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テレビ放送講座 平成13年度テキスト「第2回 商品は信用と情報」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '02/01/26

TOP 第2回 商品は信用と情報 前田 英雄

売薬 越中売薬のこころと知恵売薬さんの情報
 売薬は、地域に健康と安心を運ぶと同時に、「文化と情報の伝達」という面でも大きな働きをした。封建時代は他国との交流が閉ざされ、交わされる情報がないといってよかった。そのような状況でも、売薬さんは広い行商圏を持った。売薬さんと顧客との会話では、異郷のことが自然に語られた。南の国へ行くと北の国の話をする。農村に行けば都会の話をした。その土地以外の近隣・他郷の異文化が、行商の先々で売薬さんの口から語られた。
 売薬さんが来ると、座布団を勧めて話を聞くのが楽しみだったという記述を載せた郷土史もある。北海道では他の土地の開拓状況を聞き、それを聞いた開拓者は自分よりも苦労しながらがんばり抜いている人がいることを知って奮起したという。さらに、開拓方法などについても学んだという。売薬さんの話は居ながらにして他郷のことを知ることができる。
 安政4年(1857)、佐藤信渕の子昭(昇庵)が、富山藩主前田利聲(としかた)に出した意見書の一節に、「…六十余州ノ人情風習及ビ各国郷村等ニ至ルマデ大小ノ事件、悉ク坐シテ而シテ此ヲ知ルベク…」とあり、売薬さんは庶民史の主体者と同時に、こよなき見聞者であると述べている。
 売薬さんの言を集めれば、情報を居ながらにして日本国中の細部まで知ることができた。しかし、この情報は集約されて利用されることがなかった。
売薬版画 (絵紙) を通して
 売薬進物、つまり「おまけ」は販路獲得の一助としての見方だけではなく、楽しみや潤いの少ない山村・僻地に美的世界と娯楽を提供した媒体としての価値がある。
 一般に多色刷りの彩色画は、明治中期まで庶民が簡単に入手できるものではなかった。売薬版画には時代の流行・世相・戦争話などが描かれ、当時のニュースペーパーとして情報が満載されていた。また、地方の人々は売薬版画を通して明治維新や開国を知った。それまでの役者絵や東海道物から、文明開化・横浜居留地などの絵に変化したからである。まさに売薬版画は文明と接触する媒体であった。
 また、生活に密着したのは農事暦、喰い合せ禁忌の短冊、熨斗(のし)絵であった。数十個の熨斗絵を一つずつ切り取って贈り物に貼ったという話もある。
長い顧客との交流
 二代・三代、何十年にもわたって続く顧客(配置先)との交流は、単なる得意先という関係をさらに深めて、親戚同様に親しいものになり、嫁や養子話の相談なども受けた。次に訪れたとき、紹介した娘がその家の嫁になっていることもあったという。時には婚礼や祭の宴席に招かれたとき、売薬さんは得意な義太夫の一節を披露して芸能文化も伝えた。
 また、村に来た名士として医療の講演を頼まれたり、帳簿(懸場帳)を矢立の筆で書いた時代は能筆の売薬が多く、「書き物」を頼まれることもあった。岩手県の県南地方では、売薬さんのことを「とうじんさま」(唐人か冬人か)と親しみを込めて呼び、売薬さんの来るの待った。ラジオ・テレビは勿論、新聞さえ普及していなかった頃は、売薬さんは庶民の健康を守る「医療人」であるとともに、文化を運ぶ「文化人」の役目も果たしたのである。
地域貢献〜種籾・蚕種・レンゲ・馬耕機
 売薬さん自身の中にも農家の人が多くいる。農業を営む顧客とは共通の話題で親しみ、農業の新知識や技術の話で時を過ごすことも多かった。ことに種籾(たねもみ)・蚕種(蚕(かいこ)の卵)・レンゲ(肥料用)・馬耕機(犂(すき))について、富山県は全国的に見て先進県としての評価が高かった。
 種籾については、今日でも流通量の約63パーセントは富山産(『富山がわかる本』富山県統計課編・平成12年発行)で全国第1位を占め、「種籾王国」とさえ言われている。県内には6ヵ所の種籾採種場があるが、なかでも東砺波郡の旧種田村(現庄川町)は、村名の起こりそのものが特産の種籾をさらに盛んにするために付けられた。売薬さんによる種籾の斡旋の歴史は古く、宝暦(1751〜1763)の頃からといわれるから250年にもなる。県西部の種田村に対して県東部の中心は旧浜黒崎村(現富山市北部)の日方江(ひかたえ)である。ことに日方江の周辺には滑川・水橋・岩瀬など、売薬さんが県全体の三分の一、3千余人(昭和30年代)もいて、強力に日方江の種籾を懸場先の顧客へ届けた。重い行李を背負いながら、手には種籾の入った袋を下げて、農家の得意先を廻った。日方江の種籾は多収穫で、病害虫にも強い品種といわれ、売薬さんのロコミによって、江戸時代から藩外各地に広がり注文が殺到した。
 種籾生産は、種田村=庄川五ヵ村では明治16年(1883)に販売高1000石(150トン)、日方江でも明治20年(1887)に1970石(約296トン)の生産記録が残されている。売薬さんの斡旋量は不明だが、大量の注文を受けたと推定される。今日に続く種籾王国の素地は、売薬さんたちによって築かれたといっても過言ではない。
 春になると、戦前の富山県内の水田の60〜70パーセントがレンゲの花で埋め尽くされた。レンゲは窒素肥料成分を多く含むので、水田裏作の自給肥料(緑肥)として栽培された。富山県の作付は、江戸時代の18世紀末から19世紀にかけてといわれる。『日本農業発史』には「富山の薬売り」が秋田県・山形県・新潟県・石川県の13ヵ所にレンゲの種を運んで斡旋したことが紹介されている。そのうち約半数の所は明治期に伝えられ、導入者は売薬さんであった。このレンゲの種は、わが国で初めての「耐雪耐寒性の花種」であった。温暖乾田地帝の植物であったレンゲが、東北地方にまで広められたのである。
 また、山形県米沢市には1基の報恩碑が建っている。この地方に「富山犂」という馬耕機を導入したのが富山市近郊の青木伝次という売薬だった。伝次は、田起こしをいまだに備中鍬を使った人力で作業しているのに驚き、富山で使っている馬耕機の話をした。それは馬1頭と農夫1人で人力の4倍の能率が上がり、しかも2倍の深耕ができた。たらまち「富山犂」は改良されて米沢地方一帯に普及した。明治33年(1900)、馬耕機導入2年目に報恩碑が建立され、その式典に伝次を招いて地域貢献を称え、心からなる深い感謝の気持ちを表したという。
 「蚕種」とは、養蚕用の蚕の卵を和紙に植え付けたもので、1箱2万粒の単位で販売された。1枚の原種から24.5キロの繭がとれた。八尾の蚕種は病原をもたない良質なもので、全国の四分の一も生産された。幕末には遠くフランスまで輸出された。「種屋」という蚕種販売行商人がいたが、全国に懸場を持つ売薬さんは種屋が廻りきれない広い販路で、八尾の蚕種を運んだ。
 売薬さんは「薬売り」という本業のほかに、全国各地の農業生産の向上に貢献した役割は大きい。商売そっちのけで親身になって、得意先の人々のために尽力した。
北海道開拓と売薬
 富山売薬が北海道に最初に足を踏み人れたのは、享保(1716〜1735)の頃であるが、本格的な商いは明治以後である。富山県人の入植は明治20年代(1885〜)で、30年代(1897〜)になると移住者数順位で1位を占めるようになった。そして県人移住者の動きに、影のように追いかけたのは売薬さんであった。
 富山県からの移住戸数(1882〜1935)は全道71万余戸のうち、7.5パーセントにあたる53,850戸である。富山売薬は北海道の新天地を商業の開拓者精神「フロンティア・スピリッツ」で市場開拓に入ったのであるが、富山県民移住者の激増という背景も考えられる。
 富山県からの開拓民は、始めは水産業者で、根室・釧路・広尾という東海岸であった。これらの地域には越中町や越中衆の集落ができた。大漁と不漁の差が激しく、漁師も漁場を転々とした。しかし、売薬さんは今年は集金できなくても次に期待をかけた。翌年の大漁ですべての支払いをしてくれることも度々あったからである。
 明治30年代以降、内陸・奥地への開拓が進み、県人だけでなく、道内一円に販路を求めて分け入った。売薬さんの顧客獲得は、開拓者に匹敵するほどの苦労の連続であった。行商期間は7月から翌年3月までの約8ヵ月で、出発する時は水盃を交わして出る時代でもあった。
 北海道の自然は酷烈で寒気、交通・生産の何れをとっても並大抵ではなかった。旭川では氷点下40度を記録するほどで、そんな時でも売薬さんは不十分な防寒具を着けて廻商した。道路は秋になるとねかるみ、歩くことが因難になるほどであったが、重い柳行李を背負って歩き続けた。明治から大正にかけては、2年毎に冷害・凶作で、穀物の収穫がほとんど無い時もあった。
 寒気はまだしも、集金不能になって帰省の汽車賃の心配をしなければならなかった。十勝の大森林の中を分け入って開拓者集落を訪ねるときは、5、6百メートル先の目標を定めて歩かないと迷ってしまうことがあった。熊の危険に脅えながら、村々を訪ね歩くのは実に大変なことであった。
 しかし、売薬さんはひるむことなく得意先を拡大した。開拓民にとって、馬はかけがえのない財産であり、助力者であった。耕作にも、隣家に行くにも、病人を病院に運ぶにも馬がなければ用を足せなかった。馬は開拓民の仕事と暮らしに欠かせない命綱であった。馬が病気になると倒れないように柱に縛った。馬は倒れると再起できないからである。そして気付け薬として「神薬」を飲ませるのである。売薬さんは神薬を大さな瓶に入れ、何本も背負って開拓民の家に届けた。神薬を牛馬の薬に用いるのは、北海道ならではの窮余の策であった。
 あらゆる辛苦を克服して、北海道開拓民に薬を届けたことが、その後の道内の市町村史のなかに記されたのである。北海道開拓の陰の功労者は「富山売薬」であるといわれるくらいである。
商品は信用と信頼
 富山売薬は「先用後利」という徹底的に顧客側に立った販売システムをとっているが、顧客にしても行商から「薬」という命にかかわるものを買うのだから、そこに売薬さんへの信頼がなければ成り立たない。その信頼に応えるため、先輩から厳しく躾られたのはまず礼儀作法であった。仏壇があれば合掌することも忘れなかった。もちろん、薬についての深い知識・教養も求められた。一方、売薬の側から見れば、顧客への無担保の信用貸である。「先用後利」とはまさに人間相互の深い信頼関係に基盤をおくものであった。
(まえだ ひでお・富山市埋蔵文化財委員会長)
−平成14年1月26日放送−
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