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テレビ放送講座 昭和63年度テキスト「第7回 生と死の世界」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第7回 生と死の世界 高瀬 重雄

(一)
 エホバをみるものは死ななければならぬという西洋の諺(ことわぎ)があります。生あるものは、必ず死する日が来るということは、東洋の人びとも早くから意識していました。いわゆる無常観であります。
 しかし死の世界とは、どういう世界なのか。生の世界と、どう違うのか。あるいは違わないのか。この問題は、誰もが疑問に思ったのですけれども、実際にはなかなか会得できない永遠の問題でもありました。
 私どものように日本の歴史を専門にするものの立場から申しますと、生の世界と死の世界の考え方も、時代とともにさまざまな推移と変遷を重ねてきたように思われます。
 たとえば『古事記』や『日本書紀』の神話をみますと、そこにも生と死の考え方の反映があります。しかしそこでは生と死の世界は互いに断絶した世界というよりも、むしろ連続した世界として考えられていたといえます。
 イザナギノミコトとイザナミノミコトは、もともと夫婦の神でありましたが、イザナミノミコトは、イザナギノミコトに先立って、死の世界へ旅立たれたというのです。もっとも神話では、死の世界といわずに「黄泉國(よみのくに)」とよんでいます。
 死することを「神避る」と、いっております。
 ところがこの黄泉國は、「醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国」であると表現されております。しかもひとたび黄泉國におもむいて、黄泉國の喰物をたべたもの、すなわち黄泉戸喫(よもつへぐい)をしたものは、容易には現世にもどれないと考えられていたようであります。黄泉國には蛆(うじ)がわいており、雷神(いかづちがみ)もあるというわけですから、たしかに現世とちがったけがれた他界だとされていたにちがいありません。
 しかし黄泉國と現世とは、往来が可能であるとされていました。イザナギノミコトは、妻のミコトを恋うるあまり、黄泉國におもむいたことになっています。そして妻のミコトとことばをかわしたとかかれています。また妻のミコトは、黄泉比良坂(よもつひらさか)までは、夫のミコトを追いかけてきたというのです。そして黄泉國をおとずれたイザナギノミコトは、黄泉比良坂を経て再びこの世にもどり、ミソギハライをすることによって、黄泉國でのけがれを洗い清めたというわけであります。
 すなわち生の世界と死の世界は、全く隔絶した二つの世界ではなくて、往来の可能な連続的または連帯的な世界とされていたということができます。
(二)
 しかしこうした連帯性や連続性は、佛教の浸透にしたがって、著しい変化を遂げるのであります。奈良時代の佛教は、南都六宗派とよばれる宗派に分れていました。この6宗派には、共通して現世利益的な傾向と、国家鎮護の観念とがみとめられます。それが南都六宗派の特色でした。
 しかしもうひとつの特色は、現世と来世の考え方にみられるのであります。すなわち現世は、老生不定で、病法・老法・死法・愁憂感法・穢汚法の支配する世界である。この現世の災患から出離し、解脱することによって、はじめて佛の永遠の来世に至ることができるとしたのであります。つまり現世の絶対的な否定によってのみ、絶対的肯定の来世がひらかれるというものであります。いいかえると、生の世界と死の世界との間は、決して連続したり連帯したりしているのではなくて、互いに否定しあう断絶的な関係にあるということができます。
 しかもこのような考え方は、平安時代初期の天台・真言の2宗派の人びとによって一層強調されたように思われます。
(三)
 ところで日本では、佛教の浸透する以前から、山は一種の他界と考えられていました。他界というのは現実の日常生活以外のところ、日常耕作の平地とちがった世界という意味であります。
 山は神が領有する世界、山は神体だという考えもありましたが、また山は農業生産を守ってくれる山の神のあるところでもありました。旱魃に苦しむとき、山の神に対して雨乞いの祭りが行なわれたのも、そのためであります。
 しかしまた山は、人の霊のおもむくところ、祖先の霊のとどまるところでもありました。ただし祖先の霊は、山に去って再びはこの世にあらわれぬ超越的な存在ではありませんでした。迎え火をたいて人が招けば、祖先の霊は、いつでもどこへでも招かれて来ることができます。招かれてきて地上の人びとの祭りをうけると、送り火におくられて、山へ帰るのだとも信じられていました。
 つまり死してのち人の霊は、山中の他界におもむくけれども、しかし現世に生きる人びとの招きにしたがって、現世に来り、また現世の人びとの送り火によって山中へ帰るというわけであります。死の世界と生の世界は、一應区別されてはいますが、しかしふたつの世界はまったく断絶してしまったものではなかったのであります。
 山中の他界には、祖先の霊があり、祖先の霊はつねにわれわれ生けるものを見守っている。これは古化人の生死観の特徴でしたが、現代の人々は、そういう感覚をほとんど失ってしまっています。現代では、見ることが人間の特権であるかのようであります。人は祖霊や神や自然から見守られ、眺められ、守られているのだという感覚は、現代ではほとんど失われてしまっているのです。
(四)
 さてそうした山の他界観念があるところへ、佛教とくに天台・真言両宗の山岳観が重ねあわされることになります。
 平安時代初期の最澄(伝教大師)は、比叡山に延暦寺をひらき天台宗をひろめました。また空海(弘法大師)は、高野山に金剛峰寺を建てて真言宗を唱導しました。このふたりの佛教には、山は祖霊のとどまるところという日本の原始的な山岳信仰の流れが底流していました。そして新宗派によるあらたな山岳観とともに日本佛教特有の世界観や生死観が形成されてゆきました。
 たとえば最燈にとって山は、聖なるもの、清浄なるものの象徴でありました。世俗をはなれて、山の聖なる世界で修行する僧侶は、霊の世界死の世界をみずから感得することができ、聖俗ふたつの世界を支配する験力が与えられると考えました。空海は、中国からもたらした新しい密教の儀礼をもって、死者の供養や祈祷などを行ないましたが、とくに日本の古くからの神々に対する信仰と佛教とを結合することに努めました。
 最澄は「山家山学」を主張しましたが、山には神霊や死霊が集っておる。宗教者は、そうした霊的世界を感得するとともに、神佛の加護によって、あらたな力と幸福とを招く任務があると考え、それを実行しました。空海は、山深い高野山に金剛峰寺を建て、この土地の古い神の丹生津比売(にぶつひめ)の神を地主神として祭ったのみならず「仰ぎ願わくば、諸佛歓喜し、諸天擁護し、善神誓願してこの事を証誠し給え。凡ゆる東西南北四維上下、七里の中の一切の悪鬼神等はみなわが結界を出で去れ」と祈ったのであります。(『性霊集』巻九)山は、聖なる佛・菩薩の止住するところ、僧徒の修行をつむべき清浄の地と考えられました。
 そして実際には、最澄・空海の教えをうけた修行者たちによって、日本の多くの高山が開かれていきました。なかでも、日光男体山を開いた勝道(しょうどう)の伝記は、空海みずから書いておりまして、それは最も古い登山記録としても有名であります。
 さて立山がはじめて関山されたのも、多分は平安初期のころかと推定されるのであります。『立山縁起』などでは、慈興上人が大宝年間に開いたと伝えておりますけれども、佐伯有若なる人物が、平安時代の初期に実在していたことが証明されました現代では、やはり平安初期の開山とみるのが妥当なようであります。もっとも明治になってから大日岳や剣の山頂で発見された錫杖頭の製作は、奈良時代にさかのぼるものがあると鑑定されておりますから、開山を奈良時代末ごろと見る見方もないではありませんが、すくなくとも大化年代までさかのぼって考えるのは、無理なようであります。
(五)
 平安時代の初期ということになれば、入山者は密教的な修行者であったろうと思われます。彼らは立山山中の地名を密教にちなんだものをもって名づけます。大日岳だの奥大日岳だのがそれでありますし、滝も称名滝(勝妙滝)とよぶようになります。弥陀ケ原とか弘法平とかいう名もそれであります。餓鬼の田もそれでありますが、地獄谷や浄土山もそれであります。
 地獄谷は、濛々と煙が吹きあげている噴火の谷に名づけられました。そこは、人びとの亡霊がおちこんでいると信じられるようになりました。地獄の谷におちた亡霊は、おとずれる子孫や縁者に、地獄の苦しみをうったえて、佛への供養を依頼する。だから子孫や縁者は、死者の亡霊に逢いたければ、立山に登り、地獄谷を訪ねるがよい。そして亡霊の依頼による佛への供養をつむがよい。さすれば亡者は佛菩薩の救助によって、はじめて安養の浄土に往生することができると説かれるようになりました。
 立山の地獄谷は、そうした全国の亡霊がおちこんでいる深い谷だという考え方は、平安時代の山岳修行の験者たちの間で、ひろく信じられるようになりました。平安時代の説話集は、立山の地獄におちた亡霊の物語を、いくつも集録しているのであります。
(六)
 立山の地獄におちた亡霊の説話を記す平安時代の文献のひとつは、『本朝法華験(ほっけげん)記』であります。それは延暦寺の鎮源(ちんげん)が長久元年(1040)に、法華経の霊験にあずかった人びとを伝え、後の世の人をはげまそうとして編述した書物でありますが、そのなかに「越中立山女人伝」が記されております。
 ある修行者が、越中の立山におもむき、山中の地獄に行ったところ、百千の湯が深い穴からわき出ており、熱気が穴に充満していてのぞき見ることもできない。またあちこちに火柱があって、常に音をたてて燃焼している。ここにある峰は帝釈(たいしゃく)岳というが、天帝釈冥官(みょうがん)が集って、衆生の善悪を勘定し、悪しきは地獄につきおとす。この地獄谷にひとりの女性の亡霊がおちていて、修行者をよびとめ、地獄の苦から救われるよう、佛への供養を依頼する。
という筋の話が記されております。この『法華験記』の立山女人伝の話は、『今昔物語』の巻十四にも記されています。ただし『今昔物語』の場合は、修行僧というのは、三井寺の僧であったこと、また地獄におちた女性というのは、近江国の女性であったように記されています。蒲生郡に住んだ彼の女の父母が、法華経書写の供養をつんだおかげで、極楽に往生することができたとされております。
(七)
 『今昔物語』には、以上の説話のほかになお3つの立山地獄に関係する説話が記されております。
 第一は、越中国の書生の妻が、立山地獄におちた話であります。彼の女がこの世に残した3人の男の子が、僧侶とともに地獄谷にゆくと、亡霊は法華経の書写供養をしてくれるようにと依頼する。越中国の国司は、書生の3人の遺児に同情をよせ、越中のみならず能登・加賀・越前にも触れを出して写経をつのり、写経は遂に2,000部の多きに達したという。そして2,000部の写経供養がおわると、その功徳によって、母者は忉利天(とうりてん)に生れかわることができたという物語であります。
 第二は、越中国の僧海蓮(かいれん)の物語であります。海蓮は日夜法華経を読誦(づしょう)して、その序品(じょぼん)から観音品(ぼん)に至るまでの25品(ほん)は覚えることができた。しかし残りの3品はどうしても覚えこむことができない。そこで海蓮は、立山にのぼって修行をする。白山にも登って修行をつむ。あちこちの霊験所にも祈願するけれども、それでも覚えることができない。ある夜、菩薩が海蓮の夢にあらわれて、前世の宿縁(すくえん)を説いてきかせた。それによると、海蓮は前世では蟋蟀(こおろぎ)の身であって、僧坊の壁にとまって法華経の読誦をきいていた。1巻から7巻まではきいたが、僧は湯を浴みてやすもうとしたとき、壁にとまっていた蟋蟀をおしつぶしてしまった。しかし蟋蟀は、前世に法華経をきいた因縁によって、人として生れかわったのだが、蟋蟀のときに残り3品の読謡をきくことができなかったため、現世でも3品を覚えられないのだ。すべからく前世の報を観じて、さらに法華経を読誦せよということであった。よって海蓮は、いままでより一層読誦にはげんだが、天禄元年(970)に他界したという物語である。
(八)
 第三は、越中の立山地獄におちた女が地蔵菩薩の助けによって、極楽に往生する物語であります。この女性は、京都の七条辺りの富裕な一家の娘であるが、死して立山地獄におちていたのを、彼の女の父兄が3尺の地蔵菩薩の像をつくり、また法華経を書写したことの功徳によって救われたという物語であります。
 以上みてきたように、『今昔物語』には4つの越中関係の説話がのせられています。しかもその4つは、いずれも立山の修行僧に関係があります。また4つのうちの3つまでは、立山地獄におちた亡霊の物語である。すなわち立山は、日本国中の罪を犯した人びとの霊がおちこむ、死の世界の地獄がある山として、意識されていたということができる。
(九)
 立山の地獄は、『今昔物語』以後も、永く人の意識からはなれることがありませんでした。たとえば立山の地獄におちた京都七条の女性が、地蔵菩薩の助けによって救われたという話は、立山地獄縁起絵巻として、絵巻物に描かれたことがありまして、その絵巻物は遠く海を渡って、いまはアメリカのフリーア美術館の所蔵に帰しております。
 またのちにつくられた謡曲の『善知鳥(うとう)』は、陸奥国の外ケ浜の猟師が、生前に善知鳥を殺した罪によって、死後立山の地獄におちて、化鳥(けちょう)に苦しめられるという筋でかかれております。江戸時代の戯曲『善知鳥安方忠義伝(うとうやすかんちゅうぎでん)』も、立山地獄におちたという陸奥の国の猟師を、テーマとするものでありました。
 このようにして、立山の地獄は長い間、恐るべき死後世界としての地獄として恐れられて来ました。もっとも山中に地獄が想定されたのは、立山だけではありませんでした。下北半島の恐山もそのひとつでしたし、加賀の白山にも地獄がなかったわけではありません。けれども、なかでも立山地獄は、平安時代から近世の末頃に至るまで、日本国中の亡霊のおちこむ地獄として、多くの人びとの意識を支配したということができます。死後世界としての地獄の存在こそは、立山の山岳信仰を特色づけていたのであります。
(十)
 しかし死の世界の苦悩と絶望だけがあって、生のよろこびや歓喜がまるでなかったのかというと、決してそうではありません。
 地獄の世界から解脱するには、もちろん難行苦行、いわゆる「よもつひら坂」をよじ登らねばなりません。しかし坂を登り切ることは限りある人間の努力だけでは、不可能であります。神佛の加護や援助がなくてはなりません。神佛の加護は、ときには法華経の書写供養によって求められます。ときには観音菩薩への帰依、地蔵菩薩の供養、によって得られることもありますが、とにかく自力のみならず、菩薩や明王の加護が必要だとされたのであります。
 そして自力の努力と、菩薩の援助がひとつになって、地獄から解脱し、やがて雄山の頂上にたどりつくと、そこへは阿弥陀如来が二十五菩薩をしたがえて来迎し、人びとの霊を浄土に導いて下さるというのであります。そして浄土には、永遠に衰えることのない美しい花が咲き、共鳴鳥(くみょうちょう)のさわやかなさえずりも絶えないというわけであります。すなわち浄土こそは、歓喜にみちた永遠の世界にほかならぬのであります。
 要するに立山は、死の世界の地獄のある山として、一般には強く恐れられましたが、しかし深山を苦行したのちに到達しうる永遠の歓喜の世界もまた展開しておりまして、山頂の来迎をよろこんで、涙をもよおしたとか、あるいは二十五菩薩のかなでるたえなる音楽をきいて勇躍したというような詩文もすくなからず残されているのであります。そして登山というものは、もともと山中にある地獄の苦しみを味わい、山頂に至って来迎のよろこびにひたり、身心ともに清浄潔白となることに、その意味がありました。
 登山は、清浄への旅立ちであり、下山は胎蔵・金剛のまんだら世界を経めぐって、この世に再び生れかわることでありました。
(たかせ しげお・富山大学名誉教授)
−昭和63年11月27日放送−
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