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テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第2回 文学にみる北陸道」


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TOP 第2回 文学にみる北陸道 廣瀬 誠

1. 万葉集と北陸道
 『万葉集』では北陸道が「しなざかる越(こし)」「み雪ふる越」と歌われ、『古事記』では「遠々し高志(こし)」と歌われた。「しなざかる」は「はるかに幾山坂を隔てた」の意であろう。「しなざかる」「遠々し」「み雪ふる」それが「越」にかかる枕詞(まくらことば)、すなわち北陸道のイメージであった。
 畏敬の情を示す接頭語「み」を添えて「み越路」とも呼ばれた。地名に「み」をつけた例は「み吉野」「み熊野」「み越路」以外には多分ないであろう。中央の人々は、僻遠豪雪の北陸道を神秘的な土地として特別扱いにしたのであろう。
 『万葉集』には、
売比(めひ)の野のすすきおしなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆみ雪ふる越の大山行き過ぎていづれの日にかわが里を見むみ越路の雪ふる山を越えむ日は留れるわれを懸けて偲はせ
などと歌われた。いずれも越路の旅の苦痛、哀愁をしみじみ歌ったもの。3首目は、夫が公用で北陸へ旅立った時、残された妻の作である。
2.大伴家持と越中路
 その越へ天平18年(746)越中守として赴任したのが大伴家持であった。家持は「み雪ふる越と名に負へる天(あま)ざかる鄙(ひな)」「あしひきの山坂越えて天ざかる鄙に下り来」と、北陸が豪雪の辺境であることをくりかえし歌ったが、同時にまたその越を「山高み川遠しろし、野を広み草こそ茂き」と歌い、雄大な自然に感動し、幾多の名吟をとどめた。
 天平20年(748)春、政務のため国内を巡視した時は、雄神河(庄川)、鵜坂河・売比河(神通川)、延槻河(早月川)と、渡河するたびに歌を作っているが、それらの地点をつなぐのが当時の北陸道であった。
 越中から都へ行く道は砺波山を越えていた。だから家持は、東大寺僧平栄になごりを惜しんで「砺波の関に…守部(もりべ)遣り副へ君を留めむ」と歌い、越中掾(じょう)大伴池主は、家持が上京する時「砺波山手向(たむけ)の神に幣(ぬさ)まつり」道中の安全を祈った。この手向の神の後身が現在県境倶利伽羅峠に鎮座する手向神社だ。
 越中国の書生(しょしょう)尾張小咋(おくい)が遊行女婦(ゆぎょうにょふ)にうつつをぬかしていた時、噂(うわさ)を聞いて激怒した小咋の妻が、都から馬に乗って「里もとどろに」駈けつけて来た事件も、家持の歌に歌われているが、嶮しいとはいえ、北陸道は駅馬が砂煙をあげて走る道でもあった。
3.古代の駅
 『延喜式』(延長5年、927完成)によれば、越中国は都までの行程「上り十七日、下り九日」で、駅は坂本・川合・曰理(わたり)・白城(しらき)・磐瀬(いわせ)・水橋・布施(ふせ)・佐味(さみ)の8力所で、それぞれ駅馬を備えていた。坂本は倶利伽羅峠のふもと、川合は小矢部川と庄川の当時の合流地点、曰理は射水川の渡河地点であろう。白城は下村・小杉町の周辺であろうか。磐瀬は神通河口、水橋は常願寺河口、布勢は片貝川・布施川の河口。佐味は朝日町のあたりであろう。「水橋の渡り」は『枕草子』にも出てくるから、その名は都にもよく知られていたのであろう。8駅中、5駅も川にゆかりの地である。越中路はまさに川また川を横切ってゆく道であった。
4.軍記物語と越中
 『平家物語』『源平盛衰記』には、木曽義仲方の軍勢が四十八が瀬を押し渡り、御服山(ごふくやま・呉羽山)を越え、小矢部川原を過ぎ、埴生(はにう・現小矢部市)の八幡宮で願文をささげて戦勝を祈り、5月11日夜、砺波山の奇襲戦で平家の大軍を打ち破った話が、力強い筆致で、リズムを打たせながら記されている。越中を舞台とした戦記文学の圧巻だ。峠には、両物語の戦闘叙事文を長々と刻んだ大きな碑が建ち、義仲を回顧した芭蕉の句の碑も建ち、青葉の繁みに鳴くホトトギスの声が、そぞろに寿永の昔をしのばせる。
 『義経記(ぎけいき)』には、奥州落ちの義経(よしつね)一行の苦難の旅が脚色して記されている。石動・高岡・水橋・黒部、その他各所に義経・弁慶の伝説が語り伝えられ、『義経記』の余韻をひびかせている。
 『承久記』には、宮崎氏など越中豪族が後鳥羽上皇の院宣を奉じ、北条の大軍を阻止しようと決起したが、力戦むなしく敗れ去ったと記す。宮崎の鹿島神社境内にはその碑が建つ。
 『太平記』には、放生津落城の哀話、あるいは、越中の桃井直常が雪の砺波山を夜越えに越えて敵軍を打ち破り、長駆、京都まで進撃した壮挙を記している。同時代の『新葉集』『李花(りか)集』には興国3年(1342)宗良親王の越中潜伏中の感懐を伝え、切々たる哀調をかなでている。
5.室町時代の文人武人
 室町時代、旅の連歌師宗祇は数回にわたって越中路を訪れ、埴生や放生津で在地武将の神保氏や遊佐氏の邸に足を畄め、連歌の会を開いた。小津(魚津)でも「雪になをかへりてすずし越の海」、また「新川郡にて」として「夕立の新川ながすちまたかな」などの佳句を残した。
 寛正6年(1465)加賀の尭恵(ぎょうえ)は、利波山(となみ)を越え、二上川(射水川)を過ぎ、奈呉から浜伝いの道で水橋・四十八が瀬を経て、越後路へ赴き、信濃へ越え、『善光寺紀行』を書いた。その中で「かくて立山の千巖(ちいは)に雪いと白く見えたり」と、北陸道からの立山新雪の景観を印象強く書きとどめている。
 同じ尭恵の文明17年(1485)の『北国紀行』では、早槻(月)川を過ぎたが、黒部四十八が瀬が長雨のため満水していて、をつ(魚津)に足どめさせられたと、ため息まじりの歌を書きつけた。
 翌文明18年には、もと公卿で聖護院修験者となった道興が、石動山から越中に入り、練合(ねりあい)など浜沿いの村々を経て、岩くら川(常願寺川)から立山禅頂を遂げ、下山して宮崎・境川を経て越後路へ赴き、『廻国雑記』を書いた。
 長享3年(1489)万里集九は越後から「扶桑第一嶮難所」親不知の嶮を凌いで越中に入り、「黒部四十八処之急流」を大竹竿につかまって渡河し、滑川で1宿。ここで「立山独雪あり」と驚き、「越中六月雪粘(つ)くる山」と詠嘆した。その漢詩文は『梅花無尽蔵』に収録されている。
 戦国乱世には、越後勢(長尾のち上杉)が反復越中に進攻、北陸道に軍馬の音をとどろかせたが、その間(かん)、上杉謙信は天正5年(1577)魚津在陣中、
もののふの鎧(よろい)の袖を片敷きて枕に近き初雁(はつかり)の声
の名吟を残した。
6.越中路の俳人たち
 天和3年(1683)大淀三千風(みちかぜ)、元禄2年(1689)松尾芭蕉が相次いで越中路へ足を踏み入れた。
 三千風は黒部峡口愛本橋の景観に驚嘆して「梯(かけはし)ノ眺望(ちようばう)」を書き、立山に登って「立山路往(みちゆき)」を書き、魚津・富山・高岡その他各地で俳譜の会を開き、二十余日にわたって越中俳壇を刺激した。それらの句文は『日本行脚(あんぎや)文集』にまとめられた。
 芭蕉は「黒部四十八が瀬とかや数知らぬ川を渡り」、滑川で宿泊。富山にはかからず、浜通り放生津に到り、氷見ゆきを断念して高岡に宿泊。倶利加羅を越えて金沢へ赴いた。残暑きびしく芭蕉は気色勝れなかったという。越中2泊3日の印象を一句に結晶させたのが
早稻(わせ)の香や分け入る右は有磯海
の名吟であった。
 芭蕉のあとを慕って句空・路通・惟然(いぜん)北枝・支考など蕉門の俳人が次々越中を訪れた。わけても句空、元禄16年(1703)の「大岩山紀行」は、僧ケ岳の雪形を精細に書きとめ、興味深い。支考は元禄14年以来幾たびも北陸を訪れ『東西夜話』『越の名残(なごり)』などをまとめた。その中に石動・高岡・富山・魚津などの俳人が百名も名を列ねている。支考は「富山留別」と題して
舟橋の秋やうしろに峯の雪
と詠んだ。魚津で諏訪神社に奉納した句には蜃気楼や僧嶽残雪がとりあげられている。北陸道に近々と迫る僧ケ岳の雪形には句空も支考も注目したのであった。
 井波瑞泉寺の住職浪化は芭蕉の直(じき)弟子となって活躍したが、元禄8年(1695)刊行した『刀奈美山』『有磯海』の両俳書は越中俳壇の貫祿を世に示した。
松杉にせりこむ声や夏の鳥
 これは高岡の利長廟で詠じた浪化の句。
 その高岡の代表的俳人は十丈で、元禄14年『射水川』を刊行し
飛騨の雪崩れて涼し射水川
 の佳吟をとどめた。
 享保12年(1727)里紅は北陸をたずねて『桃の首途(かどで)』を編み、天明期には、白雄(しらお)・樗良(ちょら)・闌更(らんこう)らの有力俳人が来越した。白雄は明和8年(1771)愛本橋・四十八が瀬を渡って、富山では売薬業の俳友をたずね、
薬草を擣(うすづ)く音も皐月(さつき)かな
高岡では瑞龍寺にもうでて
廻廊やなまり瓦に青嵐
の句をとどめた。
 安政期には『多磨比呂飛(たまひろひ)』『俳諧画讃百題集』『八重すさび』など絵入りの俳書が高岡や富山で刊行され、各地の風景版画と相まって、その作句が北陸道を彩った。
7.越中路の歌人たち
 富山藩主は歴代和歌を愛好したが、2代正甫(まさとし)の子利郷(としさと)は特にこの道に堪能で、婦負郡宮尾村(現富山市)の十村(とむら)内山逸(はや)峰と肝胆相照らし、「神通八景」を選び、その歌を合作した。逸峰は晩年各地に旅行して数々の歌日記を残した。明和2年(1765)石見(いわみ・現島根県)の人丸(麿)明神に詣で、その境内神木の柿材をもらい受けて帰郷し、この木で人丸神像を刻み、神社を建ててこの像を祭り、北陸人麿信仰のさきがけをなした。
 8代藩王利謙(としのり)の生母自仙院も歌を好み、逸峰にならって寛政8年(1796)呉羽山桜谷に人麿堂を建立し、また利郷にならい「桜谷八景」を選び、その歌24首を人麿堂に奉納した。その1首、
むす苔のみどり深むる百塚に小夜(さよ)の時雨(しぐれ)の音ぞ静けき
 10代藩主前田利保(としやす)は最も傑出した歌人であった。利保の富山城を詠じた作、

せめ馬の足音(あのと)きこえて白みけり城の岩戸のあけがたの空

矢狭(やざま)より月影もるる城際の岩垣沼にかはづ鳴くなり

 利保の妻妾・従臣みな歌道に専念し、越中歌壇を大きくもりあげた。北陸の風土色豊かな利保従臣の和歌の一端、
時の間(ま)に軒端の夕日影きえて雲うち乱れ霰(あられ)降りきぬ(山崎茂樹)
吹きわたる風にきほひて舟橋の船に霰の玉と乱るる(藤田重孝)
  砺波郡内島村(現高岡市)の十村五十嵐篤好(あつよし)は越中最大の歌人で、文久元年(1861)の没年までの42年間に約5700首を残した(『ふすしのや詠草』に収録)。その1首、
小矢部川川音高くなるなべに雄松が峯に月かたぶきぬ
 越中路を訪れた歌人としては、寛政4年(1792)以前に僧海量。天明6年(1786)に荒木田久老(ひさおい)があった。久老は舟見・富山・石動に宿泊して加賀へ赴いている。越中での作12首のうち、
片貝の渡り瀬深し立山にたなびく雲は雨にかもあらむ
立山にとこしく雪に月影のかがよふ見れば玉にかも似る(富山にて)
砺波山夜越えに越えて見渡せば沖つ汐瀬に月おし照れり
 京都の国学者富士谷御杖(ふじたにみつえ)は文政4年(1821)北陸路を巡遊し、多くの歌文を残したが、来訪に際し、
立山につもれる雪は常夏(とこなつ)に消えずあり待てわれ行きて見む
と心躍らせている。阿波(現徳島県)の岩雲花香(はなか)は天保6年(1835)越中の五十嵐篤好をたずねたが、その折
立山は高く尊し天(あま)そそりそそりいませば高く尊し
と神の山立山を手放しで讃嘆した。越中来遊の歌人が最も感動したのは、やはり立山の景観であった。
8.来遊の漢詩人たち
 加賀藩に招かれた漢学者としては寛文6年(1676)の沢田宗堅、同12年の室鳩巣(むろきゅうそう)。富山藩に招かれた漢学者には南部草寿・同南山・同国華のいわゆる南部三代、市河寛斎らがあって、いずれもすぐれた漢詩を残した。
 宗堅は早月川雪解の急流に万葉の家持をしのび、魚津では蜃気楼を歌った。
 鳩巣には境川・愛本橋・魚津・倶利加羅など北陸道途上の吟詠多く、特に「越中百里山河壮」と歌った「早発魚津」の詩は今も愛誦されている。倶利加羅の詩は碑に刻まれて同地に建つ。
 亀田鵬斎(ほうさい)は立山や神通川を歌った。鵬斎の詩を添えた舟橋の風景版画は世にもてはやされた。大窪詩仏は文政5年(1822)同10年の再度来越、『北遊詩草』『再北遊詩草』を著して越中詩壇を刺激した。中嶋棕隠(そういん)は天保5年(1834)、弘化2年(1845)来越、「北越三冬食品、鮭(けい)魚を第一とす」と越中の冬の鮭(さけ)の美味を絶讃した。
 志士頼鴨?((らいおうがい)・三樹(みき)三郎)は嘉永元年(1848)来越し、愛本橋・神通舟橋で名吟をとどめた(いずれも詩碑建つ)。鴨?が小杉で富山の稻垣碧峰らと別れた時の七言絶句は「寒雨寒風、大門暗し」と結ばれ、その心情切々と迫るものがある。鴨?はその後、いわゆる安政の大獄で捕われ、処刑された。
 曽我耐軒は嘉永6年来越して富山から飛騨路へ赴き『幽討余録』を著した。広瀬旭荘は万延元年(1860)来越、多くの詩を残したが、七言絶句「越中嘱目(しょくもく)」は今も愛誦されている名吟。「白山は西に峙(そばだ)ち、立山は東。一帯の高峰、碧空を挿す。5月中旬、猶雪を積み。横(よこさま)に張る千里の玉屏風(ぎょくびょうぶう)」。なお耐軒も旭荘も、富山の夏の氷売りを詩材にとりあげていることは興味深い。
9.紀行文学と越中
 加賀藩士葛巻(かずらまき)昌興が元禄3年(1690)公務で越中を通過した時の『東路(あずまじ)紀行』中、入善・生地のあたりを過ぎつつ、歩みゆくにつれて刻々にさま変わりゆく北アルプスの景観を書きしるした歌文はまことに感銘深い。同じく加賀藩士今枝直方が、豪雪のため陸路交通困難で、浜伝いに行き、切り立った雪のがけと、打ち寄せる高波の間を、危険を冒して駈けぬけてゆく紀行文は他に類例のないものであろう。
 安永4年(1775)高山彦九郎の「乙未の春旅」は道中の状況を仔細に書きとめ、しかも文学的情感を漂わせている。呉羽追分付近では桜咲き、松並木続くのどかな風光について書き、また鋸(のこぎり)のごとき立山連峰の壮観についても詳述した。
 橘南谿は、天明5年(1785)来越して富山で越冬したが、その著『東遊記』中、「小杉の感」では越中人の純朴さを書き、「名山論」では立山の景観を、連峰の山勢が乗り移ったようなリズム感のある名文に書きとどめた。
 修験者野田成亮の『日本九峯修行日記』尾張藩士某の『三(みつ)の山廻(めぐり)』など特色ある作品であるが、これらの紀行を通じて、境関所のきびしさを特筆したものが多い。加賀藩東端の要地だったからであろう。富山売薬、あるいは富山町で家毎に門札を打ってあることに注目したものがあるのは興味深い。当時、他地では門札標示の慣習は珍しかったのであろう。また神通川舟橋はすべての紀行に大きく取り上げられている。立山と舟橋は富山を代表する景観だったのだ。
 紀行の形を借りた小説では十返舎一九の『金草鞋(かねのわらじ)』第十八篇(文政11年、1828)がある。立山登山について最も詳しく面白いが、神通川舟橋のたもとの茶店で名物の鮎のすしに舌鼓打つ記述も茶目気たっぷりで愉快である。この鮎のすしが近代では鱒(ます)のすしにかわった。嗜好の変化によるものであろう。 
(ひろせ まこと・富山女子短期大学教授)
−平成4年2月1日放送−
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