり捕れたものの、そのほかの場所では、アユはほとんど捕れず、ウグイが少し捕れただけであった。それも、26節という目の細かい投網を使って、である。とにかく黒部川本川にはアユの影、いや魚の影はほとんどないと言うに等しい状況であった。
 その日の昼下がり、魚が捕れないのが分かっている愛本下流の下立(おりたて)地域で、無理を言って、その日最後の調査をお願いしたが、予想通り1尾のアユも捕れなかった。皆疲れきって土手に上がり、しばしの休息をとっていた時である。
 「もう、黒部川は死んだな」と、それまで冗談ばかり言って、皆を笑わせていたある役員が、真顔で、気力の抜けた表情でポツリと言った。その場にしばし沈黙が流れた。その場にいた誰もがそう思っていたに違いない。私は魚のとれない疲れもあって、呆然としてずっと黒部川本流の流れを見続けていた。
 もしかしたら、自分は悪い夢を見ているのではなかろうか。今日は冬ではない。夏である。しかも、アユの解禁から1カ月も過ぎていない。なのにどうしたことか。いくら平日とはいえ、天候は晴、梅雨も明けたばかりで、水の状態は悪くない。あちこちに毛針釣りや友釣り、投網の好ポイントがありそうに見える。なのに、今日1日、一人の釣り人にも、一人の網を打つ人にも会っていない。一人にもである。こんな川がかつて日本に存在しただろうか。
 「金なんかいらん。金なんかいらんから、魚の棲める川にしてくれ、と電力会社には言ってある」と別の役員が言ったが、何故か言葉には無力感が漂っていた。その夏、黒部川内水面漁協は、例年行っているサクラマス親魚の捕獲調査を行わなかった。
 黒部川のこの状況はたぶん一時的な現象であろう。しかし、たとえ一時的な現象にせよ、このことは同じく数多くのダムを抱える神通川や庄川でも起こりうることであり、そして、もし起これば、ただでさえ溯上区域が最下流に位置するダムの下流に限られ、3年の生涯のうち2年を川で生きなければならないサクラマスにとっては、それこそ「致命的」なものとなりかねない。まさに、明日は我が身の危機的な状況に、サクラマスは、いや川は置かれているのである。      鱒漁の行く末  夏のある晩、神通川の年輩の漁師にふと「マス流しは今後も続きますかね」と問うと、「いや、おらっちゃの代で終わりやろ。今の若いもん、誰も竿とか櫂なんか持てんちゃ。ノリカワやる時ちゃ、若い頃から舟に乗らんとあかんわ。会社定年になってからじゃ、できんわ。それに、川が変わってきて、網を流せる大きな淵もほとんどなくなってきたしな。まあ、確実にわしらの代で終わりやちゃ」と、長年、竿と櫂を持ち続けた証しである、固く、厚く変形した手で杯を傾けながら、寂しそうに語った。
 初秋の夕暮れ時、私は神通川の河原に座り、じつと川面を見つめていた。神通川ではアユのコロコロ漁が始まり、何人かの人が竿を盛んに振り回していた。ふと岸辺に目をやると、コロコロの針から逃れたのだろうか、体表の皮が破れた1尾のアユが力なく泳いでいた。
 私は絶え間なく流れる川の流れを見つめながら、太古の昔から悠久を流れてきた神通川から、伝統ある鱒漁が消えていくことに思いを巡らせていた。投網漁は何とか残るであろう、しかし、「ノリカワ」と「ナガセ」はおそらく消え去るに違いない。そして、これらの漁が消えるということは、単に伝統とか文化的なものが消えるというだけでなく、物質的、皮相的な豊かさの代償に、またひとつ日本的なもの、日本人の心のよりどころを失うのだという気がして、情けなさとともに、残念さで胸ふさぐ思いであった。
 しかし、人というものは若い頃の思い出や失った恋人のことをいつまでも背負って生きられないのと同じように、例えばかつて庄川にも神通川に匹敵するほどのマスが多く溯ったのであるが最近の庄川付近に住む人にその話をすると、「へえ、庄川にもマスが溯ったんですか」と感心されるのが関の山である。
 過ぎ去った自然豊かな日々をも忘却の彼方に葬り去らずには、人は生きては行けないものなのかも知れない。
(たご やすひこ・富山県水産試験場内水面課主任研究員)
−平成9年1月25日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在のもので表示しています  
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