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テレビ放送講座 平成12年度テキスト「第3回 生活と民謡 −「わらべうた」を中心に−」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '01/02/03

TOP 第3回 生活と民謡 −「わらべうた」を中心に− 小澤 昭巳

ふるさとに謡ありて 〜富山の民謡〜1.「遊び」のうた
 「手合せ」のうた
 「手合せ」や「指あそび」の歌は、現在もなお子どもたちの中に生きている。インスタントなところが喜ばれるのか、通学のバスを待つ短い時間などに、子どもたちは、結構この遊びを楽しんでいる。
一二の三/二の四の五/三、一、二の四の/二の 四の五 (高岡)
 数字を唱えるだけのこの歌は、「指遊び」の歌である。互いに向き合い、数字に合わせて指を出し合って遊ぶ。この歌は、もと「石けり」の歌だった。それを子どもたちは、「指遊び」に転用したのである。最近、その数字に合わせ、階段を上り下りして遊んでいる。別の遊びへの新しい転用である。
 時に、仲間の誰かが祖母などから古い「手合せうた」などを教わったりすると、それがまたたく間に広がってしまう。旋律のアンティークな味わいを子どもたちは、一つのファッションとして楽しむのである。
一かけ二かけて三かけて/四かけて五かけてはしをかけ/はしのらんかん手を腰に/晴れたみそらを眺むれば/十七、八のねえさんが/花と線香手にもって/もしもしねえさんどこへ行く/私は九州鹿児島の/西郷隆盛娘です/今日は命日墓まいり/お墓の前で手を合わせ/なみあみだぶつと唱えます。 (高岡)
 「遊び方」は、セッセッセーノ、ヨイヨイヨイなどと掛声をかけて調子をそろえ、第1拍でそれぞれ手を打ち、第2拍で相手の手と打ち合わせ、これを繰り返す。 
 それにしても奇妙に錯綜した歌詞である。何かいろんな場面や物語の断片のようなものが入り混ざつている。もとは、西南戦争(明治10年)後の西郷隆盛を悼む御霊(みたま)信仰のようなものが歌詞の内容となっていたようだが、口写しに歌い継がれる中で詞章が崩れ、意味が風化していったのだろう。そして、言葉のイメージだけが連鎖し、奇妙な錯綜を醸し出すのではないだろうか。古いわらべうたには、このようなものが多く、伝承童謡(わらべうた)のひとつの特性となっている。しかし、そのこと−絶えず自由に歌い変えられているということによって伝承を保持し得たのかも知れない。したがって、ひとつの歌が伝えられる過程で、周囲には、歌に捨てられた類歌(ヴアージョン)が無数に累積する。どれを拾い上げて歌うかは、全く子どもたちの好みに任される。
 だが、「わらべうた」は、仲間と一緒にうたって遊ぶ歌である。いつも一緒にうたっていると、歌はその中で調整され、「仲間のうた」ができあがる。ひとつの類歌の流布圏は、子どもの交友圏と重なるのである。類歌は、このようにして成立するので、歌詞や旋律の上に著しい地域性が生ずる。この歌の場合も、次のような詞章を付け加えた類歌が採集される。
お墓のあとの魂が/ふんわりふんわり/ジャンケンポン (宇祭月)
もしも、この子が男なら/士官学校(あるいは、「師範学校」)を卒業させ/イギリス言葉を習わせて/梅にうぐいすとまらせて/ホーホケキョーと鳴かせます。  (砺波)
 「手まりうた」
 「手合せ」の遊びに用いている「一かけ、二かけ」の歌は、もとは「手まりうた」であった。また、「お手玉」をする時にも歌ったという。さらに「縄とび」にも使ったという。まさに万能「遊びうた」の感がある。また、この歌の旋律には、次のように全く別の歌詞を付けて歌われることもある。
一番はじめは一の宮/二また日光東照宮/三また佐倉の宗五郎/四また信濃の善光寺/五つは出雲のおおやしろ/六つ村々鎮守様/七つ成田の不動様/八つ八幡の八幡宮/九つ高野の弘法様/十で富山の招魂社(富山)
 歌詞は、数え歌の形式による全国寺社尽くしである。この歌にも異同が多く、
「三で讃岐の金比羅さん」(立山町)
「十で富山の反魂丹」 (富山)
などと、登場する名所名物が異なり、ここでもまた、末尾に次のような詞章が付け加えられる。
「十一いなかのお医者様/十二は二宮金次郎…」 (射水)
「これほど信心したけれど/浪さんの病はなおらない/ゴウゴウゴウと鳴る汽車は/武男と浪子の別れ汽車/武男が戦に行く時は…。 (滑川)
 誰かが、ふと思い付いた言葉を挟み、それがまわりに承認され、そのまま類歌となって伝えられていくのである。小説『不如帰』(徳富蘆花)のエピソードを、いつ、どこで、だれがこの歌の中に持ち込んだのか、それはもうわからない。
 「手まりうた」は、かつて「遊びうた」の王座であった。明治39年に編纂された『伝説俗謡童話俚諺調査答申書』(富山県教育課編)に収録されている165篇の「わらべ歌」の約3分の2が「手まり歌」で占められる。この調査の行われた明治30年代には、まだゴムまりが用いられておらず、手作りの「糸まり」が使われていた。糸まりは、ぜんまい綿やひじきなどを芯にして、もめん糸を幾重にも重ねて巻き、表面を赤や黄の糸で花や星の形をかがって作った。母親や祖母などが念入りに作って子どもに与えるのが普通だった。糸まりは、ゴムまりに比べてはずみが悪かったので、子どもたちは床にひざを落としてまりをついた。ゴムまりが県内に普及するのは、大正へ入ってからであった。
 かつて、子どもたちにとっては、遊びの技法は、非常に重要な意味をもっていた。女の子では、手まりやお手玉、男の子では、竹馬やコマ廻しというふうに、それぞれの遊びには、初伝から奥伝にいたる技法の段階があり、子どもたちは、技法を磨き、奥儀を究めることに熱心であった。まりつきの技法の中心は、何といっても、まりを長く持続してつくことであった。いくつつけるか判定するために「手まり歌」の中では数が数えられ、時間を持たせるために歌の中に長い物語が仕組まれた。先の「一番はじめ」の歌は「数え歌」風であり、「一かけ、二かけ」の方は、より「物語」風である。しかし、1曲を歌い終えても、まだまりが続いている。そんな時、別な歌を思いついて歌い継いでゆく。そのうち、前の方を忘れて途中から歌い出したり、真ん中の部分が抜けてしまって前と後とがつながったりするなど、いろんな風に接続、分断を繰り返しながら歌は変わってゆくのである。
 「お手玉、羽根つき」の歌
 「お手玉」も「羽根つき」も技法を競う遊びであった。
一つご、二つご、かんじきはいた/いわして、まわろ、まわろ/なむ、なむ、はいたら、トン/中の一つご、一つご/中の二つご/一つ、ねえさんはいたら/いわして、きわろ、きわろ…。(富山)
 「お手玉うた」である。意味のよくわからない言葉が続いているが、全体お手玉の技法を指示する言葉で成り立っている。土地の言葉で、しかも子ども独特の表現で歌われたため、意味がわからなくなったのである。よく知られる「おっさあらい」(右手で親玉をほうり上げ、それが空中にある間に下の子玉をさらい取る技法)をはじめ、お手玉遊びの歌には、直接、技法をうたい込んだ歌が多い。
ひとめ、ふため、みよかし、よめな/いつよの、むかし/ななおの、やかし/このまに、とおり。 (城端)
 数え歌の型式をとった「羽根つき」の歌である。この歌も土地によって様々なヴアージョンで歌われ、例えば、大山町では結びを、「ここの前でとまれ」、魚津では「ここの目でとまった」などと歌われる。先の歌の採集地の城端では、この歌を「どっこい、どっこい」と互いに間を入れ合いながら機場(はたば)の作業歌としても歌ったという。また、雪の多い本県では、「羽根つき」より、この歌で紙ふうせんをついて遊ぶことが多かったという。
 やがて、遊びがレジャーとされ、ひまつぶしとされるようになって、子どもたちは、歌を真に自分のものとして打ち込むことができなくなる。それと共に、遊びの技術も未熟となり、まりつきやお手玉のように高度な技術を必要とする遊びは、子どもの中から次第に消えてゆく。そして、先のインスタントな「手合せ」遊びの中に、わずかな名残りを留めてゆくのである。
2.季節のうた
 風や草や鳥のうた
 かつて、子どもたちは、わらべうたの豊かな実りの中に生きていた。町の子たちが路地のどぶ板を踏みならして「手まり歌」や「花いちもんめ」に興じていた時、村の子たちは、畦(あぜ)に立って風や草や鳥のうたを歌をうたい、歌うということのほのかな情感にひたっていた。人は、風や草や鳥と共に生きていたから、風に尋ね、虫と語るという日々を送っていた。不思議なことがいっぱいあっても、それがいちいち合理的には説明されなかったから、子どもたちは、いつも自然に呼びかけ、「自然」から直接聞こうとしたのだ。
大かぜ、小かぜ/こうやの山から/風もってこい。 (射水)
雨ふってござった/天竺(てんじく)のまっつりだ。 (上新川)
つつじの花が/開いたり、つぼんだり/おらなんとこせ。 (砺波)
だんぼ(とんぼ)だんぼ、とまらっせい/おまえさ、なんかにかもうけ。 (下新川)
とんべ、とんべ/舞い舞いせ/蛇捕ってぶっちゃげよか。 (平村)
 これらの歌には、特にきわ立った旋律やリズムがあるわけではない。土地の言葉の抑揚や情感がそのまま旋律に転じたといっていい。会話の中のアクセントの高低が自ずと節(ふし)を作ったのである。
とかげ、とかげ/おら、なも、せんな/川原の石や、石や。 (下新川)
 とかげを殺してしまったことのいいわけである。
へびやまむしや、よるなや/なた、かま、腰にさしとるぞ。 (砺波)
これは、へびへのおどし。
川の神さま、川の神さま/かんねして、くりゃっしゃいの。 (下新川)
 これは、川に小便しても、罰を受けないための唱えごと。子どもたちには、とかげやへびや川の神様に直接、語りかける−そのことがおもしろい。言葉は、旋律を伴うことによって言霊(ことだま)効果を発揮する。
雪と正月のうた
下、わたぼし/空、はえのこ/天じく、天じく、はえのこ。 (婦負)
雪ぁ降る/みそさんしょうぁ(ミソサザイ)なく/かあかござらず/おら、どうするこっちゃ。(下新川)
 大きなぼたん雪がいっぱいに降りしきる。雪の降る空へあおむくと、数知れずおりてくる虫のような黒い雪に不思議な興奮を覚える。雪の降った夕方は、あたり一面、うすい霧におおわれ、厚い層雲からもれる重い日ざしが乱反射を繰り返し、あやしげな薄明光をつくり出す。情感を刺激するのはそんな光だ。
 昔は、雪が降れば、雪の降ったような生活をした。雪の中でじっと耐え、雪に自分を同化させようとした。はなやかな中に悲しさを秘めた雪は、北陸型の感情様式の象徴でもあったようだ。
 雪の中で「正月」を迎える。
お正月さま、お正月さま/どこまでござった/くりから山の茶屋までござった/おみやげ何じゃ/みかん、こんぶ、かややかちぐり/あまの原の串柿。(砺波)
 年神のうた。新しい年をもってきてくれる年神を、子どもたちは、「正月さま」と呼ぶ。正月さまは、おみやげをさげてきてくれるが、それは土地によって異なる。砺波地方では、一般に「みかん」「こんぶ」「あまの原の串柿」が多い。「あまの原の串柿」は、「あま(天井裏の部屋)につった串柿」(平村)が原型だろうか。そのほかに「みかん・くねんぼ」(下新川)、「ゆずり葉」(高岡)、「猫のふんだかいもち」(高岡)というのもある。
天神さま、天神さま/どこまでいらっしやった/くるくる林の下までいらっしゃった…。(宇奈月)
 ここでは、「正月さま」が「天神さま」となっている。旧前田藩の領内では、「天神さま」を「正月さま」と受け取っている地域があった。領内では、天神さまは手習いの神様であり、子どもの守護神であるともされていたからだ。歌に戻って、「どこまでいらっしゃった」のあと、「くるくる山の下まで」と続くのが県内では最も多く、そのほかに「きりきり山のすそ」(平村)、「くろべの橋」(下新川)とも歌い込まれている。また、やっていらっしゃる「神さま」のかっこうについても言及し、「まえだま(繭玉)ふってござった」と歌われるのが多く、「とうふげたはいて、串柿かんで(かついで)長いてぼ(杖)ついてござった」(伏木)というていねいなものもある。
正月ちゅうもんは、よいもんや/月さまみたいなぼち(もち)たべて/あかしみたいなとと(魚)たべて/油みたいな酒のんで/正月ちゅうもんは、よいもんや。 (砺波)
 手放しの正月讃歌。子どもたちにとって、正月は1年を通しての最も楽しいひと時であった。白米のおもちや魚などが容易に口に入らない時代の願望がよく写し出されている。
 正月の歌としては、このほかに1月15日を中心とする「小正月」行事にうたわれる歌が数多く残されている。「左義長」「鳥追い」「成木責め」などの行事でうたった歌である。
(「鳥追い」は、鳥害を防止するための、「成木責め」は、果樹の豊作を願う呪術的な農村行事。砺波地方では、これらが連結して行われていた。14日の夜、子どもたちは、「左義長」の残り火でもちを焼いて食べ、そのあと、「鳥追い」のうたを歌って田畑をねり歩き、庭先へ戻って「成木責め」を行った。柿の木のそばへいって、一人が鎌で木の幹に傷をつけ「なるか、ならんか」と唱える。それに答えて他の一人は「イタイ、イタイ、なるなる」と唱える。そこで二人は、傷口に小豆(あずき)がゆを掛けて引きあげる)
 これらの行事に参加することによって、子どもは、土地の生活にとけこみ、地域社会を支える一員としての地位を獲得していったのである。
3.子守うた
「子守」のうた
ねんねや、おろろわい/ねんねや、おろろわい泣くなや、泣くなや/すずめの子/泣くと餌刺(えささし)が、とりにくる。ねんねや、ねんね。ねんねのお守は、どこへいった/山こえて里いった/里のみやげになにもろた/でんでん太鼓に、しょうの笛赤いお皿に、ととよそて/赤いおわんに、ままよそて/ねんねやねんね。(富山)
 「子守うた」には、「ねんねや、おろろわい」などという響きのよいリフレインが加わり、それが何度も繰り返される。このやさしい響きが子どもを落ち着かせ、場に情感を醸し出す。
 先のうたには、この地方で歌われていた3種の歌が連なって出てくる。最初は「餌刺」のうた。「餌刺」は、藩政時代、鷹匠に属し、鷹の餌にする小鳥を捕えることを職業とした人たち。泣く子をすずめにたとえ、泣くと餌刺が刺しにくると、おどしているのである。朝日町で採集された歌では、この部分が「いたち」に変えられている。
…ねんねん、泣きや、いたつ(ち)の子/泣いちゃいたつ(ち)が刺しねくる/ねんねんねん…
 中ほどに出るのは、一般に「江戸子守唄」と呼ばれている詞章。
 最後に出てくるのは、正月の歌にも出ていた食事への願望。ここでは、「赤い皿、赤いおわん」と色彩が強調されている。次の類歌には、赤、白、青とさらに色彩が強調される。
…赤いちゃわんに、ままよそて/白いちゃわんに、おつけよそて/青いてっしゅ(小ざら)に、ここ(つけもの)よそて…(婦負)
 「子守うた」は、子どもをあやすための、いわば実用的な歌である。子どもが寝つくまで、しばらくは歌い続けてやらなくてはならない。歌としての形を整える必要はなく、おどしたり、あやしたりしながら、思いつくままに、いろんな歌をうたいつないでいったのである。
 「守り子」のうた
 子守には、母親や祖母、あるいは姉など、身内の者があたるのが普通であったが、それ以外によそから少女を雇い入れ、子守をさせるという風習は、藩政時代からみられるものであった。しかし、それが非常に盛んになったのは、明治に入ってからで、あと大正を経て、昭和の初めにいたるまでこの風習が残っていた。こうして、全国、至るところの町や村には、手ぬぐいで髪をつつみ、小さな子を背負った子守娘の姿が多く見られたのであった。
 「守り子」を置くことのできる家は、中流以上で、守り子を出す家は、それ以下の家であった。また、両親が遠方へ出かせぎに出る時など、子どもを守り子として働かせることを条件に他家に預けるという風習も多かった。しかし、いずれにしろ、守り子は雇い主の家では、最下級の使用人として扱われるのが普通であった。「守り子のうた」とでも称すべき一群の子守うたの中に、その苛酷な境遇が歌い込まれている。
子守りよな、おぞいもんな、どこにあろか/親に 叱られ、子に泣かれ、ひとの軒端(のきば)に、立ってあかす/ねえ、おやおや、ねえ、おやおや……子守よな、おぞいもんな、どこにあろか、雨が吹いても宿もたず/うちいきゃ、おっかに、ばめかれる/ねえ、おやおや、ねえ、おやおや。(黒部)
 「子守うた」は、本来、大人が子どもに歌ってやる歌であった。しかし、子守に当たる者が子どもであったために、「子守うた」は、わらべうたの延長となり、そこで子ども自身の生活や願望がうたわれることになったといえよう。「守り子のうた」には、次のような数え歌型式のものも見られる。
ことし、はじめて、子守に出たら/一にいじめられ/二ににくまれ/三にさべられ/四にしかられ/五にごなりめそ、かづかせられて/六に、ろくなものくわせぬことに/七にしめしまであらわせられて/八に、はりつけられ、涙をこぼし/九に、くくらつけられ、/十に戸のところで、家へ泣き泣きもどる。(下新川)
 〈さべられ〉は、告げ口されること。〈ごなりめそ〉は、泣き虫の子−というふうに土地の言葉だけでこの詞章が成り立っている。「守り子うた」の発生は、通常の「子守うた」にいろんなニュアンスを与え、「子守うた」の奥行きを深くしたと同時に、それが一般の「民謡」との接点を作った。民謡として歌われる「五木の子守唄」や「島原の子守唄」などは、みな「守り子のうた」として成立したのである。「守り子のうた」の果たした役割を柳田国男は、『民謡覚書』の中で次のように記している。
−明治以後になって新たに発生した民謡は、鉱山の穴の底、或いは大洋を走る船の上などにもあったが、日常我々の耳に触れる平地の歌としては、織屋、紡織などの工場から出て来る声、それよりも更に夥しい数は、村の小さな子守娘らの口すさびであった。年頃といふよりも少し前の少女を雇ひ入れて、その背に子供をくくり付けて外へ出す習慣は、決してさう古くからのもので無いらしいのだが、彼等は忽ち群を為し、群の空気を作り、一朝にして百、二百の守唄を作ってしまった。何人も未だ子守唄の作者を以て任ずるものは無く、流行歌(はやりうた)があってもその選択応用は、すべて彼等の自主であったが、しかも号令無く、また強制もなくしても、歌は悉(ことごと)く既に彼等の共有になって居(い)るのである。
(こざわ あきみ・国立高岡短期大学非常勤講師)
−平成13年2月3日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在のもので表示しています
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