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テレビ放送講座 平成2年度テキスト「第3回 川は暮らしを支える 越中の川と文化」


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TOP 第3回 川は暮らしを支える 越中の川と文化 廣瀬 誠

1.万葉集と越中の川
 天平19年(748)越中国守大伴家持(やかもち)は「山高み川遠白(とおじろ)し 野を広み草こそ茂き」と歌い、都市文明から隔絶した北陸地方の雄大な自然を讃嘆した。歌詞の中に川が遠白く光っている。まさに越中万葉の原点ともいうべき景観である。
 『万葉集』に歌われた越中の川は射水・雄神・鸕(う)坂・売比(めひ)・延槻(はひつき)・可多加比(かたかひ)・辟(さき)田・宇奈比(うなひ)・饒石(にぎし)の9川。『万葉集』に詠み入れられた河川名は約80で、このうち都の所在地大和の26は別格として、その他では越中が筆頭の9、次が近江の5と続く。越中は実に万葉の昔から川の国「川のまほろば」であった。
 家持の銅像は二上山に建っている。二上山から見下ろすと、射水川は眼下に屈曲蛇行し、そのかなたには庄・神通・常願寺の諸川が帯のように横たわっている。「川遠白し」の実感が惻々として迫ってくるながめだ。
 家持は「射水川いゆきめぐれる玉くしげ二上山」と歌い、「皇(すめ)神のうしはきいます立(たち)山」の「帯(お)ばせる川」(神の領有していらっしゃる立山、その立山の神が体に着けていらっしゃる聖なる川)と可多加比河(片貝川)の清き瀬を歌った。二上山と射水川、立山と片貝川。神山と聖川は一体のものであった。
 古代の日本人にとって、山も川も神であった。この心をアニムズムと名づけて軽蔑した近代人は、利欲のおもむくままに自然環境を破壊し、開発して、自滅の道を急いでいる。万葉の歌にみなぎる祖先(みおや)たちの敬虔(けいけん)な心情をあらためて味わいなおしたいものである。
 射水河は射水郡、売比(婦負)河は婦負郡の名を負(お)い持つ。律令制度によって郡は地方行政単位に編成されたが、もとは一つのクニであった。クニにはクニの国魂(くにたま)が宿っていた。その国魂と不可分の関係にあるのが郡名を負い持つ川であったろう。自然発生的な郷土としてのクニを貫いて滔々と流れゆく川の姿に、人々は郷土の守護神霊を実感したのであろう。家持は律令制度の行政官として赴任したが、山河に対する古くからの敬虔な心を深々と持ちつづけていたのであった。
2.清き瀬・清き河内
 越中万葉の川のうち、雄神川は葦附(あしつき)採る少女(をとめ)を映して紅匂(くれなゐにお)う「瀬」、辟田川も「河の瀬」、可多加比河も宇奈比河も饒石河も「清き瀬」、売比河は「早き瀬」、延槻河も鸕坂河も「渡る瀬・渡り瀬」が歌われた。実に9川中7川までが「瀬」を中心にして歌われた。
 特に辟田河は「山下響(とよ)み、落ち激(たぎ)ち、流る辟田の河の瀬」と山から激落するありさまが具体的に歌われ、可多加比河は「峯高み谷を深みと落ち激つ」と高峻な山から千仞の深谷へ落下する景観が豪快に歌われた。
 『延喜式』祝詞(のりと)には「高山の末、短(ひき)山の末より、さくなだりに落ち激つ速川の瀬にます瀬織津(せおりつ)姫」が万人の罪穢(けがれ)を一気に押し流し、清めてゆくと歌われ、伝誦的詞章が、神聖な早瀬のリズムをひびかせている。「瀬」とは日本人にとって特別の意味を持つところであった。
 可多加比河も射水河も「清き河内(かふち)」と歌われている。『万葉集』では吉野川の河内もしばしば歌われている。河内とは川添いの清らかな地で、日本人の最も愛好した地形であった。
 「清し」というのも万葉びとの好んだ語で、『万葉集』中、川について「清し」「清き」「清み」と表現したもの35例。そのうち8例までが越中の川について使用された。近年の科学的調査でも富山県の川の清いことが証明されたが、万葉の昔から越中は清き川、清き瀬、清き河内の土地柄であった。
3.雪解けの川
 延槻(早月)川は「立山の雪し消(く)らしも」とその雪解けの増水が歌われ、射水川も「南吹き雪消(げ)増さりて」「射水川雪消溢れて」と2回も雪解け増水の壮観が歌われた。『万葉集』全巻を通じて、雪解け増水が歌われたのは延槻・射水の両川だけだ。
 元禄14年(1701)越中の十丈(じゅうじょう)が俳書『射水川』を刊行し、「飛騨の雪くづれて涼し射水川」と水源地飛騨からの雪解けを詠んだのに対して、浪化(ろうか)は「射水川は万葉の姿に流れて昔の跡もなつかしければ」としたため「集(しゅう)の名の寝覚めも涼し射水川」の1句を寄せた。
 明治の初代富山県知事国重正文(くにしげまさふみ)は「常願寺所見」と題した漢詩を作り、その中で「千山ノ積雪始メテ融解ス、白日晴天、響万雷」と豪壮な常願寺川の雪解けを歌った。前田普羅(ふら)の「雪解の名山けづる響かな」も立山の雪解けであろう。木俣修は「遠く来し身をうち揺りて雪解水(ゆきしろ)はとどろき激(たぎ)つこの大河に」と神通川雪解の壮観を歌った。富山県の諸川をいろどる地方色濃い一連の雪解けの詩歌である。
4.生活舞台としての川
 家持は「射水川朝漕ぎしつつ唱(うた)ふ舟人(ふなびと)」と詠んだ。舟頭の舟唄まで題材にしたのは『万葉集』中、この1首だけだ。雄神河(庄川)では食用植物葦附(あしつき)を採る光景を歌い、また「鮎(あゆ)走る夏の盛りと、島つ鳥鵜養(うかひ)が伴は、行く川の清き瀬ごとに、篝(かがり)さしなづさひ上る」と鵜養(うかい)・鵜漁を職業とする漁師)たちが篝火を焚いて川瀬を踏みながら鵜漁をしている情景を歌った。鵜漁をこのように具体的に詳細に歌ったのは、これも越中の家持だけだ。川を舞台にした当時の庶民生活の端々があざやかに映し出されていてうれしい。
 鸕坂河も売比川も神通川の古名といわれる。江戸時代、神通川の鮎のスシは名物で、十返舎一九もその美味を絶賛した。明治33年、小島烏水(うすい)も神通橋畔の店でアユズシを求めている。アユズシに代ってマスズシが登場するのは近代になってからであろう。
 初冬の川には鮭(さけ)が溯上してくる。その荒巻を並べ吊るした店頭風景は富山歳末の風物誌となっている。平安時代の『延喜式』の越中産物中にすでに「鮭鮨(すし)、鮭氷頭(ひず)、鮭背腸(せわた)、鮭子」が見え越中の鮭は古くからの名産であった。
 明治11年、明治天皇北陸巡幸の時は、神通川舟橋で鮎漁、庄川では鮭漁を御覧になったという。明治45年、神通川は皇室御猟場に指定されたが、その年の7月、天皇崩御され、獲れた初鮎は、川魚を特別賞味された天皇の御霊前にお供えしたという。
5.川渡りの苦難
 越中の川は交通上の障害でもあった。わけても黒部四十八が瀬は難所とされた。『源平盛衰記』に木曽軍が「四十八箇瀬を渡し」、『義経(ぎけい)記』に奥州落ちの義経(よしつね)一行が「黒部四十八ケ瀬の渡りを越え」と記された。堯恵(ぎょうえ)の寛正6年(1465)の紀行では、晴天で、四十八ケ瀬も名ばかりであったとあるが、同じ堯恵(ぎょうえ)の20年後の紀行では、長雨増水のため渡河不可能で、むなしく魚津に足止めされ、四十八瀬が一続きの海のように見えたと嘆息して1首の和歌を書きとどめた。
 長享3年(1489)5月、万里集九(ばんりしゅうく)は越後から越中路に入り、「黒部四十八処ノ急流ヲ渡ル」と題して漢詩を作り、その中で「共ニ大竹一竿(イツカン)ヲ持チテ渡ル」と書いている。何人もで1本の大竹竿(さお)につかまって急流を渡ったのだ。登山家が1本のザイルに何人もつかまって谷川を渡るのと同じ方法であろう。
 早月・片貝・布施の諸川も歩渉(かちわた)りであった。天保7年(1836)五十嵐篤好(いがらしあつよし)は「大なる竹にとりすがりて」早月川を渡ったというから、万里集九の黒部川渡渉と同じ方法だったのだろう。片貝・布施両川は川渡し人夫に背負われて渡ったという。安永4年(1775)高山彦九郎は、これら諸川が雪解け増水で渡河不能のため、舟に乗り海上を迂回して対岸へ出たという。彦九郎は境川では「川こし」に乗って渡っている。あの比較的小さな川も雪解け時には恐ろしい水勢だったという。
 天保13年(1842)の田中屋権右衛門の紀行では、湯川も黒部川も布施川片貝川も皆満水で通行杜絶、翌日幾分水が引いたので川越人夫に背負われて渡り、越賃30文支払ったという。川渡りの労苦は大変なものであった。
6.愛本の刎橋
 四十八が瀬渡渉の労苦を軽減するため、加賀藩5代藩主前田綱紀(つなのり)が寛文2年(1662)黒部峡口に架けさせたのが愛本(あいもと)橋。刎橋(橋脚を作らず、両岸から材木をせり出した構造)として規模日本一の名橋。峡口に溢れ、うず巻く水がここから一気に扇状地に広がってゆく要(かなめ)の地点。その壮観は俳人大淀三千風(みちかぜ)、天和3年(1683)の「梯(かけはし)の眺望」以来文人讃嘆の的となって幾多の詩文が作られた。
 江戸時代7回架け替えたが、明治24年、木栱(きょう)橋の形式に変更されて旧観を失い、大正9年には鉄橋に変わり、昭和7年ダム建設のため凄味(すごみ)を失ってしまい、44年の大洪水で流失した後、更に新式の鉄橋が昭和48年建設された。
 江戸時代、この橋の架け替えの際には、渡し舟を設けたが、両岸に張り渡した繰り綱を頼りにした渡し舟で、これを繰り舟と称した。加舎白雄(かやしらを)は明和8年(1771)「刎橋のあとは両岸に残りて、ころ は五月雨(さみだれ)の水かさ凄まじとも言はん方なし、繰り舟の危うきこともまた限りなく」とその状況を書きとどめている。
 刎橋は加賀・越中の山間にしばしば構築された。庄川の仙納原大橋、利賀川の仙納原小橋、薄波川の橋、八尾町の井田川・久婦須(くぶす)川・部津曽(べつそ)川の橋などいずれも刎橋構造であった。
7.神通の舟橋
 黒部・片貝・早月の諸川、一般人は歩渡りで、芭蕉も元禄2年(1689)炎天減水期「黒部四十八が瀬とかや、数知らぬ川を渡」って通過したが、藩主の行列が通る時は臨時に舟橋を架設した。
松川常夜灯 神通川には、慶長10年(1605)頃、前田利長が木町先に舟橋を創設した。これは常設の舟橋であった。万治(1658)頃、前田利次がこれを現在舟橋と呼ばれている地点に移築した。
 64艘の舟を鎖(くさり)で繋ぎ、板を載せ、その上を踏み渡る仕組みだが、その規模壮大、景観雄大、日本一の舟橋であった。橘南谿(なんけい)の『東遊記』(寛政9年、1797)に「両岸の柱の太きこと大仏殿の柱よりも大なり、追々にひかへの柱ありて丈夫に構へたり」「その鎖の太く丈夫なること誠に目を驚かせり」と讃嘆している。富士谷御杖(みつえ)は文政4年(1821)、舟橋の姿に「いなばの白うさぎ」の神話を連想して長歌を作った。その他かずかずの紀行文、和歌俳句漢詩に歌われ、神通八景・長岡八景・桜谷八景などの名所にも選ばれた。まさに富山町第一の名勝であった。
 明治11年、北陸巡幸の明治天皇は黒部川の臨時舟橋、神通川の常設舟橋を渡られたが、これが貴人舟橋渡御の最後となった。明治15年、神通川舟橋は撤去され、木橋に架け替えられて280年の歴史を閉じた。神通川はその後河道変更工事で流路を変え、旧河跡は松川にわずかになごりをとどめている。舟橋址の地点にかかる小橋の名は今も舟橋と称し、南北の旧橋畔には往時の常夜灯が残され、頼鴨?(らいおうがい・三樹(みき)三郎)の漢詩碑が建ち、そぞろ昔をしのばせている。
 常願寺川河口「水橋の渡り」は『枕草子』にも記されたほどの名所で、室町時代の堯恵の紀行歌文にも歌われているが、渡し舟では不便なため、幕末ここに舟橋を架設する民間計画があったが、明治維新を迎えたので、急に計画を変更し、木橋を架けた。神通川舟橋の架け替えとともに新時代の到来を象徴する工事であった。
8.籠の渡
 山間峡谷には籠(かご)の渡(わたり)が架けられていた。両岸に張り渡した綱に籠をつるし、その籠に乗って繰り綱を引きながら谷を渡る施設。神通川の越中・飛騨国境の籠の渡が古来有名で、元禄の頃、俳人凡兆が「越より飛騨へ行くとて、籠の渡の危き所々道もなき山路をさ迷ひて」と前書きして鷲の巣の名吟をとどめた。この籠の渡は多くの紀行歌文に紹介され、広重の版画にもなって全国に知られた。
 五箇山の庄川の谷にも下梨はじめ13カ所の籠の渡があって、蓮如上人や赤尾道宗の伝説にいろどられている。俳人路通は元禄8年(1695)「ふらふらと籠の渡りやほととぎす」と詠み、『二十四輩順拝図会』(文政7年、1824)は見事な木版画を載せている。籠の渡の下に牛渡り瀬があって、牛は荷物をはずして谷川を渡らせられているが、その光景は交通運輸史の一こまとして興味深い。
 神通川の籠の渡は明治5年木橋に架け替えられ、庄川の籠の渡は明治8年以後次々鎖(くさり)橋(鎖で吊るした頑丈な吊橋)に架け替えられた。
 黒部峡谷の平(だいら)には、登山史上有名な籠の渡があって、渡河中綱が切れて難渋したエピソードなどもあるが、大正15年吊橋となり、その吊橋も昭和36年、黒四ダムの湛水によって永久に水没した。
 常願寺川湯川谷の籠の渡は、明治26年、ウエストンがこれを利用し、蛙飛びのような格好で籠乗りしたことをユーモラスに書いている。明治38年、若き日の山田孝雄(よしお)が立山から下山して雨の湯川谷を通った時、橋が落ちていたため、山の人達が急造りの籠の渡を架けてくれ、これに乗って激しい濁流を渡ったという。そのような技術が山民の間に伝えられていたことは注目すべきであろう。
9.藤橋と吊橋
 立山の関門、称名川には藤橋が架かっていた。(材料上、藤橋といい、構造上吊(つり)橋という)。5本の藤蔓(ふじづる)で作ったもので「ふらふらと動く事、軽わざの縄を伝ふ形に異らず、足のうちこそげる様にて危く」などと記され、恐ろしく危ないものであった。
 明治以後、鉄線使用の吊橋に進化し、更に木板を敷きつめた頑丈な吊橋、次に鉄筋コンクリート橋脚の木橋、昭和44年以後、近代的橋梁となったが、地名と橋名は今も昔のまま藤橋だ。
 黒部川欅平(けやきだいら)には、激流の上でゆらゆら揺れる大吊橋があって、昭和30年頃の切手の図柄にもなったほどで、黒部の1名所であったが、祖母(ばば)谷砂防工事の必要から、トラックの通る頑丈な鉄橋に架け替えられた。
 峡谷上流には、今も登山者用の吊橋がいくつも架かっているが、材料はすべて鉄線使用だ。それも年々変わってゆく。私が黒部峡谷下ノ廊下(しものろうか)に分け入ったころ各所で渡った、目のくらむような高くて長い吊橋は今どうなっているであろう。
10.川にまつわる伝承
 安政5年(1858)大鳶(とんび)崩れで常願寺川大洪水の時、岩峅の崖も崩れ落ち、宿坊24坊のうち9坊が押し流され、刀尾(たちを)神社も流された。境内の女釜が流されたので、男釜は女釜を恋い、女釜は流されながら男釜を呼び、2つの釜が雷のように鳴ったという。現在境内には男釜1つ据えられている。女釜は釜が渕の底に沈んでいるという。
 芦峅の釜も流されたが、祭の日になると、この釜は魚の鮭になって遡上し、芦峅へ帰ってくるという。
 同じ洪水の時、常願寺河口の水橋では、濁流の中に鯨のような巨大な生物がうず巻く水をかき立てながら出没し、やがて大きな青い光がポカリポカリと2,3度立ち上がって見えたという。
 神通川舟橋の下に大カレイが生息していて、体をひるがえして日光を反射させ目のくらんで川に落ちる人を食ったという。富山城主前田正甫が短刀をくわえて川に躍りこみ妖怪を退治したともいう。黒部川愛本の渕の主もカレイで、愛本の茶店の娘は代々渕の主のカレイに嫁ぐしきたりであったと『稿本越の下草』(天明頃、1718頃)に記されている。
 しかし通常伝えられている愛本の渕の主は大蛇であったという。若侍に化けて現れ、茶店の娘お光をつれ去った。後、娘が出産のため里帰りしたが、老父母が覗いてみると娘は蛇の子を生んでいた。娘は親子の縁を切って渕へ戻ったが、別れしなに教えてくれた製法のよって粽(ちまき)を作って売り、余生を送ったという。
 子撫川のほとりの農家に若い旅僧が一休みし、娘のすすめる茶を飲んで立ち去った。娘はその僧に思慕の情を生じ、僧の飲み残した茶の一しずくをすすった。その後、娘はただならぬ身となって、やがて男子を出産した。3年後、修行終えた僧が立ち寄った。娘が今までの出来事を話すと、黙々と聞いていた僧は男の子を引き寄せ、静かに撫でてやった。可愛い男の子はみるみる融けて泡になった。その泡は子撫川に流され、あとかたもなく流れ去ったという。これが子撫川の名のおこりであるという。
 片貝川の奥で狩人が龍を射殺した。龍のとぐろを巻いていた岩には、今も龍の紋様が鮮明に見える。雨乞いの時、この石を叩くと雨になるという。傍に龍石神社が祭られ、毎年祭礼には、龍石に神酒(おみき)をそそぐならわしで、この谷に発電所をもつ電力会社が祭を続けている。
 小矢部川の女龍のもとへ加賀白山谷の男龍がしばしば通っていたが、赤丸の城主がこの男龍を射殺した。射殺後、城主はにわかに病み、数日で死んだ。その後、近くの禅寺に人間の姿で現れた女龍が「城主を取り殺し、夫の仇を討ちました。この上は和尚のお力で蛇身の罪障を除き、仏果を与えて下さい」と懇願し、和尚に引導を渡されて成仏したという。
 黒瀬川のほとりの家の先祖伝来の釜を女中が洗っていると、釜はうなりを生じて川に飛びこみ、行くえ不明になった。天気のよい日には、この釜が岸にはい上がって日光浴するが、捕まえようとすると川に飛びこんでしまうという。
 魚津奥、松倉城の下、角(かど)川のほとりの農家に伝来した手取釜は、その三本足の一つ一つに亀が鋳込んである見事な品であった。角川でこの釜を洗っていると、急に三本足の亀が動き出し、その一つがもげ落ちて泳いでいった。残る二つもモグモグ動いているので、あわてて縄でしばりつけ、しっかり抱えて家へかけ戻り、秘蔵したという。今でも角川に生息する亀の中には、1匹だけ釜からもげ落ちた鉄の亀がまじっているという。
(ひろせ まこと・富山女子短期大学教授)
−平成3年2月9日放送−
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