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テレビ放送講座 平成元年度テキスト「第7回 定置網王国のゆくえ」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第7回 定置網王国のゆくえ 今村 明

(一)
 行く秋、海上はるかに立山連峰、水面には定置網の浮子が幾何学的模様にキラキラと浮かぶ美しい氷見灘浦海岸道路を走る。潮おだやかな大境漁港で降り、大境洞窟前の広場に立つ。その片隅に小さな碑がある。明治40年、大ブリ1万本の大漁を伝える鰤大敷網発祥之地の記念碑(昭和42年建)である。その周囲は定置網の垣網、運動場、身網の各部を模したコンクリート区画で子供の遊び場となっている。なぜかこの遊び場の中心は一段と低くなって、水が溜るようになっている。
 氷見灘浦、この地の幾多の先覚者たちは、古き時代より定置網の改良に情熱を傾け、大きな改革を遂げ、運動場から身網への昇り落し網型を完成させた。今日、この落網型式は身網が二段箱、三段箱と発展し、全国各地に普及して隆盛をみている。
 遊び場の中心に小さな落差をつけ、わざわざ水が溜るようにした意図は、無邪気に遊ぶ子供達への暗黙のうちに伝えるべくこの地の伝統の贈物と感じられる。
 この定置網漁法の発祥そのものを特定した史料はない。各地の磯・沿岸で魚を獲る手段が手取から竿釣、延縄、地曳、刺網、手繰網と漸次種々の方法が発達していくなかで、刺網類が最初一文字に使用されていたものが変化して、T字形に敷設され、さらに変形して台網の考案につながったと考えられている。
 また、定置という言葉は、明治34年制定された漁業法に漁具を定置し云々と規定したのが最初で、同35年漁業法施行規則に定置漁業とは如何なるものかを規定しているのが始まりである。現在は古くから残る大敷網、大謀網、瓢網そして落網等を総称して定置網といっている。
(二)
 定置網漁業の発展経過を振りかえると、漁業として発達したのは江戸時代中期頃からである。その源流は次の4系統に分類するのが通説である。
  • 長門、肥前を中心とする西南系大敷網
  • 富山湾を中心とする北陸系台網
  • 牡鹿半島を中心とする東北系大謀網
  • 陸奥、北海道方面の建網
 富山県の台網の発祥は相当古いという説もあるが、確実な史料として氷見灘浦に元和元年(1615年)の沢二番の夏網網役銀請取り文書が残っている。沢や二番という他の漁場と区別する名称があるところから、これ以前にすでに何統かの台網がおろされていたと考えられる。
 台網は原料がすべてワラであったのでワラ台網と呼ばれ、北陸各地から太平洋側へも伝播した。幕末になって麻苧を使用した麻苧台網が考案された。
 ブリを対象とした大型台網は、明治に入って宮崎県で工夫された日高式大敷網の方法を明治40年に氷見の堀埜与右衛門や藪谷弥右衛門らが越中式大敷網に改良し敷設したところ記録的なブリが獲れ、更に45年、氷見の上野八郎右衛門は東北系の大謀網の網型を取り込んだ越中式ブリ大敷網を発明し、大正6年には身網のなかを有底と無底の運動場とする画期的な網型を創り、これが越中式大諜網の原型となった。その後、運動場と身網の間に昇網がついた落網となるのは昭和15年頃である。
 一方、小型網の改良も麻苧台網と同じ頃、麻苧小台網が出現し、明治には氷見の大西彦右衛門、広頼九郎太郎、橋本弥三郎等によって漸次改良され、二重マントの瓢網によるイワシ春漁が盛んとなった。大正に入って森本孫作等によって今日の大諜型瓢網の原型が完成した。これらの改革は氷見地方ばかりでなく、新湊はじめ魚津や各浜で同時にすすんだ。
 戦後は網原料が合成繊維となり、如何に多くの魚を入れ、それを逃がさずにどう揚網するかに力点をおき一層の創意工夫がなされるなかで昭和30年代末、身網の先にさらに箱網を設ける二重落網が出現した。40年代に入り、キャチホーラ等の導入により揚網方法が機械化された。また、底棲性の魚を対象にした中層・底層定置網も開発された。
 近年、遠隔操作により網口を遮断する装置を開発し、網内の魚群を水中音響で誘導集魚させ揚網する新しい定置網としてビジョン網が構想されたが、失敗に終わっている。現在、三段箱や金庫網を設け、一時蓄養や出荷調整をして、漁獲物の付加価値を高めるべく様々な努力がなされている。
(三)
 定置網は岸から垣網を張って沖の身網に魚を誘導し、入ったところを網揚げして獲るという原理原則は昔も今も変わらない。その構造は、垣網部、囲網部、昇網部及び身網部の4部から構成される。これらの網を海上に定置させるために台と呼ぶ鉄ブイと反対側に矢引きという2個の鉄ブイの間にロープを張って固定する。その間に囲網(運動場)、昇網、箱網等が配置される。垣網は磯に向かったものを磯垣網といい、沖に向かったものが沖垣網で、それぞれ魚群を運動場の入口である羽口に誘導する。運動場は無底で中心線の台側に昇網がある。昇網は海底から徐々に箱網の中に挟まりつつ登っていく網で、運動場側の外昇と箱網側の内昇からなっている。身網は袋網状の箱網で、漁場によって二つ、三つと連なり二段箱、三段箱といっているのが今日の落網形式の構造である。
 次に本県におけるこれらの網の規模について述べる。最初に台から矢引までの直線の長さをとって網の大きさとすると、ぶり、まぐろ定置は、350〜450メートルの範囲内にあり、いわし定置は、100〜200メートルの網が中心で、垣網方向に昇網をもつマント状袖網が特徴の瓢網のほたるいか定置は、100〜150メートルの網が多い。さらに羽口中心付近の水深を各定置の敷設水深としてみると、ぶり、まぐろ定置は、50〜80メートルの水深に、いわし定置は20〜150メートルの広い範囲に各地先の地形の影響をうけ分散敷設されている。ほたるいか定置は30〜100メートルの範囲に敷設されている。
 これらの定置網を設計し、組立形状を造るのが漁労長で、昔の人は、網医者と称した。網の主治医である。そうしてみると定置網各部の名称に、人体に関係しているのが以外と多い。例えば、身網を胴網、垣網を手網、その末端を尻、羽口を口前など数多く挙げられる。近年、網修繕に用いる網針を注射針と称する名医が減る一方であることは寂しいかぎりである。
(四)
 富山湾周辺を俯瞰図でみると、底曳網を展げた形をしているのに気づく。佐渡島が漁船で、一方能登半島、一方は生地鼻から名立あたり迄を左右の袖網にして、湾奥部がそっくり袋網部分にあたり、最後の魚取部は新湊から氷見とみることができ、定置網の敷設密度と一致している。
 さて、我国の沿岸漁業は約230万トンの生産量をあげ、このうち28パーセントにあたる63万トンが定置網漁業によって生産されている。この生産量は沿岸で営まれている各種の漁業の中では最も多い。漁労体数は大型定置で約1,600統、小型では15,000統を超える。したがって、定置網漁業はその生産量だけでなく、地域経済に大きな影響を与える産業としても各地の沿岸漁業に占める地位は高い。
 本県の漁業総生産量は約4万トンで、沿岸漁業は約2万トンをあげ、このうち65パーセントにあたる13,000トンが定置網が占めている。生産額では沿岸漁業の約100億円の内7〜80億円を占め、沿岸における主幹漁業となっている。
 また、敷設統数は、定置漁業権に基づく大型定置が81統(身網の最深部が27メートル以上)、第2種共同漁業権による小型定置が74統で合わせて155統になる。各定置網の敷設時期はそれぞれ異なっているが、本県の海岸線1キロあたり約1ケ統の定置網が敷設されていることになる。さらに沿岸部では、刺網類はじめ小型底曳、かご縄や八そう張漁業等が輻輳して営まれており、漁場利用は極限に達している。したがって、漁場(水深200メートル以浅の大陸棚)の単位面積当りの生産量は日本海で一番高い。この敷設密度と漁獲量、そして歴史とたゆまぬ改革等が富山県が定置王国といわれる由縁である。
(五)
 魚のある食卓は楽しい。富山湾へ来遊する魚群が朝、定置に乗網し、それらが早速、夕食を飾る。この経過時間が味覚の鍵である。また、野菜や果物には産地があり、それぞれ人の手により食卓にのぼるが、魚は富山湾へ、みずからやってきて食卓にのぼる。これらの魚たちは南から北からの生活史のロマンをもち、このことも一家団欒をはずませる。
 この定置網漁況をみると、春にホタルイカ、イワシ等、夏にはマグロ、タチウオ等、秋にはフクラギ、カマス等そして冬にはスルメイカ、ヤリイカ等が主として獲れるが、富山湾での漁獲量は秋から冬にかけて山となるのが普遍的パターンである。これは日本海のへソのように凹んだ富山湾の湾口が北東を向いていることと能登半島のためにもたされるポケット効果で地形の恩恵である。
 次に入網するいろいろな魚種についてみる。富山湾の四季、表層を覆っている対馬暖流系水を生活領域とする魚種を暖水種、富山湾の深層水である日本海固有冷水から中間水にかけての領域に生息する魚種を冷水種及びこれらに限定されず広く水温に対する適応性の大きい魚種を広温種として漁獲量を区分してみると、暖水種が83パーセントと圧倒的に多い。更に漁獲状況を富山湾に常時生活するものと季節的に出現するものと区分してみると約7,000トンと6,000トンでそれぞれ約半分を占める。
 これらのことから定置網漁業の動向は、富山湾内で生活史の一部しか過ごさず、北上南下時と浅深移動時に入網する魚群によって左右され、とりわけ暖流系種の資源量の変動が鍵となる。したがって湾内での生活完結型の魚種の資源増大を計っても定置網漁獲量と直接的に結び付くかは疑問であり、広く資源動向をみる必要がある。
(六)
 ジッと魚の来遊を待つ定置網漁業は、明治から昭和初期が黄金時代で、海面を独占的排他的に占有することから他の沿岸漁業は恵まれず、明治以来北海道方面への出稼ぎや移住が盛んであった。出稼ぎはニシン漁、コンブ獲りに始まるが、新湊に始まる露領漁業出漁や蟹工船への出稼ぎは一つのエポックであり、氷見灘浦は、定置の技術が買われ船頭以下が一組となって全国の定置漁場に被用された特殊な出稼ぎであった。
 戦後、沿岸から沖合化、遠洋化へとすすむ漁業の近代化の中で、定置は斜陽漁業の代名詞にもなったが、オイルショック以来、燃料は非消費型、化繊網使用で網作業の省力化等で、経済的な漁法として見直された。
 定置網漁業のもつ最大の利点は、多獲性のうえに漁獲物が一度に多種類でかつ生きていることがあげられる。最大の欠点としては小型魚の混獲があげられる。
 また、定置網はごく沿岸に敷設されるので省エネルギーにつながるが、待ち漁法のため水揚量の計画性はないといえる。日漁獲量の不安定さを年間漁獲量でみると、全出漁日数の90パーセントで50パーセントの水揚げをするが、反対に10パーセントの操業日で50パーセントの漁獲が可能な漁業としての特性を有する。
 敷設位置は海底谷や魚道に支配され、漁場を独占的排他的に利用し、海面を占有することとなる。とりわけ、富山湾沿岸部の複雑な海底地形を最大限に利用しているのが定置網であり、各網の相互関係と網自身は大きな魚礁となっている。
 また、漁船漁業と違って漁業者の生活基盤は家族とともにあるのが特徴である。しかし、沿岸漁業としては一時的にしても投資経費が莫大で、経営の組織化が必要である。
(七)
 今秋の富山湾の漁況は、カンノンイカ(ソデイカ)が空前の豊漁と伝えているが、最近の沿岸漁業の不振は目を覆うばかりで、定置網漁業も例外ではない。反面、陸上産業は隆盛を続け、その格差は開くばかりである。
 沿岸漁業をとりまく環境は、輸入魚の増加、魚価安、若者の魚離れ、後継者の不足等の悲観的な材料に加えて、昔からの村張り的な漁労体質で陸上産業と比較して技術改草が立ち遅れる等大変きびしいものとなっている。
 富山の定置網漁業が対象とするブリ、アジ、スルメイカその他重要な魚介類の大部分は、九州から山陰海域で産卵し、北上来遊する群れのため、これらの海域での漁獲圧力の増大は、富山湾における漁業資源の動向に直接的に結びついている。富山湾の漁業資源を守るためには、対馬暖流全体の資源動向を把握し、適正な保護・規制による広域漁業資源管理がぜひ必要である。これには今後、衛星情報の活用が大いに期待される。
 したがって栽培漁業の積極的な展開や漁場環境の保全等は、富山湾漁業にとって重要ではあるが、広く対馬暖流域全体の漁業資源管理のあり方で日本海のオピニオンリーダーとなることが定置王国のゆくえにとって重要と思われる。
 そして、うちにあっては定置網のかかえる利点・欠点を徹底的に見直す必要がある。それは利害関係の伴う敷設統数の減少・適正数も含まれる。更に生きている漁獲物の利点と小型魚の混獲の欠点を見直し、一定期間蓄養して水揚げするなど、生産者による価格調整ができるようにすることも重要となってくる。これには今秋はじめて四方地区で導入されたエアー式揚網装置・いわゆる自動定置網による省人省力化によって可能となってくるであろう。
 これからの生活は余暇の時代といわれている。定置網漁業にとって早朝作業の欠点はあるものの短時間の操業・日中の余暇を若者にとって大きな魅力となる経営改善が必要である。いずれにしても、定置網と蓄養養殖を一連のものとした生産構造を確立していかなければならない。
 最後に、定置王国にとってまもるべきものは、魚の獲れる富山湾、その自然環境とその魚が自然食品であることを決して忘れてはいけないと思う。
(いまむら あきら・富山県水産試験場次長)
−平成2年3月3日放送−
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