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テレビ放送講座 平成13年度テキスト「第5回 資本が近代を拓く」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '02/02/16

TOP 第5回 資本が近代を拓く 須山 盛彰

売薬 越中売薬のこころと知恵 売薬行商人などを教育する機関の一つとして寺子屋が挙げられる。近世の子供たちは、遊んだり、家職、家事を手伝って見習うというだけで、成人として社会から「一人前」と認められることはなかった。子供たちには「文字」の読み書き、算盤を使って計算能力を養うことが要望され、それに応えて民間の有識者や武士、浪人が任意に開いたのが寺子屋であった。
 江戸時代から富山では、和紙の生産や印刷業などが売薬に関わって興っていた。明治時代になると、売薬業者たちが長年かけて貯めたお金や知識が、新しい基幹産業を興すために役立てられた。
売薬が根幹となる産業樹 左の模式図(産業樹)は、売薬を中心に富山の産業が育っていったことを示す、いわば「売薬の木」ともいえる図である。木の大本は、江戸時代に興った売薬業者と古くからの農業者(地主)が支えている。明治時代以前には藩のきまりで、蓄積した資本を他に投じることが禁じられていた。明治を迎えるとその束縛が外れ、売薬業者は金融機関をはじめ、水力発電・鉄道・各種製造業・出版や印刷・教育などの幅広い分野に投資していった。
 昭和・平成と時代が進むにつれて、産業の姿が電子機器・バイオテクノロジー・ITなどと変化しても、そのルーツが売薬に求められるものが数多い。この「産業樹」はそのことを示している。
地元資本でできた富山の銀行
 明治5年(1872)国立銀行条例が公布されてから各地に銀行ができ、富山では明治11年(1878)に富山第百二十三国立銀行が設立された。その銀行の頭取は士族の前田則邦だったが、5人の役員のうち2人が売薬業者であった。それは副頭取の密田林蔵と取締役の中田清兵衛(14代)で、この2人が実質的な資本提供者であった。
 その後、明治16年(1883)に金沢にあった金沢第十二国立銀行と合併、名称を富山第十二国立銀行とすることになった(明治30年に十二銀行と改称、私立銀行に)。士族中心の金沢十二と売薬業者や地主などが中心の富山百二十三が合併することにより大きく発展し、北陸地方や北海道に勢力を伸ばした。
 明治後期には、第四十七銀行・高岡銀行・富山貯蓄銀行・密田銀行など各地に中小の銀行が設立されたが、それらにも多くの売薬資本が関わった。昭和18年(1943)、戦争遂行のための国策として「1県1行」の方針が取られ、十二・高岡・中越・富山の4銀行が合併し、北陸銀行が誕生した。その初代頭取になったのは、十二銀行頭取で薬種商の中田清兵衛(第15代)であった。これらの銀行は、富山県の産業を支える重要な要となっている。
水力発電から各種製造業へ
 薬種商の金岡又左衛門(初代)が、明治30年(1897)、「洪水禍のエネルギーを電力に変える」という密田孝吉の夢に共鳴し、富山電灯を設立。同32年には大久保発電所を建設して150キロワットの電灯用電力を送電したのが、富山県の水力発電の始まりであった。
 富山電灯への出資の中心になったのは、金岡をはじめ中田清兵衛・密田兵蔵・邨沢金広・松井伊兵衛・田中清次郎らの薬種商や売薬業者の人々であった。また、十二銀行などの銀行資本も、この新しい事業に積極的に助力した。
 富山電灯は明治42年(1909)に富山電気、昭和4年(1929)に日本海電気と改称し、その後各地にできた中小の電気会社を併合して地方の大手会社に成長した。昭和16年(1941)、電力の国家管理が実施されたため、北陸3県の電力会社がまとまって北陸合同電気を発足させた。同26年、戦後の電力再編成時、北陸の重要性が認められて北陸電力9電力会社の一つとして設立され、今日に至っている。
 一方、富山県内では豊富で安い電力が利用できるため、明治末期以降、紡績・化学・金属・機械などの近代工場が次々と設立された。大正10年(1921)には、富山県の工業生産額が初めて農業生産額を上回った。
 売薬業者は、これらの諸会社の設立に参画したり、株主の形で関わったりするものが多かった。主な業種は、はじめ織物業が多く、その後、商業(呉服・書店)・運輸・水産・保険・出版・新聞・広告などの分野にわたった。また、売薬関連業種としては容器製造・印刷・製紙(和紙)などがある。
 容器製造は薬品を入れるビンやカンなどの製造であり、印刷は各種の薬袋や効能書・薬箱などの印刷、製紙は売薬を包装するための紙袋、あるいは膏薬用の紙(合紙=和紙を何枚も張り合わせて作った)などを生産することであった。容器の曲面などに直接印刷する特殊印刷の技術も発達した。
 容器製造・印刷・製紙などは、はじめ売薬関連業種として出発したが、大正・昭和の時代を経るにしたがい、他の業種との結びつきが次第に強くなり、売薬とは別の分野で大きく成長した企業が多い。
富山の県民性も「売薬」ゆずり?
 売薬業の影響は、銀行・電カ・製造業などの基幹産業や関連の諸産業を育てたにとどまらない。それらの産業の担い手を生み出す土壊、つまり「県民性」の形成に大きな影響を与えていると言えないだろうか。
 富山の県民性は、一般に真面目、勤勉、倹約、慎重、努力家などといわれる。これらの特徴はすべて、富山の売薬さんたちが長らく大切にして守ってきた事柄である。 
これらを守ることにより売薬業を続けることができ、財を蓄えることができたのである。その姿を見て一般県民にも、好ましい生き方として見習われてきたとしても不思議ではないであろう。さらに、勉学を好み、学問を大切にする気風は、富山が「教育県」といわれる最も基礎的な要因であるが、これも売薬の風土と無関係ではない。
 また、明治以降の富山出身の人物をながめても、産業・経済界で活躍した人たちが、政界や芸能界などに比べて断然多い。それらは安田善次郎・浅野総一郎・中田清兵衛・黒田善太郎・大谷米太郎などの人たちで、売薬に関係の有る無しに関わらず、売薬の風土が育てた人物群像と言えるであろう。
売薬ルーツの優れ物たち
 売薬問題の企業家たちは、資本のみでなく売薬で培った知識や情報、事業の見通しの良さなどを発揮した。売薬関連の企業に源を持つが、現在ではまったく関係のない分野で成功している業種がある。
 富山名産「ますのすし」は、曲げ物と呼ばれる木の容器に笹の葉を敷き、その中にすしが仕込まれ、落とし蓋をし、しっかりと紐で結わえられている。そのすし桶を特製の紙箱や紙袋に入れて販売するのである。結構、手の込んだ包装であるが、そのことによって中身の品質が良好に保たれ、しかも、持ち運び易いように工夫されている。この「ますのすし」のパッケージの工夫が、元をたどれば売薬に行き着く。薬を入れる容器としての曲げ物や薬袋・紙箱などの応用・進化したものが富山のパッケージ産業なのである。
 県内には印刷紙器(印刷を施した紙器)の製造業が多く、アイデアを凝らした意匠の優れた包装を数多く見ることができる。また、薬小袋やおまけ紙、紙風船などの印刷意匠を手掛けた人たちの中から、グラフィック・デザイナーが生まれ、富山の広告文化を特色あるものにした。
薬の缶から缶ビールヘ
 私たちが見慣れている缶ビールと、生ビールの家庭用ミニ樽は、富山の売薬関連産業から生み出された。缶ビール容器などを生産している武内プレス工業は、明治時代に創業した「牛嶋屋金物店」を継承し、ブリキ缶などの薬の容器を作ってきた。明治34年(1901)には日本初のアルミニウム製高貴薬(六神丸など)容器を開発。以後、広貫堂と一体となって家庭薬容器の製造・研究を続け、押出チューブ、アルミ缶などの分野で次々と新製品を開発し、数々の特許を得ている。また、缶の表面の特殊加工やプロセス印刷などでも独自の技術を持っている。
 さらに、薬品の品質保持にはビンやガラス容器が有効な場合もあり、製壜工業も発達した。ガラスアンプルの開発から、各種の管ビンや理科学器の製造に発展した。また、戦後になって、ガラスや紙の代替ともいえるビニール、さらにプラスチック製造業の発達も促した。
(すやま もりあき・元県立富山東高等学校校長)
−平成14年2月16日放送−
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