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テレビ放送講座 平成5年度テキスト「第3回 おさな子は神々の使い 〜稚児舞にみる神仏混淆〜」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第3回 おさな子は神々の使い 〜稚児舞にみる神仏混淆〜 米原 寛

 現在、我々は、いろいろな立場で多様な文化を享受している。歴史の中で育まれた伝統的な文化もあれば、現代の社会環境の中で創作された文化もある。しかし、近年、若者の間にも「こころ」を見直そうという傾向が強まり、先人の文化にも目を向ける「温故知新」の気風さえも感じられる。こうした社会環境の中で、民間に伝えられてきた「清浄なこころ」に対する憧憬を今に守り伝えている稚児舞に目を向けてみたい。  
稚児舞の性格
 古来、神霊を敬い、五穀豊穣・悪魔払いなどを祈って神前で舞が舞われた。雅楽を伴う舞、舞楽は、古く飛鳥時代に遡ることができる。律令国家の整えられる中で舞楽は治部省に置かれた雅楽寮において管理・調習され、歌師・舞師・笛師などの楽人が置かれ、楽名・楽曲・楽理論が整えられた。平安時代の終わりころ国風文化が盛んになる中で舞楽は朝廷の行事と密接にかかわっていった。しかし、南北朝時代、古代国家の解体により宮中雅楽や舞楽は衰微し、楽人も有名無実化した。一方、宮廷舞楽とは別に、奈良・平安時代にかけて興福寺・薬師寺・東大寺など南都の楽所と大阪四天王寺楽所の両所が興隆した。特に四天王寺楽所の舞楽は民衆とつながり、鎌倉時代には、地方の農村へも伝えられ、地方の民衆の芸能と融合した。さらに応仁の乱を契機に都の文化が地方に流れ、やがて地方の文化のひとつとして稚児舞が花ひらいたのである。
 さて稚児舞とは、郷土芸能、民間芸能とよばれるもので、舞楽・能楽・人形芝居・歌舞伎等が地方に伝播し民間に伝えられ民俗化して定着し伝承されてきた各種の芸能の中のひとつである。特に越中から越後にかけては、民間芸能は稚児舞の型で伝承されているのが特色である。この稚児舞が、他の芸能と異なるのは、稚児という成年式・成女式を行う前の、年齢的には5、6歳から14、15歳までの少年少女が舞手であるということである。子供は大人と違って、まだ世の中の汚れを吸収していない清浄な魂の持ち主とみなされた。それゆえ子供には、神霊が宿りやすく、或いは神霊そのものであった。日本では、古くから神は童児の姿をしているという観念があり、さらに童児が神霊の依代や奉仕者でもあるということで、童児自身信仰の対象ともなってきた。それ故民俗芸能の中でも児童のつとめる役が多く、祭礼当日、化粧し、美麗な衣装を着ていわゆる「お稚児さん」となり神に奉仕したり、舞を舞ったりしたのである。
 ところで、稚児が清浄な魂の持ち主であるためにはそれなりの所作が必要であった。岩峅寺の雄山神社、宇奈月町明日の法福寺、下村加茂神社、婦中町中名の熊野神社の各稚児舞では、稚児は大人の肩車にのって舞台入りし、芸能が終了するまで土を踏まない禁忌の姿を伝承しており、古い民俗行事的な特色を今に残している。明日の法福寺の場合、1週間前から練習に入るが、この間土を踏まないよう足駄を使用したり、この練習の間魚肉を食べないなど精進潔斎をするという。また稚児は、神霊の依代や奉仕者ということで、顔と手に白粉を塗り、紅をつける。下村加茂神社の稚児舞の場合は、紅は顔の真ん中(眉の間)と両頬に1つずつつける。このつけ方は奈良時代の名残りといわれている。
 神霊を敬い、五穀豊穣・悪魔払いなどを祈って神前で舞を舞うという民間芸能は、大人の世界から子供の世界へ次第に推移していったもので子供の世界にこそ古い姿を長く伝えてきたともいえる。
稚児舞の成立
 富山県の稚児舞は、現在、中新川郡立山町岩峅寺の雄山神社、下新川郡宇奈月町明日の法福寺、射水郡下村加茂神社、婦負郡婦中町中名の熊野神社に各々伝承されている。また記録によると、魚津市小川寺の千光寺縁起でも戦国時代の天文年間に稚児舞が行われていたという。
 中部・東北の各地をみると、東北では、羽黒山阿闍梨講をはじめ、山形県寒河江市平塩の熊野神社や慈恩寺・立石寺、南陽市宮内熊野大社、秋田県象潟町金峰神社での各稚児舞が知られる。中部地方では、岐阜県金山町八幡神社、岐阜市三輪町の三輪神社、美濃市垂井町南宮大社や山梨県山梨郡勝沼町の根尾大善寺にも稚児舞がみられる。新潟県下にも稚児舞が多く伝承されている。糸魚川市根知の日吉神社、一ノ宮天津神社でも四天王寺舞楽の流れを汲む稚児舞が伝えられている。また弥彦神社では糸魚川地方とは違った舞楽の流れが伝えられている。
 しかし一般には新潟県と富山県には特に稚児舞楽が多いといわれている。
 東北・北陸・中部地方に多く伝承されてきた稚児舞は、いつのころから、またどの様に地方に起こってきたのだろうか。糸魚川市の一ノ宮天津神社の稚児舞は中世以降のものと伝えられ、魚津市小川寺の千光寺、字奈月町明日の法福寺、婦中町中名の熊野神社の稚児舞も戦国時代にその起源を求めることができる。おそらく全国的にも稚児舞の成立の時期は、応仁の乱を契機に都の文化が地方に流れ、やがて地方の文化が花ひらいた時期と同一視することができるだろう。
 それでは稚児舞はどの様な歴史的経緯の中で形成されたものであろうか。
 芸能の専門家が地方に定着するにはいくつかのパターンがある。まず地方の大社寺の建立に伴い、その法会に奉納するために催された舞楽が今日まで伝承されてきた場合である。
 この場合、歴史の流れの中で社寺の規模が縮小されるにつれて、社寺内のみでは伝承できなくなり、一般庶民の手によって伝承され、民俗芸能への道をたどった。
 一方、中世修験と深くかかわり、農民の深い関心事である豊穣祈願・悪魔払いなどの芸能と組み合わせて稚児舞が形作られ、それが色々な形をもって各地にその伝承が残されている場合があった。
 県下の稚児舞は、後者の形で伝承され、特に中世修験と深くかかわり、修験芸能、具体的には修験神楽の影響が強く反映されていると考えられる。
 さて、富山県下の稚児舞は中世後期に成立の起源を求める事ができるが、稚児舞の成立の経緯についてはまずその成立に先行して各土地々々に定着し受け皿となった芸能、さらには戦国時代に都から伝播してきた舞楽や修験神楽、そしてその融合などについて考えることが必要である。
 稚児舞の成立に先行した、いわゆる受け皿となった芸能とは、伎楽系の文化である。越中でそれに該当するものは、魚津小川寺白山社、立山町浦田山王社、高岡市古城射水神社、八尾町布谷紫野神社、氷見市長坂長坂神社、射水郡下村加茂神社、下村白石加茂社にみる古獅子舞とその歌音曲等があげられる。これらの先駆的な伎楽系の文化は、越前系の伎楽の流れであり、さらに修験芸能と並列しながら稚児舞の初期文化すなわち上方系の舞楽が伝来し、地方化したときに三者が融合し稚児舞が成立したのである。上方系の舞楽が色濃く反映しているものに明日の法福寺や下村加茂神社、婦中町の熊野神社の稚児舞がある。
 ところで稚児舞に大きな影響を与えた舞楽の形態に「童舞」がある。本来、舞楽は大人の男子が舞うものだが、児童が特に選ばれて演舞するのでこの名がある。童舞には「胡蝶」や「迦陵頻」といった童児特有の演目もあるが、また「陵王」や「納曽利」などのような、本来大人が演ずる曲を童児用に演じ変えるものもある。富山県射水郡下村の加茂神社の稚児舞では、「胡蝶」「納曽利」(小奈曽利・大奈曽利)が舞われ、かつては「迦陵頻」の舞もあったという。また富山県婦負郡婦中町中名の熊野神社の稚児舞では「小奈曽利」「大奈曽利」が舞われている。このような稚児舞の成立に大きな影響を与えた要素の一つとして、修験芸能があげられる。
 宇奈月町明日の法福寺、魚津小川寺の千光寺、下新川郡朝日町山崎の吉祥院、同町宮崎の護国寺などは、かつての北陸街道筋にあたり、修験者の加持祈禱上の要地でもあった。また享保年間以前の法福寺の稚児舞は、修験神楽と稚児の混合舞がみられ、それが改良され、地方的神楽と融合し今日の稚児舞の原型ができあがったといわれる。
 下村加茂神社の場合も、鉾の舞は、本来修験儀礼法楽の1曲であり、蛭子舞も法楽的な風流化とみられ、日光・月光舞とも類似している。賀古の舞もその点菩薩舞に近いことがみられる。
 岩峅寺の雄山神社は、古くは立山寺といい、立山山項の峰本社と芦峅寺の中宮寺と三社一体の天台系の修験寺院であり、立山修験の中心寺院であった。江戸時代には24の宿坊が建ち並ぶ宗教村落であった。
 また、熊野神社は、芦峅寺の立山修験と深くかかわっている来迎寺(現在富山市)と深い関係があること、稚児舞が行われる拝殿は、婦中町のもと中名寺本堂の外陣であり、引き幕にも寺紋が残され、中名寺の社僧が長く稚児の先導をつとめていることなどから立山修験からの古い影響をみることができる。
ともあれ、越中・越後の稚児舞は、四天王寺舞楽が修験者の手で、日本海岸地帯を北上していったと推測される。特に立山町岩峅寺雄山神社、婦中町熊野神社、明日法福寺にみるように、稚児舞は修験道とのかかわりを除外してはその流れをとらえることはできない。
 現在、全国的に稚児舞が伝承されている寺社をみると、その多くが何らかの形で修験との関わりをもっていることがわかる。例えば、山形県の羽黒山阿闍梨講をはじめ、寒河江市平塩の熊野神社や慈恩寺、立石寺、南陽市宮内熊野大社、秋田県象潟町金峰神社、糸魚川市根知の日吉神社、弥彦神社、富山県の中新川郡立山町岩峅寺の雄山神社、下新川郡宇奈月町明日の法福寺、婦負郡婦中町中名の熊野神社、魚津市小川寺の千光寺などは明らかに中世からの修験のメッカとなった社寺である。
 このように山形県や新潟県、富山県に伝承されている稚児舞は、山伏信仰との関わりの中で伝播し今に伝承されて来たものと推察することができる。これら修験の社寺で行われた稚児舞は、山門衆徒達が一山を褒め、寺社の守護神をたたえ、民衆の千秋万歳を祈って奉納されたものである。
 かくして、現在伝承されている稚児舞に修験芸能が深く係わっていることはいうまでもない。
越中の稚児舞
  1. 法福寺の稚児舞
     下新川郡宇奈月町明日の真言宗法福寺は、寺社縁起によると、行基菩薩を開基とし、本尊十一面観音は仏師春日の作と伝える。毎年4月18日、十一面観音の稚児舞が演ぜられる。
     稚児舞は、午後1時半から約2時間近く、法福寺入口南に仮設された舞台で行われる。舞は矛の舞(大稚児2人)大平楽(稚児4人)臨河の舞(稚児4人)万歳楽(稚児4人)千秋楽(稚児4人)の5種が順に奉納される。
     稚児は、氏子の中から選ばれた。稚児は10才〜14才までの男児で、大稚児2人、小稚児2人で昭和初年までは檀家の長男に限ったが、現在は明日の村の男子から選ぶことにしている。
     稚児は18日の昼食後直ちに法福寺に集合し、装束を整え、寺の庫裏へ並び、住職の先導で観音堂へ進む。観音堂入口には各稚児の縁者が紋服で待っていて、稚児を肩車にのせて舞台へ運ぶ。この間観音堂では、郡内の僧侶が舞台の方向を向いて大般若経を読経する。読経が終わると稚児は楽屋に入って舞の準備をする。舞が終わると舞台で稚児は椅子に腰かけて休み、その間、住職は本堂で読経をして稚児の帰りを待ち、稚児は再び肩車にのって本堂につくと、ここで住職は読経を終わり、住職と稚児は庫裏に戻り、全員が並び挨拶をして稚児舞は終わる。
     法福寺の稚児舞の起源は、寺伝によると戦国時代の動乱で上杉軍の兵火により寺院が焼失、33世秀運が再興した際、京都で稚児舞を学び、文禄年間に再興落慶法要の時に披露したのが始まりという。
     現在、法福寺には、享保7年(1712)、宝暦14年(1764)、天保7年 (1836)の『児童声歌覚書』が保存されており、各舞の実態がうかがえ、また法福寺の稚児舞が享保以前には定着していたことを物語っている。
     舞そのものは、テンポがゆったりしていて素朴古風と評されている。
  2. 岩峅寺の稚児舞
     中新川郡立山町岩峅寺の雄山神社では、4月8日の春祭りに稚児舞が奉納された。(現在は11月3日に変更された)
     岩峅寺は、立山寺ともいわれ、古来天台系の修験の寺院であった。明治初年の廃仏毀釈の際に雄山神社となった。ここに伝承される稚児舞は、この24坊の宿坊の男児から4人選ばれる。稚児舞に先行して鉾立の行事がある。当日、各稚児が若衆の肩車にのって雄山神社の拝殿に入る。祭式は午前10時から始まり、続いて稚児舞が行われ、舞は石舞台の上で行われる。稚児舞は、法螺貝2人、太鼓1人、笛6人、小稚児2人、大稚児2人で構成され、先ず道中楽から始まる。この道中楽は大稚児2人、小稚児2人が拝殿に向かう時の道中練りをさし、この時法螺貝が吹き鳴ると、稚児は一斉に錫杖を振り、かつての山の修験者としての雰囲気を高める。次は矛の舞で、大稚児2人で舞い、太鼓と笛で進められる。
     雄山神社の稚児舞に関する文献は、残念ながら戦後悉く焼失して現存していない。もとより起源に関する記録もない。
  3. 熊野神社の稚児舞
     婦負郡婦中町中名の熊野神社では、8月25日の祭礼に稚児舞が行われる。この祭りは、為成郷18区の総祭りで、村の12、3才までの男児4人が選ばれ、大稚児2人、小稚児2人、笛5人、太鼓2人、獅子舞3人で構成される。
     稚児たちが宿を出るときは村の若衆の肩に乗って出る。これは、明日・下村・岩峅寺の場合と同じである。宿である中ノ茗公民館を出発した稚児行列は神主を先頭に進み、若衆の肩に乗り、獅子舞を従えて神社に入り、お祓いを受ける。
     舞は矛の舞、賀古の舞、林歌の舞、蛭子の舞、小納曽利の舞、大納曽利の舞、陪臚の舞の7種で、順に奉納された。
     舞に用いる道具は、現在坪野の若林家に保管されており、古い道具箱に「文久三年七月出来、熊野権現児子装束入箱、預源左衛門」と墨書されており、江戸末期の肩衣、単衣、タツキ(野袴)なども保管されている。
     椎児舞の起源は、天正13年(1585)ころ、当時坪野村の源左衛門が郷内に悪疫が流行して困っているとき、祭事を怠っているからだとの神のお告げがあり、当時の熊野社の神主・舟木丹後守と源左衛門が京都まで稚児舞を習いに出かけ、帰りに翁と媼の面を求めて来たと伝えられる。早速盛大なお祭りをすると、病気は治り、五穀豊穣、氏子安泰となり、村人が大いに喜んだという。しかし一説には、熊野大権現の祭社が中絶して以降、再興された時、下村に伝える稚児舞を再輸入したものではないかともいう。現在、下村加茂神社とこの熊野神社の稚児舞は、同一系統のものである。
  4. 下村加茂神社の稚児舞
     射水郡下村の加茂神社には、多くの祭礼行事が伝承されている。稚児舞は9月4日の秋祭りに奉納される。この稚児舞は京都加茂神社から伝えられたとされる。稚児は大稚児2人、小稚児2人、村から11、2才の子供の中から選ぶ。舞は、矛の舞(小稚児2人)林歌の舞(大稚児2人)天の舞(大稚児1人)胡蝶の舞(大稚児2人・小稚児2人)大奈曽利(大稚児2人)蛭子の舞(小稚児2人)陪臚の舞(大稚児2人・小稚児2人)で、囃子方は、太鼓1人、笛3人で構成されている。
     加茂神社の稚児舞は、雄山神社や法福寺よりやや遅れて舞が成立しているが、法福寺と同じく古く伎楽文化が伝播してきて、それを基礎として稚児舞が輸入定着し、地方的神楽などの感化で現行の稚児舞が成立したのである。
 以上4つの稚児舞の概略を記したが、岩峅寺雄山神社以外のものはいずれも貴重な民間芸能として、昭和56年12月11日、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 都から遠く離れた越中へも古来から数多くの文化が入り込み、小さな村の祭り囃子にも脈々と流れていることに驚かされる。そして幾世代にもわたってそれを伝えてきた先人のこころをひしひしと感ずるのである。私たちはこうした文化を次の世代に正しく伝えて行かなければならないことは自明の理である。
(よねはら ひろし・富山県立山博物館主幹.学芸課長)
−平成6年2月12日放送−
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