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テレビ放送講座 平成10年度テキスト「第1回 遊動から定住へ 〜縄文の住まい〜」


 富山県民生涯学習カレッジ本部   '99/01/16

TOP 第1回 遊動から定住へ 〜縄文の住まい〜 藤田 富士夫

風雪を刻んで 〜富山の住まいと暮らし〜遊動から定住へ
 旧石器時代は造山運動による火山活動が盛んで、氷河期であった。このような厳しい環境に生きた旧石器時代人は、動物を追い求めるハンターで、遊動生活をおくっていた。彼らの住まいはどのようなものであっただろうか。
 大沢野町の野沢遺跡では、3か所の石器や剥片が集中する地点があり、そばに3軒の住居があったとされている。石器はそれぞれ直径4メートルほどの範囲に分布し、そこは石器製作の場であった。また、福光町の立美(たつみ)遺跡でも4か所の石器製作場が発掘され、火の使用も確認されている。いずれも旧石器時代後期(約15,000年前)の遺跡である。
 野沢遺跡や立美遺跡は3〜4人程度の男性を中心とした小集団がハンティングの合間に住まいし、石器作りを行っていた場所とみられている。
 かれらの住居は、数本の柱の上端を結んで支柱とし、草木や小枝、毛皮などで屋根を葺いた円錐形住居を基本としたテント張り式の住居(伏屋(ふせや)式平地住居)であっただろう。
 ところで近年、旧石器時代後期に「やや固定的」な住居のあったことが知られてきた。大阪府の「はさみやま遺跡」では、直径6メートルの皿状のくぼみが発掘され、円錐形の屋根をかけた住居とされている。また、群馬県富士見村の小暮東新山遺跡からは本格的な竪穴住居が発掘された。直径約3メートルの円形で深さは約20センチある。
 これらの住居は単に雨露をしのぐ程度の覆い(シェルター)ではなく、毛皮や樹皮、草などでしっかりと屋根が葺かれた「やや固定的」なものであったとされている。野沢遺跡を発掘した鈴木忠司氏(平安博物館)は、野沢遺跡から出土した敲石(たたきいし)類を植物質食糧の調理用具であるとし、旧石器時代人を、あてどなく移動する放浪の民(たみ)ではなく、半定着的で自然の季節的な要因を背景に移動したとしている。
 このように今日、旧石器時代にもある種の定住性が認められつつある。少なくとも竪穴住居の存在からの「定住性」の始原は、旧石器時代を視野に入れて検討されるべき段階となっている。
縄文の集落と住まい
 本格的な定住生活は縄文時代になって始まる。労力をかけて造られた竪穴住居が普遍的に現れるようになる。
 鹿児島県国分市の上野原遺跡(早期前半で約8,000年前)では、伏屋式平地住居が多数発掘されており、定住集落が縄文早期に確立していることを示す。
 富山県で発掘されているもっとも古い竪穴住居は、縄文早期後葉(約6,300年前)の福光町の神明原A遺跡の第2号住居跡である。長径7.7メートル、短径5.8メートル、深さ約20センチで、平面図は隅円(すみまる)方形である。この住居はただ1棟だけが営まれていた。住居内には、炉の痕跡は確認されておらず、調理が屋外で行われていた可能性がある。神明原A遺跡は、どこかにまだ知られていない中核となる集落があって、ここはその分村であったのかもしれない。
 ついで、初期の頃の縄文集落は立山町吉峰遺跡で発掘されている。縄文前期中頃から後半にかけての竪穴住居が24棟営まれている。住居には地床炉が設けられ、壁ぎわには食糧の貯蔵穴を備える。
 この遺跡が集落の姿を見せ始めるのは前期中頃からである。台地の中央に広場を置き、その外周の一方に偏って9棟の住居が営まれる。三鍋秀典氏(立山町教育委員会)は、それらは2〜3棟がひとかたまりとなり3グループに分かれているとしている。
 縄文集落は、広場を囲んで住居が馬蹄形や環状などに配置されることが多い。吉峰遺跡の住居は環状に配置されており、縄文集落の典型的構造を成している。広場は祭りの場や食糧の分配の場、村人の会合の場として機能したのであろう。もちろん遊びの場としても。
 定住生活を営むには、限られた空間で継続的な食糧供給とその増量化がキーワードとなる。自然と調和のとれた共存と、場合によれば植物の育成を含めた食用資源の増量化策がとられていたことが推測される。
大形住居と縄文尺
 1973年に発掘された朝日町の不動堂遺跡では、縄文中期前葉〜中葉(約4,800〜4,400年前)にかけての総数19棟の住居の存在が確認されている。発掘された4棟のうちの第2号住居跡(中期前葉)は長径17メートル、短径8メートルにもなる小判形をした大形住居であった。広さは約120平方メートルで、畳が70枚は敷ける。長軸をほぼ東西にもち、炉は長軸方向に間隔を置いて4基設けられていた。東側の2基は長方形炉、西側の2基は円形炉であった。柱穴は16個、太さ30センチもある堂々としたものであった。
 この住居跡は、当時全国で知られていた一般的な直径が5、6メートルの円形住居と比べて格段に大きなものであった。大形住居の全国初例となり遺跡は国指定史跡として保存整備されている。
 その後、大形住居は東北を中心に発掘されてきており、不動堂遺跡は南端地域に分布することが分かってきた。
 不動堂遺跡の第2号住居跡の柱穴は整然と左右対称に並んでいる。規則正しく建物を造るには、長さの基準があったに違いない。2列に並んだ柱穴の幅は4.2メートル(35センチの12倍数)ある。個々の柱の間隔は1.4メートル(4倍数)、2.8メートル(8倍数)、などとなっていて、すべての長さが35センチで割り切れる。青森市の三内丸山遺跡の6本柱の巨大木柱遺構の柱の間隔も4.2メートルあって35センチの12倍数となっている。
 これらのことから縄文時代には35センチを単位とする縄文尺が広く用いられていたものと考えられる。
 縄文尺はなぜ必要とされたのであろうか。不動堂遺跡の住居の復元に用いられた茅は、普通の住居には約1,300束、大形の第2号住居跡には6,800束を要した。大形住居の建築には、村人総出の共同作業があったに違いない。大形住居の用途には、冬場の共同の作業場や公民館的施設とする説がある。第2号住居には長軸方向に4個の石組炉がある。東の二つは円形、西の二つは方形をしている。この炉の形の違いは、出自集団の違いなのではないだろうか。
 近年の縄文社会論の一つに、「双分(そうぶん)原理」がある。二つの異なる血縁集団が寄り集まって一つの大集落を構成するといったもの。それは健康な歯を抜く抜歯習俗に、門歯を抜くタイプと切歯を抜くタイプの2種の人々が一つの社会を構成していたり、屈葬と伸展葬で葬られる2種の人々が同一の村を構成していたりすることから予測されている。
 不動堂遺跡では炉の形態度が異なる二つの集団が協同して大形建物を造ったものと考えられる。縄文尺を基に長さの約束事を決めておけば、大勢の人が山から一定の木材を一気に伐りだすことができる。両端から住居を造っても真ん中できちんとかみ合うことができる。
 二つの集団が総出で一つの巨大構築物を造る行為そのものが「集団の固め」の効果を生んだ。縄文尺を用いての住居造りには、リーダーとなる人がいたことをもうかがわせる。
 縄文尺は、縄文前期から中期にかけての東日本の日本海沿岸に発達した大形住居に多く使用されている。縄文尺は、大形の建物になればなるほど使用率が高くなる。一つの集落の中に、縄文尺を使った建物とそうでない建物もある。使っている建物は大勢の協同作業で造られ、そうでない建物は個人的な家屋として造られたのであろう。
 縄文尺は倍数され、分数され様々な場で使用されたものと思われる。縄文人は高い計算能力と計測の概念をもちあわせていたのである。
土屋根住居が富山にもあった
 今日、縄文時代の竪穴住居の見直しが進められている。富山市北代遺跡は縄文中期後葉の県下でも有数の大集落である。ここで縄文中期前葉〜中期後葉(約4800年〜4000年前)を中心とした住居が多数営まれている。遺跡は国指定史跡として整備され、1999年上半期には数棟の縄文住居や高床建物が復元され、一般公開される。
 発掘された第70号住居跡では、竪穴の中の壁ぞいに黄色土(粘土)が広がって検出された。この黄色土は、屋根を覆っていた土が落下、埋没したもので、第70号住居跡は、「土屋根住居」であったと観察された。
 縄文の住居が土屋根であった可能性は、昭和60年代になって北海道の新道4遺跡の焼失住居に葺土があったことから説かれていた。それが1996年の岩手県一戸町の御所野遺跡の発掘で確認された。御所野遺跡では実験的に「土屋根住居」が1棟復元されている。
 北代遺跡ではその土屋根住居が営まれていたのである。整備にあたり復元家屋は検出住居の真上に行われる。縄文時代の土屋根住居の復元は御所野道跡と北海道虻田町の入江貝塚に次いで全国でも3例目となる。
 その姿は土饅頭を伏せたような形で、外からは屋根と出入口、天窓しか見えない。これまで草葺屋根の復元(富山県内では不動堂遺跡と滑川市不水掛(みずかからず)遺跡に復元家屋がある)に見慣れてきた私たちには、少し異様な感じがする。しかし、これが縄文時代の家屋の一つの姿なのである。それが草葺屋根に劣らず全国に広がっていた可能性がでてきた。これまでの発掘調査では、「土屋根などあるはずがない」と見過ごされてきたに過ぎないのである。
 今日では、土屋根住居は弥生時代にも発見されている。高岡市と福岡町域にまたがって営まれている下老子笹川(しもおいごささがわ)遺跡や鳥取県の妻木晩田(むぎばんだ)遺跡の竪穴住居も土屋根住居であった。
 土屋根は、カムチャツカ半島のコリヤーク族などの生活にも見られる。古代日本でも『常陸国風土記』の国巣(くず)(=土蜘蛛)を、「いたるところに土の穴倉を掘って置き、いつも穴に住んでいた。誰か来る人があるとそのまま穴倉に入って身を隠し、その人が去るとまた野原に出て遊ぶ」と描いている。
 麻柄一志(魚津市教育委員会)は、竪穴住居は冬の家、高床住居は夏の家と見ている。特に、土屋根の家は梅雨の頃には湿気が多くて住みにくいが、冬場は暖かく、高床住居は通気性があって夏場に快適といわれている。イヌイット(エスキモー)はこのような夏の家と冬の家とを持っている。
 縄文時代の各種の住居形態をこのような機能面からとらえる見方がある。ちなみに土屋根住居は、竪穴を掘り上げた土を屋根に乗せて造られる。実際は、それだけでは足らず黒土が乗せられている。
 やがて草が生えてくれば雨で流れることもなく、草の根が張って屋根がしまり、頑強な屋根となる。
 福島県の南郷村や檜枝岐(ひのえまた)村では、屋根のいただきに花ショウブやオニユリを咲かせている旧民家がある。それは「芝棟(しばむね)」と呼ばれている。これなどは縄文住居の名残りなのかもしれない。絶文時代の土屋根の上に、ユリや彼岸花など四季折々に咲きほこっていたと想像するだけでも、ほのぼのしたものがある。
 このように、茅葺きの竪穴住居が数棟存在したとするこれまでの縄文住居の概念はくずれた。多種多様な住居によって縄文集落が形づくられていたのが実際であったと見られるようになってきた。
桜町遺跡の発掘
 1997年に発掘された小矢部市の桜町遺跡では、縄文中期末葉〜後期初頭(約4,000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあな)、ほぞ穴などといった二つの部材を組み合わせる加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口(木材を凹凸に削って組み合わせる)」といった高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古とされていた。その加工技術が4,000年前の桜町遺跡ですでに存在していることが明らかとなった。
 普通、建物の上屋は長い年月の間に腐りはててしまう。これまでは柱穴の配置から高床建物はあっただろうと予測されてきたが、その構造は不明であった。桜町遺跡で建物の各所の部材が出てきたことで、その姿が描けるところとなった。
 高床建物は弥生時代に穀物の保管倉庫として初めて現れるといった通説がこの発掘で消し飛んでしまった。高床建物が、狩猟・採集段階とされる縄文時代にすでに存在していたのである。その用途について、食糧貯蔵や祭殿、夏の家などが議論されている。桜町遺跡では、高床建物の壁材や屋根材といった新事実が次々と明らかになっている。
住居をめぐる祈りと願い
 縄文時代の住居には、呪術や信仰に関係した施設が営まれていることがある。その一つに出入口や炉のそばなどに土器を埋め込んだ「埋甕(うめがめ)習俗」がある。不動堂遺跡の第2号住居跡(中期前葉)や富山市杉谷遺跡の第1号住居跡(中期中葉)などにそれがある。埋甕は縄文中期前葉頃に出現し、滑川市・上市町の本江広野新遺跡第2号住居跡(古墳時代初期)にも存在する。これは民俗例の「戸口に胎盤を埋める呪術」との関連性が説かれている。日常的に胎盤を埋納した甕の上を跨ぎ踏むことによって子供が丈夫に育ち、死産した子は再び体内によみがえるようにとの思いが込められている。低い出生率の中での、子を慈しむ母や家族の切なる願いが投影されている。
 このような縄文習俗は低次元のものではない。現代に暮らす私たちも、子供の臍の緒を大切にし、手形や足形をアルバムに貼っている。子供に対する母や家族の願いは時代を超えたものがある。
おわりに
 縄文時代の住居には、竪穴、高床、平地など様々な形態があり、屋根も草葺きや土置きのほか樹皮葺きもある。縄文の住居は単調なものではなく、様々な形態があった。桜町遺跡の建築材はそれをまざまざと見せてくれた。今、桜町遺跡の建築部材をはじめとして縄文の住居観の見直しが進められている。
最近、北海道八雲町の栄浜1遺跡から縄文中期の軽石製の「住居模型」が出土した(1998年7月25日付、読売新聞ほか)。それは縦14.9センチの小さな製品で四角い家で形どっている。壁立ちの四隅に柱を立て、丸みのある屋根には棟がしつらえてある。
 その姿は四千有余年も前の建物というよりは、ついこの前まで近所で見かけた佇(たたず)まいそのものである。
 縄文時代は決して「原始」ではなかった。縄文遺跡の内容が鮮明になればなるほど当時の技術や文化の素晴らしさが浮かびあがってくる。縄文時代以来の伝統の上に私たちの暮らしや住まいが成りたっていることを再確認させられるこの頃である。
(ふじた ふじお・富山市教育委員会事務局主幹)
−平成11年1月16日放送−
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