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テレビ放送講座 平成5年度テキスト「第6回 龍神さまはきまぐれや 〜水の祭り〜」


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TOP 第6回 龍神さまはきまぐれや 〜水の祭り〜 米原 寛

はじめに
 「越中百川」なる語の示すごとく、本県では大小あわせて数多くの河川が流れている。それらは灌漑用水、生活用水をもたらすと同時に、時として洪水を引き起こすなど、恩威両面を兼ね備えている。ことに治水技術の未発達な前代にあっては、後者による惨禍は大きく、したがって各河川流域では水の安定供給を祈願する特色ある水神祭祀、水神信仰が発達した。
 また、河水の持つ浄化力・流しやる力を利用し、悪しきもの、罪・けがれを流しやろうとする、いわゆる「流す祭り」も本県では広く見られるところである。
 そこで、ここでは、水神祭祀、水神信仰のみならず、このような「流す祭り」をも含めて、広く県下の水に関わる祭りを眺め渡してみたい。
水神信仰
 県内各河川には、前述のごとく特色ある水神祭祀、水神信仰が分布している。水神の実体は、巨石などきわめて原始的なものから、龍神、弁財天など特定の神格に昇華したものまで多種多様である。また、その祭祀の仕方も地域により変化に富む。ここでは、そのような県内の多様な水神祭祀、水神信仰を流域毎に一瞥してみよう。
 黒部扇状地の扇頂部に近い宇奈月町下立地区では、6月21日、愛本橋下の淵の主に嫁ぎ蛇体と化したお光を祭る愛本姫神社の祭礼が、「御影様渡し」(乗如上人の絵像の巡行)と並行してなされる。
 当日午後1時、橋詰の神殿前で神職が祝詞奏上の後、神殿の扉を開け神殿奥に掛かったお光の絵像を一般公開する。絵像は花魁を描いた浮世絵風のものである。絵像の公開は午後3時まで。3時になるや再度神職が警蹕を唱えつつ扉を閉め、神事そのものは終了する。近年、このような簡素な神事とは別に、嫁入り姿のお光に扮した地区の少女を先頭に、蛇踊り風の蛇の作り物が続くといった行列が地区民によって企画実施され、地区の活性化に一役かっている。
 ところで、ここで注目したいのは、祭礼に先立ち19日から粽(ちまき)作りがなされる点である。団子を包むための笹の採取は男衆、採取された笹で団子を包み込むのは女衆、笹で包み込まれた団子を大鍋で煮るのは男衆といったように、男女間の分業により粽作りが進められる。作られた粽は、愛本姫神社の神前に供物として供えられる分、地区内各戸へ配布される分を除外して、祭礼当日10個を1組として一般に土産物として売却される。
 この粽については、お光が遺族に置土産として残したそれに起源を求めてはいるが、正月や盆に歳神や祖霊に粽の一種を供える民俗例があることから考えて、元来それは人への置土産というよりはむしろ蛇体と化したお光、すなわち水神自身への供物であったと考えられる。そして人がそれを食するようになった経緯については、神祭りの後の神人共食の段階の存在、すなわち神に供えた供物のお下がりを人もいただくという、いわゆる「直会」の場の存在に説明を求めることができる。人が神への供物のおこぼれにあずかるようになったと言ってもよかろう。ところがやがて、粽は人の食するものであるという人間主体の意識が濃厚になるにつれて、その神供としての意識は逆に希薄化し、「神が人のおこぼれにあずかる」という逆転現象が生じたと考えられまいか。いずれにしろ、愛本姫神社の祭礼は、水神祭祀と粽が結びついた貴重な事例と言えよう。
 より古態を留める水神信仰として、魚津市片貝川上流域南又谷の蛇(龍)石信仰があげられる。蛇(龍)石とは、幅約2m、高さ約1.5mの白色花崗岩に黒色輝緑岩が貫入したもので、貫入した輝緑岩があたかも蛇(龍)がまつわり付くごとき形状を呈しているため、かく呼称されている。この石については、往古信州渡りの猟師三太が退治した妖龍が石に巻き付いたものとの伝承が存在する。また、旱魃時、この石を叩くと大驟雨が起こると地元では伝承しており、事実、昭和5年6月の大旱魃の際、大渇水に耐えかねた沿岸農民の代表がこの石を叩いたところ、即座に降雨をみ、干害から救われたという。あるいは、女の腰巻を石にかぶせると降雨をみるとも伝承する。石叩き、腰巻かぶせ、いずれも龍神すなわち水神を怒らせて雨を得ようとする雨乞い法の一つである。このように、蛇(龍)石は地元民レベルで篤い崇拝の対象となっているが、それのみならず、およそ民間信仰とは無縁と考えられがちな近代的電力会社によっても尊崇されており、毎年定期的に蛇(龍)石祭祀がなされている。すなわち、毎年5月中旬、蛇(龍)石の傍らにある龍石神社の社前に電力所員参列の下、神職が祝詞を奏上、しかる後所員が蛇(龍)石にお神酒を注ぎ、水の安定供給を祈願するのである。古来からの土着の蛇(龍)石信仰の上に電力会社の蛇(龍)石祭祀が乗っかる形で、いわば重層的信仰が成立しているわけであり、現代に生きる民俗として非常に注目すべき事例と言えよう。
 片貝川及び早月川下流域の堤防上、あるいは川縁には「万堂様」、「万度様(さん)」、「川原の宮」などと呼称される水神の小祠が点在する。
 「万堂様」、「万度様(さん)」の呼称は伊勢の万度祓に由来し、祓の際伊勢の御師より授与された大麻を堤防の決壊しやすい箇所に小祠を作り安置、水の鎮めとしたのに起源を持つとされている。すなわち、「万堂様」、「万度様」の分布は、分布域への伊勢信仰の浸潤を如実に物語るものである。しかしながら、小祠中の神体は先述の伊勢の大麻のみならず、自然石、石像、木像などと多様であり、地域性を反映している。また、祠の形式も流れ造り、春日造り、寄せ棟造りなどと変化に富む。更に祭日も2月、村社の春祭りと同日、7月と多様であり、かつ祭祀形態も神職が関与し村全体でなされる場合、神職が関与せず村民のみでなされる場合、そして全く個人でなされる場合など地域差がある。
 以上のような相違点を持ちながらも、いずれの祠も川の方向に向き、水の鎮めをしっかりとなしている。
 いずれにしろ、「万堂様」「万度様」は地域農民にとってきわめて切実な要求から祭られ始め、現在に至るまでその信仰は継続しているのである。
 河川流域よりやや外れ、信仰対象が少々不明瞭なものの、特色ある中新川地方の水の祭りとして、上市町の「ショウズ(清水)祭り」があげられる。同町の若杉、宮川、種地区では6月13日の祭礼が近づくと、祈禱札が準備される。祭礼当日の朝、神職と宮総代、及びその年の世話人が田圃のショウズ池十数箇所に祈禱札を立てて巡回する。宮川地区では当日子供達が幟を立て、太鼓を叩いて地区内や田圃を巡回する。巡回後、携えてきたお神酒を高く掲げて、祈 札の立てられた田の中へ注ぎ、水不足のないよう祈願する。種地区では水源地にある九頭龍権現の石碑にお神酒を供えて礼拝後、水源地に酒を注いで、水の豊かならんことを祈願した。
 常願寺川東岸に位置する立山町西大森では、常願寺川から出た巨石を水神として祭祀している。常願寺川のたびたびの氾濫に悩む当地区で、この巨石の所在するところから東側に浸水しなかったため、この巨石を水神として祭ったという。
 目を庄川流域に転ずると、東砺波郡庄川町庄地区に弁財天祭りがある。この弁財天は庄川扇頂部の川原に立地し、慶長年間(あるいは天正年間とも)勃発の洪水に際し、その惨禍を免れた小島(丘)に前田利長が祭り込めた弁財天にその起源を持つと伝える。扇頂部という場所柄から、古くより庄川流域の農家を洪水から守護する水神として広く崇敬され、とりわけ33年毎の御開帳に際しては、近郊の村々から芸能を伴った祝儀の行列、いわゆる「上がりもん」が奉納され、殷賑をきわめる。最も新しい「上がりもん」は平成2年8月に実施された御開帳に伴ってなされたそれであるが、それに先立つ2回、すなわち大正13年および昭和32年の「上がりもん」については、当時描かれた開帳絵巻物によってその様をうかがうことができる。
 「上がりもん」の行列は、①祭神のたかおがみの神、瀬織津姫の命、弁財天などの仮装②山海の珍味を捧持した村の役員③大神楽④酒樽・餅俵を担い棒で吊って運ぶグループ⑤獅子(百足獅子)⑥警備員の順で進む。
 行列の総勢は100人あまり、全長は200mに及ぶ。列は雄神橋を渡り、弁財天社正面でお祓いを受け、境内へ進む。雲集した人垣の中をそれぞれに身振り手振り面白く記帳場まで繰り込む。供物を記帳場へ奉納後、記帳場前広場で獅子舞を一通り演ずる。そのあと吊ってきた俵の紅白の小餅を吊り方と獅子方の若い衆が中心となって櫓の上から撒く。ことに、俵の蓋にしてあったサンダラ餅に人々が群がり、引きちぎられる。かくして、興奮の中、一連の「上が−りもん」行事は終了する。
 このように、庄川町の弁財天祭りは、弁財天という、水神が昇華した神格に開帳の年に芸能行列が奉納されるというように、県内の水神祭祀の中でもやや特異な祭祀形態をとっているという点で注目に値しよう。
流す祭り
 以上、水の祭りの中で、水神そのものを祭る祭りを一瞥したが、前述のごとく、悪しきもの、けがらわしきものを水の流れに託して流しやる「流す祭り」も、広義には水の祭りに含まれる。そこで、ここではそのような「流す祭り」を一瞥しよう。
 一例として、黒部市布施川中流右岸の村、中陣、尾山の「ニブ流し」、「七夕様」行事をそれぞれ取り上げ、その実態を述べることとする。
 中陣では、7月31日、午後から夕方にかけて、昭和25、6年までは青年団が、昭和55年以降は壮年会が中心となって、小・中学生が助力の上、神社や公民館で麦藁の船形(軍艦形)を作り、満艦飾にする。
 船を藁でなく、麦藁で作るのは防水性に富むためである。作る際、骨組の太さを均等にし、バランスがとれるよう留意する。船の大きさは様々で、熟練者は大きいものを、初心者は小さいものを作る。また、三角錘の船形を作った者もいた。
 夕刻、仕上がった船形を男子小学生が持って村中を回り、前川に着くと川の中に入り、上流より笛太鼓に合わせて船を押し流す。その時に次の唄を歌う。
 めでた めでたの 水無月の 三十日(みそか)の夜は 宝船
 我が村さして 漕ぎ寄せる あな喜ばし うれしいな
 来たれや友よ いざ来いよ 大船小船 漕ぎ寄せた
 えっさもっさと 宝船 運べかつげよ うんとこさ
この唄を復唱しながら、かつては船を流れるに任せていたが、昭和55年の行事復活以降、公害防止のため、川で押し流した後、一度引き上げて2、3日乾燥し、焼却するようになった。
 一方尾山では、8月7日、「七夕流し」がなされる。それに先立つ準備として、船作り及びそれに載せる「アネサマ人形」作りが、7月下旬よりなされる。小、中学生の男子は幅30㎝、長さ40㎝の長方形の板船を、女子は色紙で「アネサマ人形」をそれぞれ作るが、人形作りに関しては近年は老婆に委託するようになった。
 8月7日当日、子供達は仕上がった船や人形を1か所に持ち寄り、船1艘に人形1体を載せ、舳先と周囲4箇所に色紙で作った笹飾りを垂らす。また、板の四隅に蠟燭を立てる。
 当日の行事の運営・進行は青年団が中心となる。具体的には、川の清掃、川沿いに七夕飾りを立て並べてぼんぼりを付けること、流す時刻の決定、蠟燭の準備、流す順序(男女交互)の指図、笛・太鼓の演奏などである。
 午後9時になると、川の上流から笛・太鼓の音にあわせて、最初に青年団員が長さ1.5mの杉葉船(スンバブネ)を押し流し、続いて子供たちが男女交互に「アネサマ人形」を載せた船を押し流す。また、昭和55、6年までは、杉葉船の前に青年団長が提灯を持って進み、最後尾にも杉葉船が付いた。杉葉船の中には、現在は灯篭を乗せるが、昭和55、6年までは、藁製の馬、いわゆる「七夕馬」を載せたと伝承する。以前は船を流れに任せたが、現在は公害防止のため、200mばかり船を押し流した後、川岸に上げる。そして、「アネサマ人形」、笹飾りは他の七夕飾りと同様焼却、船板は翌年再利用する。
 以上、中陣、尾山の「ニブ流し」、「七夕様」両行事を述べたが、両者を比較するに次のようなことが指摘できる。行事が本来の8月7日になされること、船が中陣のように軍艦形をとらず、板を長方形もしくは船形に切りぬいただけのものであること、板上に自己の罪・汚れを移し払う人形を載せること、「七夕馬」を随伴することなどからして、尾山の行事の方が中陣より古態を留めるとはいえ、両者とも船形を流すにあたり河水に入ることによって、結果的に1年の節目にあたり禊的行為をなしていると言える。また、尾山の場合、いわゆる「祓の人形(ひとがた)」が行事に随伴することからして、祓的性格も持っているのである。このように両者の間には、共通点、相違点双方が存在するものの、いずれもその根底には河水の持つ浄化カ、物を流しやるカへの期待が横たわっているのである。
 かの、福光町の「ネツオクリ祭り」も、病虫害を託した一対の藁人形、いわゆる「ジジババ」を田圃を巡回後、小矢部川へ流すことからわかるように悪しきものを「流す祭り」としての性格が濃厚である。さらに、海に目を転ずれば、滑川市の「ネブタ流し」も、海に悪しきものを「流す祭り」なのである。  
おわりに
 以上、「流す祭り」も含めて、県内各河川流域に発達した特色ある水の祭りを一瞥した。そのいずれもが5月から8月にかけての農作業にとっては重要な節目に営まれている。そのような意味で、水の祭りはすぐれて夏の祭りなのである。そしてそれらはいずれも、時代の流れによるなにがしかの変貌を遂げつつも、現代に生きる民俗として脈々と実施され続けてきている。
 そのような祭りの中に、我々は自然に対する古人の敬虔な心意や祈りを読み取るとともに、それをぜひ次代に伝えていきたいものである。
(もり たかし・富山県立高岡高校教諭)
−平成12年3月5日放送−
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