2018年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

富山県民生涯学習カレッジ本部 TOP > テレビ放送講座 テキスト一覧  >  テレビ放送講座 テキスト詳細

テレビ放送講座 平成10年度テキスト「第6回 富山の近代建築史」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '99/02/20

TOP 第6回 富山の近代建築史 竺 覚暁

風雪を刻んで 〜富山の住まいと暮らし〜はじめに−日本の近代建築−
 日本は19世紀半ば過ぎ、明治維新を行って開国し、西洋文化、文明を受容して「近代化」を開始した。所謂「文明開化」である。圧倒的な科学技術力を持つ西洋の支配に呑み込まれ、植民地化されない為には、可能な限り速やかに西洋文明を吸収し同化して西欧に対抗する必要があったからである。このことは建築文化においても例外ではなく、明治以来、我々は西洋建築を学び吸収することを今なお続けていると言ってもいいであろう。そうして、この学習、吸収に基づいて創られ建てられた日本の西洋建築と、この「近代化」によって、幕藩制度下の様々な制限から解き放たれ自由に建てられる様になった伝統的和風建築を含めた全体を「日本近代建築」と総称しているのである。時代的には西洋文明が伝来しその学習が始まった幕末から、ある意味でその学習の結果が問われたことになった第2次世界大戦敗戦までの間の建築を指して言うのである。従って日本の近代建築は一般に、西洋建築の学習、受容のしかたや経緯、創り手や近代化の様態などによって、概ね以下五つの種別に区分されている。すなわち、
  1. 西洋館建築
  2. 擬洋風建築
  3. 折衷主義建築
  4. モダニズム建築
  5. 近代和風建築
がそれである。
 明治政府は当然のことながら「近代化」「西洋化」を可能な限り日本全国、均質的に行おうとした。それは建築の「近代化」に於いても例外ではない。従ってこの5つの種別の日本近代建築は、規模や数の大小寡多はそれぞれの地方によって異なるが、どの地方にも存在したのである。富山県においても、当然のことながらこの5つの種別総てが存在していたと考えられるが、確認されていないものもある。以下、この5つの種別に分けて富山県の近代建築史の概要を、存在が確認されている建築作品に言及しながら述べてみたいのだが、紙数が限られているので代表的な作品を挙げるに止めざるを得ない。
富山県の近代建築
 ところで一般に、庶民が初めて「西洋」を体験したのは、まず洋化された小学校に通学することにおいてであり、さらに役所など公共建築が洋風建築で建てられて行くのを目にすることであり、地域きっての知識人と目された開業医が建てた洋風建築で西洋医学の治療を受けることなどであった。こうした「西洋」の体験が日常的になって行くのは、教育制度の準備に伴う上級学校の普及や、徴兵制のもとで男性総てが体験しなければならない軍隊生活、さらには、徐々に銀行や商店、工場、企業事務所などが洋風で建てられて行き、そうした所を利用し、またそこで働く経験においてであった。富山県においては軍関係の建築は残っていないが、その他のジャンルでは例が残っている。富山県の特徴を言えば、中心都市、富山市が戦災で灰塵に帰したせいもあるが、現存作品で見るかぎり、郡部に多く作品が残っており、この事実は富山県人が進取の精神に富んでいたことを示すものであろう。
西洋館建築
 日本近代建築の最初のカテゴリーは、幕末から明治初期、中期にかけて、我が国に渡来して来た西洋諸国の外交官や宣教師、教師、商人などが自らの設計で、主として自らの住宅として建てた所謂「西洋館建築」と呼ばれるものである。これは、設計者が西洋人であるから比較的正確な西洋建築の様式を持ってはいるが、設計者が専門の建築技術者ではない場合が殆どであり、かつ施工は日本の伝統的和様建築の技術者、大工が行ったのであるから、そのデザインには様式的な逸脱や和風の混入があり、この混合が却ってこの建築形態を魅力的なものとなしている。長崎、神戸、横浜など幕末に外国人居留地と定められた都市に多く残り、明治期の富山県にもこうした外国人が住んでいたであろうことは十分考えられるが、今までのところ、住宅としての「西洋館建築」が富山県に存在していたことは確認されていない。しかし、この系譜に連なるもので、西洋人の設計になるキリスト教教会堂が近年まで残っていた。
 それは「日本基督教団魚津教会(明治39年・設計・ブルート・ハム)」 で、グレーに塗り上げられた下見板張りの壁面に、ルネッサンス風の三角ペディメントと円弧のセグメンタル・ペディメントを付けた上げ下げ窓を三つ並べ、木造ゴシックのポーチ屋根を持つ玄関を右端に配するコロニアル・スタイルの教会であった。カナダ人宣教師の設計だけあって意匠も本格的で、プロポーションは正確で整っていた。面白いのは間取りで、典型的な「まちや」のプランである。つまり、「みせ」の部分が礼拝堂であり、「とおりにわ」はそのままで、玄関から奥の住宅(牧師館)部分への通路に充てられていた。伝統的なまちやと西洋様式の教会が融合したユニークな作品であったが、惜しくも取り壊されて現存しない。
 擬洋風建築
 第二のカテゴリーは、この「文明開化」によって全国各地で澎湃として起こった西洋建築建設の要求に、それぞれの地元の大工が応えて創られた作品群である。この大工たちは多く堂宮大工など極めて優秀な伝統的和様建築技術者ではあったが、当然に西洋建築の様式や技術に関する知識も技能も持ってはいなかった。そこで彼らは横浜や神戸などの外国人居留地や東京などに建てられていた「西洋館建築」を見学に行き、それによって学んだ西洋建築の形態を、自らの持つ優れた伝統的和様建築技術で造ってしまうのである。彼らの世界にも類例を見ない精緻な和様木造建築技術をもってすれば、西洋木造であれ西洋組積造(石造、煉瓦造)であれ、その形態をコピーして造ってしまうのは難しくはなかった。この点で彼らは自信に満ちており、かつ西洋文明に対するヴィヴィッドで強烈な好奇心と憧れでもって、いわば力づくで西洋建築をものにしてしまったのである。
 しかし、和洋を問わず建築の形態ないし様式には、それぞれ固有の形態上、様式上の「文法」や「構文法」があり、それに則ってデザインが構成されているのである。大工たちは西洋建築のこうした形態構成上のルールに関しては知る由もなかったし、これを習得することも出来なかったのだから、ルールが必要になった局面では伝統的和様建築の「文法」を応用せざるを得なかったし、また形態の細部にはそれを造る和様技術のために和様の形態が混入して来るのも避けられなかった。こうして出来上がった作品は、従って和洋が混淆し折衷されたものとなるが、それは大工たちの西洋文明に対するダイナミックな憧憬と自信を反映して、生命力に満ちた一種幻想的な魅惑的な造形になることが多い。こうした建築を「西洋」に「擬」した建築という意で「擬洋風建築」と呼ぶ。
 富山の「擬洋風建築」の現存最古の例は、福光町の「西勝医院(明治18年・設計不詳)」である。もと「高宮病院」として地元の医師、大井精が建てたこの建築の全体の形は、僅かな反りを付けた屋根、正面破風に付けられた懸魚など仏寺風のデザインを加味した和様である。しかし、正面中央に突出したポーチを配し、その二階にヴェランダを付けるのは、1770年頃から1850年頃にかけて主としてアメリカ南部に流行した初期クラシック・リヴァイヴァルと言うコロニアル建築様式の手法である。この形式を入母屋造りで造ってしまい、そこにポーチの菱組天井、二階ヴェランダとその手摺、正面と側面に付けられたアーチ開口部など洋風意匠を集中する。この菱組天井は、インド以東の西洋植民地建築起源のものである。何れもそれらの形態には和様が混入し、また、これを建てた金沢の宮大工と伝えられる棟梁が、ハイカラで洋風と考えて付けた、八角柱や破風の應龍の漆喰細工、怪獣の鬼瓦などの意匠が幻想的な寡囲気を醸し出している。
 また、惜しくも解体されてしまったが、朝日町には「育英小学校(明治20年・設計不詳)」が近年まで残っていた。これも「西勝医院」の様に正面にポーチを付け、その階上を貴賓室とした初期クラシック・リヴァイヴァル・スタイルを模した意匠で、唐破風を変形した屋根を載せていた。しかし寄棟二階建ての全体は下見板張り、アメリカン・コロニアルの下見板張りであるクラップ・ボート張りに似た仕上げで、恐らく上げ下げ窓を付けていたと思われ、「西勝医院」に較ベれば遥かに洋風であった。この様な早い時期に擬洋風とは言え洋風の小学校が、当時は辺地と言っていい朝日町に存在したこと自体が驚異であり、富山の人々の先取性が窺える作品であった。朝日町は解体された部材を総て保存しているので、建築史のみならず富山の教育史上でも重要なこの建築が将来に復元再建されることを期待している。
 高岡市には「林屋茶舗(明治38年頃・設計不詳)」がある。この作品は町家の正面とミセ部分を洋風としたもので、正面に大きなアーチを二つ並べ、3本の柱で支えるロマネスク風の意匠が特徴的である。だが、この柱もアーチに嵌め込まれた半円形スクリーン(タンパン)も、またミセ吹き抜け上部に回す回廊の手摺も、その形態は和風の意匠であり、そこで和洋が混じり合った南蛮風とでも言った様な感覚を見せている。
 小矢部市には、「日本自動車博物館明治記念館(旧水島村役場、明治中期・設計不詳)」が残る。元来は砺波市油田に建てられた野松医院という病院で、昭和11年に移築されて水島村役場となった。戦後は水島村公民館となり、昭和57年に自動車博物館に再び移築、保存された。これも擬洋風建築で、大工棟梁が伝統和様技術で西洋建築を創ろうとする時の典型的なスタイルの一つを示す。つまり、左右対称の寄棟二階建てにコロニアル風下見板張に、上げ下げ窓、正面にポーチを付け、その二階をヴェランダとし、屋根正面にペディメントを見せる。ポーチ、ヴェランダ奥のドアの上部に付けたタンパン、軒のデンティルなど西洋古代やルネサンスに由来する意匠を用いる。けれど全体プロポーションは和風だし、細部の西洋デザインも、例えば正面破風が決してギリシャ式のペデイメントではなく和風の切妻である様に、総て和洋が混合した意匠である。
 経済の「文明開化」に不可欠なものは資本主義の中枢のひとつ、バンキング・システムの移入である。近代的な銀行の開設は急速に富山へも及んだが、銀行の建築としては犯罪や火災に対して要心堅固なものが求められる。本格的な西洋組積造(石造、煉瓦造)で建築すれば問題はないが、そうした本格西洋建築技術の富山への伝播は、経済的理由や技術者養成が急には行かないこともあって、遅れていた。従って新しい銀行建築を求めるとしても和様の建築の内にそれを求めるしかなかった訳だが、和様の建築で唯一「要心堅固」という条件を満たすのは土蔵造りであった。また土蔵造りは壁構造が主体の西洋建築と同じ手法のものなので、西洋建築の機能に適合させやすい。更に、明治33年の高岡大火以後の都市防火の観点からの奨励もあって、富山資本の銀行建築には土蔵造りを用いたものが多い。こうして土蔵造りと西洋建築が融合した、外観は和風で内部は洋風という独特の「擬和風」と言って良い奇想の銀行建築が成立した。
 その代表的な例が「砺波市立郷土資料館(旧中越銀行本店、明治42年・設計長岡平三、藤井助之丞)」で、当初は「江戸黒」と呼ばれる美しい黒漆喰塗りの壁であった。戦後にタイル張りに替えられたが、他は原型をよく保っている。本瓦葺の重厚な屋根を架け、欅をふんだんに使用し、井波の彫刻の伝統が生きている精巧な彫刻技法によって西洋建築装飾を造っているインテリアは圧巻である。設計の長岡平三は宮内庁技師と伝えられるが詳しい経歴は分かっていない。同じ頃金澤で洋風の「第十二銀行」を設計しており、また、土蔵造洋風の富山資本の銀行、「町民文化館(旧金澤貯蓄銀行)」を設計している。この「金澤貯蓄銀行」には藤井助之丞も参画したのではないかと思われるが確証はない。こうした土蔵造洋風の銀行建築は小矢部市や高岡市にも優れた作品が残っていたが失われ、現在では他に「小杉町民展示館(旧小杉貯金銀行、明治44年・設計不詳)」、「伏木港商工センター(旧伏木商工銀行、明治41年・設計不詳)」を残すのみである。時代はかなり下るが、「沢田繁邸(旧武部家別館、大正初期・設計大工長谷川吉太郎、作太郎父子)」は、特異な住宅で擬洋風建築の流れを汲む作品であると言っていいであろう。正面の切妻破風の意匠は19世紀後半のアメリカの木造住宅様式、ゴシック・リヴァイヴァル乃至スティック・スタイルに由来するものだが、そこに付けられた唐草模様状、雲形状のレリーフは仏寺の意匠に由来する。下見板張の壁に付柱、筋違を顕し、軒に持ち送り(ブラケット)を付けるのもスティック様式だが、その形態は様式に沿わず奔放な形である。正面右にドームを載せた塔屋を配するのも、19世紀末アメリカのクイーン・アン様式に由来するものであろうが、その形態は自由に創っている。この傾向は内部でも同じで、内側から見た洋間の窓の意匠などは、和洋折衷とも言い難い不思議な形をしている。和室部分でも、概ね和様に従いつつも、部分的に規矩を破った造形が多々見られる。これも竒想の建築と言って良いであろう。
折衷主義建築
 西洋建築を真に自分のものとするためには、従ってその「文法」や「構文法」などのルールを含めてその様式を「正確」に学ばなければならない。このために明治政府は大学など高等教育機関を作り、そこにお雇い外国人教師を招致して西洋建築を日本人学生に教授させ、外国人建築家に官庁建築の設計を発注したのである。また、日本人が直接西洋の大学その他の建築学校に留学して西洋建築を学ぶことも奨励した。お雇い外国人や外国人建築家が帰国した後は、彼らから本格的に西洋建築を学んだ日本人建築家がその後を承けて、教育機関や設計組織などで後輩に西洋建築を教えるとともに、彼ら自身の西洋建築を創って行ったのである。この様にして明治日本が西洋建築を学び始めた時のヨーロッパは、「折衷主義建築」の時代であった。折衷主義というのは、過去の様々な建築デザイン、すなわち、ギリシア・ローマの古典建築、ロマネスクやゴシックの中世建築、ルネサンスやバロックの近世建築などの様式を、創ろうとする建築の目的に応じて適宜に選択し折衷してデザインする方法である。第三のカテゴリーはこの日本の本格的な西洋建築であり、従ってこれは日本の「折衷主義建築」ということになる。
 「福野高等学校厳浄閣(旧県立農学校本館、明治36年・重文・設計藤井助之丞)」を「折衷主義建築」のカテゴリーに入れるのには実はやや躊躇を覚える。と言うのは、この作品は、コロニアル・スタイルと言う木造下見板張りペンキ塗り、上げ下げ窓を付けたスタイルをかなり正確、忠実に作っているので、その限りでは本格西洋建築として「折衷主義建築」と言えるのだが、正面玄関部や特に屋根中央に上げたゲーブル(妻飾り窓)の形などに和風の形態が混入していて「擬洋風」的デザインとなっているからである。ゲーブルの形は基本的にはバロック・スタイルの形だが、円弧・蛇腹、雲形などの細部の形は和風の社寺建築に由来するもので、その結果、「御寺バロック」とでも呼びたい竒想的なデザインを生み出している。しかしそれは部分的であって、やや背の高いプロポーション、骨太で迫力あるデザインの全体は本格的なものであり、ここでは「折衷主義建築」の作品ということにしたい。藤井助之丞は井波の宮大工、松井角平の弟子でやはり名棟梁といわれた。彼は由緒正しい和様の伝統の内に居ながら、最新の西洋建築のデザインを試みるのに熱心だった。その宮大工第一級の和様技術で西洋の形を作ってしまうのである。砺波地方で先述の「中越銀行」も含め、学校など多くの作品を手掛けた。
 滑川市にある「高橋医院(明治41年・設計不詳)」は寄棟二階建、下見板張りの壁面にペディメントを冠した上げ下げ窓を並べ、正面にポーチを付けた堂々たるコロニアル・ジョージアン・スタイルの作品である。ペディメントや窓、ポーチの形など細部には和様の形が混入しているが、全体的に見て様式的に概ね正確である。これは創建者の医師が東京に学び、当時の順天堂病院の建築に範を取って建てたことによる。側面から見ると、背の高い杉の屋敷杜を背景に水平に長く伸びた病室棟の下見張りの壁の繊細さと軽快さ、上げ下げ窓のライト・ブルーの窓枠、プロポーションと色彩の対比が素晴らしい。正面でも、壁のピンク、ポーチのライトブラウン、窓枠のブルー、ペデイメントのエメラルド・グリーンなどのカラフルだが抑制の効いた色使いが見事で、建物の魅力を倍加している。富山に残る最も美しい本格洋館建築といっていいであろう。
 15世紀イタリアで発祥したルネサンス建築は北欧へ伝播し、その地で煉瓦造ルネサンス建築を生んだ。この様式が明治に西洋建築を学んだ日本人建築家によって東京を始め全国に建てられて行った。所謂「赤煉瓦」建築と呼ばれたもので、高岡市の「富山銀行本店(大正4年・設計辰野金吾)」はこれである。辰野金吾は、東京帝国大学建築学科主任教授、日本建築学会会長を勤めた明治建築界の大ボスであり、煉瓦造ルネサンスの代表的建築家で作風は辰野式ルネサンスと呼ばれる。東京駅及び日本銀行本店は彼の代表作だが地方にも作品は多い。この作品もその一つだが、実際には清水組の担当者が大部分を設計した。よく焼き締められたやや明るい色の緻密な煉瓦の壁面に白御影石の様式的装飾を付ける。煉瓦の赤と柔らかさに対する石の白さと硬さの対照が美しい。正面玄関のエンタシスを持つ二本の柱、その上の三角形のペディメント、窓の上に付けたペディメントなどは割合正確なデザインである。正面屋根上のゲーブル、左右の塔屋の意匠などは幾何学的に簡略化されたルネサンス・スタイルである。県内に積る唯一の本格西洋建築である。
 新湊市の「牧田組(旧南島商行、大正6年・設計不詳)」は、北前船時代から日本海側で有数の海運業であった南島家の南島商行の社屋として建てられた。南島商行は第1次大戦後の不景気で大正11年に整理されてしまい、この作品が牧田組の社屋になったのは昭和10年頃である。高岡の富山銀行本店と同様、煉瓦造擬ルネサンス・スタイル。但し真正の煉瓦造ではなく木骨煉瓦貼である。基部をルスティカ風石貼とし、焦茶色の煉瓦を貼り、マンサード(腰折れ)屋根を架ける。建物角に積み込んだコーナーストーン、窓上下のまぐさ、窓台など白御影石を貼った様式的装飾はかっちりした意匠である。二階壁面上部に走る2本の白いバンドコースが全体を引き締めている。玄関部の意匠は、大正時代らしく、表現派的モダンな力強い表現である。正面屋根上のゲーブルの形も自由な扱いだが、全体的には様式的な要は押さえており、東京から設計士を呼んだと言う伝えも信憑性が高い。
 紡績産業は戦前日本の産業革命をリードした産業であったが、大量の女性労働者、女工を必要とした。彼女達の多くは貧しい農村部の出身であり、紡績工場へ就職することは、初めての「近代」生活の体験であり「西洋」の体験であった。
 紡績工場事務所のデザインは、まだまだ西欧文化に遠かった田舎出の若い女性が工場の門を初めて潜ったときに、彼女達の胸をときめかせる様なロマンティックでピクチュアレスクなデザインが採られることが多かった。この「東洋紡績井波工場事務所(昭和7年・設計橋本勉建築設計事務所)」はその典型例で、中世ヨーロッパのゴシック様式の門を入ると、イギリス式の庭園が広がりその奥にこの事務所が建つ。白い壁面が軽快に走るダーク・ブラウンの貼付柱のパターンが美しい。特に、斜めの筋交いの柔らかい曲線がシックで、クローバーやダイアモンドの形の意匠がなにか童話めいたロマンティックでエキゾティックな寡囲気を醸しだしている。こういう壁面に柱や梁があらわれる西洋建築のデザインは、ハーフ・ティンバーと言って、木造骨組の隙間を煉瓦や石を積んで埋めて壁を造る手法で、やはり中世ヨーロッパの民家に用いられた。この構造を形態だけ写し、グラフィックな感覚でこなしたものである。同種の作品ではやはり同じ設計者の「東洋紡績入善工場事務所(昭和10年)」が、これもピクチェアレスクなゴシック様式の山荘風のデザインで建てられて残っている。
 滑川市の「田中小学校(昭和11年・設計不詳)」は富山県内に残る数少ない木造小学校のひとつである。昭和初期までには小学校の二階建て片廊下式の標準的形式が成立しており、この作品もそれに拠っている。玄関のガラス引き戸、中央階段の親柱などに、モダニズムのデザインが見られ、校長室などには様式的装飾を付ける。使い込まれた各部の光沢が美しい。窓の木製サッシをアルミサッシに変えた他は原型をほぼ完全に残している。特筆すべきは、この木造校舎は単に残って来たのではなく、地元の意思で積極的に残されて来たということであり、地域の伝統の一つとなった建築に対する地域の愛情が窺われる。実はデザイン的にこの作品より遥かに美しかった「船峅小学校(昭和4年・設計坂井孫市)」が大沢野町に近年まで残っていたが、これは逆に地元の意思で取り壊されてしまった。
モダニズム建築
 ヨーロッパにおいて「折衷主義建築」に対する批判が高まり、合理的で自由、機能的かつヒューマニズムに基づく新しいデザインが創造され始めたのは1920年代である。歴史的な建築形態とその折衷が如何に巧みであるかということ、装飾的形態の構成の良否のみが評価されるデザインを捨て去り、使い勝手や住み心地、便利さ、衛生的であること、また建築における福祉性などを重視する機能主義に基づいた抽象的で「モダン」な形態を基調とする建築デザインが創造された。これが「モダニズム建築」デザインであるが、このデザインはすぐに日本へも波及した。すなわち、「日本のモダニズム建築」が第四のカテゴリーである。
 この近代デザインを可能にし、それを支えたのは建築技術および建築材料の進歩であった。すなわち鉄とガラスとコンクリートである。特に鋼鉄でコンクリートを補強した鉄筋コンクリート造(RC造)がモダニズム建築の主要な手段になって行った。庄川町の「木村産業(昭和4年・設計木村長次郎)」は富山県におけるRC造の極めて早い例であり、これが民間の建築であることを考えると新技術の地方への普及の速さに驚く。庄川町の鍛冶屋、木村長次郎は、大正初期に土木請負業の木村組と鉄砲・火薬を扱う木村商店を興した。昭和初期には近くの小牧ダム建設にも加わり会社は隆盛した。この建物はその頃社屋として建てられたものである。正面ファサードのアーチ、唐草模様のレリーフ、建物頂部に回した蛇腹、デンティル状装飾など、西洋様式的な装飾を付けるが、獅子面のレリーフに端的に示される様に全く自由に造形している。内部意匠も同様で、精緻な漆喰細工で人面や龍を柱頭に造り、美しい中心飾りを天井に付ける。擬洋風的な憧憬のエネルギーが感じられ、竒想性の強い建築である。
 しかし、何と言っても富山のモダニズム時代の幕開けは、神通川廃川地の開発とそこに建てられた「富山県庁舎(昭和10年・設計大熊喜邦)」の建築であった。大熊喜邦は東京帝国大学建築学科卒業後、辰野金吾と並ぶ建築界の大ボスだった妻木頼黄の支配する大蔵省臨時建築局へ入り、妻木のもとで現在の国会議事堂の建築を担当し、その実現に一生を賭けた。唆工なった国会議事堂は、その後に、これも多くは大蔵省臨時建築局など大蔵省営繕所属の建築家の設計によって整備されて行った地方自治体庁舎のモデルとなった。従ってこの富山県庁の建築も国会議事堂を祖形とする庁舎建築の標式的な平面を持っている。構造はもちろんRC造で、外観は一階を様式的伝統に従って石貼とするが、二階以上は、明るいクリーム色のスクラッチ・タイルを貼ったプレーンな壁面に、縦長の矩形窓を二つ組にして並べるモダニズム的なデザインである。平明で手堅い構成であるが、中央部を強調し、特に玄関を二階に配して高い階段をもってアプローチさせる手法は、古典的でやや権威主義的であり、一階左右に配した大きなアーチの出入口と併せてやや折衷主義的な感覚を残している。
 富山県庁の唆工の翌年には「富山電気ビルディング(昭和11年・設計富永譲吉)」が建てられた。富永譲吉もまた東京帝大建築学科出身の建築家で、どちらかと言えば構造設計家として知られている。富山県は昭和初期には既に電源県で、県営、私営、多くの電力会社があり、また県外の大手電力資本が盛んに黒部水系などの開発を手掛けていた。このビルは地元の電力会社中の最大手、日本海電力株式会社によって、地元電力界のシンボルとして建築され、同社の本社社屋の他に、貸事務所、ホテル、レストラン、ホールを入れた複合ビルとして計画された。当時、富山には洋式ホテル、レストラン、ホールなど皆無であったので、この計画は地元の政界、産業界の要請に応えるものであった。垂直線を強調したネオ・ゴシック的なデザインを基調とするが、全体的には抽象的なモダニズム・デザインである。三階、四階に付けたバルコニーの様に機能的だが装飾的な要素も多い。手堅く纏めた安定感のあるデザインである。ただ、複雑な機能を担わされた為、平面計画に首尾一貫しない点も見受けられる。新興の産業富山のシンボル的存在の建築であり、同時に長く唯一の文化施設として「電気ビル」の愛称で市民に親しまれている。
 そして、この「電気ビル」と正に同年に「関西電力黒部川第二発電所・昭和11年・設計山口文象」が黒部奥山に完成している。これは山口の作品の中でも白眉であるばかりでなく、日本モダニズム建築の生み出した最も美しい作品のひとつである。柱と梁が垂直に交差するラーメン構造のグリッド・パターンをそのまま見せ、グリッド内全面にガラスを入れる発電機室のフアサードと隣接する制御室の柱と梁を背後に隠した全面ガラスのカーテン・ウォールのファサードとの対比が鮮やかである。モダニズムの本質である構造、機能に忠実な何の変哲もないプレーンなデザインだが、柱梁のグリッドやスチール・サッシのグリッド、建物各部の比例、プロポーション、幾何学的構図の洗練が徹底して追求された結果、透徹した気品のある清冽な作品が生まれたのである。山口文象は日本モダニズムの創始者の一人だが、帝大出の建築家とは一線を画して活動した反骨の建築家であった。昭和初期に国際モダニズムの創始者、ドイツのグロピウスのもとに留学し、建築のみならずダムなど土木設計も研究した。この発電所のダムである小屋平のダムも彼の設計だし、後に庄川の小牧ダム、小牧発電所も設計している。また、富山市蓮町にあった旧制富山高等学校のラフカディオ・ハーン文庫の建築(現存せず)も彼の作品であり、近代和風建築の大牧温泉も彼の手になると言われ、富山には縁が深かった建築家である。
 さて、日本モダニズム建築ということであれば、富山には作品は残していないものの、その旗手の一人であった福野町出身の吉田鉄郎に触れない訳には行かない。彼の旧姓は五島で吉田は養子の姓である。東京帝大建築学科を出て逓信省へ入り山田守(彼の作品では元の北日本新聞社社屋があった)と共に、日本モダニズムの牙城の一つであった逓信省営繕の中心的建築家となった。彼の代表作、「東京中央郵便局(昭和6年・現存)」はやはりラーメン構造のグリッドのプロポーションを追求した作品で、日本モダニズムの規範的作品とされた。彼はまたドイツ語に堪能で、ドイツ語で書かれドイツで出版された「日本の建築」と題する書物は、ヨーロッパに日本建築を体系的に紹介した唯一の書物として良く読まれた。戦後は日本大学建築学科教授として後進の養成にあたった。実は、彼がまだ五島鉄郎であった学生時代の作品が福野町に現存していて、それは「授眼蔵図書館(大正9年)」という寺院付属の図書館である。この建築の外観デザインは、鉄筋コンクリート造を用いて木造寺院の形態をアレンジして作ったというもので、一種、擬洋風のような味わいのものである。モダニズムを深く追求した後年の彼は、この若年時の作品を恥じたらしく彼の作品年譜に載せていない。
近代和風建築
 さて、しかし、日本人の生活という局面から見れば、この「西洋化」「近代化」が及んだのは専ら公的生活の面においてであって、私的な面ではその生活様式は高度経済成長期までは純和風であったと言っていい。会社や学校では洋服を着、自宅では専ら和服で寛ぐのが一般的であった様に、企業や商店、官衙、学校、病院など生活のパブリックな局面における建築は西洋建築であっても、自宅や別荘、また料亭、旅館など生活のプライヴェートな局面における建築は長く和風建築で建てられたのである。明治以前、この和風建築は木造建築技術としては世界にも稀な精緻さの水準に達していたが、士農工商また社寺などの階級別、格式別に、使用できる材料や様式、形式が定まっていた。四民平等や明治の近代化は和風建築上のこうした制限を取り外してしまったのである。従って、その高度の大工技術を存分に奮うことのできる環境を得た明治以降の和風建築は、極めて優れた作品を生み出す一方で、また技術の高度さ、精緻さのみを徒に競うマニエリスティックな作品も生み出したのであった。このカテゴリーを「近代和風建築」と呼んでいる。
 高岡市にある「菅野邸(明治34年頃・設計不詳)」は藩政期の「まちや」の完成された造形に、新しい西洋の思想や技術を導入した富山の近代和風建築の傑作である。明治33年の高岡大火後の、新しい「都市防火」思想によって土蔵造を採用し、それに煉瓦防火壁、キングポスト・トラスによる洋小屋の屋根構造、鋼製耐火扉など技術的に優れた洋建築の技法を併用している。しかし、洋小屋の構造で和様の屋根を架構するので、その形を整えるためにトラスの一部分を和小屋に戻したりしていることなどから分かる様に、西洋技術を用いながら、外観は伝統の造形を、その繊細さを失わさせず、かつ重厚で迫力があり、気品ある造形にまとめあげた力量は非凡である。明治の越中職人と豪商の進取の気性と、確かで洗練されたデザイン感覚、教養のよく偲ばれる作品である。県内最も美しい建築のひとつである。高岡市にはこうした洋風を取り入れた土蔵造商家の優れた作品、「佐野家」「筏井家」などが現存している。
 以上、駆け足で富山県の近代建築史を、現存する作品を中心として述べて来た。近代建築遺産は1960年代後半から急速に取り壊され多くが消滅したが、しかし現存するものを拾っていっても、富山県の建築の、すなわち生活の近代化を一応は追うことが出来る。本講座を読まれて興味を持たれたら、是非ここに挙げた諸作品を自身の目で観てみられることをお勧めする。建築デザインを観ることは楽しい体験であるし、そうした楽しさが多くの人に共感されることが、貴重な近代建築遺産を残し後代へ伝えてゆく唯一のエネルギーであると信ずるからである。
(本稿の日本近代建築史一般に関しては、著者執筆の『金沢市の近代建築』(金沢市史資料篇17、建設・建築、1998年、金沢市刊、所収)」に拠り、個々の作品については、『百の共感−富山の建築百選』1990年、富山の建築百選実行委員会刊、の著者執筆部分に拠って、それぞれ改稿した。)
(ちく かくぎょう・金沢工業大学教授)
−平成11年2月20日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在のもので表示しています
お問合わせ お問い合わせ
富山県民生涯学習カレッジ本部
 Tel 076-441-8401
 Fax 076-441-6157
リンクの際は、こちらのURLをご利用ください。
 トップページへ  このページの先頭へ   前のページへ