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テレビ放送講座 昭和63年度テキスト「第8回 ご来迎、その永遠なるもの」


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TOP 第8回 ご来迎、その永遠なるもの 高瀬 重雄

(一) 
 立山の頂上に立って、ご来迎を拝したときの感激を、美しい詩文に書きのこした人は、必ずしもすくなくありません。
 ご来迎というのは、阿弥陀如来が、五色の雲にのって、私どもを浄土に導くために、来り迎えて下さることであります。そのとき如来は、観音菩薩や勢至菩薩、その他の諸佛・諸菩薩をしたがえ、しかも諸菩薩は、それぞれに楽器をかなでて、微妙な交響楽を奏しながら、来り迎えるというのであります。
 現代の人びとは、ご来迎というのは、山頂の朝あけなどにしばしば起るブロッケン現象にすぎないと説明します。それは山頂で朝あけの太陽を拝するとき、ちょうど空のかなたに五色の虹の輪が生じ、その虹の輪のなかに、人の姿が投影される現象であって、虹の輪は、あたかも佛の後光のように仰がれたのだというのであります。すなわち自然現象のひとつであって、それを佛・菩薩の来迎とみるのは、自然科学の知識が不足しているためだというのです。
 なるほど、山頂でみる虹の輪の出現は、単なる自然現象のひとつに過ぎないのでしょう。科学的な知識の普及した今日では、誰でもそのような解釈を致します。しかしその程度の解釈ができただけですっかり安心して、何の不思議も感激もおこさない人は、人と自然の風景とのであいのなかにも、説明し難い偶然性がよこたわることに思い至らないのではありますまいか。ワーヅワースというイギリスの詩人は、「空にかかる虹を仰ぐとき、わが心はおどる」と申しました。「少年の日にもそうであったが、年老いたいまもそうだ。もし虹を仰いでも、わが心がおどらぬようになったら、私は死んだ方がましだ」とも申しました。ワーヅワースだって、立山山項のブロッケン現象をみたら、それこそよろこんで欣喜雀躍したのではありますまいか。人と自然の風景との間にも、一期一会(いちごいちえ)のよろこびがあることを、詩人は知っていたのだと思います。
 日本では、明治維新以前までは、一部の人をのぞいて、自然科学的な知識は非常に乏しいありさまでした。地球が球形をなしていて、太陽のめぐりを廻っているのだということさえ、江戸時代以前に自覚していた人はまれでした。しかし自然科学の知識はとぼしくても、人と自然はともに神のうみたもうところと考えて、自然と人間は兄弟姉妹という風に考えていました。そして神と自然に対する敬虔な心のもち主は多かったのです。人ばかりでなく、動物にせよ植物にせよ、およそいのちのあるものを大切にせねばならぬという考え方も強かったのです。そういう心を胸のうちにいだく人びとが、山頂に至って五色の虹の輪を仰いだとき、これこそ欣求(ごんぐ)してやまぬ極楽世界のあらわれだと感激したのも無理からぬことです。阿弥陀如来が来迎されて、われらを永遠の極楽に導き給うのだと随喜したのも自然のことと申さねばなりません。ですから、失われた山への畏敬の心を、いまほりおこして改めて認識することは、歴史研究の立場からは重要なのです。
(二)
 山の頂上へ、阿弥陀如来の来迎があるという信仰は、日本ではいつごろから起っていたのでしょうか。それに答えるには、めんみつな考証が必要でしょうけれども、私は平安時代の後期、いわゆる浄土教信仰の興隆とともに起っていたように考えています。
 そうした認識のあらわれが、いわゆる「山越(こ)しの阿弥陀図」にみられるのではないかと思います。「山越しの阿弥陀図」というのは、山の彼方から阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の三尊が、上半身をあらわして、行者を来迎する様を描いた絵画であります。現存する「山越しの阿弥陀図」は、鎌倉時代中期のものが最も古く、阿弥陀は上品中生(じょうぼんちゅうしょう)の手印(しゅいん)に、五色の糸をつけ、五色の糸の他の端は、行者の手に握らせてあるものもあります。阿弥陀如来は、行者を極楽浄土に引接(いんじょう)しようとして、山の上に来迎することが具象的に描かれているのが「山越しの阿弥陀図」であります。
 ところで立山曼荼羅図は、雄山の頂上に近く、阿弥陀三尊の来迎を描いております。また阿弥陀如来の来迎をうけて、極楽浄土に往生しようと、如来に膝まづく行者の姿も描かれております。山の背景をなす大空には、阿弥陀如来とともに来迎する諸菩薩がえがかれているものもあります。しかもそこは、太陽と月とが互いに照り輝く日月照光の世界であることも、絵画の上に如実に示されております。
 阿弥陀如来が行者を引接(いんじょう)する極楽世界は、太陽も月も、永遠にかがやく世界であります。そこは陰陽和合の平和な世界と考えられていたのに、ちがいありません。
 しかし現存する立山曼荼羅は、江戸時代の製作のものが主であります。最も古いといわれる富山の来迎寺の立山曼荼羅図でも、江戸時代の初期以上にさかのぼる作品ではありません。そして多くの作品は、江戸時代の後期から幕末へかけてのものであります。静寛院宮の寄贈の曼荼羅図は、いま東京国立博物館に保管されていますが、幕末の作品であります。
 また、立山曼荼羅図は、さまざまなモチーフの絵の組みあわせによって出来た絵解き用の絵画でもあります。したがって、この曼荼羅図の源を、鎌倉時代の「山越しの阿弥陀図」だけに求めることは無理であります。しかし立山曼荼羅図のなかの、山頂における阿弥陀来迎の部分を考えるとき、その精神的な基調は、遠く鎌倉時代の「山越しの阿弥陀図」に関連する一面があります。つまり阿弥陀如来は、高い山を越えて来迎し、人びとを永遠の世界に導くという、考え方において、一貫しているからであります。
(三)
 しかし永遠とは何ぞやということについて一言したいと思います。けだしはじめがあるものは終りがあります。生れたるものは、必ず死するときがあります。永遠の世界とは、はじめもなければ終りもない世界であります。そこでは生もなければ死もありません。生をも死をものりこえた、不変不動の世界が永遠の世界でありましょう。日常にみる太陽は、朝に出でて、タベには沈みます。月もまたタベに出でて、あしたには姿を消します。けれどもそれらは、現象としてわれらの日常経験するところです。
 ところが阿弥陀如来の極楽浄土では、太陽も月も、いささかも輝きをうしなうことがありません。日月照光というのは昼夜の別や、朝夕の別にもかかわりなく、いつでも日月が照りかがやいていると考えられた世界です。それこそ不老不死の永遠の世界であり、不動不変の世界だと考えられたのにちがいありません。
(四)
 残念ながら私自身は、立山山頂の虹の輪の現象を拝んだ経験はありません。けれども山頂によじのぼって、神社の前にひざまづき、お神酒の1、2滴をいただいて、周囲を見渡したときの清らかで爽快極まりない気分は、何度も味わって参りました。
 御来迎そのものは拝することができなくても、『日本風景論』の著者志賀重昂博士が日本一と折り紙をつけられた豪快な立山山頂の風景に接しただけで、自分のなかの一切の穢れははらわれて、清浄そのもののよろこびにひたるのです。弘法大師は、勝道上人が、はじめて日光男体山の頂上を極めたときの心情を、つぎのように述べられた、それは山頂をきわめた人だけが感ずる気持であります。
 ついに山の頂を見る。恍々惚々(こうこうこつこつ)として夢に似たり。悟めたるに似たり。杳(うつぎ)に乗るに因らずして、忽ちに雲漢に入り、妙薬をなめずして神窟を見ることを得たり。一たびは喜び、一たびは悲しんで、心魂たもち難し。
 ことばは平安初期のものですから、理解し難いところがあるかも知れませんが、要するに夢とうつつの境を越え、不老不死の仙人になった思いで、よろこびと悲しみの極地、いわくいい難い霊感にみたされるということでありましょう。
 私のように修行至らずして、御来迎を拝する機会がまだないものでも山頂は、大地の極点です。その極点に立って周囲を眺望するだけで、もう羽化登仙(うかとうせん)の思いにひたることができます。いわんやこの清浄なる山頂で、太陽の光線と空中の水分とがあやなす虹の輪の現象を仰いだならば、「心魂たもち難い」感激をおぼえるにちがいありません。私はかつて、山頂の虹の輪の現象に接したときの感激を記した文章や詩歌をひろい集めたことがあります。2、3披露してみましょう。
 元禄期の俳人大淀三千風(みちかぜ・1639〜1707)は、越中路を行脚して、立山登山をこころみました。材木坂から弥陀ケ原を経て、浄土山に登り、さらに雄山の頂上を極めました。しかもちょうどその折、御来迎を拝することができました。
 あふぎ見れば、額のさきに朝日の御影(みかげ)青紫の輪光艶々として、その中に種々の奇妙あり。をのをのあれやとばかりさぐりあげ、泪こぼちぬ。今迄悪みし嵐さへ、此の世の匂(にほひ)にあらず、敬心ぬかづきしが、雲霧はいづちにゐにけん。天磐座(あめのいわや)を押放たまふ如く、空は瑠璃(るり)のやうなり。
というのが、そのときの三千風の文章であります。虹の輪のなかの奇妙のみかげというのは、御来迎の弥陀のことですが、絶妙なる御来迎を仰いだ人びとは、感激のあまりなみだをこぼしたというのであります。
 また文化9年(1812)の8月、立山の山頂で御来迎をおがんだ人に、野崎雅明(のざきまさあき・1757〜1816)があります。野崎雅明は、その著『肯構泉達録(こうこうさんたつろく)』のなかに、つぎのように記しております。
 しばらくして陰霧さへぎり、すでに望(ぼう)を失ふ。霧中、また忽焉(こつえん)として車輪の如くなるものを生ず。円径八尺ばかり、輪辺五色にして虹の如く、中に物あり、髣髴(ほうふつ)たり。これ山中に所謂三尊来迎なるものなり。真に偉観なり。立つこと久しくして去る。(原漢文)
 ここでいっている忽焉としてあらわれた車輪の如き輪、これが弥陀三尊の御来迎に他ならぬといっているのであります。御来迎を仰いだ野崎雅明は、感激のあまり、容易にたち去ることができなかったのでありましょう。
 第三に、明治以後の立山山頂の御来迎を拝した例として、浅地倫(1870〜1932)をあげることができます。浅地倫は、富山の郊外の山室村の村長をつとめた人でありましたが、明治34年(1901)8月、立山登山をいたしました。そして、浄土山の上で、東の方の雄山の峰あたりにあらわれた御来迎をみることができました。
 東方にあたり燦然たる光彩を放ち、五色の霊雲たなびくを見る。忽ち雲霧の中に美麗なる車輪の如きなるものを生じ、円径八尺ばかりにして、輪辺虹の如し。中に三尊佛に彷彿(ほうふつ)たる物あり、即ち所謂立山の御来迎とす。光景頗る荘厳、衆覚えず観喜踊躍して恭敬合掌す。此時山麓に微風あり、もろもろの行樹を呼び、羅網を吹きて微妙の音をなす。譬へば百千種の楽を奏するが如し、爽快言はん方なかりき。
と浅地倫はその著『立山権現』のなかに記しております。これもまた立山の御来迎を仰いだときの記録であります。
(五)
 私はいま江戸時代から明治時代にかけて、立山の御来迎をおがんだ記録を3つあげました。江戸時代以前にも御来迎を拝した人はあったにちがいありませんが、現に残された記録のなかに、見出すのは容易ではありません。明治以後の場合は、さらに多くの人びとが御来迎を拝したにちがいありません。
 けれども、時代が現代に近づけば近づくほど、人びとは「ご来迎」に感動することがすくなくなったように思われます。ご来迎とは、空中の水滴に太陽の光線があたっておこる自然現象にすぎない。霊妙でもなければ、不思議でもない。たまたま起る自然現象のひとつに過ぎないというような考え方が進んできたからであります。それは科学的な知識の普及によっておこった当然のなりゆきでもありました。
(六)
 しかし私は、そういう科学的説明だけで、あとは何等のよろこびも感動もない登山は、どうかと思うのです。私は科学的説明がまちがっているというのではありません。意味がないなどというのでもありません。それどころか現代の登山は、気象条件・携行品その他装備等についても、十分な科学的知識にうらづけされた登山でなければなりません。私は、自分の授業生が、冬山登山で遭難死したとき、残念乍ら彼らの携行器材が不十分であったのをみて、冬山に関する科学的知識の至らなかったことをなげいたこともあります。登山の安全を期するためにも、十分な科学的な知識は欠くべからざる事柄であります。
 むかし中国の抱朴子は、「入山術を知らざるものが山に入ると、たちまち遭難する。よって、名山・高山の麓には、白骨が塁々として横たわる」とのべました。抱朴子の説いた入山術には、いまや山についての科学的知識や装備の問題がふくめられなければなりません。
(七)
 しかし、もともと登山の目的は、聖なるものをもとめ、永遠なるものを求めることでありました。いいかえれば、山中に入って身も心もすがすがしく清められ、新たな勇気をたくわえて、再び現実の社会に生れかわるというのが目的でありました。山に入ることが、しばしばであれば、それだけ登山者には、他人のためになる験力(けんりょく)が得られるから、幾度も山に登っては霊験を得、世に出て、抜苦與楽(ばつくよらく)につくすべきであるとしたのでした。
 それこそ立山のみならず、日本中の山々に修行することの目的でありました。あるいは日本のみならず、中国や朝鮮半島をふくめ東洋における登山の精神でありました。それは登山というよりも、登拝でありました。
 そこで私の申し上げたいことは、そういう東洋古来の宗教的登山の精神というものは、科学技術の発達した今日においても、忘れ去ってはならないことではあるまいかということであります。要は自然に対する敬虔な気持ちをうしなわぬことであります。山に入って、如来をおがむ気持ちであります。
(八)
 東洋における古来の登山の意義が明らかになりますと、そのことが現代の人びとにある種の反省をもたらすことになるのではありますまいか。そして、山は征服すべき対象にすぎぬというのは、人間の思いあがりにすぎないのではないかという気持ちも芽ばえて参ります。私はそのような反省が、立山曼荼羅の勉強から得られれば、ひじょうに結構ではないかと考えます。
 かつて志賀重昂博士は「登山の気風振起すべし」と唱導されました。若者は登山によって浩然の気を養うべきだという趣旨でありました。しかし志賀重昂さんの時代から幾星霜を経て、いまでは登山者の数がひじょうに増加しました。立山に登る人びとも、年間100万人を越えるという盛況です。登山の目的も、探険登山からスポーツ登山へ、さらにリクリエーション登山からレジャー登山へと移ってまいりました。
 けれども日本の登山のはじまりは、宗教登山でありました。宗教登山は、山中の浄土に至って、心身をリクリエートし、健康ですがすがしい気分で、再生を期することでありました。その意味で申せば、100万人を越える現代の立山登山者にも、かつての宗教登山の意義を理解していただきたいのです。そして、山の清浄さと峻厳さとを体得していただきたいと念じます。
(たかせ しげお・富山大学名誉教授)
−昭和63年12月4日放送− 
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