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テレビ放送講座 平成5年度テキスト「第2回 笛や太鼓が野づらをわたる 〜金蔵獅子や百足獅子〜」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第2回 笛や太鼓が野づらをわたる 〜金蔵獅子や百足獅子〜 佐伯 安一

 獅子舞の笛や太鼓の音を聞くと、何となく心が浮きたつ。獅子舞は不思議な民俗芸能である。日本の各地にはバラエティに富む獅子舞があり、世界的にみてもインドから東南アジアに広く分布している。その起源を訪ねると、古代西域の霊獣信仰にまでたどりつく。
アジアに広がる獅子舞
 古来獅子(ライオン)は″百獣の王″として尊敬されてきた。古代のエジプト人は、ライオンは王を守護する霊獣であり、王の威厳を象徴するものと考えていた。今日でもヨーロッパの王や貴族の紋章にライオンが使われているのはその伝統である。
 インドでは仏法の守護神とされ、大日如来や文珠菩薩の乗り物となっている。日本語のシシは直接的には中国の師子(シーツィ)からきているのであろうが、古代ペルシャ語やインドのサンスクリット語ではシンハといったから、言葉の上でも西域やインドへまで遡るのである。
そして、チベット語でセンゲ、インドネシア語でシンガ、琉球語ではシーサーである。
 インド大陸の涙といわれるセイロン島(スリランカ)は紀元前600年ころ、北インドのシンハラ族が南下してシンハラ王朝をたてたところであるが、このシンハラとは獅子の子孫という意味で、スリランカの国旗に獅子が描かれているのはこのためだという(芳賀日出男「獅子舞の系譜」『季刊民族学』昭和52・10)。
 シンガポールの地名もサンスクリット語の「獅子の島」である。そして、このスリランカやシンガポールはもちろん、インドネシア・ベトナム・中国・台湾・韓国・日本と、獅子舞はアジア全体に広く行われている。
日本への伝来
 日本へは伎楽(ぎがく)とともに中国から朝鮮半島を経て入ってきたのであるが、それは7世紀のはじめにまで遡る。『日本書紀』によると、推古天皇20年(612)、日本に帰化した百済(くだら)の美摩之(みまし)が呉の国で学んだ「伎楽舞(くれのうたまい)」を伝えたとある。
 伎楽というのは仏供養の楽舞としての一種の仮面行列で、その先頭に悪魔払いの獅子が出るのである。
 行列は露払いの治道(ちどう)・師子(獅子)を先頭に、呉公という貴公子や呉女という美女、その呉女に懸想する崑崙(こんろん)、それをこらしめる力士、金剛、霊鳥の迦楼羅(かるら)、インドの婆羅門((ばらもん)四姓の最上位)、太孤父(たいこふ)・太孤児(たいこじ)、酔胡従(すいこじゅう)などで、これらが楽器の伴奏でパントマイムを演じながら行道(行列)をした。治道や酔胡王は鼻の高い西域の胡国人で、師子もその西域からやってきたのである。
 伎楽の行道は天平勝宝4年(752)、東大寺の大仏開眼にも行われ、そのとき使用された獅子頭をはじめとする伎楽面は、今も正倉院に収蔵されている。
 伎楽はこのように大社寺や宮廷の行事に行われたが、卑俗なところがあったので、少し遅れて入った舞楽にとって代わられて滅びた。しかし、先導の獅子は日本人の祓いの思想に適応し、悪霊を払う霊獣として好まれ、さまざまなバリエーションを展開しながら全国に広まった。また、後から入った舞楽も獅子舞を持っていた。
日本の獅子舞の系譜
 日本の獅子舞の芸能には2つの系譜がある。一つは関東・東北地方に行われる鹿踊(ししおどり)と呼ばれる風流(ふりゅう)で、鹿(しし)の頭(かしら)をかぶり、胸に太鼓をつけた一人立ちの獅子。普通3頭ないし8頭が、胸の太鼓を打ちながら群舞する。これは日本古来の獅子舞である。
 これに対して先述の大陸から伝来した伎楽系の獅子は、唐獅子の頭(かしら)に幌(ほろ)をつけた二人立ちの獅子で、中部以西の西南日本に盛行する。伎楽系の獅子には普通2人の獅子あやし(獅子取)がつくが、これは伎楽獅子の獅子児にあたる。また天狗役は露払いの鼻の高い治道にあたる。平安時代の舞楽の各曲を描いた「信西古楽図」にも獅子の首につけた綱を引く綱引と2人の獅子児がみえ、舞楽の獅子も同じパターンであることがわかる。
 獅子舞の芸能化に大きな役目を果したのは、伊勢の太神楽である。伊勢地方にはもともと御頭(おかしら)神事という祓い獅子があったが、これが近世の初頭から伊勢神宮のお札を配る人たちにとり入れられたものである。三重県桑名市太夫町に本拠を置く十数組の太神楽で、近畿地方や中国・四国の瀬戸内海側、北陸は若狭あたりまで、毎年日を定めて村々を回り、札を配るとともに獅子による家祈祷を行なったものである。その際人気に投ずるため、曲芸獅子や獅子芝居のような見せ物に変化していった。この支流は尾張熱田に出、さらに徳川家の江戸開府にともない、江戸へ進出して江戸太神楽となった。こうして伊勢神楽系の獅子舞は各地に広く定着した。
 一方、お練りをする行道系の獅子も全国に分布している。二人立ちが普通であるが、静岡県掛川市の大獅子のように中へ何十人の人が入って大きく見せるものもある。胴の動かない加賀の大獅子もこの系統であるが、越中の百足(むかで)獅子はこれに神楽獅子の影響を受けて胴自体も舞うようになったものである。
 このほか東北地方には、権現舞あるいは番楽と呼ぶ山伏たちの家祈祷に回った獅子舞の流れがある。
越中の獅子舞−5つのタイプ
 富山県では祭りの賑わいというと、まず獅子舞。ムラのあるところ獅子舞ありといった感で、現行のものは約1,200箇所、それに休んではいるが、いつでも出せる状態にあるものが100箇所余りあると思われる。恐らく数の上では全国一であろう。
 数も多いが芸能も多様である。越中獅子というと胴の中へ数人が入る百足(むかで)獅子と考えられやすいが、これは主に県西部で、県東部は二人立ちの獅子が多い。しかもそれぞれに幾つかの系統と分布がある。それらを芸態によって分けてみると、おおよそ次のようである。
越中の獅子のタイプ
  1. 氷見獅子
     いわゆる百足獅子で、胴幕の中へ頭・尾を含めて5、6人が入る。胴には竹の輪を入れず、手を挙げて張る。獅子の相手をするのは天狗で青年があたる。子供の獅子取りはいない。天狗は鼻高面をつけ、エボシまたはカブトと称する鳥兜をかぶる。採り物はシシマイボウとかテングノボウという1メートルくらいの竹の棒で、先端より少し内に色紙の幣をつける。リズムにあわせて獅子を討つ所作をするもので、ヒトアシ・フタアシ・バンガヤシ・キョウブリ・ヤツブシ・ギオンブリ・ヨシサキがあり、笛のテンポは早い。イソブリ・シシコロンはリアルな所作である。楽器は笛・太鼓・鉦(かね)。太鼓は大太鼓で、これを豪華な太鼓台に乗せ、松・行灯を飾り前には鳥居を立てるので、一見屋台のようである。
    <伝播型>氷見獅子は氷見大工によって五箇山や南砺地方へ伝えられた。ここでは幕に竹の輪を入れ、しかも1本の輪を両端2人で持つので外見は加賀の大獅子に見える。天狗は鳥兜を用いず、シャグマ(毛冠)をかぶっている。また、呉東の上市や魚津あたりの山間部へ伝わっている。ここでは鳥兜をかぶり、胴に竹の輪も入らないが、二人立獅子の影響で中の人数は少ない。
  2. 砺波獅子
     砺波の平野部から射水南部に分布する。これも胴幕の中へ5、6人が入る百足獅子であるが、胴に竹の輪が入るのが特徴である。そのため胴が大きく見え、やや緩やかなリズムとともに重厚勇壮な感を与える。獅子あやしは小学生くらいの子供2人1組で、シシドリという。ボウ・ナギナタ・タチ・クサリガマなどの武具を持って獅子に向かう所作は加賀獅子の影響であろう。しかし、これをにらみ獅子というのに対して、ケン・ハケ・御幣などを持って獅子とたわむれるように舞う踊り獅子というのがあり、これは氷見獅子に近い。
     南砺の福光町は金沢と峠一つで隣するが、この市街地には演技時に胴の動かない加賀獅子と同じものがある。これを砺波獅子のうち<加賀型>とする。
  3. 射水獅子
     百足獅子の一種で胴に竹が入らない。その限りでは氷見獅子に近いが、獅子あやしは天狗のほかに、金蔵獅子の踊り子と同じ花笠をかぶった2人一組の少年があたる。また、演目は氷見獅子・砺波獅子の影響を受けており、採り物はナギナタ・タチ・カマは砺波獅子の、キリコ・ササラ・キセルは金蔵獅子の影響である。このように回りの獅子の影響が強いが、ダイカグラ・スズガラ・ボンボコなどのように独自の演目も持っている。
     また、獅子頭には下村加茂神社に伝える室町期の箱獅子に似たタイプのものが、放生津八幡宮や戸破加茂社など周辺地帯にいくつも遺っているのは貴重である。これらは社宝として収蔵されるか行道に使われるだけであるが、新湊市街地の現役の獅子頭は鼻の位置が高くて箱獅子の面影を残しているのは注目される。これも射水獅子の特徴としてよいだろう。
  4. 金蔵獅子
     二人立ちで雄雌2頭が一対となる。演目は金蔵が槍で獅子を討ち取るキンゾウ、獅子が蛇を食べるヘビシシ、前足と後足がタケツギ・ドウガエシなどアクロバットな曲芸を演ずるキョクジシ、金蔵が御幣を持って獅子と舞うカグラジシの4種が基本。獅子あやしは列の先導をするサンパサ、槍を持つキンゾウ、演舞時にその回りを回るササラやカネスリ、オドリコなど賑やかである。このうちキンゾウが主役で、金蔵獅子の称もこれから出ている。オドリコは花笠をかぶった女児で、獅子舞の合間に古様な踊りをする。
     金蔵獅子は伊勢太神楽の影響を受けた飛騨地方の獅子が、神通川沿いに北上したものである。神通川南岸、飛騨街道筋の細入村や大沢野町の旧下夕村あたりに雌雄2頭型の正規のものが多く、そこから次第に一頭型に変化しながら神通川の扇状地を経て、東は富山市・大山町・立山町へと広がり、西は婦負郡一円から五箇山や砺波の一部へ飛んでいる。砺波地方でネンゴロジシというのは「婦負郡(ねいごうり)獅子」の意である。
  5. 下新川獅子
     県東部の下新川郡一帯に分布する。これも二人立で伊勢太神楽系統と思われるが、東からのルートで入ってきたもので、金蔵獅子とはいろいろな面で異なる。二人立ちを基本とするが、後足が抜けて前1人だけで演ずることがある。また、獅子頭をかぶるようにし、空いた手に幣や鈴などの採り物を持つ場合がある。獅子あやしは天狗で、獅子児にあたる獅子取りはいない。この面では氷見獅子に似ている。天狗の採り物は棒・刀・傘・酒だるなどで、シシオコシ・ショウジョウ・テングマイ・ダイカグラなどを演ずる。天狗は県境の大平・境・宮崎・笹川などでは1人であるが、(東境型)、他ではこの数が増え、8人から多いところでは16人もいるところがある。
獅子頭について
 一般に百足獅子の頭は大きく、二人立の獅子頭は小さい。砺波市鷹栖焼馬の獅子は高さ44㎝、幅54㎝、長さ62.5㎝で重さは20.4㎏もあり、俗に五斗獅子といって五斗俵をさし上げることのできる者でないと振れないという。逆に金蔵獅子は2キロ前後、下新川獅子は3キロ前後しかない。アクロバットな所作をしなければならないからである。百足獅子は4キロから8キロくらいである。
 獅子の持ち方も型によって特徴がある。下新川型はすっぼりと頭からかぶるようにする。そのため耳の下の方に持ち手の穴があいている。金蔵獅子もそれに近いが、両耳の下で持ち、手がかりのためそこにこぶのようなものがある。また、下新川型と同じ部位に穴があるものもある。氷見獅子も道中などではかぶるようにするが、舞うときは身体の前で激しく振るので、獅子頭の裏の天井隅にかすがい状の持ち手をつけている。どちらかというと右上が多い。砺波獅子はかぶることはなく、身体の前だけで振るので、頭の裏に逆T字状に縦棧と下に横棧を入れる。射水獅子は砺波獅子のような棧を入れたものと、耳下に穴を開けたものが混在するが、さらに両方を持つものもある。
 獅子頭の製作者は富山の田村六馬系や高岡の北本、氷見では床鍋の源助や窪の大吉、滑川では長谷川喜十郎などが知られ、各地に作られていたが、昭和へ入ると次第に彫刻の町井波で作られるようになった。
古獅子面と行道獅子
 県内で最古の獅子頭は八尾町布谷の紫野社にある文明13年(1481)銘のものである(県指定文化財)。頭の頂部と鼻の頭の高さがほとんど同じで、いわゆる箱獅子と呼ばれる長くて平べったい獅子である。目玉が異様に大きく、かつ上を向き、歯並みは粗い。全体に顔の作りが大きい。これは中世の獅子面の特徴で、このタイプのものは射水郡下村の加茂神社や高岡の射水神社など県内に10例を数える。このほか上市町眼目の立山寺には、昭和28年の炎上まで、室町時代に在地の土豪土肥氏が寄進したという古獅子があった。これらの古獅子は当時どのような形で使われていたのであろうか。
 このうち下村加茂神社のものは5月4日のやんさんま祭りのとき、御旅の行列の先導をして境内を3周する。幌も獅子あやしもなく、単に紋付姿の人が紙マスクをして頭上に捧げて歩いている。
 立山町浦田山王社では4月の中の申(さる)の春祭りのとき、大きな幌をつけて中に2、30人の人が入り、宮の回りを3回り半したあと社殿に入り、1年内に生まれた子供の頭を噛んで祓いをする。
 魚津市小川寺の白山社の春秋の祭りには御輿が出御して隣にある千光寺観音堂の回りを7回り半するが、獅子はその先導をする。幌をつけた二人立ちで、獅子頭の額にはカーン(不動)の種字が彫られている。神仏混合の形を遺す。
 このほか伏木の気多神社にも行道獅子があり、これは百足獅子形式である。御輿の先導をする獅子は立山曼茶羅図にもみられ、近年は二上射水神社の築山神事でも復活した。
 一方、黒部市三日市の八心大市比古神社の神官桜井家には慶長元年3月(=文禄5年、1596)の「御獅子頭御入之家」なる帳面があり、獅子頭を奉じて黒部川流域の村々を回り、陰陽師として家祈祷をしていた様子を誌している。ただし、回村は各村の祭日に行なっているから、単なる個々の家祈祷ではなく、村共同体を対象としていたことに留意しなければならない。
 こうした行道もしくは家祈祷形式の獅子がいつごろ現在のような芸能化した獅子舞になったのであろうか。記録として新湊市放生津新規町の道具箱に「文政十一歳子八月改」(1828)とあるのがもっとも古い。ついで同市放生津西奈呉町の気比住吉神社、砺波市五郎丸上村獅子方のそれぞれ道具箱にある天保12年(1841)などである。『新湊市史』によると、天明のころ(1781〜89)、放生津全町に18もの獅子舞があったことが「野村屋記録」に見える由。まずは江戸時代の中期からと見るのが妥当のようである。
 当初は経済力のある大きな村で行われ、次第に周辺の小村へ波及して行った。江戸中期を初発期とすれば、天保以降の幕末が第二の波、そして明治2、30年代が第三の波であった。いつ、どこから習ったか、という調査結果を総合すると、そのようにいえる。
(さえき やすかず・砺波郷土資料館館長)
−平成6年2月5日放送−
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