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テレビ放送講座 平成2年度テキスト「第6回 谷あいと散居の歴史絵巻・庄川」


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TOP 第6回 谷あいと散居の歴史絵巻・庄川 佐伯 安一

庄川のあらまし
 庄川は源を飛騨と美濃との境にある山中山(やまなかやま・1,631メートル)や烏帽子岳(えぼしだけ・1,625メートル)に発する。飛騨高原の荘川・白川の水を集めて富山県へ入り、五箇山を曲流して利賀川を合わせ、庄川町で平野部へ顔を出し、砺波平野の東端を北流して新湊市で富山湾へ注ぐ。流長132.640メートル。富山県の河川ではもっとも長い。
 そのうち、県内流長は64,576メートル、庄川町合口ダムから河口までの平野部の流長は27.490メートルである。河川勾配は上流部が184分の1から150分の1、下流部は307分の1である。流域面積は1,300平方キロメートルで、砺波・射水平野のうち13,900ヘクタールの耕地を潤している。流量は扇頂の金屋観測所で99.37m3/秒(昭和28年〜32年平均)である。主な支流に、飛騨高原では左岸に一色(いっしき)川・野々俣(ののまた)川・尾上郷(おがみごう)川・大白(おおしら)川・加須良(かずら)川、右岸に六厩(むまい)川・牛首(うしくび)川、富山県へ入って、左岸に飛騨境の境(さかい)川・梨谷(なしだん)川、右岸に小谷(おたん)川・利賀(とが)川、平野部右岸に谷内(やち)川・和田(わだ)川など20川がある。
流れを変えてきた庄川
 雄神河くれなゐにほふをとめらし葦附とると瀬に立たすらし(萬葉集巻十七)
 天平20年(748)、越中国司大伴家持が春の出拳(すいこ)で諸郡を巡行した折に詠んだ秀歌で、「砺波郡雄神河の辺(ほとり)て作れる歌1首」とある。
 雄神河の川名は雄神神社の神名に拠るのであろうが、当時はどこを流れていたかははっきりせず、また「葦附のり」にしても、砺波中学校 故御旅屋大作教諭のあしつきのり説と、その後富山大学故和田徳一教授の川モズクの類説の反論があって確定していない。
 いずれにしろ、庄川の歴史というとまずこの歌が出てくるのであるが、現地比定のロマンを残したまま、以後雄神河の川名はふっつりと姿を消してしまう。
 庄川の流路変遷についての記録は江戸時代のものになってしまう。元禄年間の「加越能三ケ国御絵図被仰付候覚書」には中田組某の書上として次の記載がある。
①往古は小牧村の屈曲より高瀬村へ落合い、河崎村へ至り小矢部川へ入っていた。
②応永13年(1406)6月の洪水で野尻川へ入り、
③それよりだんだん東へ流れ、中村川また千保川へ落合った。
④天正13年(1585)の大地震で今の川筋ができた。
⑤寛永7年(1630)、弁才天の西より入川して、この時庄川という大流川になった。
 小牧の屈曲より高瀬村へ落合ったというのは地質年代に属することで、歴史時代へ入ってからのものではないが、野尻川から中村川、そして千保川(分流に新又川)へと次第に扇状地の西から東へ移ってきたことは、河床跡やその後の開拓年代の差異からみてうなずくことができる。
 天正地震で現庄川の川筋ができたものの、それでも当初は旧千保川へ相当量の水が流れていた。承応3年(1654)、前田利常は高岡に兄利長の菩提寺瑞龍寺を造営していたが、千保川の水が寺地をけずったので、柳瀬村の西で大普請を行うとともに、中田川(庄川)をさらえて千保川の水を移すことを命じている。
 それは左岸各用水の反対によってすぐには実施されなかったが、5代綱紀の寛文10年(1670)から扇頂部の弁才天前で千保川以西の諸分流を縮め切り、現庄川へ一本化する大工事を始めた。大変な難工事で、40余年後の正徳4年(1714)にようやく完成したという。後に堤防上に松が植えられたので俗に松川除(まつかわいけ)と呼ばれた。近世初め、全国的に行われた治水工事の代表例として注目される。
 「庄川」の川名は扇頂部の庄の集落名に拠るもので、庄は中世の雄神庄(本長寺文書、永正16年(1519)石黒又次郎寄進状)の系譜を引くのであろう。文書の上では元和6年(1620)利常から苗加村二郎左衛門へ宛てた新開申渡状(河辺文書)、同7年の御材木人足日用銀目録(金子文書)などがもっとも早い。しかし、享保ごろまでは中田川・大門川なども併用されている。中・下流の地先名である。その意味では「庄川」は扇頂部での地先名であったともいえる。
水との戦い
 今の庄川筋は新しい川である。松川除工事の始まった寛文10年(1670)からは320年、天正13年(1585)の地震からでも400年余にすぎない。
 新しい川筋であるため、その後は両岸に堤防を築くことと、それが破られまた築きなおすことの努力が営々と続けられてきた。堤防は霞堤とよばれる独特の構造であった。一番堤の後に二番堤・三番堤を築き、一番堤の終わるところで二番堤が順次一番堤になっていくもので、一番堤が切れた場合、二番堤が受けて下流で本流へ戻すという仕組みである。
 洪水は雪どけの出水時と梅雨期、それに秋の台風時期に多い。江戸時代には記録に残るものだけでも126回あり、明治になると記録が克明になるので45年間に33回を数えている。
 江戸時代の洪水でもっとも被害の大きかったのは明和9年(1772)である。このときは松川除そのものが切れて旧千保川が本流となり、各用水路を伝った水は砺波平野を横切って小矢部川へまで達した。しかし、「御時節柄御指支の趣き」で藩の対応策が遅れ、2月末の洪水が8月の出水時にも洗われるまま放置されていた。
 明治以降では明治29年、左岸二塚前が切れて高岡の町が水浸しになったのと、昭和9年の右岸中田町北部と浅井村1村が押し流され、射水平野の西半分が湖水化した洪水が大きい。しかし、その後庄川上流に次々と築造されたダムによって水量が調整されるようになり、ことに昭和36年の御母衣(みほろ)ダム完成後は、洪水は昔語りとなった。
用水と合口
 庄川の用水は合口前は左岸8口、右岸4口といった。左岸は上流から、山見八ケ・新用水・二万石・舟戸口・鷹栖口・若林口・新又口・千保柳瀬合口の8口、右岸は三合新・芹谷野・六ケ・針山の4口である。
 庄川の分流跡を整備した二万石(野尻川)・鷹栖口・若林口(中村川)・舟戸口・千保口(千保川)・新又口(千保川の分流)、南砺の補水のための山見八ケ・新用水、段丘開発や射水平野補水のための三合新・芹谷野・六ケなど、それぞれの歴史を持っている。そして左岸各用水は小矢部川と通じて、広く舟運に利用されてきた。
 これらの用水は、庄川河中に鳥足(川倉)を並べて取入口ヘ導水するものであったから、出水の度に鳥足が流れたり水門がこわれたりして、取水は困難を極めた。また、干ばつ時には、上流用水が取水すると下流用水まで水が及ばず、上・下流間の対立は深刻であった。そのため、取入口を一つにする合口案は寛政8年(1796)以来何度も出ているが、いつも上流用水の反対で実現しなかった。
 合口が本格的に検討されたのは、大正末年小牧ダムの工事が始まってからである。ダムができると、土砂流出が止まって河床が下がり、取入れが困難になることが予想されたからである。一つは電力会社側の補償と国・県の補助が出て、用水側の負担が軽くなったことにもよる。工費約400万円は電力会社50%、国25%、県10%、地元15%であった。
 小牧ダムのできた昭和5年に合口ダムの起工式が行われ、昭和15年にほぼ完成して通水し、完成式は昭和18年に行われた。これによって、永年にわたる取水の苦労と、不合理な用水慣行が解消された。
砺波平野の散村
 庄川が育んだ砺波平野には、散村という特異な景観が広がっている。屋敷林(カイニョ)に囲まれた家がばらばらに点在し、それぞれ周囲の水田を耕作している。この起源については従来さまざまな説が行われ、長い研究史を持つのであるが、やはりこれは、この扇状地を開拓するにあたって、開拓予定地のまん中に居を定めたという農民の智恵だったのであろう、というのが最近の結論である。
 砺波平野の開発は周囲の山麓と扇端部から始まり、扇央部は中世以降のようである。扇央部でも奈良末平安期の須恵器の出土するところや、鎌倉期に荘園の設定された油田条のような古いところもあるが、一般には室町時代から開かれはじめ、特に戦国の争乱が治まった近世初頭には、用水も整備されて急激に開発が進む。散村はこの過程で広がった。
 庄川の分流と分流の間の、直接水害を受けることがなく土壌の厚い微高地から開拓が始まるのであるが、その際、開拓予定地のまん中に居住地を定め、周辺を開いていった。当時の社会形態は名主的土豪が一族や隷農層を率いて大規模経営をするものであったから、それらを独立の段階に応じて分住(あるいは出小屋)させたことも考えられる。近世へ入って小農民が自立してくると、このような形は一層固まり、人口の増加とともに、平野一面に広まってきたのである。
 この場合、起伏の少ない扇状地ではどこでも水を引いて家を建てることができた。また、耕地が住居のまわりにあることは、水管理や刈り取った稲を運びこむのにも便利であった。このような営農上のメリットが続く限り、散村形態は継続されてきたということである。
 散村は近年のほ場整備の際も集村化することはなかった。そしてどの家へも車の入る道ができ、まわりに花と緑のある散村の家は、新しい住環境としても見直されている。
五箇山と庄川
 五箇山は庄川上流部の山村であるが、平野との交通ルートに特徴がある。普通、川の上流の山村は川下から遡っていくのであるが、五箇山の場合は平野への出口に近い小牧ダムのところが深い峡谷となっていてそれを許さなかった。
 そこで、平野との間に屏風のように連なる高清水山系部の鞍部を求めて出入りした。ブナオ峠・小瀬峠・細尾峠・朴峠・杉尾峠・栃原峠・杉谷峠などがそれである。一気に上り一気に下る峠は急峻で、明治42年に小瀬峠を越えた柳田国男は「むやみに高い峠なり」と驚いている。
 五箇山には赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷と5つの谷がある。この谷というまとまりは、同じ峠を利用する村々のブロックである。赤尾谷は小瀬峠・上梨谷は鹿熊峠を経て朴峠へ、下梨谷は直接朴峠へ、少なくともこの3つの谷についてはこのようにいえる。
 藩政時代には庄川の両岸の村々は、13か所の篭の渡しで往来した。橋を架ける技術がなかったわけではない。利賀への道には大橋・小橋といって、庄川には大橋が、利賀川には小橋が架けられていた。あえて篭の渡しにしたのは、対岸(右岸)の村々に加賀藩の流刑人を配流したためであった。加賀騒動の大槻伝蔵も祖山へ流されて、ここで自害している。
 五箇山は民謡の宝庫といわれる。「むぎや節」をはじめ、「こきりこ」、「といちんさ」、「まいまい」など『平村史』には24種の民謡を収録している。一地方でこれだけ多くの民謡を持っているところは珍しい。それは入ってきたものを大事に保存してきたからである。民謡は一種の流行歌のような面を持っているが、五箇山の人たちはそれを捨てずに、しかも酒を熟成させるように暖め育んできた。一様にかん高いのは、庄川の瀬音で磨き抜いてきたためであろうか。
 電源開発は小牧ダムの大正14年から始まる。以後祖山・小原、戦後は成出・椿原・鳩ヶ谷・御母衣(みぼろ)と18の発電所ができた。それとともに道路が整備された。五箇山トンネルが貫通した国道309号線、スノーシェッドに包まれた国道156号線によって冬でも車で通行できるようになった。山の神トンネルもできた。もう五箇山は僻地を脱した。やがて東海北陸自動車道によって名古屋と結ばれようとしている。
水と河川利用の新しい動き
 庄川の用水の歴史をみると、灌漑流域の拡大化がある。扇端部湧水帯の後退や堤防間の水田化にともなう下流域の拡大もあるが、特に南砺山麓地帯への補水が目立つ。古くは新用水や山見八ケ用水もこれであるが、最後に決定的にこの地域への補水を図ったのが南砺山麓用水である。
 また、新産都市計画による和田川への分水である。これは射水平野・高岡市への工業用水と上水道を補給するのを目的とし、ここに河川が農業用水としてだけでなく、工業用水としての水利構想が加わったことになる。一方、井波町には砺波広域圏の上水道松島浄水場が作られ、また井波市街地の消雪のために庄川からの取水が行われるなど、生活水としても多目的に利用されるようになってきた。
 もう一つの動きは、河川敷および堤防沿いの土地利用である。水と親しむウォーターフロントは最近の傾向で、庄川町では弁才天周辺には河川敷公園を作り、合口ダム周辺を温泉街化し、ついに大規模な水公園を完成させた。砺波市や高岡市・新湊市でも河川敷内に運動場を作っている。
 堤防沿いでは砺波市太田地先の工場団地、般若には庄東小学校が作られ、柳瀬地内では総合運動公園を造成中で、その北には松下電子の進出が予定されている。高岡市の石代地内には高岡法科大学ができた。
 庄川はこれからも人びととの生活と関わって広く利用されて行くことであろう。
(さえき やすかず・砺波郷土資料館館長)
−平成3年3月2日放送−
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