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テレビ放送講座 平成8年度テキスト「第3回 初夏の香り鮎漁」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第3回 初夏の香り鮎漁 岡部 清治

川と生きる 〜富山の川魚漁〜アユに魅せられて
 アユは昔から清流の女王とよばれ、多くの人々に親しまれてきた。釣りあげたときのアユの姿とその輝きは特に美しく感じる。
 素早い泳ぎ、強い警戒心、釣り人のハリにも簡単に掛からない賢さもまた人びとの心を魅了する。
 アユはその特有の櫛(くし)状の歯で、河川生産の基盤となる水域の石に付着した藻類を噛み削って食べるという特技の持主で、その量は1日に体重の半分以上ともいわれる大食漢だ。だから餌場への執着が強く、ナワバリ意識が盛んで、侵入する他魚には追い出そうとして激しく攻撃する。「友釣り」は、アユのこの習性をうまく利用した日本独得の釣漁法で、オトリアユを使っての釣趣の深さに人気が集まっている。
 「働き過ぎ…」といわれる日本人にも、最近は自然と親しみ、余暇を楽しむゆとりがひろがり、県内のアユ釣り人口も5万人を超えた。
 自然豊かな富山の川、そこで育まれる香りのよい、姿の美しいアユは、人びとにこのうえない健康的な娯楽を提供し、未来を担うこどもたちには自然環境の素晴しさを教えてくれる。
 豊かな自然とアユ資源が正しく位置づけられれば、単に水産資源にとどまらず、町おこし、村おこしなどでの経済効果にも大きく貢献できることだろう。
 さて、私とアユとのつき合いは、もう50年近くになる。アユとの出会いは、富山市が戦災の爪跡も生々しい昭和22、3年ごろだ。友人のすすめで毛バリから始め、数年を経て友釣りに移った。友釣りの最初の1匹は山田川だった。佐藤垢石著「鮎の友釣り」(昭和9年7月刊行、万有社)を手引書に、あれこれ仕掛けを工夫しての挑戦だった。坊主覚悟での釣行だったから、まさかの1匹で胸は高鳴り、足はガクガク、やっと玉網に取り込んでホーツと溜め息をついた。
 初日の釣果のこの1匹のことは、いまでも新鮮な印象として残っている。私が友釣りにのめり込んでいったのはこのときからである。
アユは清流の鬼女?
 いま川には、海から溯上してくる天然アユ(海産アユ)、琵琶湖で稚魚を採捕し放流した湖産アユ、そして採卵から放流まで人間が管理した人工産アユが棲んでいる。この三つのタイプのアユを、姿、形から識別することは容易ではない。識者は魚体の構成部分、例えば鱗を顕微鏡で拡大、その輪紋から生活の跡、履歴を調べて判別する。湖産アユは天然アユより2カ月も早く生まれるから、これが輪紋の数の違いとして現れるのである。
 しかし、釣り人は実践にもとづく(感性的)情報から、天然、湖産の区別をしているようだ。
 いま、河川に放流されている椎魚は湖産アユが大半を占めている。湖産アユはナワバリに固執する性格が強く、追い気抜群だから友釣りでは最も人気が高い。川を降りるのが9月と天然アユより釣期は短いが、天然アユ溯上のある川でも湖産アユの放流は不可欠だ。
 つまり、追いはじめるのが遅く、下降するのも遅い天然アユと、追いも早く、下降も早い湖産アユの特徴をうまくとりあわせて、バランスよく放流すれば、釣り人はそれだけ長く友釣りを楽しむことができるからである。
 人工産アユ放流の歴史は浅い。昭和50年、富山漁業協同組合が八尾町薄島地内に建設、翌年から本格生産に乗り出し、最初は80万匹を生産。その後増殖技術の進歩で、現在では180万匹が主として神通川に放流されている。
 人工産アユへの依存度は年々高まってきているが、このアユには放流場所からの溯上がすくなく、周辺に留まるか、ちょっとした出水でもかんたんに下ってしまうという、クセというか難点がある。やはり流れのゆるい養殖池での飼育がその原因なのだろうか。
 また人工産アユは追い(ナワバリ意識)も天然産、湖産に劣る、という人もあるが、最近での人工産アユの品質向上には目覚しいものがあり、飼育池での管理、放流時期の研究などでこれらの課題解決の日も遠くないことと思われる。
 天然アユが川をのぼりはじめるのは、海水温と川の水温が接近する4月下旬ごろからで、そのピークは6月という(富山県水産試験場談)。海ではプランクトンを餌にしていた稚魚は、川にのぼると歯の型が変って付着藻類(珪藻)へと食性が変わる。そして川岸寄りの流れのゆるやかなところを選んで帯状に群れを作り、上流を目指すのである。
 中流域に達するころには13、4センチに成長し、やがて群れから離れてナワバリをもつ。だが、すべてのアユがナワバリを持つとは限らない。群れアユのまま一生を過すのもいる。
 また、天然アユは湖産アユにくらべて遅い時期までナワバリをもつ習性があるので、晩秋にかけて釣れるほとんどは天然アユと見てよい。
 釣り人にとって気になるのは、海からどれだけの稚魚が溯上するかだが、水産試験場でも詳しい調査がなく、その数はさだかではない、しかし放流するアユの数倍、いや数十倍にのぼるのではないか、というのが一般的な見方である。
 湖産の放流アユは成魚になって産卵、そしてふ化しても、ふ化した稚魚は海へ下ると死滅する−、つまり再生産しないという水産学者の説が、もし本当としたら、アユの将来を考え天然アユの保護、増殖にはもっともっと力をつくす必要がある。
 「さいきんのアユは追いが悪く、釣りにくい」という声をよく聞く。
 アユは川を溯って大きくなると、餌になる良質の珪藻(石垢)を確保するため一定のナワバリをもつことは前に述べたが、釣り人の操作する掛けバリのついたオトリアユにそのナワバリ荒しをさせ、怒った野アユがそれを追いかけるのを利用するのが友釣りの原理−。ということは、アユがナワバリをもち、強弱にかかわらずそれに執着するという性質さえ失わなければ、いついかなるときでも友釣りは成り立つのである。
 アユのナワバリへの執着はさまざまで、ちょっと追う素振りを見せるだけのものもいれば、オトリがナワバリを離れるまでしつこく追いかけまわすのもいる。
 はじめはオトリアユの後ろについていただけのアユが、オトリが逃げようとするや突然背ビレを立て、口をカッと開いて形相すさまじく体当りをくらわせる。その優美な姿で清流の女王といわれるアユだが、オトリに立ち向かうときの荒れ狂うさまは、さしずめ「清流の鬼女」としかいいようがない。
アユを香魚ともいうが・・・
 「アユなんて美味しくても不味(まず)くても関係ない。たくさん釣れたほうがいいんだ」なんて思う釣り人はいない筈だ。アユはその呼び名の一つを「香魚」ともいう。良質のアユは西瓜に似た香りをもっているので、そんな名があるのだろうが、香りのあるアユほど美味しいのも事実だ。うまいアユは、きれいで美味しい水の流れに育つ。アユに限っては「水清ければ魚棲まず」の言葉はあてはまらない。
 美味しい水の流れる川には美味しい良質の珪藻が生え、その珪藻を食べたアユは美味しいのである。
 もちろん、水源地から良質の水が生まれても、ダムができて湖底に泥土が溜まってしまったり、人家が密集して生活排水が入り込み、燐や窒素などで富栄養化してしまった場合は論外である。
 橋の上から川を覗いたとき、川底の石全体が薄い茶色で、石垢(珪藻)が付いているかいないか、またその石垢にアユのハミアトがあるかないか判断に困るような、それでいて川底が明るく光っているようにみえる川のアユは総じて美味しい。
 一方、川底の石全体が茶褐色でくすみ、ハミアトがくっきり見える川のアユの味はややおちるようだ。
 2、30年前までは、朝早く河原を散策していると、川面から西瓜に似たアユの香りが漂ってきたものだ。
 先人たちはそんな場所を好ポイントとみて竿を入れたらしいが、その香りの源が、アユそのものの香りというよりも珪藻の香りだった、ということが分かっていたのだろうか。いい珪藻のあるところに美味しいアユが付くのは今も昔も変りない。
 ただ、最近はこの匂いにめぐり合うこともなくなった。水の流れが変り、汚れが進んで、芳香を放つ珪藻が育たなくなったのだろうか。
 川が汚染されると、真っ先に影響をこうむるのは、そこに棲む生物たちだ。汚染に弱いものは数が減り、さらに汚染が進めば死滅という事態も起る。
 かつてたくさん棲んでいた天然の魚が少なくなれば、環境に異変あり、と考えていいだろう。最近は水そのものの汚染とともに水辺の環境悪化が気になる。ジュースや酒、ビールの空き缶、それに弁当の食べ残し、タバコの吸い穀など、ゴミの量はおびただしい。いずれも釣り人が放置したものばかりだ。
 河川の環境変化に人一倍敏感であるはずの釣り人がこれでいいのか。「よごすまい、明日もみんなが来る釣場」。釣り人こそ率先して環境美化に努めるべきである。
清流を取り戻そう
 近ごろ川にでかけてみて、1つ気になることがある。川にこどもたちの姿がめっきり少なくなってしまったことだ。
 夏休みともなれば、川原のあちこちに家族連れが楽しそうに水遊びをしている姿は、いまでも時々見かける。しかし、私たちがこどものころよくそうしたように、手に手に玉網をもって川の中を走り回るこどもたちの姿は滅多になくなった。
 かわってよく目につくのは、やたら長い竿をもって川の流れに立つおとなたちの姿である。その背景にはこどもをとりまく社会情勢の変化もあるのだろうが、なによりも川そのものが、こどもたちにとって近づきにくい、入っても面白くない場所になってしまったせいだろう。
 いま、アユに熱くなっている人たちは、多かれ少なかれこどものころの川遊びを通じて、川の素晴らしさ、魚釣りの魅力にとりつかれてきた筈である。
 胸はずむ幼い日の川遊びの思い出があるからこそ、いまの川のありかたを憂い、なんとかせねば…と思いをつのらせるのである。
 次代を担うこどもたちが、川遊びの楽しさを知らずに成長するということは、こどもたちにとっても不幸なばかりでなく、川やアユの未来にとっても不幸なことなのだ。
 こどもたちがはじめに興味をひかれるのは、釣り竿をもつことよりも、川の流れのなかで自分の目で見た魚を追いかけることにはじまるのだ。そして川遊びの楽しさのなかで社会ルールを守ることも覚えてゆくのである。
 新緑、初夏−季節の到来を告げるアユ。その銀鱗の輝やく美しさは「愛すべき魚」として多くの人びとを魅了してきた。
 だが文明の発達は、自然環境の破壊と河川の荒廃を進め、流域の人びとや漁協の人びとの力だけで流域を守り、アユを育てることは困難な時代になった。
 清流とアユ資源の保全とが最もきびしい対立関係にあるのはダムの存在である。
 だが、それによって供給される電力、水道、農・工業用水などの恩恵を受けるのは一般の人々である。川とアユに馴染みのない人たちにダムの弊害を説いてもほとんどが無反応だ。しかし、清流の素晴らしさとアユの魅力を充分に理解してもらうことができたら、きっとダムの功ばかりでなく罪の面についても客観的にわかってもらえるような気がするし、そこに河川流域と一般の人びとと共通の言葉が生まれる筈である。そしてさらに釣り人の協力が加わるならば、清流とアユ資源復活の道はかならず開け、その輪も大きくひろがるだろう。
 これが川と自然を愛する人びとのねがいである。
 (おかべ せいじ・富山県内水面漁場管理委員会会長代理)
−平成9年2月1日放送−
※ 著者の役職名は、放送日現在のもので表示しています
追記
 友釣りはナワバリをつくるアユの習性を利用した釣法だが、このほかに県内ではおこなわれていないものを含めると、主にシラスをエサにするエサ釣り、流れのゆるやかな深みで毛針を使うドブ釣り、丸いおもりをころがして掛け針を横にひくコロガシ、針をたくさんつけた竿をひきまわすスガケ、鵜の羽をたくさんつけた縄を水中でうごかし、集まってくるアユを投網などでとる鵜縄、ご存知の鵜飼、秋になると産卵のために川を下るアユをねらうヤナなどの漁法がある。
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