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テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第3回 武将の道・北陸道」


 富山県民生涯学習カレッジ本部

TOP 第3回 武将の道・北陸道 塩 照夫

 越後の国境境川から加賀の国境倶利伽羅峠までの北陸道には、数多くの武将たちの夢の跡が残されている。ここでは、そのうち木曽(源)義仲・長尾四代の合戦場を中心に北陸道を眺めてみたい。
1.境川(富山県朝日町・新潟県青海町)
 越中東端の境川は交通・軍事の要衝である。この川の存在を大きくした戦史は越後長尾四代の越中侵入である。その足跡は次の如く。
  1. 長尾能景(よしかげ・上杉謙信の祖父)は、境川から以北、一向宗が波及するのを恐れ、自国の一向宗を禁じた。そして、永正3年(1506)8月に畠山尚順(ひさのぶ)の命で境川を渡って越中に遠征したが、同年9月、一向宗徒に敗れて討ち死に。
  2. 長尾為景(能景の子)は、父を討った神保慶宗(よしむね)らを討つため、永正16年(1519)10月に越中に侵入、この境川で緒戦を飾る。
  3. 上杉謙信(長尾景虎。為景の子)は、離反した魚津・松倉城主椎名康胤(やすたね)を討つため、永禄12年(1569)8月に境川を突破、北陸道の所々に焼き打ちをかけ松倉城に迫った。
  4. 上杉景勝(謙信の養子)は、天正12年(1584)10月に境川を渡って宮崎城を攻め落とした。
(『上杉家文書』『青木氏文書』)
 境川の左岸の北陸道の北側に、慶長14年(1609)構築されたという境一里塚(県史跡)がある。また、そこから西へ暫くいくと、慶長19年(1614)創築の境関所跡がある。
2.国境の要害 宮崎城(朝日町宮崎・城山)
 標高248.8メートルの山頂にある宮崎城跡は越中の越後口を固める北陸道の要害である。この城山に立つと、東に宮崎海岸、西に朝日海岸を通る北陸道がよく見渡せる。
 『源平盛衰記』によると、寿永元年(1182)、讃岐前司重季が以仁(もちひと)王の王子(後の北陸宮)を奉じて北陸へ下った際、木曽義仲が御座所(脇子八幡宮の社殿前。今はこの宮は麓の国道8号線脇にある)を築いたと記される。『越登賀三州志』は、寿永の頃は義仲に従った宮崎太郎の居館があった所という。
 承久(しょうきゅう)の変(1221)が起こると、朝廷方の宮崎定範(太郎の孫)は、北陸道を攻め上る幕府方の北条(名越(なごや))朝時(ともとき)の軍を防ぐため、宮崎城を拠点に親不知(おやしらず)の市振(いちぶり)浄土で戦ったが、多勢に無勢、遂に北条の将市川刑部に破れ、宮崎城を捨て北陸道を西走して倶利伽羅へと逃げた(『承久兵乱記』)。「浄土崩れ」の敗戦は、市川刑部が松明(たいまつ)を角につけた7、80頭の牛を定範勢にめがけて走らせたためともいう。倶利伽羅の火牛戦を平氏の子孫の北条勢が逆に使用したようだ。
 南北朝時代、一時守護普門俊清の手に属す。戦国時代、宮崎城は椎名氏が支配したが、椎名康胤(やすたね)が謙信に居城松倉城を追われると、宮崎城は上杉勢の中継拠点として重要な役割を果たす。
 天正10年(1582)6月、松倉・魚津城の陥落により、佐々勢に帰す。しかし、天正12年6月にまた上杉勢が奪回、しかしこれも一時的で、佐々勢が再度攻略し、成政は丹羽権平を置いて守らせた。
3.謙信手植の松(黒部市生地経新字切田)
 今、黒部市の吉田工業越湖工場の住宅地に謙信が植えたという大きな黒松がある。樹高18.7メートル、樹幹6メートル、樹齢約400年。
 昔から黒部川は黒部四十八ケ瀬といわれ、下流での分岐が多かった。そのため雨で増水した時は従来の北陸道からそれたこともあった。永禄12年8月の謙信の松倉城攻めを見ても明らかである(『大河原辰次郎氏所蔵文書』)。
 この黒松については黒部市の石田に向かって進軍路をとっていた時の故事がある。
 その由来に、「戦国時代、越後から当地に来た僧侶姿の上杉謙信が病気のため歩けなくなった。これを新治(にいはる)の神のおつげにより、この地に湧きでた霊水につかってなおったので、謙信はこの神霊に深く感謝して、この黒松を植えて立ち去った。そのため後世になって土地の人々はこれを″謙信手植の松″と呼ぶようになったと伝えられている」とある。黒部市指定天然記念物になっている。
4.妄執の砦 松倉城(魚津市鹿熊字城山)
 室町中期まではまだ軍事面が重視されたから本城は平地を走る街道より離れた山に築かれた。松倉城(魚津市鹿熊。標高430メートル)も然り。松倉城は北陸道ばかりでなく、片や片貝川、片や早月川方面へ抜ける北陸道の脇街道山街道を抑える要所でもあった。
 南北朝時代頃、松倉城はいざという時に逃げ込む難攻不落の「詰(つめ)の城(しろ)」であった。南北朝統一後、越中守護畠山基国がその守護代椎名氏に新川郡を治めさせてから松倉城はながく椎名氏の居城となった。椎名氏は南北朝時代は当時の守護普門氏を支える有力土豪。松倉城の背後には松倉金山(応永年間採掘)、河原波金山(天文2年採掘)があったから、諸将の目は絶えず松倉城とその街道にあった。
 永禄11年(1568)3月、松倉城主椎名康胤は、それまで協力体制にあった上杉謙信を裏切り武田信玄方についた。翌永禄12年4月、今まで信玄に味方していた増山城主神保長職は謙信方に協力した。椎名は戦国大名を夢見たのだろうか。永禄12年8月、謙信は松倉城を攻めた。20日に境川を越え、21日石田に休馬、22日金山へ進攻。だが松倉城は天険の要害なのでなかなか落ちない。信玄が上野国へ侵攻したので急ぎ帰国した。
 元亀2年(1571)3月、謙信は兵2万8千を率いて再び松倉城を攻め、激戦の末これを落とした(『謙信年譜』)。
 安土桃山時代になると、城も交通、政治、経済の中心に居城化。松倉城も平地の魚津城の「詰の城」と化した。
5.信長の将、魚津進攻(魚津市本町・魚津城)
 新川の北陸道を扼(やく)するものに上杉方の魚津城がある。南は角川(かどかわ)、北は神明川(しんめいがわ)、東は沼地、西は海に守られ、平城としては地の利を得ていた要害である。
 天下統一をめざす織田信長にとって、越中から上杉景勝勢を追い出すことも急務であった。『信長公記』によれば、信長の将柴田勝家・佐々成政・前田利家ら織田連合軍が魚津城を攻撃したのは天正10年(1582)の3月。この時魚津城には、中条越前、寺島六蔵、吉田(江)喜四郎、亀田小三郎、藤丸新助、安部右衛門、山本寺松蔵、竹俣三河守、蓼沼掃部、若林九郎右衛門、石口釆女、長与次、吉口(江)常陸入道の13将らがいた。彼らはよく守り籠城した。
 魚津城を重視する景勝は5月15日に魚津の天神山に着陣したが、北信濃の飯山城の森長可が春日山城を衝くため動き出したとの報に接し、景勝は籠城軍を救えぬまま5月27日に軍をまとめ急ぎ春日山城に帰陣した。援軍を断ち切られた魚津城は、遂に6月3日、織田連合軍の猛攻にあって落城した。本能寺の変の1日あとである。『景勝年譜』は、この時、13将は名を後世に残そうと板札に姓名を書きつけ、耳に穴をあけて結いつけて切腹したと伝えている。切腹する将兵にまじって女子供も血の中で自害し果てた。魚津城の籠城は八十余日、越中攻防戦史上まれな籠城戦であった。
 今、大町小学校一帯が魚津城のあった所、運動場の入口に謙信の次の歌碑がある。
 「武士(もののふ)の鎧(よろい)の袖をかたしきて
           枕(まくら)にちかき初雁(はつかり)の声」
6.尻垂坂(富山市西新庄)
 現在、富山市西新庄にある「尻垂坂(しりたれざか)の薄(すすき)地蔵尊」は、元亀3年(1572)8月、新庄城と富山城との間で、上杉謙信勢と加賀・越中の一向一揆軍との激戦を展開されたことを伝えるものである。
 この尻垂坂は西新庄の正願寺前辺りから田中町の間のびや川の堤の登り口地域にあった。尻垂坂の北東約1キロの地点にある新庄城は北陸道の要衝であり、越中中央部における上杉方の拠点(松倉城の支城という説あり)であった。
 一向一揆軍が越中東部に進出するためにはどうしてもこの新庄城を掌中におさめねばならなかった。
 8月18日、謙信の小荷駄隊を含めた約1万の軍勢が新庄城に集結した。一方一向一揆軍4千は富山城に陣を張った。この間1里。
 8月20日、人海戦術をとる一向一揆軍は僅かな兵では心細いため越中・加賀に盛んに援軍を求めたが思うようにいかなかった(『河田文書』)。
 尻垂坂で両軍が激突した頃から秋霖(しゅうりん)がひどく降り、続出した戦死者の流血によって、びや川の流れが真っ赤に染まったといわれている。そして一向一揆軍は敗れ去った。この戦いの時、謙信が首実検をし、その首を穴に埋め、その首塚の上に石塔を建てた。武将が駆けたこの辺りはススキや葦などが群生する湿地帯であったので、後これが「薄(すすき)地蔵尊」と呼ばれるようになった。謙信は戦死者を弔うため石塔のほかに経堂(きょうどう)を建てたといわれる。
 このため西新庄の正願寺辺りは「経堂(きょうどう)」と呼ばれた。今も地名として残る。
7.北陸道の牙城 富山城(富山市丸の内・大手町)
 富山は越中中央部に位置し、北陸道と飛騨街道が交わる交通の要衝。そこに富山城がある。所謂、交通、政治、経済の中心に築かれた近世城郭である。
 富山城のはじまりは天文年間(1532〜54)、神保長職の築城によるといわれる。その後、越中に入国した佐々成政が、天正9年(1581)9月、新たに東の方へ流れを変えた神通川を利用し、自ら縄張りを行った。そして前田時代の慶長10年(1605)、高山右近によって改築された。城は3時代を変遷した。
 富山城の日本史上不滅の戦史は、天正13年(1585)8月の「富山の役」である。
 天正13年8月8日、数万騎を率いて京都を出発した秀吉は、18日に尾山城で前田利家のもてなしを受けた。富山城の成政に対し、秀吉が本陣を構えたのが白鳥城(標高145.3メートル)である。白鳥城はかつて富山城の支城。秀吉の最前線の軍勢は立山うば堂や剣岳の山麓に火を放った(『続宝簡集』)。
 成政は秀吉の大軍に囲まれて全く孤立無援の状態。相手を身動き出来ないほど詰め囲んでいく「位詰(くらいづめ)戦法」である。
 秀吉には織田信勝(のぶかつ)、前田利家父子、丹羽長重、細川忠興、金森長近、池田輝政、木村隼人、山内一豊、九鬼嘉隆らそうそうたる武将が従った。
 29日に富山城を攻撃することにしたが、その前夜、頭を剃り人目を避けて成政が織田信雄に降った。信雄より懇請もあり、秀吉は成政の罪をゆるした。秀吉の成政征伐によって、越中の戦国時代は終わった。
8.要害 日宮城(射水郡小形町日宮)
 日宮地区の日宮城(標高20メートルの笹山が城跡。今は日宮神社、薬勝寺がある)は砺波から富山へ通ずる北陸道を扼する格好の地にあった。永禄・元亀・天正年間(1558から1592年)の頃神保氏が居城したと伝えられる。
 『越登賀三州志』の日宮城の項に「城辺谷多し。女堤(ひめがき)深水城をめぐる。要害堅固なり」と。
 日宮城が歴史上名高いのは、元亀3年(1572)6月15日の上杉勢と越中・加賀連合の一向一揆軍との攻防戦である。元亀3年5月、武田信玄の遠大な上洛作戦の一端を引き受けて蜂起した一向軍は、砺波郡の川上(同郡南部)、五位庄(同郡北部)に集結して北陸道を東進し、上杉勢の第一線基地・日宮城に迫った。
 この日宮城は、武田方と結んだ神保長職とは行動を共にしなかった長職の旧臣.神保覚広(ただひろ)と、小島六郎左衛門尉職鎮(ともしず)が守っていた。同月23日、神保覚広らは急を新庄城守鰺坂(あじさか)長実に報じ援軍を求めた(「上杉古文書」)。長実は越中の鎮将である魚津城の河田長親(ながちか)とも協議し、その指令に従って山本寺定長(さんぼんじさだなが)らと共に、五福山(呉羽山)まで日宮城をたすけるためにうって出た。しかし、「死なば極楽」と信ずる一向一揆軍にはばまれて退却し、神通川の渡し場で猛追を受けて惨敗を喫した。孤城落日。一向一揆軍に神通川まで押えられては援軍の望みも薄く、落城は時間の問題であった。そこで、一向一揆軍と和解して開城したすきに、日宮城の守将小島らは部下数騎に守られ、山づたいに石動山天平寺(せきどうざんてんぴょうじ)へと逃げこんだ。6月15日のことであった。
9.弓の清水(高岡市常国)
 射水郡大門町串田の延喜式内社櫛田神社の前を南に暫く進むと、北陸道は急にカーブする。その崖下に「弓の清水(しょうず)」(高岡市常国)の伝説の地がある。
 伝説によると、木曽義仲の本隊が六渡寺(ろくどじ)(小矢部川の河口)から般若野(はんにゃの)に転進して今井兼平(いまいかねひら)と合した時、兵が喉の渇(かわ)きを訴えて飲み水を欲した。義仲が近くの田で働く農夫に尋ねたところ、山の麓の穴から湧き水が出るらしいことがわかった。そこで義仲が弓で射てみると不思議にもその穴から渾々(こんこん)と水が湧き出て、兵たちは喉をうるおし元気づいたという(一説には弓で突いたという)。清水の傍らには杉の大木があり、戦国の武将や旅人がここで疲れを癒(いや)したと伝える。
 清水は今もなお絶えることがない。
 ここに建つ旭将軍弓泉の碑の崖の上には、遠い昔を語りかけるように「源平般若野古戦場」と刻した碑が建っている。これは、倶利伽羅合戦の前哨戦ともいうべき戦いのあった場所である。
 寿永2年(1183)5月9日未明、義仲の武将今井兼平軍6,000が般若野に陣する平家の先遣隊平盛俊軍5,000を襲って勝利を得たという。『越登賀三州志』はその様子を次のように伝えている。
「戦いは激しい白兵戦で、両軍とも死者が続出した。しかし、兼平軍の士気は高く、夜に入って盛俊軍はついに総崩れとなり、戦場に多くの死傷者を残し敗走した」 と。
 今は、北陸道を馬蹄の響をとどろかせて疾駆した武将たちの姿は遠い遠い昔のものとなり、清水だけが昔を物語る。
10.二塚(ふたづか・高岡市二塚)
 二塚は北陸道の要路に当たる。
 『越登賀三州志』の二塚の項に
「正慶2年(1333)5月出羽・越後の官軍、越中をへて京師へ進攻せんとするを、名越(なごや)遠江守時有および弟修理亮有公・甥兵庫助貞持、二塚に軍だち(陣どり)して防ぐこと太平記に見ゆ」とある。 元弘の変(1331〜33)である。いわゆる『太平記』の舞台となった名越氏の居館はどこであったかいまだ不明だが、小字「星丸」あたりではないかという。
 官軍が進攻する2年前の元弘元年(1331)後醍醐天皇の皇子恒性(こうしょう)皇子は越中に配流され二塚に幽閉されていた。
 鎌倉幕府存亡の危機が迫った正慶2年(元弘3年、1333)5月10日、高時の命を受けた時有は皇子を殺害してしまった。
 そして、二塚で大軍を防御できないと考えた時有はここを捨てて本城放生津に引き揚げた。
 今、二塚には恒性皇子の墓があり、その近くには皇子ゆかりの品が残る浄土真宗浄誓寺がある。また近所の気多社は悪王寺宮ともいい、皇子の慰霊のために建立されたと伝えられる。
11.増山城(砺波市増山)
 北陸道の常国から南へ約3.5キロ入った増山に増山城がある。初め和田城といった。この城は、松倉城(魚津市)、守山城(高岡市)と共に越中三大山城といわれ、「増山城を守るものは砺波の東西を制す」といわれた。
 和田川の断がい上110メートルの頂上に、さながら浮き城のように立つ神保氏の居城。戦国時代には、しばしば戦乱の渦中におかれ、幾度も激しい攻防戦が展開された舞台である。永正3年(1506)に越後の長尾能景が増山城を攻めたが、神保を抱きこんだ一向一揆軍の激しい抵抗にあい般若野で戦死した。一揆軍が総力戦で大将を討った。その子、為景は、天文14年(1545)4月11日、これも増山城を攻めたが、一向一揆軍の力をかりた神保慶宗の残党のため落とし穴にはまり戦死した(『越登賀三州志』)。越後の『上杉謙信公年表』は、為景は天文5年12月24日病死したとしている。
 その後、天下をめざす、為景の子・上杉謙信も、その第一歩を加越能に向け、父・為景、祖父能景のかたきである神保氏を討とうと越中に侵入した。これに対し、増山城は謙信の越後勢を迎撃。永禄3年(1560)、9年(1566)、および天正4年(1576)再三にわたって神保氏は、一族の興亡をかけて根強く戦い、奪われてもまた奪い返す血なまぐさい戦闘を繰り返した。
 『越登賀三州志』は、この中でも、謙信が神保長職に徹底的ダメージを与えた永禄9年6月の増山城の兵糧攻めの戦史を伝えている。
 長尾三代を悩ました増山城も、東の山の稜線から攻めれば裸城と知れてから長期戦に持ちこたえることが出来なかった。
12.倶利伽羅峠(くりからとうげ・富山県小矢部市・石川県津幡町)
 『源平盛衰記』に「谷深くして山高く、道細し。馬も人も通うことやすからず」とあるように、倶利伽羅山の稜線を貫通する北陸道の倶利伽羅峠(標高260メートル)は越中・加賀の国境の要衝である。
 昔は埴生(はにゅう)から石坂を経て倶利伽羅峠に登ったが、現在は源平ラインを利用すれば車でも登れる。
 この倶利伽羅峠付近は源平合戦で有名。『平家物語』によれば、寿永2年(1183)5月11日正午頃、木曽義仲の西上を阻止するため、平維盛以下7万余騎は倶利伽羅の猿が馬場辺りに陣し、一方木曽義仲以下4万余騎は平氏軍より一足先の5月11日朝に倶利伽羅山の麓に着き、山はずれの埴生に本陣を置いたとある。合戦は、初め小競り合い程度であった。夕闇が迫りそれが中止となり、平氏が山上で眠りについた頃、背後、側面に廻ったものと、正面の「火牛の策」を用いたものの奇襲によって平氏を破った。
 倶利伽羅峠には、この寿永の源平合戦をはじめとし、観応元年(正平5年、1350)12月、富樫氏が反足利尊氏方の桃井直常と戦うため倶利伽羅峠に陣取った南北朝の動乱、長享2年(1488)、越智伯耆(おちほうき)が一向一揆と共に倶利伽羅峠に布陣した長享の一向一揆軍、さらに天正12年(1584)、佐々成政が倶利伽羅峠に新しい砦を築き、前田軍攻略を開始した戦国時代末と、幾多の戦いの中で何度も砦が築かれた。しかし、これについて明確な砦の位置は不詳だが、倶利伽羅峠近くの手向神社辺りと推定される。
 倶利伽羅峠の東麓には守護代遊佐氏が居城した蓮沼城跡がある。
 以上、境川から倶利伽羅峠までの北陸道をおおまかに眺めてみた。
 源平争乱から太平記の世、越中の豪族、小豪族らは英雄、梟将の合戦のたびにまきこまれ滅びていった。彼らはいつも形勢をうかがい乍らその去就を考えていたことだろう。また戦国時代、戦乱や洪水に悩まされた農民を平易な浄土真宗にとびつかせ、その信仰の結びつきが領主に反抗する一向一揆に走らせ、越中争乱の主勢力となった。越中侵入の長尾四代の前に立ちはだかり、時には脅威、時には強力な味方となったろう。北陸道の武将の歩いた道を探訪するたびにそんなことを考える。
(しお てるお・婦中町文化財保護審議会会長)
−平成4年2月8日放送−
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