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テレビ放送講座 平成5年度テキスト「第4回 灯に祈る 〜夜高祭りとたてもん祭り〜」


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TOP 第4回 灯に祈る 〜夜高祭りとたてもん祭り〜 佐伯 安一

 夜の灯は興奮と幻想の世界へ人びとを誘いこむ。むかしの夜は暗かったから、ことさらにその印象は強烈であった。
 祭りや年中行事には灯や火を中心にしたものが多い。赤あかと火の粉を散らして燃え上がる小正月の左義長。お盆のおしょうらいを迎えるたいまつの火の輪。愛本天満宮や入善墓ノ木の用水祭りの巨大なたいまつの火。たいまつの火の中をみこしが駆け抜ける生地新治(にいはる)神社のたいまつ祭り。そして県内に多い曳山車は、夜に入るとちょうちん山車に変ってゆらゆらと曳き回される。ことに伏木のけんか山車は、ぶつかるたびにちょうちんの棚がゆさゆさと揺れて勇壮である。
 ここでは灯の祭りとして福野の夜高(よたか)と魚津のたてもんを取上げる。
福野の夜高祭り
  今年や世がようて穂に穂がさがるヨ
   桝がいらいでササ箕(み)ではかる
   ササドッコイサノサ ヨイヤサヨイヤサ
  瀬田の唐橋唐銅擬宝珠(からはしからかねぎぼし)ヨ
   水に影さすササ膳所(ぜぜ)の城
 威勢のよい歌と太鼓、拍子木の音に包まれて、大小二十数本の夜高行灯(あんどん)が夜の町を繰り回る。極彩色の行灯や山車(だし)・吊物(つりもん)に火が灯されてゆさゆさと揺れる。押しかけた見物客で通りは興奮のるつぼと化す。
 夜高祭りで知られる福野神明社の春季祭礼は5月1日から3日まで。1日は宵祭、2日が例祭と御旅所祭、3日が神輿と曳山の御巡幸祭なのであるが、1日と2日の夜高行事、ことに2日晩の引き合い(すれ違いの際のけんか)に人気が集まる。
 この町は近世初めの慶安3年(1650)、南砺地方のまんなかに町立てされたが、翌々5年に大火があり、64軒の家が全部焼けてしまった。しかし、町の人たちはこれに屈せず、さっそく再建にとりかかるとともに伊勢から分霊を勧請して産土社を祀ることにした。代参の者が分霊を受け、倶利迦羅峠のあたりまできたころに、町民は手に手に行灯を持って迎えに出た。それが例になって、祭りには行灯を持って宮へ参詣するようになったのが起こりという。
 はじめはレンガク(田楽)と称して棒の先に八寸紙1枚大の行灯をさしたものであったが、次第に大きくなっていった。行灯自体も大きくなるとともに、上に傘鉾(かさぼこ)と張子のダシや吊物をとりつけ、下に台を設け、また重いのでかつぐための台棒をさすようになった。こうして幕末から明治初めにかけては最高の高さになった。文久2年(1862)には16枚張りの田楽(でんがく)行灯に神輿巡幸のときの傘鉾を上にとりつけて、高さ3丈半(10.5m)のものを出したという。
 明治26年には電線が張られたため2丈5尺(7.5m)に制限されたが守られず、同28年に「祭礼献燈取締書」が作られて、翌年から9枚張り2丈4尺(7.27m)以下と定められ、さらに、同43年には6枚張り2丈1尺(6.36m)となった。現在は6枚張り7mである。
 こうして高さが制限された結果、傘鉾は退化してしまったが、本来は田楽行灯の上に傘鉾をとりつけたプランで、ダシはその頂部の鉾留、吊物は傘の端にぶらさげたアクセサリーだったのである。しかし、逆にダシと吊物が大きくなり、安定したプロポーションになった。また、張子の技術が進んで、すばらしい造型になってきた。全体に武者の眼や描線にはあらかじめ蠟を塗ってから彩色するので、灯(バッテリーの豆電球)をともすとそこが光って極彩の色を引き立たせる。
 夜高作りは3月中旬から始まる。町内の広い家が宿で、毎晩若衆頭をリーダーに25歳前後の若衆が中心になって作る。もちろんOBたちが寄ってきて指導をする。一方、4月中旬に裁許会があり、練り回しの順番を抽せんできめるほか、いろいろな打合わせをする。
 祭りの2、3日前になると、台締めといって台の枠に台棒(7.8m) とその間に横棒をとりつけ、わら縄で固くぐるぐる巻きにして水をかけておく。引き合いをしたとき緩まないようにするもので、芸術品に近い。台締めは町内総出である。
  祭りは5月1日の宵祭りから始まる。午後7時ごろ、夜高太鼓が打たれると、揃いのはっぴ姿の若者がぞくぞく集まる。参加者は18歳から42歳まで。夜高を引いて宮へ詣り、8時頃鳥居の前で各町が順次参拝したあと並んで町内を引き回す。大行灯が御蔵町・浦町・辰巳町・横町・新町・上町・七ツ屋の7本、中行灯(中学生)が各町1本、小行灯(小学生)が各町1、2本で総数24、5本になる。
 2日の晩は前日の逆の順に並んで練り回る。この夜10時半ごろ、上町通りで引き合いが行われる。「上りあんどん」の浦町・辰巳町・横町の3町が、「下りあんどん」で留っている上町・七ッ屋・新町の3町の横を通り抜けるときに始まるもので、お互いにゆすってぶつけたり破いたりする。昔は相手の台の下に自分の台棒を入れて倒したりすることもあったという。
 全部の練り回りが終わると、町の中心の四つ角で手打式がある。各町の裁許と氏子総代、それに警察や消防も立ち合い、当番裁許の音頭でシャンシャンと手打ちを行って解散となる。
 なお、周辺の農村では6月10日・11日の田祭りに夜高行事が行われており、砺波市出町、庄川町、小矢部市津沢のものも盛大になってきている。
魚津のたてもん祭り
 8月7・8日の両晩、魚津市諏訪町の諏訪神社の祭礼に行われる。ここは魚津漁港に近い漁師町で、神社は富山湾に面して海岸に建っている。
 たてもんは帆柱にたくさんのちょうちんをピラミッド型にとりつけて台に立てたもので、秋田の竿灯(かんとう)の大きなものと思えばよい。
 帆柱は高さ13mから15mくらいもある。他の町のたてもん類は電線が張られてから低くなったり廃止されたりしたが、ここは海岸のためその制約がないので今もこのように高い。これに横棒を下から順にだんだん短くしながら10段くらいをとりつけ、これにちょうちんまたはぼんぼりを吊る。一例を示すと、下から12・10・10・8・8・6・6・4・4・2・1と11段71個となる。項上の鉾留にはエビスを描いた平太鼓状の張子をつける。ビラミッドの基部は絵額とよぶ行灯(あんどん)とし、武者絵や漫画等を描く。下には頑丈に組んだ枠の台をはかせる。
 台は長さ3m、幅2mほどで、下はそりになっている。長さ方向の端に引棒の丸太、その間に8本の横木をしばり、ロープで∞状に一面に張る。そのため中央がハンモック状に凹んでいて乗っている人が落ちないようになっている。項部から割竹に笹の葉(今は経木(マット))をつけたものがしだれ柳のように垂れており、これにも豆電球がたくさんつけられる。また、柱が倒れないように柱の頭から数本の控え縄が下がっている。
 このようなたてもんが約7台出る。旧町でいえば高町・中町・下町・新屋新・出村・魚江町・港町で、約というのは年によって多少の増減があるからである。
 晩8時ごろ、各家の祭りが終ると、町内ごとに海岸に立てられたたてもんのところへ集まる。ちょうちんに一斉に灯(豆電球)がともされ、次々に神社の方へ向かう。引くのは若衆や子供たち約80人である。笛や台の上の芯木のもとに据えられた大太鼓のはやしに乗って、ワッショイワッショイの掛声で、太い綱を引く人、横木を押す人、約2トンもあるたてもんがそりの台に乗って引きずられて行く。
 境内へ着くとくじの順に1台ずつ参拝する。まず世話方が神前に神酒を供え、祓いを受けたあと、境内の前隅に控えていたたてもんを勢いよく3回転させる。これはニエ(贅)を積んだたてもんを神様によく見てもらうためだという。控え縄を持っている者は遠心力で飛ぶように振り回される。もちろん笛・太鼓の乱打である。それから社殿の正面へ進み、世話方が供物の酒(昔は魚)を供え、神主がお祓いをする。終った台から社前の傍らに並ぶ。7台のたてもんが初夏の海浜に勢揃いした姿は壮観である。これで祭りは終り、もときた海岸を戻って行く。
 たてもんは舟にニエ(供え物)としての魚を積んだ形とも、灯りは魚を集めるためともいろいろにいわれるが、浦方の祭りであるから豊漁と海上安全を祈ることだけは確かである。祭日は昭和40年ごろまでは8月17・18日であったが、出稼ぎなどの関係で、7・8日に変った。また、昭和45年から魚津祭りの主要イベントとなり、年々盛大になってきた。
 昭和47年10月5日付で県の有形民俗文化財に指定され、また、昭和57年1月23日、「魚津浦のタテモン行事」として国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財の選択」を受けたが、まだ正式の調査報告書は出ていない。(平成9年12月15日、国の無形民俗文化財に指定された。)
大きさを競う
 祭りの出し物には″大きい″ことが競われる。それは″華麗さ″″賑やかさ″とともに重要な要素である。ここにとりあげた「夜高」と「たてもん」は″大きさ″の面でも代表選手である。たてもんは「柱を立てる」の「立てる」で、高いことの表現である。
 たてもんと呼ばれる風流(ふりゅう)は魚津のほかにもかつてはいくつもあった。
 富山市東岩瀬諏訪神社の曳山は、台の上に上中下3段の張子の絵を飾り、それが判じものになっているのが特徴。今は4、5mと低くなっているが、電柱のない明治のころは10間(18m)もの帆柱を立て、たてもんといった。先端に百万灯と呼ぶあんどんをつけ、帆柱の途中に判じ物の張り子をつけた。北前船の基地東岩瀬ならではの趣向である。その帆柱を立てるのがまた技術の見せ所であった。
 氷見のたてもんも見事であった。7月13・14日の祇園祭りには南町10町の曳山に対して北町6町ではたてもんを曳き回した。高さ5丈(16.5m)もある張子人形で、祭りのほか、めでたいときにも曳き出された。明治になってから次第にすたれたが、それでも日露戦勝祝賀会にも作られた。最後は大正4年のご大典であった。遠くから屋根ごしに見えたという。
 大きいことでは黒部市三日市の灯とぼしがあった。高さ15m、幅7m四方くらいの行燈に山水や人物を画いたもので、秋祭りやめでたいことがあったとき各町内で作って町中を曳き回した。芯棒の先端にはここでも行燈のようなものをつける。昭和3年のご大典のときの写真が発見されて幻の灯とぼしといわれていたが、近年現代風にアレンジして4mくらいのものが復活した。
 福野の夜高も先にふれたように、明治25年に電柱が立つまでは10m以上のものもあったから、これも一種のたてもんであった。
 もちろん、県内に多い曳山も意識の上ではこの系列に入る。城端の曳山の場合、地山と雛台の間へ蛇腹(じゃばら)を入れて少しでも高くする改造をしている。
 寛政2年(1790)8月、加賀藩から出された倹約方申渡に、祭りについての1条があり、その中で「作り物・立物」について次のように触れている。
一、在々にて祭の節人寄せ仕り、大勢入込み商人等も入り、栄耀、在郷角力等先年より有り来り候所、町立候所々稼ぎのためにも相なり申すにつき相応の儀はそこそこにも相成り申す躰に候の所、格別費(ついえ)なる儀もこれある様承わり及び候。昔より古く伝え候祭の節、在郷相応の義はまずその分、栄耀成義一切仕り間敷く候。宿立候所にても祭の節はやし方いたし、作り物・立物、或いは踊子杯といたし候躰あらあら承り及び候。この義は以来急度相糺し、左様の族(やから)これあれあるに於ては曲事(くせごと)申付くるベく候。かつ又里中にて近々乱りに出来祭・地蔵祭杯と各目を付け人寄せ仕り候義沙汰の限りに候。新たなる義はたとえ近在五ケ村三ケ村にても寄せ集め候はば、急度相咎め申すべく候。
 この時期、安永・天明・寛政ころは、各地に曳山ができている。人寄せのために「作り物・立物・踊子」など新しい祭り行事がぞくぞくできてきた時期なのであろう。たてもんもそのような風潮の中での流行であった。
 安政6年(1859)の夏はコロリ病(コレラ)が蔓延して多くの死者が出たが、ようやく収まった9月に藩はコロリ盆をするよう觸れた。杉木新町(砺波市出町)では久しく指留になっていた歌舞伎曳山を4日間曳き出した。近在からは獅子舞が集まり、五郎丸村からは鍾馗(しょうき)様の「造り物」その丈け4間余り(7.2m)のものを作って出てきた、とこの町 の「五島正訓吉凶帳」は誌している。何かといえば大きいたてもんだったのである。
 この風潮は明治期まで続くが、電線の普及とともに次第に影をひそめるようになった。
(さえき やすかず・砺波郷土資料館館長)
−平成6年2月19日放送−
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